MUSIC

リスト全語録

フランツ・リスト

原田光子・柿沼太郎・高野瀏訳|ARCHIVE編集部編

From the Life of Franz Liszt|Archived in June 8th, 2024

Image: Heinrich Lehmann, “Portrait of Franz Liszt”, 1839.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、原田光子『フランツ・リストの生涯』および柿沼太郎『楽聖夜話』、ユリウス・カップ『フランツ・リスト伝』から、(瑣末な三、四を除く)ほぼすべての発言・文章・資料を抜粋し、断章として収録したものである。
旧字・旧仮名遣い・旧語・旧来的な表記(ex. 儂〈『楽聖夜話』からの「ボロディンにかけた言葉」〉 etc.)は、可読性を鑑み、現代的な表記に改め、一部句読点や約物を整え、適時改行を施し、一部表現を直した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:フランツ・リスト(1811 - 1886)訳者:原田光子訳者:柿沼太郎訳者:高野瀏編者:ARCHIVE編集部
題名:リスト全語録
出典:『フランツ・リストの生涯』(第一書房。1944年。351、458ページ)出典:『楽聖夜話』(大観堂。1943年。195-197ページ)出典:『フランツ・リスト伝』(河出書房。1940年。32-417ページ)

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自己について

署名(1836年12月ごろ)
パルナスに生まれ、疑惑から出て、真理に行く、音楽家、哲学者

シャモニーのユニオン・ホテルの宿帳の署名より

座右の銘
義務を負うた天才。
 
汝自らに忠実なれ、汝が心中で最善、最正、最純なりと思うことに忠実慣れ、「何かが」あり、「何かに」なることを心配するなかれ、されど個人であること、さらにより以上個人になることに根気よく熱心に務めよ。


お洒落について
婦人用のレースとか毛皮だとか、宝石とか、そのようなことは私はよくわからないが、男子の場合では時計や鎖以外には、装飾品は無用だと思っています。
 
私は立派な毛皮をもっていましたが、身につけたことはありません。それは宮廷庭園の階段の床の上にありました。それがある日のこと盗まれたので、かえって嬉しい思いでした。


死について
死ぬことは生きることよりも、私には簡単なように思われる。死は——長い、恐ろしい死の苦痛がそれに先行するとしても——我々を不自由な束縛から、原罪の継続から解いてくれるのだ。


遺言(1860年9月)
私は簡素に、できれば夜に葬られたい。

1860年9月に認めていた遺言状から

老いについて(1864〜1866年)
私の体の具合は、ワイマールにいたときよりもいくらか悪いと思います。目はかすみ、神経はますます昂るのです。それでも私がタバコの煙を燻しているあいだは、拙文がつづけて書けます。しかも前よりは普通に。ところが音楽上の約束を充分に果たすには、なかなか骨が折れるし、疲れます。今週私はまたローマに行き、一月のなかばにここに帰ってきます。

1884年ごろ、リナ・シュマル・ハウゼン宛の手紙

 

 
私は外套をうっかりして忘れたために、ひどく風邪を引いてしまったので、私のパリ滞在のあとの四日間は、床に寝ていなければならなかった。昨晩私がここに着いたが、あと数日寝ていなければなりますまい。私は疲れていて、あまり書きたくありません。最愛のリナよ、さようなら。

1886年5月18日、リナ・シュマル・ハウゼン宛の手紙

 

 
私の眼病が悪くなりました。私はもう読むことができません。だが、かなりたくさんのページを読まないですましたいものです。——大きな文字で濃い赤インキで書いてよこしてください。できるならば数週間バイロイトにやってきてください。……半分盲になったようにして、この文字を書いています。フランツ・リストより

1886年5月、リナ・シュマル・ハウゼン宛の手紙

 

 
私は半分以上も盲になったようです。最愛のリナよ、六月の末になるとバイロイトへ滞在してもらいたいという万一の場合についても、ますます書けなくなるでしょう。

1886年5月31日、リナ・シュマル・ハウゼン宛の手紙

 

 
私の情けない眼は仕事をさせることを拒む。そして情けない、ひどい咳は八日以上も前から忌々しい社交をさせている。

1886年7月12日、リナ・シュマル・ハウゼン宛の手紙

ジョルジュ・サンド宛の手紙(1837年。1827年ごろを回想して)
私の生涯の二つの発展はすでにパリにおいて完成されました。
 
まず第一は父の意志で、自然のままの遊牧の民のあいだで、私が自由に、ほしいままに大きくなったハンガリーの草原から連れ去さられ、そして「ル・プッティ・プロディジュ」という嬉しがらせのあだ名をくっつけられて、華やかな社交界のサロンのなかへ、この憐れな子どもの私を放り込んだときです。そのときから、早いころの憂鬱が私をつかまえてしまいました。
 
そして私はいやいやながら、婢僕の身分という芸術家の悪い後ろ暗い屈辱を辛抱しました。あとになって父が死によって奪われ、私がただ一人パリへ帰り、そして、芸術とはなんだろうか、芸術家とはどうあらねばならないかというようなことを、おぼろげに感じはじめたときに、自分の考えを表すと、いろいろな方面から反対されるというありえべからざることに、私はどんなに悩んだことでしょう。おまけに私とおなじ意見をもっている人の好意ある言葉は一つもなく——そんな人は一般の人々のあいだにもなく、そしてそんなことに関してはどうでもよいという無関心さで居眠りをし、私のことを少しもわかってくれず、私が自分で立てた目標や、私に与えられた能力についてすこしもわかってくれない芸術家たちのあいだにはなお少ないのです——。
 
私が目の前に見るような、すなわち多かれ少なかれ金儲け主義の小細工にまで堕落し、上流社会の娯楽の種という刻印を押されたような芸術に対して、激しい反感が起こってきたのです。私は本当は、偉い主人から受ける俸給で生活したり、手品師のように主人たちから贔屓を受け、給料を与えられている音楽家よりも、俗世間のみんなのほうがよほど好きなのです。
 
このごろ私は二年間にわたって病気をしました。そしてその二年のあいだに、信仰と帰依の激しい私の欲望は、カトリック教の厳粛な苦行に変わっていきました。私の燃えつくような反抗心は、聖バンサン・ドゥ・パウル寺院のじめじめした階段のうえで鎮められていったのです。私は心を血にし考えを謙虚にしました。聖杯の雪花石膏のごとく清浄な、純潔な聖母マリア像は、私が涙ながらにキリスト教徒の神に供えた聖餅であったのです。浮世を諦めることは、私の命を保つ唯一の力であり、私の命を救う唯一の言葉でありました。しかしこんな隠遁の生活がそんなに長く続こうはずはありません。人間と罪悪を昔から結びつけていたところの貧困のために、私はこの聖なる孤独を見つめることをやめて、ときには自分と自分の母が生きていくために聴罪師の前に立たねばならなかったのです。
 
私は当時は若くもあり、極端に走りすぎるようなところがあったので、外部との関係の軋轢の下に、悲しい目に合わなければならなかったのです。そしてその軋轢は、私の音楽家という仕事についてきたものであり、私の心は本当に愛と信仰の不思議な感情で満ち満ちていたのに、なお激しく私を傷つけてしまったのです。
 
……私はなんの飾り気もなく、あるがままに行動したので、すなわち空想的な子どもであり、あたたかい感情をもった芸術家でありました。人々が神様と人間とを熱い、燃えるような心で愛し、社会的な個人主義の冷たい雰囲気に染まっていないときに、人々が十八歳という年にもっているすべてのものを私はもっていたのです。そしてまた私は喜劇を演ずることを知らなかったので、変な噂を立てられてしまいました。——私が俳優になろうとしているという噂を。

1827年ごろを回想して。このころカロリーヌとリストの関係が危機に陥っていた

社交について

サロンについて
ここにはすこしの言葉で多くの思想を表す人々がいる。かと思えばまた、多くの言葉によってすこしの考えしか表せない人もいる。これはちょうど時計の二つの針のようなものである。すなわち、一つは非常に速く動いてすこししか記さないが、また一つは自分の道をゆっくりと歩み、時間を記していく。

ダグー邸の記念帳に

ジョルジュ・サンドへの別れの言葉
友達よ、私たちはお別れしようとしています。今日の思い出が決して私たちの記憶から消え去らないように。そして私たちはまた、芸術と学問、詩と思想、美と真理は人生の殿堂に向かって金色の門を開いている二人の天使であるということを、決して忘れないようにしましょう。

1836年12月ごろ

友情について
勇気と熱情のない友情は、私には他人とおなじことだ。いつ一体私は彼〔友人、シモン・レーウィ〕に私のことについて恥ずかしい思いをさせる機会を与えたのだろう。信念に忠実にしたがって、あらゆる卑劣な手段や偽善的な陰謀を軽蔑し、高い目的に向かって正直に勇敢に努力するような高貴な人間として、私は全芸術界に立っているのではないのか。

従兄弟、エドアルド宛の手紙

憂鬱について
あなたが、私は大変悲しい気持ちになっており、憂鬱になっているとお考えになるのは、決して謝ってはいません。

1850年ごろ、マリー姫がチフスに罹って

 

 
私はますます深く憂鬱な気持ちになっています。たぶんいまでは外からでも認められることでしょう。
 
しかし決して私以外の人々がこんなときにやっているように、虚栄心や自己愛を気にして、こんな様子をしているのではありません。
 
私には自分の悲しみを誰かを分つことによって和らげるというようなことは許されていませんし……。ハイネはどこかでこんなことを言っています「けれど私はそれを忍んでいるのだが、どうしてかとは問わないでください」——最近私は外面的には平静であり、しっかりしておりました。
 
そして私がまったく自分のうちに沈潜し、それを使い切ってしまうときも近づいています。

1850年ごろ、マリー姫について助手、ヨアヒム・ラフへの手紙で

大衆について
私は大衆の浅薄きわまる好奇心の対象となりながら、哀れな、なんの収穫もない冬を無為にすごしました。製造者自身が、クリスマスの日に私のところにもってきてくれた豪華なアメリカ製のピアノは、段々数を増してくる訪問客を断る口実の役目をしました。

1867年10月ごろ

ハンス・フォン・ビューローについて
ふたたび会うことが私には必要なことでした。そして私は、その再会を延期してはならないのです。かつ彼をゴーデスベルグにいられないようにしてはならないぞと、自分を非難しました。
 
ああ、それだのにいろいろな義務というものは、この世では相対立しているのです。これこそ最も過酷な葛藤です。人々は、自分が最も愛する人々にさえも、手助けすることができないことに安じなければならない、というように生涯は作りあげられているのです。

1876年、演奏旅行による疲労でゴーデスベルグの病院に入院していたビューローについて

カロリーネとワーグナーについて
私が二年以来、善いことをしたり考えたりしたのは、私が非常に立派な、理想的な妻と呼びたい人々のおかげです。——どんな人間的に賤しむべきことや、嘆かわしい酷評が、今までしつこく妨害をしたとしても、すなわち、それはジャンヌ——エリザベート——カロリーネです。
 
