恋愛断章
生の繁殖にのみ役立つところの、生殖衝動に、それをまったく問題としない恋愛が結びつけられたこと──それは生からの驚くべき救済である。芸術が自然的なるものを超越するや否や、宗教が恐怖と希望とから自由になるや否や、かくのごとき救済であるように。
あるまったく独立的な、超生的なものとなったところの、かつ生と生への奉仕とからの乖離を成就したところの恋愛は、性愛的性情においては再び一つの生活となるのである──芸術家において超目的論的となった芸術がそれとなるように。
性愛的性情が云々されるときこそ、ただ一種の生活ということが問題となりうるのである。かくのごとき人間の生活こそ、その内面の目的論、その活力証示、その韻律とともに、ここで(その生活において)、生活から解放されたところのものから決定されている。それは彼において再び生活となったのである。──それがために聖フランチェスコは一人の性愛的性情でありえたのである。
性愛的性情においては恋愛は最も完全に生殖目的から解放されている──しかして決定的なる点、生・形而上学の深みに届きうる点は、これがまさに抽象でなくして、しかし性情であることだ。
性愛的性情においては恋愛は自家目的である──それが生殖に役立つことも、それが享楽に役立つことも、それ(恋愛)にとっては決定的ではないのである。
性愛的性情? それは、その人において恋愛が他の人々への内面の関係の「ア・プリオリ」であるところの性情か? 「ア・プリオリ」は実にまた、それが各々の物質(材料)に適用されることを意味しない。我々はしばしば因果的に考えない(正当にもかつそれと断られないで)、ところでしかし因果律はア・プリオリである。なんとなれば、ただ我々がそういう風に思惟するときのみ、我々は正当に思惟する、そして理論的な世界を、それが当にあるべきように、しかく統一的にまとめえるのである。そういう風に性愛的性情は元よりいつも恋するわけではなく、誰でもを恋するわけではない。しかしそれが恋するかぎりにおいてのみ、それ(その性情)は自己を十分まとめえる、その客観的な生活意味を充足しえるのである。
性愛的性情の通常の恋愛者に対する関係は、美しき魂の単に道徳的なる者に対する関係に等しきか?
極限(の場合)としての性愛的性情──恋愛は実際全人間から全人間を目指すものでなければならない。なんとなれば「人」の純官能的なるものも純精神的なるものも個性の彼岸にあるものであって、両者においては任意の数の個々人による代用が可能だからである。
性愛的性情はおそらく、その人にとって取ることと与えることが一つであり、取ることによって与え、与えることよって取るところの性情である。
性愛的性情においては他のものへの関係はその内在的実存の一つの形式あるいは形式一般である──空間的な外的併存がそれ自身非空間的な直観の形式一般であるように。概念的にいって心霊より超越的なるものが心霊には形而上学的にあるいは認識論的に内在的である。性愛的ならざる人間はまさに外部に向かって恋愛する──性愛的な人間においてはこの「外部」は一つの内面の機能である。
性愛的性情とは、その人において恋愛が一つの刺激に対する反動であるのみならず、本質の生産性であるところの性情である。我々が単に一般的に恋することを欲し、恋せずにはいられないところの青年期においては、我々はすべて性愛的性情であるか(しかしこの時間の無常性は、このことが個性的性質のものではなくして、単に一般的性質のものであることを証明する)、あるいは人々は官能的衝動の兆しをば、それが純粋に内面的に生起するときでも、しかし心霊の本来の中心には外部的であり、しかして単に距離からいってのみ、美しい少女によっての刺激から区別されるところの、「刺激」として見做すことができる。
性愛的性情はとにかく、いずれの瞬間においても、何のために──この何のためにが実現されないときでも──自分が生きてるかを知ってるところの性情である。
性愛的性情がどうしてもなりえないところのものは、倹約なる家政家、分化せる職業人、憂鬱病者である。
