訳者注(一)
〔このゾラの書簡の宛名である〕アントニー・ヴァラブレーグはフランスのエクス=アン=プロヴァンスという十七世紀の壮麗なカテドラルのある美しい町に生まれた。一八六四年にゾラがこの書簡を書いたとき、彼はわずかに十九才の文学青年であった。
時々、パリに出てきて滞在して、当時の芸術上の運動に刺激されていたが、ちょうどこのころ、詩人肌の彼が軽はずみに写実派に転向したことを、ゾラに手紙で告げたらしい。
ゾラはこの年少の友の流行に動かされる移り気を批判し、彼を自己の個性の拡充に努めるように叱咤し鞭撻したのがこの書簡である。
その文面は彼の真面目と温情が赤裸々にあふれており、当時のフローベールなどの大家に送った儀礼的な手紙よりもずっと彼の持ち味が遠慮なく出ている。
ヴァラブレーグは後に多くの詩集を公にし、一八六七年にはパリに居を定め、『 芸術家 』という雑誌に美術批評のデビューをし、美術批評家として知られるようになったのも、熱心に彼を推薦したゾラのおかげである。この書簡がすくなからずヴァラブレーグに力を与えたことももちろんであろう。
しかし、この書を非常に興味のある貴重な文献ならしめるものは、間に長く書きつづけられてるゾラの映画的な芸術に関する感想である。右の芸術論については、訳者註(二)を参照されたい。×印は中略。
わが愛するヴァラブレーグよ
私が猫なで声で話すか、爪をのばすか、私の手紙がどういうものになるか分からない。君が私の辛辣を誘発したことを承知したまえ。うんともすんとも言わずにいて、君が 写実派 になったと急に乱暴に言ってよこすとは一体どうしたわけだ?
人は他人に注意を使うものだ。幕の後に隠れていて人が通りかかると野性的な声を発するというような悪戯は普段から私は嫌いだ。私は敏感な精神を持ってる、そして本当に、私に思いやりがなかった君はひどいと思う。
君は少年のときから古典的だった。そして柔和な魔女のような精神状態が君の少年時代を平和に暮らさせた。パリに出てくる君の安息のおそるべき敵がロマン主義を君に勧めた。そして君はまったくおそろしいロマン派になり、新しい見方をして君自身をひどく驚かせた、つまり、君はまったく道に迷っていたのである。
君は思い出せるかね? 「必要な平静を失ってしまいました。私のやったことはダメです、何を始めていいかすこしも分かりません。」と君は言ってきたことがある。ナイーブで善良な子供よ! 私はね、君のロマン主義の取り止めになるのを待ってたのだ。おもしろいことに、君はロマン派になる時間を持たなかった、そして見たまえ、もう君は写実派だ。
写実派になれることにびっくりして、君は自分にそっと触ってみるがよくは分からないので、「いつもの落ち着きを取り戻すには手間がいりそうです」と君の苦閣を示す語を書いてよこした。
そうだ! 本当に料理を変えることは楽しいが、あまり時間をとりたくないなら、文学においては君は適当した同一の皿で食わねばならない、私の言うことが分かって冗談の真意を呑み込んだかね?
私は、君が大きな精神をもって芸術のすべての形式を超克することを勧める、そして、エコールを気にせずにただ君自身で詩をつくり、君の天分を全部のばして、とくに昔から騒がれる未知の世界の滑稽は発見のかたわらで悲惨な立ちん棒にならないとしたら、私は君を一層、愛するだろう。
すこし残酷な率直さで簡単に言ってしまっていいかね? もし、君が感動せずに当面の大事なことについて漫然と書き流し大胆に筆をとらないで、自身でそのありのままを分かろうとする熱心を感じないならば、君はきわめて独創性に乏しいことになる、そして君は反映の反映(le refled des refled)にすぎない。
── 君が私の愛するエコールを理解したことを祝福させてくれ、本当のことを言えば、君の性質がこのエコールに安じていられるとは信じない。君は生まれつき写実派でない、こう言ったからって決して悪く取ってくれるな、私は繰り返して言うが、まったく了解するほうが無事である。
── わが愛するヴァラブレーグよ!