私の喜びのすべては、かれらが基なのです。そして私の苦悩は、いつもかれらのなかに慰安を求めるのです。かれらはただ安全にして遠慮なく、私の存在、私の配慮、私の経歴と結合し、一致しています。
 
そしてかれらは、忠告によって私を助け、激励によって私を支持し、熱狂によって私に新しい生命を与えてくれました。……これ以上のことは、かれらはしばしば自分たちを放棄し、かれらの富と無比の奢侈に適う私の重荷を、もっとよく背負うことができるように、私らの性質が無条件的に要求するようなものまでも、諦めてしまいました。——私はかれらのことを考えると、かれらを祝福するために、ひざまづいて私の守護の天使、私の神への仲介者として、かれらに感謝するのです。
 
かれらは、私の名声、私の栄誉、私の寛恕と更生です。そして私の心の姉妹であり、花嫁です。——かれらの忠誠の驚嘆、かれらの犠牲の心、偉大さ、英雄的な心、そしてかれらの愛の無限の優しさはどう名状してよいでしょうか。この気高い心を荘厳な調子で歌うのには、非常な天才を必要とするでしょう。
 
……私のなかにあるものが、なにもカロリーネから借りているようには思わないし、また私がもっている外部的なものの、ほんのすこしでも私は彼女から借りているように思っていません。簡単に言うと、私が、現在あるもののすこしでも、私が所有しているものなどはすこしも、彼女から借りているように思っていません。
 
私は、母のような尊敬と優しい愛をもって、かれらの変わらざる親切と愛情を示してくれたことに対して感謝します。私の幼少のとき、人々は私を善良な息子と呼んでくれました。そのとき、私はなにも私のほうから特別な奉仕をした覚えはありません。というのは、それはそのはず、こんなに忠実に犠牲的な母と一緒にいた息子はありませんから。——もし私がかれらより先に死ぬようなことがあったら、かれらは墓場のなかまで私を祝福してくれるでしょう。……
 
私どもと同時代の芸術界にあって、今すでに有名になっており、これからますます名声を上げるだろう一人の人がおります。——それはリヒャルト・ワーグナーです。彼の天才は、私にとって一つの光明でした。私はそれについていったのです。——そしてワーグナーに対する私の友情は、いつも高貴な熱情の性質をもっていました。
 
ある時代まで(約十年前)、私はワイマールのために、ちょうどカール・アウグストの時代のような芸術の時代を夢見たものです。そしてワーグナーと私が、ちょうど以前ゲーテとシラーのような泰斗になろうと夢見たことがあります。——ところが事情がうまくいかず、この夢は実現されずにしまいました。

1860年ごろに認めた遺言状

芸術について

娘、ブランディーヌが死去して
ブランディーヌは、私の心のなかにダニエル〔夭折した息子〕と並んで住んでいます。両人はいつまでも、私にとっては、贖罪のごとく、浄化のごとく、そして Sursum corda〔心を挙げて主を仰がん(ミサ中の文句)〕と叫ぶ代願者のようなものなのです。
 
我々が地上に生きているかぎりは、その日その日の仕事を果たしていかねばなりません。私の日々の仕事も、中断されるようなことがあってはなりません。
 
私の心の涙のために、私はいわば「ラクリモーザ」〔涙を流す〕を作り、私の愛する人たちのために、激情に点火し、そして私の愛する死者たちを、精神的にも、肉体的にも、骨壷のなかに守りおおせなければなりません。
 
こういうことにこそ、私の芸術の課題は置かれてあり、目指されているのです。

1862年秋

「芸術家の地位について」(リストの論考)
芸術家の教養にとっては、なかんづく人間性の自覚が必要である。
 
しかしながら音楽家というものは、人間的なものが、音楽家に関係のないものでないという条件の下にのみ、音楽家でありえるのだ。
 
音楽家はいままでも充分だと考えられていたよりも高い精神的な発展段階に達する場合、そしてまた音楽家がもはや無知の魂にへばりつくことなく、学問的なことや、考える人間、そして行為する人間の理想に無関係でなくなったときにのみ、音楽というものが感情に属する領域からばかりでなく、同様にまた知性に属する領域からばかりでなく、同様にまた知性に属する領域からも名声と成功を得ることができるのである。
 
そこでこそ、鑑賞者の側からも、音楽家のなかに、または彼らの作品のなかに新しく、大胆に、天才的に、彼らの再考、研究、判断を刺激するような理念を見出すことができるのである。
 

 
試験のない批評家というものはありえないのだ。
 

 
芸術家自身が批評家にならなければならない。
 

 
批評というものは、自己創造的な働きをせねばならない。


ローマに滞在して
愛すべきこの地方の美しさは、私には最も純粋な、最も崇高な形に見えた。唖然とした私の目には、芸術はまったくすばらしいものに見え、そして私の目には芸術はまったく普遍性をもったもの、まったく統一あるものとして現れてきた。
 
日に日に私のなかには、感ずることと思索することによって、創作者の精神のなかには、あらゆる作品の潜伏せる親近性があるという意識が固定してきた。ラファエロとミケランジェロは私を助けて、モーツァルトとベートーヴェンを理解させてくれた。

1839年1月初旬

芸術教育の三条件
 
一、前時代の傑作に対する一層知的な、一層誠実な畏敬の念、この畏敬の念から出発して、あらゆる変化、あらゆる一層新しき、一層よき翻訳、精細精緻なる改善の追求、——不当な災いにより忘れられてしまった傑作の演奏——前時代の有名な歌劇を計画的に上演実行すること、——その再現に当たって粗漏のないこと、面倒な義務から免れようとしないこと、著名な巨匠の記憶を実践の前に傷つけないようにすること、——主として、しかし充分なるメンバーを用いないで、あるいはパートを満足に割り当てずに再現してはならない。
 
二、現在、愛好をもって鑑賞されている作品の研究を勤勉に、絶えず、良心的に行うこと、このことから次のようなことが要求される。イタリア、フランスおよびドイツの巨匠の最も良き作品を計画的に、党派心なく交代すること、それには一つのジャンルに対する偏愛なく、ある一つの楽派を除くということをなくすること、——研究に最も緊張せる努力を払う、こうした演奏を芸術的な、美の決定的な生起によって特徴付けるところの熱心な努力は、かかる作品を、それがただ流行しているからとか、収入があるからだとか、あるいは人々がただ容易によく注文するような劇場広告を出せば、満足するからというような理由で、プログラムに入れるような、劇場で起こるよりも一層高尚な刻印を、それらの作品に与えることになる。——新作が現れたら、すぐにそれを敏捷に手にとってみること、それはいたるところですでに出世が終わったときになって、古い珍妙なものとして持ち出すようなことのないように。ミイラを準備するような、かかる無意味なやり方は、それに関係する劇場を外部に向かって不信用にする結果をもつにすぎない。
 
三、未出版の作品に対しては広い、束縛ない顧客を作ること、我々はそれの将来を信じ、注目すべき特性を認めたならよいので、作者が有名だとか、有名でないとかはどうでもよく、あるいはまた、それが南、北、東あるいは西ドイツに属しているとか、我々の国の人、他国の人だとかは問題でない。——芸術がその前で赤面せざるを得ないような、たんに見る快感に訴えるごときものは、一切厳しく禁じ、追放すべきである。本当に才能に恵まれた芸術家さえも賤しまないような、あらゆる民間の作品に、頑固に、根本的に締め出しを食らわせるならば、むしろ喝采を強要し、その価値の下にある長所を追求すべきである。

1849年ごろ

芸術教育について
我々の芸術の努力が、過去とか過去の巨匠を研究することにあらねばならず、時代の変遷、衰退のなかに絶えず変わっていき、衰んでいく形式を盲目的に模倣してはならないという確信、そしてまた人間全部は音楽家とともに昂揚されなければならない故に、特別な教育、一面的な熟練さ、一面的な学問では、芸術家にとってもはや充分でないという確信を、芸術家たちが獲得するときにのみ、音楽は将来をもつことができるのである。教え子がその先生から、真の音楽家になろうとするには、十九世紀における一人の重要なる人間であらねばならないということを教えられるときにはじめて、芸術はその威力をもち、大衆に注意を喚起させるのである。


芸術施設について
現在生存し、華々しく活動している者に対して、神のごとき讃仰を要求するなどというのではなく、我々はかれらに対して、芸術の領域におけるかれらの功績にかなった全部の市民性を回収するだけである。——絶えざる追放命令のない市民権、永遠の呪詛のない市民権、それをかれらは、自分たちに先んずる巨匠の隠れたる、あるいは公然たる敵として、危険な放火者として、換言すれば、民族的復讐が芸術の衰微に対して責任あるものとして交付する。その理由はただ単に、かれらが先進の巨匠とは違ったようなことをし、この方向をとって理想に向かって努力し、また巨匠となるからである。

1849年ごろ

夕食会での乾杯の辞
〔かつて演奏家として活躍したベルリンに、作曲家として再来して〕芸術は芸術家の上に位する。すばらしい芸術家として、私はベルリンを去ったが、今度は芸術のしもべとしてまた帰ってきた。

1855年11月25日

画家、ドミニク・アングルについて
私の生涯のなかでの最も幸福なものに数え上げたアングルの友情は、あらゆる芸術相互の関係に対する密接な意義や、芸術の理解および芸術と学問のなかへ深く深く入り込もうという私の激しい願いをも私のなかに固定させるのに、すくなからず役立ったものである。


詩人、ハインリヒ・ハイネについて
しかしあなたは、それでもなおハイネという詩人の名は不滅の殿堂のなかに書き込まれていることを信じないのですか? 否、むしろ汚辱をもって。

自らを非難したハイネに

エドゥアルト・ハンスリックについて
彼の論説は陰険であるが、全体としては整っている。それでも彼の論弁をゼロに帰することは私にとって容易なことである。そして彼は充分賢い人間だから、こんなことはわかる人間だと私は思っている。

1856年、自身への批判について

ハンス宛の手紙
貴君が娘たちに、非常に熱心に勉強をさせることは大変よいことだと思います。というのは、娘たちは貴君が教えてくれることから利益を得ただけでも、かれらの音楽の勉強で充分進歩したのだと思うからです。
 
それでかれらのなかからしかるべく「将来の音楽」の優れた宣伝者を作ってください。
 
とくにかれらに関して、少なくとも寛大にしなくてもよいと思います。そしてかれらに少しの間違いも精錬も許してやってくださるな。かれらは前々から貴君に対して相当の尊敬をもっていますから、かれらを適当に叩き込むのには、なにもむずかしいことはないでしょう。

1855年12月ごろ。当時、ビューロー夫人の息子・ハンスは、ベルリンのシュテルン音楽学校に通っていた

ブレンデルの死去に際して
彼はどちらかを言えば、正直な尊厳な性格をもっていました。そして彼が生活した環境のなかでは、稀にみるような人でした。ブレンデルは誰にも先んじて、しかも誰よりもよく「ワイマール」の理念を理解し、そしてすこしの遠慮するところもなくそれに没頭しました。
 
私は非常に彼に負うところがありました。『新音楽雑誌』は、私が正しいと思うような事柄のために、非常に尽くしてきました。それは人々の要求するほんのわずかなもの、荒野における一声でしかありませんでした。——が、しかし、それは結局は一声だけのことはあったのです。