楽劇のドン・ジュアンはただ生理的にのみ動かされている──彼がただ常に交替するところの女においてのみ衝動を満足させることができる、個々の女にはすぐに嫌気を感ずるという陰影はあるが。(それは)単に外見的に個人主義(であり)、衝動の純粋に一般的なるものに対しての外見的な反抗(である)。なんとなれば、それはまさに、彼を惹きつけるものは、最初の肉感的の、そしてかくして一般的の満足のあとに本当にはじめて発展するところの女の個性ではなくして、しかし単に交替の形式的な事実であるということを意味するからである。動機づけが単に一般的であるところに、その事実が刺激として必要であるということは、当然な話である。
「出発点」(terminus a quo))としての衝動も、「無上の瞬間」(suprême moment)に対する楽欲も動機づけるところのものではなくして、しかし誘惑そのものの刺激がそれであるところの典型といえども、それと異なっている。(それは)一部分は加虐症的の権力意志(であり)、一部分は刺激を一つの前階段へ強いて遡らせること(であって)、それはいまだ簡短なる先取りとは合致しないことであり、むしろ肉体的な最後的決定への関係からまったく分離していることができるのである。
もちろん千三人にまでいっていないところのドン・ジュアンの最高なる典型は、一つの非常に強烈なる、おそらくは人格の「絶対的」を形成する一般的衝動がただただ、そして即刻に個人的情念において実現され、それにおいてその唯一の形式を見出すところに存在する。(シュライアマハーの個人主義的形而上学への比論。)
ある意味において性愛的であるところの──しかし「軸を中心としての回転」によって成立するところの意味において──性情がある。すなわちどうしても愛されることを欲するが──常にそしていずれの人からも──しかし個々の場合においてそのことに向かって自分を賭しないのみならず、しかし一般に愛するところの人間ではないところの性情がある。そういう性情の性愛──それは確かに存在するのだが──は恋愛のこういう「持たんとする意欲」においてのみ表現される。それでいて彼らは決して受動主義的の性情ではない。しかし「愛されることを意欲すること」は、彼らがそれにありとあらゆるものを賭するところの情念的の能動性である。彼らは、彼ら自身が愛するが故に、愛されることを欲すのではない、しかし一般になんらかの「故に」からではなく愛されることを欲する。それはそういう性情の原現象である。
おそらく性愛的性情とは「普遍的なるもの」に対して「感じ」──他の性情においてはただ個性によってのみ喚起されるところの「感じ」をもつものであろう。
性愛的性情は必ずしも汎神論的ではない。それどころか個人に対する汎神論的の無愛情はその性情にとっては好愛の的ではありえない。はるかにむしろシュライアマハーの哲学がその性情の表現である。その性情は事実上、各人に対して、愛情的意向を抱くが、それは彼が一般的人間であるが故にではなく、あるいは「全」および「絶対」への道が彼のうえを通っているが故にではなく、しかしかの性情は彼の身近くに、いわば、この瞬間においてはこの者のほかに世界には何者もいないかのごとく、足を留めるのである。この感じ方も本当に非常に異なれる階段をもつことができるのである。かの性情は、彼ら(魂)が理解するが故にではなく、しかし彼らが理解するとはいえ、 宥恕 するところの魂(人々)の類型(タイプ)である。かの性情はすべての人々をではなく、しかし各人を愛する。それは個々人そのものに対する最も微妙なる関係を持つのである。個々人は、それの以外に存するところのなんらかの理由からではなく、かの性情にとって愛する価値があるのである。
