ロンドンの聖トーマス病院の一室に瀕死の男が横たわっていた。その男は幸福な生涯をいま終わろうとしているのであった。
彼はミュージック・ホールの人気者だった。ステージの花形だった。歌手としては一世を風靡していたし、家庭でも幸福な男だった。そして、いま静かに死が彼を訪れているのだった。
しかし、彼はまだ働き盛りの男だった。古を覆う名声のなかに、人生の最後の幕が彼の前に永遠に引かれようとしているのだった。
病院の窓は暗く、彼の部屋の窓だけが明るかった。そして、その窓の外の闇のなかに寒さに震えながら、一人の少年が泣いていた。
医者に絶望を宣告されたのだけれど、少年は起こり得べからざる奇跡を願っていたのである。
瀕死の男と窓の外の少年とは同じ名前を持っていた。その名はチャールズ・チャップリンといった。
父の死によって少年チャールズ・チャップリンの生活には大きな変革がもたらされた。母と兄と彼自身とが、貧困のどん底に突き落とされたのである。
しかし、貧困は終身刑の宣告ではなかった。人生の彼への挑戦だった。ある人々にとっては、この挑戦がすばらしい機会になる。この少年の場合がまさにそうであった。
彼が貧困がいかなるものであるかということをよく知っていた。社会状態の研究家が持っているような知識ではない。体験による知識を持っていたのだった。貧困は彼の母親の問題でもあったし、彼自身の問題でもあったからだ。
しかし、生活との血みどろな争闘によって、彼は日常の平凡なことにも新しい考え方を持つようになった。毎日毎日、チャーリーの鋭い目は周囲の世界から人生の新しいすがたを拾いだしたのであった。
その昔、同じロンドンで、同じような環境のなかに名声と富との鍵を見出した少年があった。その少年も貧困のどん底に少年時代をすごし、世の常の少年に与えられる明るい半面をすこしも知らずに少年の日をすごした。しかし、彼の天才は困苦を偉大な文学にまで発展させて、後世にチャールズ・ディケンズの名前を残したのである。
私はこの二人のあいだに著しい共通点があると思う。二人とも少年時代に人生の苦しみを知った。二人とも彼らの不幸を成功への踏み台にした。二人は各々異なる道にそって成長し、異なる表現方法を選んだが、同じように、ありふれた日常生活のなかから豊富な材料を採り上げて、そこに全人類の喜びである偉大なドラマと豊かな笑いとを見出したのである。
だから、我々はチャーリー・チャップリンの少年時代を覆った暗い影をすこしも悲しむ必要はない。その暗い影がなかったら、彼の天才は現在のように輝かなかったであろうに、全世界は一つの大きな喜びを失っていたはずなのである。
天才とは不思議な植物である。冷たい風のなかでは育つが温室では萎んでしまう。私はいかなる場合においてもこれは真理であると信じている。英国の由緒ある家庭が多くの偉人を生んでいるのも、彼らが富裕を楽しむということ以上に大きな責任を感じているからなのである。
私は青年時代から自ら衣食の道を講じなければならなかったということを非常に喜んでいる。もし富裕の家に生まれていたら、私の障害ははるかに興味すくないものであったに相違いない。
学校を 卒 えたチャーリー・チャップリンがすぐ舞台の人となったのは当然のことであろう。そして、二十一の歳に、フレッド・カーノー喜劇団と契約してアメリカとカナダに渡ることになった。
この旅行はロンドンにおける少年時代の経験とともに、「チャップリン」の発達に大きな役目を果たしている。我々はチャップリンを英国人として考えたいのであるが、アメリカは彼に新しい方向を与えてしまった。新しい性格と環境とを彼に示したのである。
二十五年前、若き日のチャップリンが大西洋を渡った当時アメリカは英国よりはるかに自由の国であった。おそらく現在のアメリカよりも自由の国であったであろう。伝統とか因習とかいうものがなく、パーソナリティがものをいう国なのであった。
階級の相違などということにも重大な意味はなかった。今日人に使われていたものが明日は人を使うというようなありさまであった。貧困の状態でさえも、チャップリンがロンドンで経験したものとは大いに違ったかたちをとっていた。無理に与えられた貧困でなく、自ら好んでもたらした貧困だったのである。
映画ファンなら、誰でもチャップリンの浮浪者をよく知っているが、そのなかの幾人が、チャップリンの浮浪者が典型的なアメリカ人のすぐれた表現であることに気がついているであろう。
英国の浮浪者にはあらゆる種類の人間がいる。立派に学校を出ているものもいれば、子どものころから仕事についた経験がないものもいる。