1878年11月25日

音楽について

創作をめぐる座右の銘
心から奔り出る事柄について、ただ、彼の母国語である音楽においてのみ語る。

1855年、クリンドウォルト夫人宛の手紙

音楽と自己の内面
ほかの人がどんなに、このものに関して悪く判断しようと、それは私としては発見と感情とかすくなくとも芸術のなかの悪事から出たものでないと、私をして考えさせた。私の内面的な体験の必然的な発展段階であることに変わりはないのだ。

1855年ごろ

ボロディンにかけた言葉
君は美しい交響曲を書きましたね。君は非常に歓迎されています。お会いできて愉快です。わずか二日前でした。私は大公(ワイマール大公)のために、君の交響曲を演奏し、大公も非常に気に入られましたよ。君のアンダンテは傑作ですな。スケルツォも我々を夢中にします。それからこの経過は思いつきですね。
 
〔ボロディンの曲を弾きはじめる〕
 
君の転調は決して誇張でもなければ、間違いでもない。君は事実非常に進みすぎているが、しかしそれはまさしく君の長所なのだ。君を引き戻そうとしたがる連中の言うことなど聞いてはいけない。私は君が正しい道を歩いていると信じている。君の芸術的天性は、君が独創的であるのを恐れてはいけない。そうした連中の忠告とおなじ忠告が、ベートーヴェン、モーツァルト等々にも、その時代に言われたものだということを記憶したまえ。もしかれらの忠告にしたがったとしたら、ベートーヴェンもモーツァルトも決して大家にならなかったに相違いない。
 
〔ボロディンが独学で音楽を体得したことについて〕
 
私とそっくりだ。もっとも私はいま、音楽学校を指導してはいるが。ところで、たとえ君の作品が演奏されず、出版もされないとしても、また成功を博しないとしても、しかし君の作品は、独力で立派な道を拓くものと、私は確信している。君には独創の天稟がある。誰の言うことにも耳を貸さず、君自身の方法で仕事をしたまえ。

1881年夏、自邸を訪れたアレクサンドル・ボロディンに

音楽について
〔秋の音楽祭のための出張に費やした〕十五日にわたる旅行中、何かを書くということは私にはどうしても不可能でした。——しかしわたしは確かに平衡を保つために楽譜を書きたいという要求をもっています。もし数日間も五線紙なしにすごさねばならないとすれば、私は干上がってしまいそうに感じます。私の脳髄は緩み切っています。そして外界の事物に対して趣味を見出すという能力は、私にはないのでしょう。幾度も私はこんな観察をしました。そしてこの種の病気は年々昂ってきました。
 
音楽は私の心の呼吸です——音楽は同時に私の祈りであり、私の仕事です。

1853年7月16日、カロリーネ夫人宛の手紙

ピアノについて
ピアノを見捨てることを語るのは、ちょうど私に悲しみの日がくることを示すように、そしてまた、私の生涯の最初の部分全部を照らし出し、私と同体となって成長したその光明を私から奪うように、私にとっては大変なことです。
 
私のピアノは私のものだ。水夫にとってかれの帆走船があるように——もっとそれ以上だ! 実にそれは、いままでは私の自我であり、私の言葉であり、私の生命であったのです。
 
あなたはいま、私が劇場において管弦楽において、輝かしい、響き渡るような成功を得んがために、それを見捨てるということを望むことができますか。おお、いやいや! このような二つのものが、もし十分によく調和してしまったと仮定しても、できることはなんでも、そして今日私が到達しえるすべてのものをしてしまってから、はじめてピアノ演奏の勉強と発展を放棄しようと固く決心していたのですが、この決心は以前として解決しないままで残るでしょう。


名技について
名技とは、芸術家が芸術のなかに表現されるすべてのものを再現することができるためにのみ存在する。ここにおいて、それは欠くべからざるものであり、十分には行うことのできえないものである。
 
芸術家にとって名技というものが単に感情を装飾する手段ではなく、むしろその心のいっぱいを、そして言いたいこと全部を述べようという感情の表現手段であるということを、芸術家によって表されているのを見たときに、はじめて我々は本当に名技というものを正しく評価することができるのである。


批評について
拝啓、作曲を「評価すること」は私の仕事ではありません。そのために、すでにあまりにも多くの人々がおります。私はその作について愉快もしくは不愉快——多くの場合両者は混然としています——を感じるだけで満足しています。貴下の述べられた献呈の辞は喜んでお受けします。敬具、フランツ・リスト

批評の寄稿を断って

ジプシー音楽について
前々から、そして何遍もあらためて、ジプシー音楽の深い苦悩と大胆さに惹きつけられ、私どもがどこを旅行していても、なんとか出会うことができまいかと、ジプシー芸術家を探さないことはなかった。

『ハンガリーにおけるジプシーとその音楽』

ジプシー指揮者、バルブ・ラウタールへの言葉
〔ラウタールによる演奏を聴いて〕
 
君は、私に君の音楽を全部知らせてくれた。今度は私の音楽をお聴きなさい。
 
〔「ハンガリー行進曲」を即興演奏する。リストの演奏を受けて、ラウタールが同曲を演奏する。演奏後〕
 
君はたしかに神の恩寵を受けた芸術家だ。

ラウタールの演奏を聴いて

ニコロ・パガニーニについて
二週間前から私の精神と指とは二つの呪われた者のように働きつづけている。ホメーロス、聖書、プラトン、ロック、バイロン、ユーゴー、ラマルティーヌ、シャトーブリアン、ベートーヴェン、バッハ、フンメル、モーツァルト、ウェーバーは私を取り囲んでいる。私は熱心にそれらを研究し、人に尋ね、貪るように呑み込んでいる。——ミケランジェロがはじめて大家の作品を見たとき、「自分の一個の絵描きなのだ」と叫んだそうだ。……汝の友はいかに小さく、貧しいとはいえ、このあいだのパガニーニの出現以来、汝のこの言葉を繰り返し言いつづけているのだ!
 
かれ〔リスト〕は気狂いになるか、そうでなければ世界がいま必要としているような本当の芸術家となるでしょう。

パガニーニのオペラ(1831年3月9日)に衝撃を受けて

パガニーニへの追悼文(1841年)
将来の芸術家はくだらない独りよがりのことをよろこんで断念してほしいと思います。その独りよがりなことの最もよい最後の標本を、我々はパガニーニのなかに見出したと思います。将来の芸術家は、目標を自分の外部に置かず、自分の内部に置いてほしいし、また名技主義も目的でなく、手段であってほしいのです。「貴族がそうさせるのだ」と言われるかもしれないが、それとおなじくらい、あるいは貴族よりもいっそう「天才がそうさせるのだ」ということを忘れないようにしてほしいと思います。


ゲナスト宛の手紙
あなた方のような立派な芸術家にとっては、混乱がこんなに長引かされたのでは、痛風よりももっと我慢ができません。どうぞすぐ正当な忠告と善良な行為をもって助けてください。あなたは古い泥沼から立派な物を作り出すことに慣れていますからね。
 
私のようなつまらない者でも、全然ないことはないのですが、あなたは本当に私に同情して、あなたが私に示してくれたような深い、しかも事情によく即した改革をすることについて、どこまでもやっていくようにさせてください。
 
芸術に対しても、また我々の名声に対しても、現在の状態にしっかりこびりついていることはまったく破滅的なことだということが、どうしても決まっています。したがって、中途半端なことや山師的なことはまったく取り除かなければならないし、どうしてもきちんとした標準を掴まなければならないのです。


ブラームスについて
私はあそこ〔ライプツィヒ〕でブラームスに会いました。正直のところ彼には興味をもっています。そして私がライプツィヒに滞在していたあいだは、彼はベルリオーズに敬意を表すために、私に対しては非常に気の利いた上品な態度を示していました。
 
私はまた、たびたび彼を食事に招待しました。そして私は『 新しき道 ノイエ・バーネン 』(シューマンの論説)が将来はやはり彼をワイマールに近づけていくだろうということを信ずるようになっています。人々はハ調の彼のソナタに満足しています。それはたしかにその作品のなかで、彼の作曲能力を最もよくわからせるものです。

1853年12月初旬

タールベルグとのライバル関係について
最初のうちは最も簡単であった世間の事件が——説明のおかげで!——公衆にとって最も理解しがたきものとなり、そして——釈明のおかげで!——私にとって最も煩わしき、最も憤慨に値することとなりました。
 
そこで私はあなたにこの経過をお話しいたしましょう。二、三の人は好んでこれをタールベルグと私の「競争」だと言っていました。昨年の冬のはじめにジュネーヴを後にしたときには、私はタールベルグ氏を知らなかったということはご存知ですね。かれの名声はほのかに私たちの耳に入ってくるだけでした。私がパリへ到着したさいには、いままでのあらゆるピアニストの影を潜めさせ、芸術の更新者と呼ばれるに値し、しかも演奏家としても、作曲家としても私たちみんながどうしてもついていかねばならないような、全然新しい道を進んでいくあるピアニストの不思議な出現については、全楽界の誰一人として口にしてはいませんでした。
 
私はどんな小さな噂にも耳を傾け、進歩的なものであれば、どんなことにも同感して喜んで飛びついていったことをご存知のあなたは、同時代のピアニストたちが私の希望に燃える心に対してどんな大きな衝撃を与えたかということをあなたはお分かりでしょう。ただひとつ、どうもわからなかったのは、なぜこんなにも性急に、この新しい救世主の預言者たちが、あらゆるいままでのものを忘却し破棄したかということです。
 
天才の人を私に啓示してくれるはずの、この新しい深い作品を、ついにはどうしても自分で知ろうという気になったのです。私はそれを良心的に勉強するために、午前中を全部つぶしてしまいました。この研究の結果は、私の期待とは正反対のものでした。私はただこのような平凡な、なにもいうべきところがないような作品が、一般にあれほどの反響を呼び起こしたということに唖然として目を見張っただけでした。このことから私は、この作曲家の演奏的才能がふつうのものではあるまいと結論したのです。
 
ほかの色々な場合に発表したとまったくおなじ意見を「ガゼット・ミュージカル」誌に発表しましたが、それは私が骨折って吟味したピアノ作曲に関して良かれ悪しかれ、兎にも角にも私の意見というものを発表したのでした。この場合、私は、世論を支配しようとか、貶そうとかいうようなことは毛頭考えませんでした。
 
私はあえてこのような不遜な権利を欲しようというようなことは、まるで考えていませんしたが、しかしもし言っても差し支えなければ、私は次のようなことは信じていました。これがもし新しい流派だとすれば、私は新しい流派の人ではないということ、もしタールベルグ氏がこの新しい方向をとっているとすれば、おなじ道を歩むことは私には適していないように感じられたこと、そして最後にかれの考えのなかには、どんどん発展していこうとする未来の萌芽をすこしも発見することができないということを思ったのです。
 