性愛的性情においては、恋愛はある他人に対する関係ではなくして、しかしそれの存在のそれ自身において決定せる絶対性である。生活の奉仕から解放されたところの恋愛は、ここでは再び生活にまで──より高い階段におけるある生活にまでなるのである。それがためにそれ(かの性情)は任意の諸関係にまで発展することができる。私の知ってるある種の性情はたった一人の人間を恋したが、その前には、恋愛が何であったかを全然知らなかった、そしていまやその性愛的実存在の絶対性をこの一つの関係の内に置き据えたのである──しかもある動揺が単に考えられえられる程度にも起こったことなしに。そうかと思うと、こういう性情もいる。すなわち、彼らにおいては、彼らの本質が一つの一切=愛の内に没入したのである──一つの常に新たにされたる雰囲気が彼らから彼らの周囲に上昇し、そして彼らの近くにやってきた人をいずれも 包羅 したように。かくのごとく宗教的性情は一神論的であると同じように汎神論的あるいは多神論的でもありえるのである。最後のこと(多神論的であること)はおそらく最も難しいのである。意図が向けられるところの個々の諸点のあいだに、いわば空虚なる距離が残存するがためである。
性愛的性情の現象は、最も個人的なるものから最も普遍的なるものへ通ずる一つの観念上の音階(段階)の極である。一方の側には一人の人物への──その人がこの一定の人物であるが故に──単一なる恋愛、すなわちこの一つの内容においての、恋愛機能の生起と存続とが立っている。過程の普遍的なるものと個人的なるものとのあいだに、この場合は、いずれの心理学上のあるいは観念上の 截別 も存在しない。主体は恋愛の本質あるいは「恋愛一般」をばもっぱらこの個人的の恋愛──それはその根底からしてもっぱらこの客体を通じて惹起されたのである──として知るのである。第二の階段は、いわば異性が全きものとして、かの一人の恋愛を呼び上げるところの個性の代わりに入りきたる場合である。女そのものを、女というもの一般を愛するところの男子がある。この場合なお二つの類型が区別されている。一部の男たちはいわばあらゆる女を、個人の総和を恋する。その際、場合によるとそんなわけで各々の女の個性がそれ自身として、そして特別に恋愛されることがある。他の種類の男は女性的原理を、すなわち個人および彼らの総和の彼岸なるより高きあるいはより低き(抽象的なあるいは有機的な)統一を愛する。この場合、個人への恋愛はしばしば、その個人がこの原理を完理にかつ強度に表現する程度において有効となる。しかし性愛的態度(行動)は、それの前提がもっぱら(排他的に)主観のなかに入り込むことによって、最も極端なる普遍性にまで高まるのである。この人間は自分自身から(おのずから)、彼が恋せずにはいられないような性質を持っている。そのことは彼の全人格にとって、異性に対する彼の関係においておそらく最も強烈にかつ最も明瞭に発揮されるであろうが、しかしその関係に決して制限されたままになることのできない一つの色調と傾向とを意味するのである。性愛的気分はかくのごとき性情にとってはまさに、独りそれのみによって性愛的形式あるいは性愛的要素がかの性情のすべての表現に対して普遍的なかつ必然的なものとして決定されるところのア・プリオリ(「先験的」)である。このア・プリオリが常にある純粋無維の現象なり、あるいはそのうえたとえばある性欲的現象を生ずるであろう、ということは決して必要不可欠ではないのである。性欲はそれ(ア・プリオリ)の証示(活動)範囲の一つであるが、しかしあらゆる他の諸範囲のごとく、一つの相対的に偶然的なる、外部的なる、材料として与えられたる範囲である。各々の任意の人間なりあるいは神なり、「自然」なりあるいは運命なりへの態度はそれと同程度位に性愛的素質によって規定され、あるいは共規定されるのである。ただこの規定の程度あるいは方法のみは客体の個性によって左右されるのである──第一の類型に対する絶対的対立において、第二の類型に対する相対的対立において。
原理的の問題はもちろん、あらゆる性愛性はそれの源泉および永続的な実質としての性欲から出発するか、あるいは心臓のある一次的(根源的)な性質であるか、ということである。そもそも、内容的にも、発生論的にも性欲となんらの関係がないところの恋愛が存在するという簡単な事実がすでに、後者の証明となるのである。──
