MOVIE

映画と大衆

ウォルト・ディズニー

『セルパン』編集部訳|『スタア』編集部訳

Published in 1937|Archived in May 1st, 2025

Image: Walt Disney, “Steamboat Willie”, 1928.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ウォルト・ディズニーが『映画の知的役割』(国際知的協力委員会。1937年)に寄せた論考である。
日本では『セルパン』誌および『スタア』誌に掲載された。掲載誌ごとに微妙に内容が異なるため、本稿では、その両方を収録した。
可読性を鑑み、現代的な表記に改めた(旧字・旧仮名遣い・旧語を新字・新仮名遣い・新語に改め、一部漢字を開き、用語統一を施し、句読点を整え、誤植を直した)。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ウォルト・ディズニー(1901 - 1966)訳者:『セルパン』編集部訳者:『スタア』編集部
題名:映画と大衆
初出:1937年
出典:『セルパン 第93巻 10月號』(第一書房。1938年。108-109ページ)、『スタア 第六巻 第六號』(スタア社。1938年。8-9ページ)

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映画と大衆

『セルパン』誌版

 
一般に映画、ことにマンガ映画は、大衆の思想や行為に直接影響を与えないものである。映画の目的は、教育や宣伝ではなく、大衆を楽しませることである。映画は、観客をして現実生活を忘れさせ、観客の不安や怒りや心配を鎮めて、観客に休息を与えるものでなければならない。観客の想像力が、架空の人物の世界に入ることによって刺戟され、観客の新しい経験と冒険を求める心を満足させる。喜劇や誇張された表現や道化は、観客の気分を和らげ、楽しくし、観客に現実を忘れさせる。
 
映画は直接的には大衆に影響を与えないものであるが、間接的には大衆の思想や感情に作用する。ところで観客というものは、画中の人物が観客の興味や共感を惹起しないかぎりは、換言すれば、画中の人物の生活に観客自身が入りこまないかぎりは、その注意力を働かさないものである。それゆえ、物語は適切な興味ある人物を中心として展開しなければならない。また、それらの人物の反応や感動は、たとえそれが劇化され、誇張されている場合でも、その動機には論理にかなった正当な理由がなければならない。この方法によって、映画は大衆の感受性に働きかけるのである。興奮した大衆は、あるいは笑い、あるいは涙する。画中のさまざまなる人物の思想や感情や行為によって、観客は無意識のうちに影響される。
 
ことにそれらの画中の人物が、人気のあるスターによって演ぜられるとき、いっそうその影響は大きいのである。「ミッキー・マウス」や「三匹の仔豚」や、マンガ映画のその他の架空の人物の人気は、彼らのタイプを流行せしめ、玩具や宝石や家内装飾品にとりいれられた。また一般の映画のように、帽子や衣装や家具や建築に流行をつくりだしている。
 
マンガ映画
感動と行為とを伝達する視覚の言語である映画、とくにマンガ映画は、全世界の大衆に向かって話しかける。映画はその人物と映像と観念と諧謔と歌によって、一種の世界語をつくり、あらゆる国民の共有の財産となっている。このようにして映画は、ある種の過度な力が、現在のように国民と国民とのあいだを離間させ、疑念や羨望や嫌悪をそのあいだに生じさせようとしているときに当たって、国民と国民とのあいだを繋ぐ 羇絆 きはん となっている。
 
旅行することもできず、多くの書物を読む暇もない小市民の生活にあっては、映画は広々とした世界に向かって開かれた窓である。それらの人々は、映画によってさまざまな国々の物語や風習や習慣に親しみ、他の国々の人間もまた、自分と同じであることを知るのである。また、この映画という旅行を通して、人々はさまざまな国々の支配者や下層階級とも接触し、自分がこの大きな世界家族の一員たることを感じるのである。
 