アメリカでは、現代のように就職難の世の中でも、浮浪者が決して敗北を認めていない。このアメリカ人の気持ちがスクリーンのうえのチャーリー・チャップリンの永遠のすがたになっているのである。
彼が演ずる浮浪者は英国の浮浪者ではない。百パーセントのアメリカの浮浪者である。アメリカが若いチャップリンに大きな影響を与えたからなのである。
しかし、アメリカが彼に与えたものはそれだけでない。彼が彼自身では気が付かずに待っていたものを与えている。それは彼の天才を発表する絶好の手段であった。すなわち、映画である。
一九一三年の七月のことであった。A・ケッセルという男がブロードウェイを歩いていた。彼はハマーシュタイン・ミュージック・ホールに立ち寄ってそこのマネージャーと話をしているとき、場内の爆笑に興味を抱いた。それは久しく聞いたことのないほどの割れるような爆笑だった。「たぶんチャップリンが出ているんだろう」とマネージャーが言った。「若いが、なかなかいい芸人だよ」
ケッセル氏がなかに入ってみると、舞台はフレッド・カーノー喜劇団の「ロンドンのミュージック・ホールの一夜」だった。そして、若いチャップリンに注目しているうちにいつのまにかケッセル氏も観客に混じって笑っていた。ケッセル氏が劇場で笑ったら、それはただちにビジネスを意味している。彼は楽屋にチャップリンを訪ね、週給十五ポンドでキーストン喜劇に出演することを勧めた。ところが現在の給料より高級であるにもかかわらず、チャップリンは「ノー」と答えた。二十ポンドでも承知しなかった。しかし、ケッセル氏は容易に諦めず、とうとう三十ポンドで契約を承知させ、あまり気が進まなかったチャップリンを無理にハリウッドに連れていくことになった。
こうして、映画の歴史における最も偉大なる俳優が生まれたのである。
ところで、チャップリンは喜劇だけで満足しているのではない。悲劇的な役を演ずることは彼の願望の一つで、とくにナポレオンをスクリーンに描くことは彼の 畢生 の望みなのである。
この彼の野心を笑うものはチャップリンの芸術を本当に理解していないといっていい。彼の映画が笑いと同時に涙をももたらしていることを忘れてはいけない。彼は笑いによって名声を得てはいるが、彼が観客に与えようとしているものは実は涙なのである。
トーキーの時代が来なかったら、我々はかならず違ったチャップリンをスクリーンに見ていたことであろう。彼はもっぱらパントマイムに縁起の重点を置き、スクリーンにおいてはセリフよりパントマイムのほうが雄弁であると信じている。事実、トーキーの時代においても沈黙のチャップリンはすこしも魅力を失っていない。しかし、突然、全然違う型のチャップリンを観客が受け入れるであろうか。ここに彼の 躊躇 があった。ちょうどケッセル氏から映画出演の契約書を突きつけられたときと同様の躊躇であった。
しかし、私は彼がいつまでも躊躇しているとは思わない。パントマイムはあらゆる感情を伝えることができる手段であるし、全身で演技を見せる俳優には、どんな役を演ろうとセリフの必要はないはずである。
チャップリンがその芸術を完成させたのは映画においてである。彼は映画の限界と可能性とに彼のテクニックを適合させ、彼の芸術の新しい型をつくりあげたのである。彼は常に「人は言語よりも動作によって動かされる」と主張している。そして、私ももう一度声のない映画が製作されることを希望するものの一人である。
ただし、その映画はパントマイムの長所をよく理解しているプロデューサーによって製作されなければならない。トーキーに言葉の制限があることだけを考えても、セリフのない映画の製作は意義のないことではない。パントマイムこそ本当の意味の世界語である。
私は次のチャップリン映画までもう四年待ちたくはない。しかし、そのあいだに彼がパントマイムに理解がある俳優を集めるというのなら、四年でも五年でも待つかいがあるものと言いたい。彼がそういう技能を持つ一団の俳優を集めることができたら、我々が彼のナポレオンをスクリーンに見る機会もあるであろう。
私はチャーリー・チャップリンの今後の仕事はセリフのない映画への精進であると信ずる。しかし、彼は音を全然拒否しているわけではない。音楽と自然音については十分関心を持っているのである。
もしチャップリンがこの仕事に精進すれば、彼の名声はますます上がるであろうし、他の芸術家のために新しい道を拓くことにもなろうし、映画芸術の価値はいよいよ大きいものになるであろう。
映画界に人材は多いが、この仕事をする資格があるのはチャーリー・チャップリンだけである。もし資格のある人間がいたとしても、実行する勇気を持っているのはチャップリンだけなのである。