ある性情に内在する性愛術は、ある個人に対する恋愛が憎悪(それはしかるときは、一つの別種の根礎の上に発生したるものとは、あるまったく別種のものである)に変わりえるごとく、それと同じように憤恨、厭世観、世界憎悪に変わることがある。
性欲行為においてすでに恋愛を見ることは、もとより一つの非常に高貴なる楽天観であり、野卑なるものを高貴化せんとする、一つの理想的な尽力であるが、しかしまったく間違っている。生活が恋愛から生まれ出るのではなく、しかし恋愛が生活から生まれ出るのである。それがために恋愛は、それが独立的になったや否や、また実り少きものとなる。恋愛は自分自身から生活に到達することはできない。生活はずっとはじめから必然的に恋愛の内に存在しているものである。
性行為はその自然的な原始性の内に衝動と目的とを同時的にあるいは無関係的に含んでいる。動物はおのずから衝動に駆られて、それをもって類の目的に奉仕する。人間的発育はかの行為の目的論的性質と衝動的性質とを截別する──そのことがもちろんその行為をまったく別種の内容をもって充たすことによって。人間はその行為を満足のために求めることができる──衝動がある役割を演じ、あるいは単に、唯一の決定力ある性欲の条件として必要不可欠であるようなある役割を演ずることなしに。類の目的論はこの場合もとより同様に根本的に消滅してしまった。しかしその行為にそれにも劣らず目的に対する手段の純粋なる性質を与えるところの一つの主観的な目的論がその(類・目的論の)代わりに入りきたった。他面においては純粋に心霊的・性愛的な情念が肉体的合一にまで肉迫せしめる──その際もとより一般的の衝動が、それが平素はいかに潜伏的のものであれ、前提されねばならない、しかるに各々の生殖を目指すところの目的論はまったく消滅してしまっている──かの享楽を求める目的論とまったく同じように。それはもちろん衝動である、しかし衝動としてはただ純個人的な性愛の肉体的なるものへ継続するところの結果(必然的結果)であって、各々の目的からのごとく類目的から一般に解放されたものである。この場合平俗なる発生学、すなわち性欲が恋愛の根礎である、ということは妥当しない──しかしその反対である!
二つの場合において接吻は象徴的である──友情において、純粹なる官能性において。前者の場合には接吻は精神的心情的関係を象徴し、後の場合にはそれは性欲的決定素を象徴する。恋愛の接吻はしかしなにものをも象徴しない、それは事柄それ自身である──直接的に、それが意味するところの一切である音楽のように。
求め、試みとしての恋愛。我々は我々の内なる、我々自身の感情の内なる他人を求める。この求めが恋愛と呼ばれる。我々はいまさらはじめて彼を恋するのではない。しかるのちに我々は彼(他人)を求めるのである。
愛によって男は全女性から一人の特定の女への道を見出し、女は一人の特定の男を通じて男性的原理そのものへの道を見出すのである。前者にあって行われるものは凝集、後者にあっては拡張である。
形而上学的性愛──世界を通じて女を愛し、そして女を通じて世界を愛すること。
プラトンは個人における普遍的なるものを愛し、我々は個人そのものを愛する。しかし普遍的なるものと個人的なるものとのあいだのこの二者択一は、その彼岸に一つの第三のものが存するところの(広義の)二者択一の一つではなからうか。この第三のものがおそらくまさに恋愛を指示していないだろうか。この第三のものはしばしば、ただ存在することができ、かつ存在せねばならぬ、ただ体験されることができ、かつ体験されねばならぬところのあるもの、かつそれが知的に捕捉されるとなるとただちに二者択一(それの不十分性を我々は感じるが、しかしまさに論理学的には超克することのできない)へ移りゆくところのあるものではなかろうか。
ORIGINAL TEXT
Fragment über die Liebe.