映画製作者の使命
映画は商業的企業によって生産されるものである。複雑な技術と機械をもってして、はじめて可能である映画の製作は、多額の費用を必要とする。それゆえ、 映画製作者 プロデューサー がなによりも意を用いるのは、大衆の嗜好に応えるために、大衆の好みを知ることである。ある種の 映画製作者 プロデューサー は、大衆の傾向やその欲するものを安価に評価し、その結果、素養のある大衆の意見に衝突する。そういう 映画製作者 プロデューサー たちは、煽動的な主題を用い、そこに現代の生活をデタラメに表現する。すなわち、ギャングやアパッシュの跳梁や、道徳の頽廃というような近代生活の暗黒面を誇張するのである。知られない国々の人々の生活を、このように歪曲して表現する映画は、さまざまな国々の人々の抗議と反感を惹起する。
 
題材の選択、その扱い方を決定するものが商業的な理由である以上、これらの過誤を矯正するものは、ただ世論あるのみであろう。世論に押されて、 映画製作者 プロデューサー は、たとえ彼らが、決して理想主義者ではないにしろ、自分たちが大衆に与える映画の責任を感じるようになるであろう。だが、ここにいま一つの危険がある。それは狭隘で 偏頗 へんぱ で身勝手主義な世論である。そのような世論は、 映画製作者 プロデューサー の創造的な活動力が進展する道を塞いでしまう。素養のある大衆の世論は、広く自由な基礎の上に組織され、悪い映画を告発するだけに止まらず、すぐれた映画の製作を勇気づけ、すぐれた映画の製作のための戦いに大衆を参加させつつ、その建設的な活動力を拡げなければならない。
 
発声映画の出現
発声映画の出現は、観客の精神と感覚に対する新しい作用方法を導き入れて、映画の目的と表現能力を著しく拡大した。その結果、映画の対象と主題の扱い方は根底から変化してしまった。そしてまた、会話の挿入は演出の方法をも著しく変化させた。マンガ映画においては、発声映画の採用はその歴史に一大転回を与え、マンガ映画を新しい映画芸術の水準に高めた。視覚と聴覚のための表現の問題、主題の適用と展開の問題、演技と演出の問題は、映画の仕事を非常に困難で複雑なものとした。映画を非常に単純で明快で、しかもニュアンスと変化に充ちたものたらしめるためには、創造的で技術的な努力が必要である。非現実的なものを現実的なものたらしめるためには、一種の暗示的調和性に到達するために、さまざまなる表現の方法を注意深く用いる必要がある。
 
そしてその成果は、専門家の仕事をその細部にまで注意深く組織することによってしか、得られないものである。映画はまた、今日マンガ映画を支配し、一般の映画にとり入れられている色彩の問題に対しても、ますます専心しなければならない。
 
無声映画の本質である対象を視覚的方法によって説明し、行為と運動をパントマイムによって説明することは、発声映画においても同じである。イリュージョンや、音や、詩や、会話の力が保有されるためには、視覚的方法が完全でなければならない。この方法は、印象の尺度と、その力と効果を増大しなければならない。これはまったく真実である。特に全世界の大衆に向かって話しかけるマンガ映画においていっそう真実である。この技術によって、さまざまなる国の人々は、物語を無意識に、自然に自分に同化し、画中の人物の経験を自分の筋肉のなかに感じるのである。
 
映画は非常に細かい分業を必要とする。マンガ映画においては、視覚的表現方法と聴覚的表現方法は、多くの種類の作業に分割され、さまざまなる作業者に割り当てられる。そうしてマンガ映画の成功と不成功は、その仕事に従事している多くの適当者の努力にまったく依存している。
 
新しい映画の製作に従事するものは、創造的な才能と独創性をもった個人であると同時に、またその仲間とともに、細心な感受性をもって共同し得る技術をもった集団の一部分でなければならない。映画のこのような方向は、二十世紀を代表する芸術である映画のために、新しい可能性の展開を指し示している。スタジオや、映画の科学的、技術的、芸術的組織の奨励とともに、国立の映画学校、もしくは国際的映画学校というようなものを設立する必要があろう。そうして、そこから初めて、社会的責任感をもった映画労働者や、技術家や、美術家の新しいタイプが生まれ出るであろう。(国際知的協力委員会版『映画の知的役割』1937 パリ版より)