私は嫌々ながら、いわば競馬場でおなじ賞金が賭けられている二人の競争者のように、私たちを対立させることのみを問題としていた大衆に迫られて、以上のようなことを発表したのです。多くの人が生まれもっている感情、すなわち不公平に対して逆らっていったり誤謬とか虚偽の信仰とかのちょっとしたことに対してさえ躍起となって反対するような感情が、おそらくまた私に筆をとらせたり、私の意見を公表させたりするようにさせたのです。
 
私たちは後になってこの作曲家に出会ったとき、私は公衆に告げたとおなじようなことをその人に話したものです。私は喜んでかれの立派な演奏の才能を声高々と褒めることができるようになりました。そして彼はほかの誰よりも、私の態度の忠実さと自由さとをよく理解していました。このときは人々は私たちのことを「和解した人」と言いました。が、この命題はほどなく、バカげた、しかも回りくどいことですが、私たちが前言われたのと同様に「仇同士」ということに変えられてしまいました。——実際、私たちのあいだには敵対もなかったし、和解もなかったのです。
 
ある芸術家が公衆の判断するところによって、自分を凌駕していると思われるほかの芸術家に対して、ある価値を認めた場合、かれらは仇同士なのでしょうか。かれらが芸術以外の問題で評価され、重んじられた場合、かれらは一体和解したのでしょうか。
 
私はタールベルグについて一行一行と書いていくうちに、本当にある種の憤怒を予感しました。が、それにもかかわらず、私はこれまでの色々のことによって、醜悪な嫉妬の嫌疑は解かれるものと信じました。真理はつねに主張されえるもの、主張すべきものと思いました。そして芸術家はどんな事情があろうと、ごく些細なことについて、利口な打算によって、自分の信念を個人的な興味から裏切るようなことをしてはいけないと思いました。経験は、私の蒙を啓いてくれましたが、私の苦悩を救ってはくれませんでした。

ジョルジュ・サンド宛の手紙にて

タールベルグとのライバル関係について
私は六ヶ月のあいだ、つまらぬ闘争と無駄な努力の生活を送りました。私は自ら進んで私の芸術家と視点心を社交的生活の軋轢に晒してきました。
 
私は毎日毎日、毎時間毎時間、聴衆と芸術家とのあいだに、なお長いあいだ存在すると思われるあらゆる永久の誤解の息苦しい拷問に耐え忍んできました。
 
人々はたびたび私に向かってこう言いました。少年時代から私の才能や希望以上の成功を収めたのだから、私はほかの誰よりも、そのような嘆きを公言する権利がないのだ、と。
 
しかし非常に悲しいことには、嵐のような喝采というものは、真理と美に対する本当の感情よりも、むしろなんともいえない偶然の流行とか、偉大な名前とある精力的な演奏を尊重することから起こってくるのだということがわかったのです。

ジョルジュ・サンド宛の手紙にて

ベートーヴェンについて
音楽学校の管弦楽団が、ベートーヴェンの交響曲を公衆の前で演奏することを二、三年来計画していたということを人々はよく知っている。今日こそベートーヴェンの声価が一般に認められるのだ。無学文盲の徒は、彼の巨大な名を盾にとり、そしてあえて頭をもたげようとする無力の嫉妬は、彼の名を同時代者たちに対して棍棒のごとく利用する。
 
音楽学校の考え方を是正するために、私はこの冬(時間の不足から非常に不完全なふうにしかできなかったのは残念だが)数回の音楽会をほとんどベートーヴェンの二重奏曲、三重奏曲、五重奏曲の演奏に限っておこなった。私はほとんど完全に人々を退屈させるものと思っていたが、しかしまた誰も退屈を口に出して言う人がいないということも十分確信していた。そして実際は、非常にすばらしい感激が爆発したので、最後のある夜会で、この幻想がプログラムの変更によってすこしも妨げられないとすれば、聴衆は天才に服従するものであると信じて、曲目を変更しても容易にわからないだろうと思った。
 
聴衆に通告せずに、ピクシスの三重奏曲がベートーヴェンのある曲の代わりに演奏された。喝采の声は前よりも激しくひどかった。しかしベートーヴェンの三重奏曲が、もともとピクシスを演奏するように決められた箇所でおこなわれたときには、ひとびとは冷ややかな、つまらなそうな、退屈そうな気色だった。無理もない。我慢しきれなかった人々は、ピクシス氏の作品を、たった今聞いた大家の作品のあとで演奏するというかれらの期待を、率直に、不躾にも表したのである。


ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に宛てた言葉
本当のことを言えば、この仕事はたしかに骨の折れるものでした。だが、私は正しいにしろ、正しくないにしろ、その仕事が従来行われているあらゆる同種のものに比べて、優っていると言わないまでも、非常に異なっていると思います。私はこの版には、余分なことでしょうが、綿密な指使いをつけようと思っています。そして種々な楽器の名前をつけることによって、たしかに多くの人々に満足を与えるだろうと思っています。

ベートーヴェンの交響曲をピアノに編曲するにあたり

演奏から作曲、作曲から教育へ

演奏について
私は「魔王」というガタガタする曲を演奏するほどになりました。この曲は疑いもなく立派な作品です。しかし私は聴衆によって堕落させられたのです。そして死せるオクターヴの永遠の体操をするようにまで致命傷を負わされてしまった名技に従うということに際して、厭うべき必然性、すなわちこのおなじことをくどくどと反復することは、一体どうしたことなのか。


演奏から作曲へ
三十五歳になって、名技という、自分の意思をもたない人形のような状態を打ち破って、もちろん多少の制限はあっても、私の考えを自由なものにする機会が突然やってまいりました。もし私がいつも言いたくて言えなかった不幸な金銭上の問題が、私が若いとき心を奪われたような多くの空想的なものでないとしたら、私はすでに四、五年前にそうなることができたのでしょう。
 
しかし、さていま私は、ありがたいことには、あまり多くのものをなくしていません。栄誉は清浄のままであります。私の生活には一つの汚点もありません。
 
私の言おうとする主要な問題は、ただ普通の男でありたいということ、作品と行為を通じて心のなかに、中心となるもの、萌芽となるものを作りたいということであります。このことを可能ならしめるために、私の生活のいままでの手段であり、主要な目的であった旅行を、いまこのときに、あまり重要視しないようにしなければなりません。
 
私がこれ以上見物しなければならないところは一体どこでしょう。それは主にイタリアの一部と東洋とスウェーデン地方であり、最後は多分アメリカでありましょう。しかしそんなことはみな急ぐ必要はなく、一度平静になってからでも十分にできます。
 
いま私には、最近六年間に私の個性が芸術家として有名になったように、私の作品を劇場に適合させることがはるかに重要な目的であるように思われます。私は今後数年間に、この新しい職業の決定的な結果を得てしまうように心掛けようと思います。
 
そんなことをやって、私が使った時間や忍耐に相当するような歌劇の脚本を作るようになるなどとお考えになってはなりません。なぜなら私は、二つのイタリア歌劇を同時に書いて、双子同士を最初の作品として人の目を驚かせようというような心臓の強さをもっているからです。それまでにべつに妨げがありませんでしたら、ケルントナートーア劇場のイタリア劇団は来る五月、私の作った旋律を喉いっぱいに歌うことでしょう。「幸福!! 苦痛!! 威儀と愛情!!」と。
 
私がいまジーベンビュルゲン、ブカレスト、オデッサ、コンスタンティノープルに旅行していることは、私の幾分困難な芸術的敗北に対して、ある関係で口実を与えることになるでしょう。私が平和にワイマールに住み、私の素性をそこで静かに守ることにすると、いつでも殿下のことを思い浮かべるのであります。だが私は一面において、二人の奇形児をうまく生むことができた場合、あまりにも純潔な町のよき安静を危険に晒すことになりはせぬかと心配しなければならず、また他方、私はいまのところ、ずっと金がないので心苦しい感じがします。そして一ペニヒでも借金を作ってはならないと潔く決心しています。

1846年10月6日付けのワイマール大公宛の手紙

演奏から作曲へ
このエリザベートグラードという地点は、私のために、私がいままでやってきたような演奏会生活の最後の機会を印した。私はそのあいだに、時間をもっと有効に利用するようなことになることができると信じ、静かな環境のなかに住むことを期し、そのことを速やかに実現しようと定めた。
作曲について
 
私の作曲のなかにおいて、善き意志と事業上の実行とのあいだにある不一致を、私よりも正確に感ずる者は誰もないであろう。
 
それでも私は内面的な要求と古い習慣とから書くことを続けていく、その目的を高くかざすことは誰も妨げないであろう。だがそれに到着することは、どこまでも疑問だ。


「巡礼の年」について
この作品とともに私はしばらくピアノと関係を断とうと思います。それはもっぱら管弦楽の作曲に従事するためと、この領域において私にとってすでに長いあいだ内面的必然となっていた多くのことをやってみたいためです。


「聖エリザベートの伝説」について
私は実際自分のことについて、あなたにお話することはほとんどなにもありません。当地での交際仲間がかなり広くなり、私の興味を引く種類のものであっても(もちろん決して音楽の仲間ばかりではなかったが!)ドイツですごすことができたよりも、もっと引きこもった生活をしています。
 
午前中は仕事のためにすごされ、しばしば夕方の幾時間も仕事のためにすごされます。「エリザベート」を私は三ヶ月間で完全に仕上げたいと思っています。この作品は完全に私の心を奪っていますので、それまでは他のものは何も計画することはできません。

1861年末のブレンデル宛の手紙

「聖エリザベートの伝説」が完成して(1862年8月10日)
私はここでずっと静かな気持ちで、止むことなく、そして徹底的に仕事をつづけていこうと固く決心しています。聖エリザベートの伝説は世の中から見捨てられてはいけないものです。
 
そして私の属している社会がこの伝説を育て上げるように骨を折らねばなりません。他の人々には、この努力はなにか取るに足らぬこと、無用なこと、どのみち甲斐なきこと、そしてほとんど益のないこととみえるかもしれません。
 
だが私にとってはそれこそ努力して獲得すべき、そしてすべてその他のものを犠牲にすべき唯一の芸術の目標なのです。
 
私の年齢では家に引きこもっていることがためになります。我々の求めているものは、外面にではなく、内面へと向かっているものです。

各地からの演奏会の申し出を断って

「聖エリザベートの伝説」の初演・再演を終えて(1865年8月)
上演は賞賛に値するものでした。合唱と管弦楽のメンバーは、ある種の神聖な熱意をもって、その課題を果たし、ある箇所で、熱狂さを表現してあますところがありませんでした。とくに若いパウリ・マルコウィクス夫人によって、圧倒的な感情を表して歌われた、エリザベートのパートは、完全にその栄光を表しました。

カロリーネ夫人宛の手紙

「聖エリザベートの伝説」の演奏の申し出を断って
人々のいうように、近来私の態度のなかに現れてきた幾分かの向上は、大体以下のように理解されています。すなわち、数年のあいだリストは、その交響詩や、ミサ曲やピアノ曲において、ただ混乱せる非難すべきものを書き記してきた。そしてエリザベートにおいて、彼は幾分もののわかった態度を示しているようにみえると。
 