Daß sich an den Begattungstrieb, der nur der Fortpflazung ── des Lebens dient, die Liebe schloß, die nach diesem gar nicht fragtdas ist eine ungeheure Erlösung vom Leben. Wie die Kunst es ist, sobald sie sich über das Natürliche erhebt, das Religiöse, sobald es von Furcht und Hoffnung frei wird.
Die Liebe, die etwas ganz Selbständiges, Transvitales geworden ist, an der sich die Abkehr vom Leben und dem Dienst an ihm vollzogen hat, wird in der erotischen Natur wieder zu einem Leben, wie in dem Künstler die überteleologisch gewordene Kunst.
Gerade wenn man von erotischer Natur spricht, kann es sich nur um eine Art von Leben handeln. Gerade das Leben eines solchen Menschen, mit seiner inneren Teleologie, seiner Kraftbewährung, seinem Rhythmus, ist hier von dem bestimmt, was sich vom Leben befreit hat, es ist in ihm wieder Leben geworden. ── Darum konnte der H. Franziskus eine erotische Natur sein.
In der erotischen Natur hat sich die Liebe am vollständigsten vom Zeugungszweck emanzipiert ── und das Entscheidende, in die Tiefe der Lebens-Metaphysik Hinabreichende ist es, daß dies eben nicht Abstraktion, sondern Natur ist.
In der erotischen Natur ist die Erotische Natur? Eine, bei der die Liebe das Apriori' der inneren anderen ist? Das Apriori bedeutet ja auch nicht, daß es auf jeden Stoff angewendet wird?. Wir denken tausendfach nicht kausal (richtiger- und ungesagterweise) und dennoch ist die Kausalität apriori. Denn nur wenn wir so denken, denken wir richtig und bringen die theoretische Welt so einheitlich zusammen wie sie sein soll. So liebt zwar die erotische Natur nicht immer und nicht jeden, aber nur insoweit sie es tut, bringt sie sich ganz zusammen, erfüllt sie ihren objektiven Lebenssinn.
Verhält sich die erotische Natur zu dem gewöhnlichen Liebenden, wie die schöne Seele zu dem bloß Moralischen?
Die erotische Natur als Grenzfall:
Liebe muß tatsächlich vom ganzen Menschen auf den ganzen Menschen gehen. Denn das rein Sinnliche wie das rein Geistige der Person steht jenseits der Individualität, bei beiden wäre der Ersatz durch beliebig viel Einzelne möglich.
Die erotische Natur vielleicht die, für die Nehmen und Geben eines sind, die gibt indem sie nimmt, nimmt indem sie gibt.
In der erotischen Natur ist die Beziehung zum Anderen eine oder die Form ihrer immanenten Existenz ── wie das räumliche Außereinander die Form der an sich unräumlichen Anschauung ist. Das dem Begriff nach der Seele Transzendente ist ihr metaphysisch oder erkenntnistheoretisch immanent. Der nicht erotische Mensche liebt eben nach außen hin ── bei dem erotischen ist dies Außen eine innere Funktion.
Ist eine erotische Natur eine solche, bei der die Liebe eine Produktivität des Wesens ist, nicht nur die Reaktion auf einen Reiz? In der Jugend, in der wir nur überhaupt lieben wollen und müssen, sind wir entweder alle erotische Naturen (aber das Vorübergehen dieser Epoche beweist, daß dies nicht individueller, sondern nur genereller Natur ist) oder man kann das Anschießen der sinnlichen Impulse, auch wenn sie rein innerlich entstehen, dennoch als einen “Reiz" ansehen, der dem eigentlichen Zentrum der Seele äußerlich ist und sich nur der Distanz nach von dem Reiz durch ein schönes Mädchen unterscheidet.
Eine erotische Natur ist in jedem Fall eine solche, die in jedem Augenblick weiß, wozu sie lebt ── auch wenn dieses Wozu sich nicht realisiert.