第二のマダム・ボヴァリーを書いて私を驚かしてくれ、そしたらどんなに君を喝采することだろう。本当にただそのときこそ君を許そう、君の写実主義が私はつくったひどい心配のために、まだ非常に不安でいる。
君の手紙を受け取って読んだあとで長い夢想にとらわれた。私の思いつきがどういうものか筆にまかせて君に話そう。そうして自分の考えを明らかにすることにする。そして君に話したい問題について、充分と広い研究は他日にするとして今さし当たってのプランを示そう。体裁よりもその考えを判断してくれ、私は急いで、できるだけ話をする。
訳者注(二)
次のゾラの芸術論では、L' Feran という語が大文字で盛んに使われている、ゾラが比喩的に用いてるだけに普通に映写幕としたのでは漠然としてしまうし、意味もしっくりしない。
この書簡の約三十年後にリュミエールの活動写真の発明があり、その四十年祭がパリで今年行われたはずである。しかしゾラの時代には幻燈はもちろんのこと活動の先駆をなす走馬燈式の研究が行われていたと思われる、ようするに現在のフィルムも幻燈の写真画である硝子板(verre)の進歩したものにほかならない、それは 透画 (transparend)であり、その種板を映写する種々の操作が L' Frn となる。ゆえに映写される幻燈その他の写真画という意味で、L' Eran を映画を訳すことにするが、もちろん、現代のシネマと同じ意味の普通の用語とは相違してる。ゾラは写真の映写と芸術の創作における描写とがいずれも対象の写像を変容する点において、L' Eran という語を潜勢的に用いたのである。そして絵画は容易にこの比喩に当てはまる。しかしこの語は美術のみならず文学をも包摂していることは明らかである。意味の不明は拙訳のいたす点もあり、この比喩の複雑さにも煩わされてる。
映画
映画 ── 映画と創作
映画は実像(des images réelles)を与えることはできない。
最初に、すこし危険な比喩をすることにする。すべての芸術作品は創作の上では開かれた一つの窓のごときものであって、その窓口に嵌めこまれて一種の透し通す(transparend)映画が存在する。それによって我々の見るものは、線も色も多少、感覚的に変化されているのである。これらの変化は映画の本質とするものである。それは決して確実な創作でなく、影像の過ぎるミリューによって変容されたものである。
ある人間、ある稟質や性格を通して、一つの作品のなかに吾人は創作をみる。新しい種類の映画によってつくられる影像は、他に置かれた事物や人々の再生(reproduetion)であり、忠実でありえないその再生は、吾人の眼とその創作の間に新しい映画というものが入ってくる度合いにおいて変化する。同様に事なった色硝子が異なった色をしたものを見せ、凹凸のレンズが同一の方向において対象を別々に変形するのである。
そこで正確な現実性は芸術作品には不可能である。ある問題を低く評価するとか、理想化するとかいうことは、結局、同じことになる。そこに実存の変形があり、また欺瞞がある。この欺瞞が体裁がいいか見苦しいかは問題でない。繰り返して言うが視覚現象において再生産される変形や欺瞞は明らかに映画の性質とするものである。再び比喩を用いるならば、もし窓が自由なら外に置かれた対象がその現実のままに見られるであろう、しかしこの窓は自由でないし、またそれは不可能である。
その影像は一つのミリューを通らねばならず、このミリューがいくばくに純粋に透し通すとして影像を変形せざるをえない。かつまた芸術という語は自然という語と対立しないか?