だが……しかし私は決して、私の作曲に与えられた懲罰を、信ずべきもの、正当なるものとして受けようと思っていないので、エリザベートの、表面上緩和された状態に対して軽率に賛同することは、私のためにならぬことだと思います。

1865年9月ごろ。その後はビューローに指揮を任せる

ハンス・フォン・ビューローのアムステルダムでの演奏会(1866年4月25日)について
四月二十五日水曜日、私がヴァチカンに入ってきた記念日に、「十三番のプサルム」と二、三のピアノ曲とで大演奏会が催され、そのなかで「大波にもまれる聖フランツィスク」と、私の管弦楽に編曲したシューベルトの幻想曲とが、ビューローによって演奏されました。
 
聴衆はおそろしくいっぱいでした。実にすばらしい出来でした。そして喝采は数分間止まなかったので、私は感謝の意を表すために舞台に登りました。こうして人々は、オランダ語で「我らが尊敬する芸術、我らの英雄フランツ・リストに」と銘の入った非常に美しい、どっしりした銀の月桂樹を、私に贈りました。

カロリーネ夫人宛の手紙

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のピアノ編曲について
私が四十歳時代には、ピアノをやっと処理することができ、ピアノを囲って仕事をすることができた結果として、今や演奏者を必要な程度に苦しめ、そして適度な努力をすれば、あたうかぎりの音と力の作用は演奏者の意のままになるということに、非常に注意するようになりました。
 
この意味合いにおいても、私の改良癖は、慢性の、良くなる望みのない疾病となっています。そして公衆は、ただちにベートーヴェンの交響曲の新版によって、このことの正しい見本を受け取ることでしょう。

1863年ごろ

カピトール会堂での演奏会について
ローマにある種々の楽園が、一つの演奏に集ってきたというのは、今度が初めてであった。それでこの演奏は完全に成功し、また好評を博したのです。
 
演奏会は、聖なる父に委ねられ、聖なる父によって承諾されました。前年のごとく、細かい部分の準備の方式と一緒になってもたらされた——(貴族や長官の貴婦人たち数人が、入場券を分担し、ほんのすこししか残らず、張り札はすこしも用いなかった等)事態の例外的性格が、私の共演を決定しました。
 
私は「カンティク〔聖歌〕」を演奏しました。そして喝采が終わらなかったので、なおロッシーニの「シャリテ」の、私の改作したものを付け加えました。ローマにおいて教養を求めるものは、みな出席しました。そして会堂は溢るるばかりでした。

1865年3月ごろ、ブレンデル宛の手紙

作曲から教育へ
私は、ここでは二、三ページの楽譜を書く時間しかないほどです。しかしそれも難しいようです。
 
というのは、すでに六人のピアニストたちが、ベルリン、ハンブルグ等から来ているからです。まもなく十二人にはなるでしょう。ししてなお、名声と幸福を得んと熱心に努力している多くの諸君がやって来るでしょう。

1869年1月半ば、ワイマールで音楽教育をはじめて

ハンガリーの文化大臣トレフォルト宛の提言
〔毎年二万五千グルデンが〕音楽学校に割り当てられ、そのなかから一万三千グルデンは演劇学校のものになるというわけである。こうすれば、ほんのすこしの学科、特にその教授の結果が、生き生きと、豊かに、この国の全音楽生活の上に作用するような学科を行うことにかぎっても、優秀なる成果が収め得られるのである。

1875年2月半ば

レッスン前の挨拶
我が愛するポッセよ、あなたはおそらくすでに生涯中、父は子供たちのなかで不具なものを好きになるというようなことをご覧になったことがあったでしょう。私はここで、私の音楽の不具な子供をもったのです。そしてそれを好んであなたによってハープのために編曲していただきたいのです。

1883年ごろ、ポッセに

愛について

愛人、マリー・ダグー夫人について
私が未成年のころ、父が死んでからというものは、私一人ばかりでなく私の家族のために日々のパンを稼がなければならなかった。その後私には金が私のほうに流れてくるように思われるほどの収入があった。そして私は馬鹿者のようにあらゆる人と一緒に金を浪費していった。
 
いまでは私は金の扱い方、使い方を昔よりは知っているつもりだ! だが彼女がほしいものはなんでもしてやったのだ! それでも私は幸福になれたのだ。貧乏や欠乏は私を恐れさせたが、そうはいっても富裕と贅沢に魅惑されるようなこともなかった。私はグランドピアノや愛する人とならばどこでも暮らすことができたが、どうしてそんな時が来ようか! 私の考えは非常に哲学的になってしまった!

マリー夫人に施した、年20万フランは下らない莫大な金銭的貢献を回想して

愛人、マリー・ダグー夫人について
もしあなたが、二人の愛人を物語るに好都合な場所をお望みでしたらコモ湖のあたりを選んだらいいでしょう。ここでは愛を息づく周囲の青い空気のなかに胸は広々となり、あらゆる感覚はそこにいることの歓喜のなかに封じ込まれます。
 
……人間は、親しき自然の懐のなかで自由に呼吸しています! 人間と自然との調和ある交感は、巨大な関係によって離れるようなことはありません。人間は思う存分愛してよいのだし、すべてを忘れて、思いのままに享楽してよろしいのです! というのは、自分が共通な幸福の一部を受け取る権利だけを要求しているというように思われるからです。
 
そうです、友達よ、あなたの夢見る魂の前をある女の姿が通りすぎ、その天空から出てくるような魅力がすこしも感覚を誘惑する印をならないとき、否、魂を祈りのほうへとせき立たせるようなとき! そしてあなたが誠ある正しい心で、自然の側に一人の若者を眺めるときに、こういうときにこそ、あなたはこのような姿を感銘深き愛の物語のなかに織りなし、そして自然に対して「コモ湖のあたりにて」という題を与えるでしょう。

マリー夫人と湖畔の別荘で過ごした1837〜1838年2月を回想したロンショー宛の手紙

愛人、マリー・ダグー夫人について
ネリダ〔マリー夫人の愛称。由来は彼女が1844年に出版した暴露小説から〕は、我々がおもしろいことをなにかするからと言っても、どうしても会おうとしなかった。むしろたくさんの人々が私のことを、私のわずかな出来事を、そして私の「うまいこと」を話したときにだけ私に会おうとした。私の娘たちの名前には、ただまったくちょっと私が最後に訪問したとき、私がパリを旅立つ日に触れただけである。そしてそのとき、かれらはただなぜ私が、コジマが芸術家になりたいという彼女の職業に就くことを妨げたのかと私に尋ねた。かれらの考えによると、このことが最も聞きたいことだった。この点については、いろいろの他のことについてと同様に、私はいまとなってかれらの意見に同意することはできなかった。我々の性格上のこの甚だしい相違は、我々が最初会ったときすぐに、我々が無関係な事柄について話をしたときにわかったのである。
 

 
〔マリー夫人と会って〕彼女の咲き誇った修辞のうるわしい花壇のなかに、たくさんの石塊を投じた……すべてこのような馬鹿げたことは、どれほど私の趣味に合ったことだが、あなたはお分かりでしょう。
 

 
ネリダはこう言いました。ドゥ・ギラルダン様は、かれらにサンド夫人とふたたび和解させようとしましたが、この再会はいまだ一度だって、喧嘩別れの橋渡しをしそうになって終わったことはありませんでしたと。かれらは彼女を、またもやあまりひどく振り捨てたのだということがわかりました。——彼女にまたも心やすい気持ちで会いたいものですね。

1861年5月ごろ、マリー夫人と再開して

愛人、ジョルジュ・サンドについて
彼女は蝶々をモチ竿で捉え、そしてボール箱のなかへ芳しい香りの花と青草と一緒に閉じ込めて、それを手懐けることを喜んでいた。——これが恋愛期であった。次に彼女はそれに針を突き刺して、死の苦しみにバタバタさせたのである。——これがいつも彼女から出てくる別離であった。その次に彼女は自分の「対象」を解剖した。そしてそれを彼女の小説の主人公の集積(ルビ:ヘンデンザンムルング)のなかへ漬物にした。彼女に後を顧みさせなかった心の、このような実に野心的な利用のために、結局天才的な私のこの女の友達を、私は嫌いになってしまった。……芸術上のことについては、私のノーアンにおけるしばらくの滞在は、非常に興味あるものであった。……だが、私はそこでは添え役として振る舞っただけであった。


カロリーネへの言葉
疑いもなくまったく異常で、完全な、霊魂と精神と悟性の実例

1847年2月、カロリーネと出会った直後に

カロリーネへの言葉
おお、もうすぐあなたにふたたびお会いできるとは、私が心と魂、信仰と希望にかけてもっているものはみな、ただ、あなたのなかに、あなたを通して、あなたとともにもっているだけです。神のお使いがあなたとともにあらんことをお祈りいたします。あなた、私に導きの光をくださる暁の星、あなたとともにあらんことを。

1848年4月2日付のカロリーネ宛の手紙

カロリーネへの言葉
私があなたから受けたあらゆる好意のなかで、たしかに一番大きなものは、私の若いころの信仰に私をまったく戻してくれたということです。


カロリーネへの言葉
私はあなたを通じて、あなたのなかで、あなたとともに愛について考えます。この恋なくしては、私にとっては天も地も憧れに値しません。私の心と魂のあらゆる声は、崇高な愛の歌を歌っています。あなたもこのことを夢にご覧になることでしょう。
 
それですから、どうか私をあなたの許にいさせてください。あなたの許は私にとって最も自由なところです。本当に、あなた以外のことは私にとってはみんなつまらない、空しいことばかりです。

1853年3月11日付のカロリーネ宛の手紙

カロリーネに捧げた言葉
愛のうちに信仰を与えられ、苦難のうちに望みを強くせられ、自己犠牲のうちに幸いを見出した人、わが生涯の伴侶、わが想いの天国、そして永遠にわが心の偶像なるジェーン・エリザベート、カロリーネに捧ぐ 1855年2月8日 リスト

カロリーネの誕生日を祝した自作に添えた献呈の言葉

カロリーネについて
ローマ、ワイマール、バイロイトの三つの汚点以来、私たちのあいだは分裂しています。私はもはやあなたには慎重なる熟慮なしに書き送ることはできません。

1873年

カロリーネについて
私の老年時代の非常な意気消沈の原因は、あなたとの意見の相違を見出したということなのです。それは一八四七年から一八六二年のあいだのようなものではありませんでした。
 
文学上のこととか、私のいたらないことについての二、三の論争はさておいて、私たちは最も完全な一致ということに関して、ことごとく本質的な疑問をもっていました。ローマと、あなたの精神の超感覚的なものは、すべてを変化させてしまいました。

晩年に

信仰について

祈りについて
私は、なにも言うこともできないし、また聞くこともできません。祈りだけが、ある瞬間私を軽くしてくれます。
 
しかし、ああ、なんということでしょう。私はもうつづけて祈りをすることもできません。私はなんと強く、その要求を感ずることでしょう。神は、私に、この道徳的な危機を脱すべく、慈愛を与えてくれます。
 