Was der erotische Mensch jedenfalls nicht ist: ein sparsamer Haushalter, ein differenzierter Berufsmensch, ein Hypochonder.
Der Opern-Don Juan ist nur physiologisch getrieben, mit der Nuance, daß er dem Trieb nur an immer wechselnden Frauen genugtun kann, der einzelnen sofort überdrüssig ist. Nur scheinbar Individualismus, nur scheinbar Widerspruch gegen das rein Generelle des Triebes. Denn es2 bedeutet gerade, daß nicht die Individualität der Frau ihn anzieht, die sich gerade erst nach der ersten sensuellen, und also generellen Befriedigung entfalte, sondern nur die formale Tatsache der Abwechslung. Es ist begreiflich, daß diese3 gerade da als Reiz nötig ist, wo die Motivierung rein generell ist.
Verschieden davon noch der Typus, wo weder der Trieb als terminus a quo, noch die Lustgier nach dem suprême moment das Motivierende ist, sondern der Reiz der Verführung als solcher. Teils sadistischer Machtwille, teils Vordatieren des Reizes auf eine Vorstufe, was noch nicht mit der einfachen Antizipation zusammenfällt, sich vielmehr von der Beziehung zu dem physischen Definitvum ganz getrennt halten kann.
Der höchste Typus des Don Juan, der freilich nicht bis zu 1003 geht, besteht da, wo ein ungemessen starker, vielleicht das Absolute der Persönlichkeit bildender genereller Trieb sich nur und sogleich in einer individuellen Leidenschaft verwirklicht, an ihr seine alleinige Form findet. (Analogie zu Schleiermachers individualistischer Metaphysik.)
Es gibt Naturen, die in gewissem Sinne erotisch sind, aber im Sinne, der durch eine Achsendrehung zustandekommt: die durchaus geliebt sein wollen, immer und von jedem, aber nicht nur sich im einzelnen Fall nicht dagegen einsetzen, sondern überhaupt nicht liebende Menschen sind. Die Erotik ihrer Natur, die zweifellos da ist, äußert sich nur in diesem Habenwollen der Liebe. Dabei sind sie keineswegs Passivistische Naturen, sondern das Geliebt-Werden-Wollenist eine leidenschaftliche Aktivität, für die sie alles mögliche einsetzen. Sie wollen nicht geliebt werden, weil sie selbst lieben, sondern überhaupt aus keinem “Weil". Es ist das Urphänomen ihrer Natur.
Vielleicht daß die erotische Natur dem Allgemeinen gegnüber die Empfindung hat, die in anderen nur durch Individualität ausgelöst wird.
Die erotische Natur ist nicht notwendig pantheistisch. Im Gegenteil die pantheistische Lieblosigkeit gegen das Individuum als solches kann ihr nicht sympathisch sein. eher ist die Schleiermachersche Philosophie ihr Ausdruck. Sie hat tatsächlich die liebende Gesinnung gegen jeden, nicht weil er der allgemeine Mensch ist, oder weil der Weg zum Ganzen und Absoluten über ihn führt, sondern sie macht an ihm Halt, sozusagen, als ob es in diesem Augenblick nichts in der Welt außer diesem gäbe; auch diese Empfindungsweise kann ja sehr verschiedene Grade haben. Sie ist der Typus der Seelen, die verzeihen, nicht weil sie verstehen, sondern obgleich sie verstehen. Sie liebt nicht alle sondern jeden, sie hat die feinste Beziehung zum Einzelnen als solchen, der Einzelne ist ihr nicht aus irgendeinem Grundel, der außerhalb seiner liegt, liebenswert,
Bei der erotischen Natur ist die Liebe keine Relation zu einem anderen, sondern in sich beschlossene Absolutheit ihres Seins. Die Liebe, die sich vom Dienst des Lebens befreit hat, wird hier wieder zum Leben ── zu einem Leben auf höherer Stufe. Darum kann sie sich zu beliebigen Relationenentfalten. Ich habe erotische Naturen gekannt, die einen einzigen Menschen geliebt haben, vorher gar nicht wußten, was Liebe war und nun die Absolutheit ihres erotischen Daseins in diese eine Relation hineinlegten, ohne daß eine Schwankung auch nur denkbar gewesen wäre. Und andere, bei denen ihr Wesen in eine All-Liebe aufging, wie eine immer erneute Atmosphäre aus ihnen um sie aufstieg und jeden, der in ihre Nähe kam, einschloß. So kann die religiöse Natur ebenso monotheistisch wie pantheistisch oder polytheistisch sein3. Das Letztere vielleicht am schwierigsten, weil zwischen den einzelnen Punkten, auf die sich die Intention richtet, sozusagen leere Strecken bleiben.