かくて、作品のすべての生産はこの点に存する、芸術家が直接に創作に取りかかり始めると、自然を独特に眺めてそのなかに透徹し、そしてプリズムのごとく自分の性質によって屈折したり色づけたりしたあとに、我々に輝しい光彩を放つ作品を送るのである。
かく考えると考慮すべき要素は二つだけである。映画の創作は皆に同じ 形像 を送るのだから、その創作は皆に同じであるゆえに、映画だけを研究し議論する必要がある。
映画の研究 ── その構図(composition)
── ここに哲学上の意見が百出する重要な場所がある。映画はまったく現実的で形像を具体的に再生することを確言する人々は現代に数多くある、これらの一派のなかで、まず、〔イポリット・〕テーヌが自分でそれを考え、映画に卓絶した能力を認め、そしてそのあらゆる可能性を種族・環境・運動の三つの大なる影響に帰せしめたのである。ほかの人々はその現実的なことを否定しないが、映画によって再生せられた影像は具体的でないとする。
すべての精神主義者はこれに味方し、デュフロア・メーヌ・ド・ビラン、〔ヴィクトル・〕クザンなどがそれである。結局、すべてのことは正しい中心点を必要とするので、デシャネルは晩年の著作に次のごとく書いた。
「精神の作るもののすべてが精神によっては説明されない。しかしまた物質によってことごとく説明されないことはなおさらに当然である。」
これではまるで、永久に仲直りせぬ子供みたいだ。何にも言わぬほうがましだというほかはない。第一、精神とはいかなるものか?
天才の映画 ── 不明瞭な小映画
エコールの巨頭は形像を非常に溌剌と見せる力強い映画だ。一つのエコールはきわめて粗末な質の不明瞭な小映画の集まりであり、彼らは自身で形像を与える力がないので、彼らの行列の巨頭をなす力強い純粋な映画に集められている。
ここに、かかる運動のお恥ずかしい成行が見られるのだ。
製作を緑・青・黄にまたは気に入ったまるで別の色にすることは、天才的な芸術的な芸術家には普通に許されてることだろう。
それで円を角に直線も屈曲した線に変えることもできる。そして我々のお気には召さないが、再生される形像が美の調和と発現であるならかまわないのである。
しかし我慢がならないのは、党派的な塗りたくりと変形(déformation)であり、法則や形式に新しい名前をつけたところの青と緑と黄色や、角と直線である。
かかる天才が自然に対して、その外形にある歪曲を加え、その 色合 にある変化を与えたからには、この歪曲と変化は信仰箇条となってしまうのだ!
エコールは各々ある法則にしたがって自然を欺瞞するところの奇怪なそうしたものを持っている。
その法則は人々の手から手に渡されて、虚妄の形を技巧的に安っぽく再生する欺瞞の道具である。しかし天才の映画はその本性のきわめて純な溌剌性をもって示されるので、堂々として人を魅するのである。
勝手な法則や創作を生産する非常に危なげな方法が愚人へ真実に到達する早道と決めこまれてる。
法則は天才に対して、レーゾン・デートルを持つだけでありその作品によって人が法則をつくりあげることができるのだ。
しかし天才においては、それは法則でなくて個性的な見方であり、映画の自然な作用であったのである。
エコールというものは、凡庸の徒のためにつくられた。結構なことに大胆さと自由の力を欠いた人々にとって法則がある。
特別の邸宅や公共の記念物に額や彫像を供給し、歌に節をつけ、大多数の読者の要求を満たすものこそエコールである。
このことはすべて、社会が多少は芸術的なある装飾を必要としその要求を満たすためにまず時代によって適合した数の芸術家をつくりあげることになる。
こうした芸術家たちはその仕事を練習して、ひたすら最善の努力をすればいいのである。
しかし天才はいかなることにも自己の外に出ない。天才は生まれつきのもので、なんらのエコールからも生ぜず、必要なときに新しいエコールを創り出すのである。
天才は我々と自然の間にあって、純粋に形像を与えることに満足する。そして吾人は天才の作品とその様式の自由に奉仕して、弟子たちにすべての独創性を禁断するのである。
さらに百年のあとに、ほかの映画が永遠性について別の証明を吾人に示すのである。そして新しい弟子から新しい法則がつくりあげられるようになる。