〔共著者として「ボリス・モルクヴィン」が記載〕

映画と大衆

『スタア』誌版

一、大衆への映画の影響
一般に映画、ことにマンガは直接、人々の思想や行為に影響を与えない。それらは人にものを教えたり、宣伝しようという目的をもたず、大衆を楽しませるのが目的である。そのために、映画は、観客の心を日常生活から逸らし、その心配、怒り、苦悩を和らげ、休ませる助けとならねばならない。架空の登場人物の生活に入り込むとき、観客の想像力は鞭打たれて、その新しい経験や冒険への望みが満足せられる。喜劇、誇張、道化等は、観客の気分を快活にし、なごやかにして、逃避の可能性を与える。

 

しかし、映画は間接に、大衆の思想や感情の上に作用することもできる。観客の注意は、登場人物がその興味や同情を引き起こし、すなわち、無意識のなかにそれらの経験に加わることができてはじめて、目覚まされるのである。そのためには、物語が、激しい人間的興味をもった人物をめぐって展開されねばならない。これらの人物の反応や感情は、たとえ劇的の興味を与えられたり、誇張化されていたとしても、正当かつ倫理的な境遇によって動機づけられていなければならない。

 

そうすれば、映画は、観客の感受性の上に働きかける。観客は、怒り、泣き、笑う。観客は、ことにその役々が人気スターによって演ぜられるならば、しらずしらず、そのいろいろな登場人物の態度、動き方、感じ方、考え方等に影響を与えられる。ミッキー・マウス、スリー・リトル・ピッグス、その他マンガ映画の奇怪滑稽な登場人物たちは、それらのタイプの流行を引き起こして、映画が一般に、ある様式、趣味、好悪の統一性の上に、帽子、衣服、家具、建築物等の様式を想像するのとまったく同じように、玩具や、衣服や、宝石や家具類のモチーフとなった。

 

ニ、映画と国民
根本的には人間の経験にもとづいて、行為と感情の視覚的言語を話す映画、ことにマンガ映画は、全世界の大衆の心に訴える。映画は、いろいろな登場人物、映像、思想、道化、歌等を用いて、一種の国際的な言語を創造し、あらゆる人種、あらゆる国民の共通財産となる。すなわち、映画は、多くの力がお互いを引き離し、疑惑と嫉妬と憎悪を創造しようとする時代にあって、国民間の連鎖となる。旅行する金も、多く本を読む時間もない小市民の生活にあって、映画は、広く世界に向かって開かれた窓である。映画のおかげで彼らは、いろいろな国民の生活、風習、歴史等に親しむのである(もっとも、それが正確なときも間違っているときもある)。そして、他の国々の人間もまた、自分たちと同じ人間であることを理解しはじめる。ニュースおよび紀行の実写映画によって、観客は、いろいろな国々の統率者や庶民に親近して、世界という一大家族の一員であることを感じはじめるのである。

 

三、不満とその修正
映画は、営業的な会社によって生産せられる。複雑な技術と設備によってはじめて可能となる映画生産は、莫大の金銭を必要とする。会社が、新しく資本を得るか得ないかを決定するのは、配給部の収入によるのである。それゆえに、なによりも第一に映画製作者たちが関心を払うことは、それに答え得るために、大衆の好みを知るということである。大衆の要求を求めて、ある製作者たちは、大衆の傾向や欲望を低く見積もり、その結果、煽情的なまたは陰惨な主題を使ったり、強盗や無頼漢の生活のような道徳性の遅緩した暗い半面のみを誇張した近代生活の不正確な再現を行ったりして、教養ある世論と衝突している。また外国民の生活を歪めて表現しては、いろいろな国々の人々の抗議や不満を買っている。

 

主題の選択や、その表現法を決定するのは興行的な理由によるのであるから、これらの過失は、世論によってのみ修正され得る。世論の与える圧迫の下に、たとえ理想主義者でない製作者たちも、大衆に映画を提供するという事実の負わねばならぬ責任を感ずるだろう。しかしここにもう一つの危険が生まれる。それは、映画芸術家の創造的活動力が展開し得る道を束縛する世論の狭量、偏見、自己中心主義等である。教養ある世論は、悪い映画を暴露するに限られていてはならない。もっと広く自由な立場から組織され、よりよき映画の生産をすすめ、すぐれた作品への闘争に大衆を動員して、建設的な活動力を展開しなければならない。