Das Phänomen der erotischen Natur ist der Pol einer ideellen Skala, die vom Individuellsten zum Allgemeinsten führt. Auf der einen Seite steht die singuläre Liebe zu der einen Person, weil sie diese bestimmte ist, das Entstehn und Bestehn der Liebesfunktion an diesem einen Inhalt. Zwischen dem Allgemeinen und dem Individuellen des Vorgangs existiert hier keine psychologische oder ideelle Scheidung, das Subjekt kennt das Wesen der Liebe oder “die Liebe überhaupt" ausschließlich als diese individuelle Liebe, die von ihrer Wurzel her ausschließlich durch dieses Objekt hervorgerufen ist. Die zweite Stufe ist es, wenn sozusagen das andre Geschlecht als ganzes an die Stelle jener einen, die Liebe aufrufenden Individualität tritt. Es gibt Männer, die die Frau als solche lieben, das weibliche Wesen überhaupt. Hier sind noch die beiden Typen unterschieden: manche Männer lieben sozusagen alle Frauen, die Summe der einzelnen, wobei eventuell also die Individualität einer jeden als solche und besonders geliebt werden kann: andrelieben das weibliche Prinzip, die höhere oder tiefere (abstrakte oder organische) Einheit jenseits der Einzelnen und ihrer Summe; hier gilt die Liebe der Einzelnen oft in dem Maße, in dem sie dieses Prinzip vollständig und intensiv darstellt. Zur äußersten Allgemeinheit indes steigt das erotische Verhalten auf, indem seine Voraussetzungen exklusiv in das Subjekt hineinrücken. Dieser Mensch ist von sich aus so beschaffen, daß er lieben muß. Das bedeutet für sein ganzes Wesen eine Färbung und Tendenz, die sich an seinem Verhältnis zum andern Geschlecht vielleicht am stärksten und deutlichsten entfalten wird, aber auf dieses gar nicht beschränkt bleiben kann. Die erotische Stimmung ist für eine solche Natur eben das Apriori, wodurch allein die erotische Form oder das erotische Element für ihre gesamten Äußerungen als allgemein und notwendig bestimmt wird. Es ist durchaus nicht erforderlich, daß dieses Apriori immer eine ungemischte Erscheinung oder gar etwa eine sexuelle ergäbe. Die Sexualität ist eines seiner Betätigungsgebiete, aber wie alle andern ein relativ zufälliges, äußerliches, als Material gegebnes. Das Verhalten zu jedem beliebigen Menschen oder zu Gott, zur Natur oder zum Schicksal wird nicht weniger durch die erotische Anlage bestimmt oder mitbestimmt. Nur Maß und Art dieser Bestimmung hängt von der Individualität des Objekts ab, in absolutem Gegensatz zu dem ersten Typ, in relativem zu dem zweiten?.