天才の芸術家が生まれると自由に偉大なるものとなり、弟子はその足跡に追従するのである。
エコールは決して偉大なる人間を生まないのである。
エコールはよかれあしかれ、その時々に我々の文明が要求する芸術的な運動の幾ダースかを供給する。
(ここで私は、しかたなく一つの欠点をそのままにしておいた。すべての天才に共通する一般に偉大な法則は良識(bonsens)と生まれつきの調和の単純な用い方になるということをせねばならぬだろう。
私は法則を一つのエコールに特別の流儀にほかならぬと考えることを君に忠告するだけに満足しておく)。
すべて天才の映画は好かれるべきでなく、理解さるべきものである。
すべて天才の映画は同様に受け入れねばならない。
創作が真実の色や正確な線を示さないとすると、その色が青か緑か黄色か、あるいはその線が角か曲ってるか問題でなくなる。
明らかにある映画がほかのものより気に入ることは差し支えない。しかしそれは好尚と気質の問題である。
絶対的な観点からすれば、ロマン派と写実派の映画のうえに古典派の映画を置くとか、あるいはその反対に考えるというような理由は芸術には存在しないといいたい。
これらの映画はお互いに誤れる形像を我々に伝えているからである。それはことごとくほとんど同様に理想の創作から遠ざかっている。そしてただちに哲学にとって等しい価を持たねばならない。
とにかく、自分で判断してみて、極端な議論に陥ることは避けたいと思う。
しかし前に明らかにしたように、なにか痛罵すべきものがあるとしたら、それはエコールの巨頭である天才の映画でなくて、師匠の美点を滑稽なものにしてしまうところのエコール自身に対してである。
また、ここでは私の個人的な意見は止めることにする。そして天才の映画は私自身としては好きにはなれないのだが、ぜひとも、それを受け入れて理解すべきことを前もって明言しておく。
(ここでまた欠点ができた。この節の初めは君を納得させないことは分かってる。君はエコールを区別してその価値の順序にしたがって配列したいのだろう。私はそうすべきとは思わない。
そして、あらゆる場合に、エコールは各々その欠点に長所を持ってるゆえに、そうした区別は非常な緻密を要するであろう。もし配列が必要なら、真実性のある程度によってやりたまえ。)
古典派の映画
ロマン派の映画 ── 写実派の映画
古典派の映画は、乳白色を帯びたところの、質の緻密で硬い、きわめて純粋な 滑石 の美しい薄片である。
その形像は黒い簡単な線で描かれている。対象の色は、ぼんやりした透明を通じてくるので弱められ、時にはすっかり消え失せてしまってる。
その線は感覚的に変形され、曲線がすべて直線に向かって細くなり、しずかに波うって広がっている。
その創作は、冷たいすこし半透明な 清澄 のなかにまったく角ばったところを失い生き生きとした輝しい力もなくなり、ただ影だけを注目して浮彫のように滑らかな表面に表現する。
古典派の映画は一言にしていえば、線をのばしていって、時に無色になるところの広げられた玻璃である。
ロマン派の映画は、銀泥を塗らぬ透明な鏡であるが、ある面においてすこし濁って混乱し、虹の七色を彩る。それは色を通すばかりでなく、時に変色して混合する。
また、輪郭は屈折し、直線は曲がり、円は三角に変わる。この映画の与える創作は騒乱と激動の感じである。
形像は影と光の大きな瀑布(nappes)によって力強く再現される。
自然の欺瞞はここではより不調和で誘惑的である。そこには平和がないが活気がある、我々の生命よりもはるかに力強い生命がある。
線の純粋な延長や、色の地味な心はないが、あらゆる抑揚(mouvement)の情熱と想像の太陽の閃発する光輝に満ちている。
ロマン派の映画は、要するに強く屈折し、すべての輝く光線を破壊して太陽の眩いスペクトルに分解する一つのプリズムである。
写実派の映画は非常に薄い透明な硝子板で、形像がそこを通ってからまったくその実体(realité)のごとく再現されるほどに完全に透し写すという主張を持っている。
かくて変化するのは色ではなくて線についてである。それは正確な純粋で素直な屈折である、写実派の映画はそれ自身の存在を否定する。事実、それには大きな傲慢さがある。