 

四、映画の技術的進歩と大衆
一般に発声映画の到来は、観客の感覚および精神の上に作用する新しい方法を導き入れて、映画の目的および表現能力を著しく拡大した。この事実は、その結果として、激しく映画の主題──発声映画と無声映画では、非常に異なっている──を変化させ、主題の取り扱い方、筋の導き方も改変せられた。またセリフの出現は、ひどく演技の方法を変えた。マンガ映画に関しても、発声映画の到来は、登場人物の活動の歴史に一転機を示し、マンガトーキーを新しい固形芸術──シネグラフィック──の標準にまで高めた。その代わり、視覚聴覚表現手段の調和なり、有効な決定の問題、主題、監督、動きの展開および脚色の問題は、映画の仕事を非常に困難かつ複雑ならしめた。映画を、単純──しかも単純すぎることなく──明瞭ならしめ、しかもいろいろのニュアンスや変化を含ませるためには、かつてよりはるかに大きな技術的かつ創造的な努力を尽くさなければならない。非現実なものを現実化するためには、暗示的な一つの統一性に達するために、さまざまの表現手段を細心の注意をもって調合しなければならない。その結果は、専門家たちの仕事をごく細かいところまで、注意して組み立てることによってのみ得られる。しかも作品は、ますます今日のマンガ映画を支配し、一般映画のなかにも導き入れられている色の問題に、なおいっそう関心を払わなければならない。

 

無声映画の本質──視覚的手段、動き、行為、パントマイム等によって(マンガ映画にあっては、それらが常にリズミカルに配置されている)主題を表現する──は、トーキーになっても同じままである。幻覚の力を保ったために、音と詩とセリフとが視覚的手段を補足しなければならない。印象の尺度を、その力を、その有効性を増大しなければならない。言葉によって、すべての物語を語りながらそれが視覚的手段に取って代わるようなことがあってはならない。特に国際的な、大衆に訴えるマンガトーキーにあっては、これは重大な真理である。その技術のおかげで、さまざまなる国民の庶民階級が、物語を無意識かつ自発的に同一視するのである。彼らはその筋肉のうちに、その登場人物の経験を、あるがままに感ずる。そのため、人間のあらゆる感覚および情緒の表現が容易にされた。音と音楽と、色のさまざまな使い方が、印象を雑多にし調子を豊かにする。

 

並列製作の特性は、映画に必ず仕事の細かすぎる分割を課している。マンガトーキーにあっては、視覚および聴覚の表現手段を、いろいろの労働者のあいだに分配された幾百の操作および細分した対象に分割する。それは、すべてのこれらの機械的術作が、突然活気付くとき、登場人物が生きた人物の魅力を得たとき、登場人物の行為、反応、他の人物とのあいだの動き等が一致して、激しく催眠的幻覚を与えるとき、芸術となる。その総合的印象は、団体的仕事によってのみ得られる。マンガトーキーの成功または失敗は、何百という労働者たちの努力の結合や、彼らがすべて同じ視力、同じ目的、同じ意志をもっているという事実に基づいている。

 

ウォルト・ディズニー撮影所の到達した素晴らしい結果は、大部分ウォルト・ディズニーが、その協力者たちに彼らから同時に造型的および音楽的な特殊能力をもった新しいタイプの労働者、職人、芸術家である人間をつくりだして訓練を与えた事実に基づいている。新しい映画労働者は、想像力と創造的才能をもつ個人であるとともに、またすぐれた技術をもち、細心の注意と豊かな感受性をもって、自分の仕事を、団体の仕事に協力させる集合体である。私の意見によれば、この種の学校は、あらゆる映画企業のための新しい可能性の進展の道と、その二十世紀の代表的芸術への変化とを示している。撮影所の協力を得て、映画の科学的、技術的、芸術的組織が必要である。映画の国民学校または国際学校を創立しなければならない。そこから、自己の社会的責任に対して非常に自由な観念と感情とをもつ映画労働者、映画技術家、映画芸術家の新しいタイプが生まれるであろう。