Die prinzipielle Frage ist allerdings: geht alle Erotik von der Sexualität als ihrer Quelle und bleibenden Substanz aus, oder ist die Erotik eine primäre, selbständige Beschaffenheit der Seele? Schon die einfache Tatsache, daß es überhaupt Liebe gibt, die weder inhaltlich noch genetisch mit Sexuali- tät zu tun hat, spricht für das letztere. ──
Die einer Natur einwohnende Erotik kann sich ebenso in Verbitterung, Pessimismus, Welthaß umsetzen, wie die Liebe zu einem einzelnen Menschen in Haß umschlagen kann, der dann etwas ganz andres ist, als ein auf andrer Basis entsprungner.
In dem sexuellen Akt schon Liebe zu sehen, ist zwar ein sehr edler Optimismus, ein ideales Bemühen, das Niedrige zu adeln ── aber völlig verkehrt. Das Leben stammt nicht aus der Liebe, sondern die Liebe aus dem Leben. Deshalb ist sie, sobald sie selbständig geworden ist, auch unfruchtbar. Sie kann von sich aus nicht das Leben erreichen, dies muß noch von vornherein in ihr sein.
Der Geschlechtsakt enthält in seiner naturhaften Primitivität den Trieb und den Zweck entweder gleichzeitig oder in Indifferenz, Das Tier fühlt sich getrieben und dient damit dem Gattungszweck. Die menschliche Ausbildung legt den teleologischen und den impulsiven Charakter des Aktes auseinander, indem es ihn freilich mit ganz andern Inhalten erfüllt. Der Mensch kann ihn um des Vergnügens willen suchen, ohne daß der Trieb eine Rolle spielt oder nur eine solche, wie es als Bedingung der allein entscheiden Lustbegier erforderlich ist. Die Teleologie der Gattung ist hier zwar gleichfalls radikal verschwunden, aber eine subjektive ist an ihre Stelle getreten, die dem Akt nicht minder den reinen Charakter des Mittels zum Zweck gibt. Andrerseits drängt die rein seelisch-erotische Leidenschaft zu der körperlichen Vereinigung wobei zwar der generelle Trieb, wie latent er sonst auch sei, vorausgesetzt werden muß, während jede auf Zeugung gehende Teleologie völlig verschwunden ebenso wie jene genußsuchende. Es ist frelich Trieb, ist aber als solcher nur die ins physische sich fortsetzende Konsequenz der rein individuellen Erotik, von dem Gattungszweck wie von jedem Zweck überhaupt emanzipiert. Hier gilt nicht die banale Genealogie: der Geschlechtstrieb ist die Basis der Liebe ── sondern umgekehrt!
In zwei Fällen ist der Kuß symbolisch: in der Freundschaft und in der reinen Sinnlichkeit. Dort symbolisiert er die geistig-gemütliche Beziehung, hier das sexuelle Definitivum. Der Kuß der Liebe aber symbolisiert nichts, es ist die Sache selbst ── wie die Musik, die alles was sie bedeutet, unmittelbar ist.
Die Liebe als Suchen, Versuchen. Wir suchen den anderen in uns, in unserem eignen Gefühl. Dieses Suchen heißt Liebe. Wir lieben ihn nicht erst und dann suchen wir ihn.
Vermöge der Liebe findet der Mann den Weg von dem ganzen weiblichen Geschlecht zu der einen Frau, die Frau den Weg durch den einen, Mann zu dem männlichen Prinzip überhaupt. Dort ist es Verdichtung, hier Erweiterung.
Die metaphysische Erotik: durch die Welt hindurch die Frau zu lieben und durch die Frau hindurch die Welt.
Plato liebt das Allgemeine im Individuum, wir das Individuum als solches. Aber gehört diese Alternative zwischen Allgemeinem und Individuellem nicht zu den Alternativen, jenseits deren es ein Drittes gibt? Zeigt dies nicht vielleicht grade die Liebe? Ist dieses Dritte nicht oft etwas, was nur sein, nur erlebt werden kann und muß, und sobald es intellektuell erfaßt werden soll, in die Alternative übergeht, deren Unzulänglichkeit wir fühlen aber eben logisch nicht überwinden können?