なんといっても、それは存在してるものだから、ただちにその創作が真実の素晴しい美を表現すると誇ることはできない。それがいかに透明でいかに薄い硝子板にせよ、やはり硝子に固有の色があり、多少厚みがあるから、対象を色づけてまったく他のものと、同様に屈折するのである。
ともかく、写実派の映画の与える形像が最も現実的なものであることは心から私は承認する、それは正確な再現の高い程度に達している。ほとんどないも同じな硝子をその主な性質とするような映画の特色を言い表わすことは確かに困難である。しかし、微細な薄黒い埃もその映画の透明を濁らすことをいえばそれを推測できると思う。このミリューを通るすべての対象はその輝きを失い、あるいはさらに一寸と黒くなるのである。
かつまた、その線はより豊富となり、いわばその幅(largeur)の方向に誇張される。
生命は豊かに展開される、それはすこし重苦しい具体的な生命だ。結局、写実派の映画は、非常に澄明ではないが非常に透し通すところの均斉な硝子板の映画が与えると同様に忠実に形像を与えるのである。
私の好む映画
さて残ってるのは、私の個人的な好尚を語り、これまで話してきた三つの映画の一つに味方することである。私は弟子の習慣が大嫌いだから一つのものを排他的にまったく受け入れることはできないだろう。しかたなく話すことにすれば、私はまったく写実派の映画に共鳴している。それは私の理性を満足させるし、私はそこにがっしりした真実の無限の美を感ずる。
繰り返していうが、写実派の映画が表現しようとするとおり私は受け取ることができる。それが実像を吾人に与えることは承認できない。そして確かに、形像を変容し、その結果としてその形像から芸術作品をつくるところの特殊性をそのなかに持ってるにちがいない。
とにかく、私はそのやり方が、自然の前にまったくあるがままの立場をとり、なんらの除外なく自然をその全体において表現するものであることは充分に認める。
芸術作品はあらゆる範囲を包容するものでなければならないと思う ── 線を延ばして色を消すところの映画と、色を鮮明にし線を曲折する映画をすっかり理解しながら、最も直接に真実性を把握して創作の形像のなかに人間を充分に感ぜしめる程度のほどあいに、自然を欺瞞することのできる映画を私は好むのである。
わが愛するヴァラブレーグよ! これで書き終わった。容易なこっちゃない、文章を読み返してみたが、どの点が君に不平を言われるか分からない、非常にニュアンスに欠けていて、すっかり乱暴で唯物的になったらしい。しかし私はそれに真実性があることを信ずる。
結局、君が私にした全部の質問に答えようと思いながら、君の手紙のつぎの文句を引用することに止まってしまった。
「貴方の詩が写実派でありえるかどうか質問します。」
何ページか読んでいくとこの点について君を諦めさせるにちがいないだろうが、私はここに形式的に繰り返すことにする、私の詩は(ここに詩があるから)こんな風なものになるだろうというわけである。とにかく、哀れな子供が私の引き出しの奥深くねむりこんで、もう決して二度と目を醒ましそうもないと前に君に言わなかったかしら?
私は今、早く進んでいく必要があるので、韻と足踏みしては邪魔になる。
── 左手に詩を右手に物語をという風に、両手で原稿を書くように努力したまえ、詩はどこでも断られるので、君はそれを机の底深く遺物としてしまいこむだろう、物語は受け取られる、そして君は苦しみ悶えながらパリを離れられないだろう。
ミューズが怒って私に恨を含むとしたら困ったことだ。
散文から出でては、まったく救われないことをほんとに君に知らせる。
── 君が送ってくれる論文はみんな私の気に入った、散文家としての君をあまり知らないから、もっとよくそれを知りたい。
私の手紙は辛辣すぎたかしら? 私の鞭は痛いどころか、人をただくすぐるだけだ、それは笑わせるが、それよりほかはなんにも知らない。実際、私は君を生まれつきの写実派でないと批難した。くちばしの黄色い写実派には非常に大きな侮辱である。
多くのほかの者はその侮辱を賞賛と思いちがえることを考えたら君は私の毒舌を許すだろう。
仕事だ! 仕事だ! 仕事だ!
万事は君にある。