そして神の慈愛の光が、私の暗闇を照らしてくださるように。

1860年ごろ、カロリーネとの結婚が叶わなかった時期

グラン僧院のミサ曲の完成について
〔1846年に依頼されていた、グラン僧院の落成式用のミサ曲について〕昨日やっと完成した。それがどんな響きがするかはわからない。——しかし、作曲したというよりは、むしろ祈りをしたと言ったほうがよいだろう。

1855年5月2日、ワーグナー宛の手紙

ミサ曲について
私はこれ〔グラン僧院のためのミサ曲〕をもってカトリック教会音楽の作曲家として真面目に地歩を占めました。というのは、これは私が熱心にやってみたいと思っていた無限の芸術の領域です。来年はカロクサで演奏されることになっている別のミサ曲を書くでしょう。僧侶たちのなかで、理解ある人々は私のミサ曲の初演のあと、私を認めてくれました。
 
私の熱狂的な味方の数は、僧職にある人々のあいだで段々増えてきました。——パレストリーナ、ラッス、バッハからベートーヴェンまでの、私が前にした勉強と最近した勉強は非常に私のためになっています。。
 
数十年以来、わたしは教会音楽を書かないと主張し通して、普通並みのものだけを書いてきたのだが、この三、四年じゅうに教会音楽の精神的な魔力によって完全に心を奪われてしまいました。——今までの価値の低い、片付けられた作品がそれに有効であったとしたら、それでちょうどよいのでしょう。
 
教会音楽では、物の根本にまで立ち入り、永遠にまで流れていく生きた根源に押し進むことを問題とするのです。
グラン僧院のミサ曲の演奏について
 
昨晩はグランのミサ曲が、初めて完全無欠な姿をもって光を放ちました。

カロリーネ夫人宛の手紙。1876年4月、オーストリア皇帝の銀婚式の前祝いの演奏会で指揮して

神について
神の存在に関する形而上学的な証明が、哲学上の論争によって否定されるということが、もしも確定されたにせよ、しかもなおいつもどこまでも克服されがたいものが残っていた。
 
我々の恐怖による神の肯定、我々が神を求める要求、神の愛を求める我々の精神の情熱、以上のことが私の心にいっぱいである。そして私の最後の息を引き取るときまで、信じて疑わないのだから、私にはもう何も照明などは必要でない。


ラムネの破門について(1835年)
カトリック教会は意味のない言葉をブツブツと喋り、下劣な堕落した生活を安閑とつづけることのみに忙しい。そして教会が呪詛し、是正しなければならぬ場合に、追放と破門をしか知らない若き人を吸収しつくすような深刻な憧憬に対するあらゆる共感や芸術や科学をも理解していない。この非常に苦しい渇きとか、正義や自由や愛に対する飢えを癒すことはすこしもできず、またそのためにすこしの持ち合わせもない。——自分で自分を築き上げようなカトリック教会、そして現在控えの間と公衆の広場に現れ、国民と君主との橋渡しとなっているようなカトリック教会——一歩も譲ることなく言いたいのはこの教会のことだ。すなわちそれは現代の尊敬と愛とには完全に無縁なものであり、国民、生活、芸術は教会の前から影を潜めてしまっている。そして教会の断定することは空虚なものであり、誰も顧みる者がなく滅亡していっているように思われる。

敬愛する聖職者、フェリシテ・ロベール・ド・ラムネがカトリック教会から破門されたことを非難して

貧者・災害のための慈善演奏会について
私はいつも、あらゆる機会に慈善演奏会を行うということを一つの義務としてきました。私が共演した演奏会の後昼間だけは、発起人が祝辞を述べたり、収益のことをあれこれと言ったりするときには、私は頭を下げてそこから逃げるのでした。一家族への分け前として、おなかいっぱい食べるだけの一ポンドのパンにも、暖を取るための一束の薪にもならないであろうと思いました!

1837年ごろ、リヨンにて

 

 
このことは自分のありったけの力を尽くしたのだから、疲労困憊するにちがいなかった。というのは、それぞれの演奏会で三度もアンコールされたのだが、聴衆の共感は私を非常に力強く、ずっと守ってくれたので、私はすこしも疲労を感じなかった。このように親切な強要ある聞き手としての態度の前に、私は理解してもらえないという危険を決して冒すようなことはなかった。ためらうところなく、私はベートーヴェン、ウェーバー、フンメル、モシェレス、ショパンの非常にしっかりした曲、ベルリオーズの幻想交響曲からの断片、スカールラッティとヘンゲルのフーゲ、そして最後に可愛らしい練習曲、「スカラ座」の聴衆が非常に驚嘆した、熱愛された自作を演奏することができた。

1838年3月ごろ、ウィーンにて

教会について
教会で出世したいという名誉心は、私にはすこしもないということをあなたほどよく知っている人は一人もおりません。私が五十四歳になって、下級の僧職を授与されたとき、私はできるだけ無関係な様子で推し進もうと考えていました。私はただ一人、そして素朴な正直な心をもつということだけを注意しながら、以前の私の少年時代の志にしたがっていきました。

1861年ごろ

故郷やヨーロッパ各地について

ドナウ川について
この刺激と感情とによって、私には「祖国」という言葉の意味が明らかになった。私は突然過去のなかへ移っていった。そして私の心のなかには少年時代の思い出の実物が純粋に、汚れを知らずに、再び現れ、雄大な風景が眼前にありありと浮かんできた。
 
これこそ岩を噛んで流れ落ちるドナウの流れであった! これこそ平和な家畜が自由に草を食っていた広々とした草原であった! これこそすばらしい実り豊かな沃野をもち、あのようにも高貴な息子たちを生んだハンガリーであった! これこそ私の郷里なのだ! そしてあなたがたからは嘲笑されるかもしれないが、愛国心の発作から、私もまた、この古い、力強い種族に属しているのだといま叫ぶのだ!
 
……おお、私の野生的な、はるか遠くにある祖国よ! 私の知られざる友よ! 私の広々として大きな過程よ! おまえの憐れみの叫び声は、私を呼び返してくれた。そして最も深くその叫び声に捉えられた。私があんなにも久しいあいだおまえを忘れることができたということに、恥ずかしくて頭の垂れる思いがする!

1838年3月ごろ、愛着あるドナウ地方が豪雨被害にあって

祖国について
十二月の十八日か二十二日に〔ハンガリーはペシュトに〕出かけていきますが、あなたはともかくまずびっくりなさるでしょう。私は幾分年をとったし、大人になりました。あなたが去年私にお会いくださったときよりも「芸術家として、もっとできあがっている」とお感じになられるでしょう。私はそのあいだに、イタリアで大変勉強しましたから。
 
ふたたび故国に赴くことは、なんという喜びであり、なんという幸福でしょう。そしてまた、ありがたいことには異国の放浪生活において、私がずいぶんと示してきたような斯かる高貴な強い同情に、今度は自分が取り巻かれているのを見るのはなんと嬉しい、幸福なことでしょう。
 
祖国に対する騎士的な、そしてすばらしい故国に対する感情は、私の心の内部に生き生きと残っていること、そしてまた私はいままでの生活において、遺憾ながら祖国に対してあまり示すことができなかったとはいえ、いかに私が祖国を愛し、尊敬していたかというこの感情は、すこしも変わっていないことを、あなたはよくご存じになるだろうと思います。

1839年11月ごろ、祖国ハンガリーの友人フェステティクス伯爵宛の手紙

リストの胸像を設置する話を拒絶して
もし私の希望を述べさせていただくとすれば、段々にハンガリーに音楽学校を創立していただきたいと思います。そしてみなさまが私にこの学校の管理をお任せくださるならば、祖国のために尽くすことができるし、私の生涯の誇りでありましょう。

1839年12月

祖国について
私の愛する国の人々よ!……この剣こそは、かつて祖国の守りとして強く振り回されたものである。この剣は、いまは弱々しい平和の手に置かれている。それはひとつの象徴ではないか? 数々の戦いによって栄誉を勝ち得たハンガリーが、いまや平和の友たる芸術や学問によって、この名声の新しき解釈をするといってよいではないか? 知識階級も労働者も今日、貴い問題、高い使命を果たしたといってもよいではないか? ハンガリー国家は斯かる栄誉に無関心であってはいられない。

1839年11月ごろ、ハンガリーの友人フェステティクス伯爵宛の手紙

祖国への帰郷を拒否して
しかしもしかすると、後になって、ハンガリーのためになにか作曲するという適当な機会が起こるかもしれません。グランのミサ曲の前例にならって、たとえば特別な動機の場合に、なにかテ・デウムか、あるいはそれと似通ったものが私に任せられるべきでした。
 
このためなら私は喜んで最善を尽くしたことでしょう。そしてこういう仕方でのみ、私はハンガリーに帰るということを適当だと思っています。

1862年、居住をペシュト市に定めてほしいというハンガリーの音楽学校理事会からの要請を拒絶して

第3回パリ万博(1878年)におけるハンガリー代表の審査員になって
私は一度でも「くだらぬ愛国主義」を駆り立てることなく、ハンガリーのためになにか役に立つことができるときには、ごくわずかな報酬に甘んじて喜んで力いっぱいに働きます。

従兄弟、エドアルド宛の手紙

ローマについて
私はあなたに率直に申しましょう。たとえほんの短い間だけでも、ローマを去るということは、私には少なくとも不都合なことです。そしてわたしは、いわゆる有力階級の、つまらないいやらしいことのなかにおいてよりも、私の当地での隠遁生活のなかに、より多くの満足を見出すということを邪推しはしないでしょう。
 
しかし事態が好都合であり、二、三人の愛する友人が役に立ってくれるということを、あなたが保証なさるように、本当にそうならば、すべての他の疑惑は除かなければならず、そして私の快諾は、試練に打ち勝たなければなりません。たとえ私に、出発のための決断が非常に重々しく落ちかかるとしても、私は六月の初めにカールスルーエへの旅券を調えさせます。
 
そしてビューローが、その音楽祭の指揮の地位に就くということを予想すれば、その地の音楽祭には、どうしても出席いたします。

1863年、ブレンデル宛の手紙

イタリアについて
私たち〔リストと友人の僧侶ソルファネルリ〕は岩のなかに掘られた寺院のある未開の浪漫的な土地、マドンナ・デルラ・ステッラ〔イタリア〕へ向けて巡礼とともに旅をはじめました。そしてそこは私の友人の祖父が、約八十年前に隠者として死んだところです。そして私たちはアッシジへ向かいました。
 
そしてロレットへも向かい、そこで私たちは二、三日間、立派な僧侶である彼の父のところに留まりました。最後に、彼の叔父フェニルリ伯爵は、私たちの願いを聞き届けてくださり、七月十四日から八月三十日まで、アドリア海岸のグロッタンマーレで懇ろなる待遇を受けました。
 
私たちの心と精神の主なる仕事はあるいは海辺において、あるいは私たちが途中出会ったシトロンやオレンジの林のなかで、私たちの祈祷書を一緒に読むということでした。

1867年7月ごろに旅行して

ワイマール時代について

ドイツについて
成功の王国は、ドイツでは普通容易なことで開かれるものではありません。この国でその目的に達するためには「預言者」の作者と同様に、ただ単に才能を有するという幸福をもつばかりではなく、幸福をもつところの才能を保持しなければなりません。

1855年ごろ

演劇について
演劇は次の範疇に分類することができる。
 
すなわち、第一は営業的企画、これは公衆にとって日々の享楽の対象を作り、買い手を惹きつける対象を作り、そして通常はその時々の公衆の趣味の方向の善悪と同時に、その趣味の迷いや日常の無知を表すものであります。第一の場合には、支出が収入に合わねばならないということはいうまでもありません。
 
が、第二の場合には、収入というものが、決して作品の選択や上演に影響をおよぼしてはならないことは、私には明瞭なことに思われます。
 
ワイマールは、上演された作品の真の価値を評価し得る公衆を全然もっていないので、その演劇は隣接諸都市の興味に訴えるときにのみ、栄光を得ることができるのです。この公衆を獲得せんがためには、我々はどうしても次のような作品に限って上演されねばならない。すなわち、その作品というのは、その評判が理解力ある公衆を惹きつけるときに、はじめてその真の成果が体験されるようなものである。

ワイマールの大公妃宛の手紙

ディンゲルシュテットを劇場監督に推薦するさいの提案
私の計画は、一、もし可能なればワイマールを終えてベルリンにいたるか、二、もしくはワイマールであなた〔フランツ・フォン・ディンゲルシュテット。リストの推薦によりワイマール歌劇場の劇場監督に就任〕とともにそこで、(a)ワイマールの伝統とホーエンツォーレルン家の金で「ホーレン」とか「メルクール」の詩を立派なドイツ風のレビューに組み立ててもらうこと、(b)私の妻〔カロリーネ夫人〕の助力を得て、あなたの音楽上の計画をそこで完成すること、(c)一度そこの劇場をあなたとともに引き受けることであります。
 
この企ては小さいものではありますが、それを基礎としたならば、どんな偉大な事業でも十分にできます。

1845年

ワイマール劇場について
従来、私は最も必要なことばかりを要求してきたのである。……しかるにいまや、征略した地方を、私が従来指示してきた方法でもって確保するということは、私にはこれ以上できない。否、これ以上前進することができないという瞬間がきている。熟練というものは、メンバーの数のように物質的な力を増大することはできる。さらに倍加することもできる。
 
が、しかし、それは限界をもっている。そして望ましい目標に到達せんがために、物質的な力の価値を三重にすることが必要ならば、ただ単に熟練にのみ頼るということは益なきことである。なぜならば人々は遅かれ早かれ完全に失望するだろうから。


ワイマールでの成功後、殺到する演奏会の申し出を断って
私のここの責任上、私はワイマールから特に冬のあいだは、時々でも離れることはできない状態なのです。劇場関係でも、また宮廷演奏会に関しても、私がいることは絶対に必要なのです。
 
時々私をもっと活発にすることは私にとっても結構なことですが、この楽しみも数日を必要としたり、あるいはしばしば行われるここの要求に衝突する場合には、私はたびたび断らねばならないことがあります。——それに私が「タンホイザー」序曲の指揮者として参加するなどということは余計なことだと思います。
 
あなたには不遜にみえるかもしれませんが、一般に普通の演奏会には、私のようなものはもう必要でないということを申し上げねばなりません。
 
もしもいつかマクデブルクでなにか特別なものをやってみようということになり、そしてそのとき、私を結局指揮者として選び、全体の指図を任せてくださるようなことになったとしたら(私は全然呼ばれたいと思っておりませんが)、べつにまたご相談に応じ一定の申し合わせをいたしましょう。それを私は全然拒絶したりはいたしません。私の理想の仕事にぴったりと合ったことですから。——ただ、しかしこのような特別な場合だったら、マクデブルクのために、私の微力を尽くしたいと思っています。というのは、私はいままで長いあいだ、そしていまでもなお、できるだけ演奏会には原理的に出ないことにしていますし、またこの意味ですべての申し出にお答えしていたのです。

1852年ごろ、マクデブルクの友人宛の手紙

ワイマール宮廷楽団長の辞職に際して
歌劇がここではあまり重く見られてないというケチな条件であったら、私は自分の活動をなんらかの仕方でつづけていくことは不可能なことだと思います。
 
ワイマールの諸侯たちがいろいろと面倒をみてくれたために名声を上げたのですが、それとともにわたしたちが努力したために特徴ができて、名声がでてきたのであります。
 
それゆえ我が大公殿下には、私が将来、まったく期待を裏切る事情にあって、そしてまた万一当事者がワイマールの演劇を促進さすためになされた努力を無視するような事情にあっては、永久的な協力を中止するということ、かつよくよく考えた挙句、私が自分の思うままに行動するということは、ごく当たり前のことと思し召されることでしょう。
 
大公殿下は善意をもって私に敬意を表されたのだと思っています。というのは、私は自分の時間と才能をより有益に使いましたので、その性質においても、数においても、克服することができない多くの困難に付きまとわれるような無駄をすることなく、私の最上の年をすごしたのだと思っています。大公殿下は、前もって充分なる方法が講ぜられるときにのみ問題となり得る性質の音楽学校の設立とか、その他の計画について、またもや私に語られましたので、わたしは安心して殿下が本当に芸術を促進さすことを望んでいられるのだろうと信じています。
 
この状態においては、少なくとも二、三年のあいだ、人々が自ら進んでやろうとする方法を、この流儀で行って一定の意義を得ると思われる一事にのみ集中せしめるということが望ましいことでしょう。もしもこの劇場が、まだ貴殿がたの愛顧を受けているとしますならば、私がそう宣言したようなこの消極的な状態は、私が何回も何回も詳細に述べたこの提議を、人々が完全に聞き届けなくなったのですから、私のほうに責任があることになるわけかもしれません。私は人々が将来にどうしてもなくてはならないような必須のことだけを求めました。すなわち、合唱の根本的改革と、管弦楽の適度なる増大を。

1853年2月16日ごろ、ワイマール大公宛のワイマール宮廷楽団長の辞職届け

ワイマール時代を総括して
(1859年2月14日付のワイマール大公宛の手紙全文)
謹啓、陛下は私がこれ以上陛下の劇場で働くにはどういう条件が必要であるか、陛下に差し出すようにとご希望なさるばかりでなく、ご命令なさいました。陛下の下僕として私は従順でございますが、私は私の希望に反し、また私の個人的な興味に反して事をすると申し上げることは、どうしてもできないのでございます。私は陛下に申し上げる栄誉をお与えくださるなら、このシーズン中ハルムの前奏曲以外のものを上演するのに、ふたたび指揮台に上ることは私にはできないのでございます。それに対して私はいつかを書こうと約束したことがあり、たしかにワイマールのシラー祭の上演曲目のなかに、それを入れると約束したからでございます。それで約束者に烈しい憤慨とか当座の不満を、すくなくとも与えないようにしてほしいのでございますが、最近の事件が最後の一滴としてその限界を踏み越えたとしたならば、この限界にまで今までにもう充ちていたのだということを思い出すと、それが実行されないほうがマシかもしれないと思います。ともかく、遅かれ速かれ、それがディンゲルシュテット氏であろうと、誰か他の監督であろうと、私が自分に隠されてあったということが分かった狭い限界内でさえも、私の今までの、よくも悪くもともかくできた活動を陛下のほうからも私のほうからもつづけていくことが、もはや許されなくなったのだということを陛下に申し上げて、お考えを煩わさねばならなくなったのでございます。人々は私を、演劇というものを没落させようとする放浪者であり、空想家であるとするような軽々しい戯れをおっており、劇場を意のままに勝手にするために必要な権威をもっている十年間の私のワイマール時代でも、誰一人として私から蒙った損害を非難する権利をもっている者がございません。他人と違ったことを始めたとしても、私はただ一人ではありません。業務上のことでさえもそうでございます。果実について人はその樹を知っています。結果から人は方法を判断するものでございます。たとえば劇場の切符のことでも私は一度も欠損を生じたことがございませんし——それどころか、このような宮廷や芸術の問題に関しては、いつも第二位に考えられねばならぬという説を私は表明していたのですけれども、ともかくかえって利益が上ったではございませんか。物のよく見えない人間どもがある種の利益、しかも非常に大きな利益は、それに先立って他の人々が熟考に熟考を重ねた結果なのだということを認めなくても、そんなことは私の責任ではございません。
 
私がこんなに不機嫌になるまで拡がっている偏見に、陛下が非常に影響されたため、私の仕方を面白くなくお感じになり、誰かに促されてこうしたのではないかという、些細なわがままを私にお認めになるようなご不明をそのなかに見出されることは、あり得ることでございます。もしも陛下がご賛同くださって、本当に私を抑えておいてくださるのなら、必要な条件としては、次のようなことをご決定なさればよいと存じます。
 
 一、劇場の一シーズンに十二回の歌劇上演をすること。しかもそのなかの二つか三つは私の選択による全部新しい作品であること。また以前上演された歌劇の再演には私が指揮に当たるか、あるいは私が指定した指揮者によるかであること。
 
 二、万一の場合には歌劇や管絃楽の人間を解雇することができること。
 
 三、管絃楽あるいは歌劇のメンバーはレベルトアールについて監督と相談した後、暇をもらうことができること。
 
 四、他の芸術家を雇う決定をするとき、一シーズンに二人か三人は私が選ぶことができるようになっていること。
 
 五、管弦楽や歌劇のメンバーに約束された昇給とか、報酬はこれに開する告示に明示されること。
 
私がここにはっきりと希望を申し上げたようなことは、一度も拒絶されたことはございませんが、時とすると恩恵の一種のように、すくなく与えられたり、前に承認されたものが拒絶されたりして、内容を形式の下に隠しておいたために困ったことになることが往々あるからでございます。あれ以来、陛下にこうしたことをお話しておかないと陛下にまでこんな事務上のつまらないことにご心配かけるのがもったいないと思ったために、面白くないことが後で起こってきて、そのために私が大損害を受けることがあるからでございます。
 
もし陛下が、私にこうした広い権限をお与えくださるならば、私は陛下のご希望通りに相当考慮をいたし、他の正当な要求にも応ずる、もっと理性的人間になれるのは本当に簡単でございましょう。陛下が私の考えるこうした予想を否定されるならば、陛下が私を本当にご信任くださっているのだと、どうして信ずることができましょうか。もし私が今までいつも私と事を構えた人々と和解したとしても、私が責任をもって考えたことが承認されたからといって別人になれそうもございません。
 
それに誰か他の人の外面的な地位を妨害するようなことは関係がございません。誰もそのために、自分の地位を狭められることもないし、また自分の無価値について心配するようなこともないだろうと存じます。私が私の地位に立つことによって、私が所有すると見えるような陛下の信頼に応ずるために、止むを得ずと思うわずかのことでもするようなことは、私はどうしてもできません。
 
私の外面的な地位は非常に都合が悪く、ある関係以上に非常に苦痛が多いものですから、私の将来を真面目に考えてみるとただあらためて耐え忍ばねばならぬ不利益が聞かれているようにしか思えません。私が以前成功したためにわずかの貯金がございますが、それで二、三年は何も妨げられず毎日の不平もなく、あるいはまた土地の関係から、どうしても大作の完成に従事しなければならないというようなこともなく、集会をしたり、精神的な静養をしたりする必要もなく、引退してゆっくりと生活するには充分でございます。人々が私の作曲を非常に悪く噂しているということが根本的にただ私の元気をつけてくれるものに違いございません。というのは、それがよし党派的なことであったにせよ、人々は重要でない作品とこんな激しく闘争するはずがないからでございます。陛下はしたがって非常に悪い方でなければ、非常によい方だということにならねばなりません。もしあの勇敢なる感激が、かれらの勉強に関係して起こったのであるとすれば、かれらはオロンテの詩の範囲には属さないと、私に考えさせるに違いないと存じます。もうすこし申し述べたいことは、もし彼が私自身と一緒に劇場の演奏会で働きたいというよりは、どこまでも反射していたほうがよいということを申し上げたいのでございます。陛下よ、私の職をもうすこしつづけていくことによって、全額を償うことができない分をお果たしいたします。私の時間をお捧げいたします。感謝は毎日の犠牲をもって私に負わされているのでございますが、ただ何もならないことでもございますまい。
 
私がもしも他のいつかのシーズンに、ふたたび劇場に現れるようなことがあれば——陛下が私の活動にとって欠くべからざる控え目な権力の拡大にご賛同くださったとしても、——私によって代表される傾向のものと完全に一致した作品を、そしてまた私がそれを聽業の前で演奏したなら、それに対する責任を負わねばならぬほど充分新しい作品だけを紹介するでございましょう。陛下よ、人々は陛下に『試み』というものを軽蔑するような一種の気持ちでお話し申し上げているのでございますが、私から言わせると『試み』をしてくださることは、幾重にも陛下の御親切と感謝申し上げる次第でございます。人々は劇場の意義を、そのイニシアティヴによって評価し、必然的に初演というものがそのなかに含まれるはずであるのに、それは『試み』として拒絶しようとするのだということを繰り返してはっきり申し上げ、ご注意を促させていただきたいと存じます。この根本命題のために、すでに曲目に載せられたワーグナーの歌劇(これは陛下の私に与えてくださった支持のおかげですが)や同じような他の大家の作曲を指揮することが、いつも光栄であり、私のことなどはどうでもよいということになるのでございます。名声への道を歩むことに努力するのなら、すでに奪われた門の前にじっとして立っているはずはないのでございます。
 
陛下がどんなご決定を適当と思し召されようと、それを一番よいものだろうと思って疑ったりはいたしません。芸術家ばかりでなく芸術そのものも無用の贅沢と考えられたということ、私はある意味でワイマールの人たちには余計なものと思われたこと、私があらゆる方面からただ不信任を受けたということ、人々が私をよく日常的な俗物の仲間に堕落したと見ていたということは、私にはどうしても分からないことでございます。
 
敵意あるいろいろのことは、私を無残にも傷つけることはできるかもしれませんが私を辱めることはできません。そしてかれらが私を脅かせば脅かすほど、私はその責任をますます多く感ずるだけでございます。私にとって生命よりも、この世のあらゆる楽しみよりも高価な他のものがあることを、私がもうこの世にいなくなったときに、いつか誰かが話し得たとしたら、私はもっとよい運に当たったわけでございましょう、——私は淋しさを愛します。完全な淋しさが好きでございます。陛下は私を解雇なさることによって、すべての関係を最も好都合に解決なさりたいのでございましょう。お願いでございますが、私は感謝の意を相変わらずもっておりますから、陛下が多年なしたもうた友情のために、私はいつもそれをたしかに光栄と存じているのでございます。

   陛下の最も従順なる忠誠なる僕
     フランツ・リスト
       一八五九年二月十四日、ワイマールにて

ワイマール大公宛の手紙
私が貴殿に、私が本意ならずも貴殿の明確なご命令に対して、書く栄誉をもっていたところの手紙〔上記の手紙〕を、貴殿は私に対してよく引き合いに出されました。それがどうにもならないことを、よく知っていましたので、私はそのなかでただ当時、以前にはどんなことが起こらねばならなかったか、どんなことが起こり得たかを総括して述べたにすぎませんでした。
 
……なぜ私が劇場で、公の活動を、もうすることができないかということを、貴殿にご説明申し上げる目的をもっているところの、私の今日の手紙は、貴殿がお引き合いに出されるものと全然矛盾するものではございません。というのは、時が経てば感情も事情も変わってしまうものですから、一度とり上げられなかった恋の告白も、外交的な提議も、一年も経てばもう問題にならないということを殿下はよくご存知のはずです。
 
貴殿が一年前に、私がすくなくとも期待しなかったことについて言質をお取りなさったとしたら、私はなんとしても酸っぱい林檎を食べて、私が劇場にもう一回か二回のシーズンは、つづいてお仕えしたことでしょう。私が指揮台から去るということは、もう間もないことでしょう。そして私がもし、またも現れるとしたら、それは私がそれに関して作ったものを用いる場合にだけ、そういう気持ちになるだろうと思います。というわけは、私は嫌な気持ちで物事をするほうでありませんから。
 
私が聴衆からお別れしようという私の決心は、昨日から始まったことではありません。私がそれを成功した機会に止めるか、失敗のときに止めるかは、偶然が決定するだけでしょう。偶然はもう宣言しました。私のお別れは始まりました。完全に始まりました。時がすぎたら、私が留っていたくないところに帰っていくことは私には馬鹿馬鹿しいことです。
 
私はほとんど四十年間も難局に当たっていました。そしてこの点に関する私の課題は、完全にできあがったものと思っています。そして私は老年になって疲弊してまでも、たとえばシュボーアのように、管絃楽をやろうなどとは全然思っておりません。彼はモシェレスのように、自然の気質が消え失せてまでも、ピアノ曲を編曲しようなどとも考えたことはありません。
 
……精神的な意味をもったあらゆる人間には、彼の理念があります。人がもしその特色を利用しようとすれば、それを彼の理念にしたがって処理する場合にだけ、これを達成することができるのです。このことは一般の根本原則なのです。
 
私が常に殿下に感謝の意を表する義務があり、貴殿の指令にしたがうことができるという条件で、またそうした意味でだけ私には特別な場合があるのです。しかし私自身を否定し、そのことによってよろしくないご奉公をするような義務を、それらが私に課することはできません。
 
ワイマールの劇場は、ただゲーテの下にのみ意味をもっていたのです。そしてゲーテは公の場所に出る必要がありませんでした。もしも貴殿が、私の音楽的な見地で奉仕することをお望みなら、私を殺すような文句をお書きにならないでください。そしてただ、私が主張する精神を、芸術の世界における動機や進歩の精神を、自由に遊ばせてください。
 
十年間に私は誰の援助もなく『ワイマール派』を創立しました。ある作品を演奏することが、私に唯一の可能なことでした。それはなるほど幾らかのことかもしれませんが、それで全部でした。私がこんなにもわずかな報酬で遂行したものを、誰にもできまいと私は信じています。
 
もしも貴殿が、私を正直にお助けくださり、そして私が貴殿にお願いすることを支持してくださっても、あるいは、もしも私にご好意をもってくださり、私が貴殿にご留意を願いたい作品に対して、興味をお持ちくださるとしても、ワイマールは、今ただ名ばかりで、暫定的なものでありますが、実際上も『新ドイツ派』の居城となってしまうだろうということを貴殿にお約束いたします。私のワイマール滞在は、ただひとえに、すでにこの町の名とこの派とを一緒にしただけでした。もしも私が、十年間リューベックに暮らしたとしたら、『リューベック派』というものになったでしょう。そして本当は十年以上かかるのだということを、私は貴殿に確言いたします。というのは、勝利と将来が私どものものになるのだから。……」


ワイマール大公宛の手紙
私が〔カロリーネの〕離婚事件に際して受け取った通知は、密かに面白くない考えが支配するように段々なっていくことを、明らかに証明しています。この状態に下にあっては、私のワイマールでの地位は支えられないものと思います。年少の娘を一層強い暴力に対して保護することに関する限り、私どもは耐え忍ばれないようなことまで忍んできました。
 
しかし今となっては、貴殿とお別れするのは、私にとってつらいことですけれども、まずワイマールを早く離れて、ある生活様式を求めねばならないということを予感するのです。他のところでは、ここよりも私にとって苦しいことはないでしょう。——外部から何もかも妨げられたり、内部に圧迫されるようなことは少ないでしょう。
ワイマールの芸術について
 
ここ(ワイマールの芸術界)で誰でもそう思ったことであるが、以上述べた方面からは別に力強いことが起こるはずはなし、またほとんどすべてのことがまったくおとなしい感情で、しかも意表の稲光のなかにあり、援助するということまでには、停滞していかないだろう。


ワイマールを去って
私は春を待っています。それから多分どんどんやりましょう。——もちろんミュンヘンやベルリンであるいは外国なんかで、自分から辞めてしまった楽長としての活動を繰り返すようなことはしません。——私がワイマールでできたよりも、もっと重要な目的で、私の仕事を妨げられずにつづけていくことをするのです。多くのものが、私のなかで精錬され、その他のものでもますます集中してきたのだから、もし私が迷わなければ、私の創作力は本質的に高まっていきます。


ワイマールの芸術界について
私は残念なことには、ワイマール劇場の「芸術的」事態を永久に立て直すということの、いわゆる不可能さをあなたほども知っていませんでした。空腹に慣れていたダールカンの馬の比喩は、それが死んだときに明らかな教訓を与えています。それだのにあなたは、人々が欲しがるに違いないほど、そしてあなたが安全な航海をつづけていけるほど上手に、立派に船を操ってきました。かつ、よその「ミューズの殿堂」に輝いている黄金は、まだかろうじてたくさんの紛い物を隠しているにすぎないのです。「拒絶するな」という言葉は、あなたの世間的知識を託すべき、貴紳の正しい標準のごとく思われます。
 
そして私は、あなたが慎重な熟慮の挙句、私の正しい意味での利己的な、とは言っても一般の人々——と特にワイマール——の関心に沿うような願いを充たし、そのあいだは「芸術のヴァルトブルク」にいる気持ちで辛抱されるように希望いたします。
 
……あなたは「トリスタンとイゾルテ」をやるだろうとみな言っています。そして管弦楽員のなかで、なかなか大切な老練な人々が数人引退するということです。遅くてもいいからどうしてもおやりなさい。
 
ワイマールの政体のためのいろいろな遅延とか制約とかは、明らかにあなたの責任ではありません。あなたは賢明に、しかもどこまでもあなたの意志と照らし合わせて、それらに耐え忍んでいかねばなりません。……しかも、私がそのなかに飛び込んで実行するにはあまりにも遅すぎるのです。
 
もし人が小事と大事と比べることができるならば、私はドイツ帝国教壇の気難しい自白の文を引用します。『かつ、余は人々が砂中に疲れ果てており、自らの無力をよく知っているということを経験してきたのである』(ビスマルク候、七三年一月二十五日)

ローエン宛の手紙、1874年ごろ