MUSIC

12の音楽批評

ピョートル・チャイコフスキー

柿沼太郎訳

Published in circa 1872 - 1876|Archived in May 17th, 2024

Image: “The Nutcracker”, 2008, from CGP Grey, licensed under CC 3.0, trimmed by ARCHIVE.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ローザ・ニューマーチ著『チャイコフスキー 生涯と芸術』所収の、ピョートル・チャイコフスキーによる音楽批評を、ARCHIVE編集部が音楽家別に採集・編集し、収録したものである。
1872〜1876年まで、チャイコフスキーは音楽批評家として『ソウレメンナヤ・リエトピス』紙と『ルスキー・ウェストニック』紙に寄稿していた。ここに紹介する論考は、当時の記事から採られている。
原則として原文ママだが、旧字は新字に変え、誤字・脱字・旧字を直し、用語統一を施した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ピョートル・チャイコフスキー(1840 - 1893)訳者:柿沼太郎編者:ARCHIVE編集部
題名:12の音楽批評
初出:1872〜1876年ごろ
出典:『チャイコフスキー 生涯と芸術』(音楽之友社。1956年。119-162ページ)
Image: “The Nutcracker”, 2008, from CGP Grey, licensed under CC 3.0, trimmed by ARCHIVE.

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モーツァルト

芸術作品はみなその作家が生きて働いていた時代および社会の、芸術上の水準をどんなにこえていたにしても、なおかならずその時代の極印をもたなければならない。一芸術家の創造的天稟がどんなに強力であり深刻であっても、ある特長なり、形式のあるまったく外的な特色なりから脱することはできない。この形式は第二流の才能をもつ人の手にかかると、単にきまりきった手品に堕し、ついには一種の考古学的な価値しかもたないものになる。したがって、芸術のもっとも崇高な境地においてさえ、天才の仕事が時代遅れになることは驚くにたりない。ラファエル、シェイクスピア、モーツァルトの創作にはその意想がどんなに深かろうと、その後の時代の趣味にぴったり合わないある外的な特長をもっている。だが時代の手はかならずしも芸術作品の本質的内容にふれる力をもつわけではない。そこで——八十年も経っているにかかわらず——モーツァルトの天才の力強い、不朽な遺骸を安置した「ドン・ファン」の歌劇は、技巧上の細部だけが旧式なのである。この作品はわれわれの父や祖父の時代と同じ熱酔をわれわれの心に呼びさまし、同様効果的にわれわれの感情にふれる。モーツァルトの管弦楽編成は、ベルリオーズのそれに比較すると、もちろん微弱である。そのアリアはやや冗長で、時に歌手のむら気と名人芸とを挑発させる。その様式は当時の宮廷の人々の嗜好をよろこばすためのものである。とはいえ、モーツァルトの歌劇のすべて、ことに「ドン・ファン」は最高の秩序と強烈な劇的状態の美とにみたされている。そのメロディーは驚くべきほど美しく、ハーモニーは豊富で、興味深い。モーツァルトはとくに劇音楽の大家で、ドン・ファン、ドンナ・アンナ、レポレロ、ツェルリーナなどのような長つづきのする、もしくは写実的に着想された音楽タイプを創造した作曲家はかつて誰もなかった。
 
上に述べた通り、モーツァルトの弱点は長たらしいアリアにあるが、これは故意に歌手に手腕を発揮させるために工夫されたもので、いつも音楽的にはたいして価値をもたない。だが合奏の部分に、劇的動きを描く場面に、傑作をぞくぞく残している。ドンナ・アンナが演ずる場面はこの緊張した劇的な力にとくに強力である。殺された父親の遺骸を見た彼女の断腸の叫び、彼女に不幸をもたらした男に出会った時の恐怖と復讐の渇き、すべてがモーツァルトによって人を信服させる力——その効果がシェイクスピアのもっとも美事な場面にだけ比較できるような力をもって実現されている。
 
私はこの歌劇の最善の個所として第一幕のフィナーレ、司令官の墓場の場面、その他の場面をユーモラスな対照をなすのですこぶる目だつ第二幕の六重唱(登場人物が残らずレポレロをドン・ファンとまちがえる時の)、および最後にドン・ファンと石像との場面をあげたい。
 
このおそろしい亡霊(石像)を前にして、強情な不信仰者の恐怖をあらわすために、モーツァルトが取った方法が、なんと簡単であることか! 私にはよくいいあらわせない。今時の作曲家ならトロンボーン、トランペット、シンバル、ドラムの大旋風を起こすところだが、モーツァルトは彼の天才の実力のみで無限に力強い効果をあげている。

ハイドン

私はこの尊敬すべき人が音楽に尽した立派な、また偉大でさえある仕事に、きわめて深い敬意を表している。ハイドンは自身を不朽にした。発明の力によらないとしても、少なくとも二つの理想的な形式——交響曲と奏鳴曲——を完成するためにした努力によって。この理想的な形式は後にモーツァルトやベートーヴェンによって美と完全な技術との極点に運ばれた。ハイドンは交響楽の鎖に欠くことのできない環である。彼がいなかったら、モーツァルトとベートーヴェンは存在しなかったであろう。少なくとも、音楽におけるこの二大支配的人物の発展は、非常に変化したことだろう。彼らはもっと開拓されない土地からあらわれ、天才の成長上もっと大きな障害にぶつかったことだろう。だがとにかくハイドンの評価できない貢献をくさすのではなく、われわれの認めざるを得ないのは、彼の霊感があまり高く飛翔しなかったこと、「小規模」と「小綺麗」以上にけっして出なかったこと、その後の作曲家たちがああした魂をゆるがす、きわめて悲壮な曲調を引きだした秘密な心琴に一度も触れなかったことである。
 
今はハイドンの天才が発達した歴史的状態に立ちいる適当な場所ではない。ハイドンがもし他の時代に生まれていたとすれば、一層の深さと一層の悲劇的な力と一層の情熱とを示さなかっただろうか。彼の音楽がその優美な冷たさという人工的な雰囲気を負うているのは、彼がたまたまその中で育った習慣及び環境ではなかったろうか。われわれを深く動かし、涙を催させ、あるいは強烈な情緒にてわれわれを夢中にさせる力をもたなかった理由も、これではなかろうか。ハイドンが前世紀、つまり彼の後につづいた浪漫派の疑惑に傷つけられ、無責任な苦痛に疲れはてた時代をどうやら通過して生き残った理由も、これではなかろうか。こうした深いまた興味ある問題は音楽美学を好む人々によって論じられるだろう。私はハイドンが全然芸術上「小綺麗」の境地に属するといった。諸君は彼のあらゆる交響曲に同じ滑稽な挿話、一種の混成曲、もしくは不知不識のうちに耳を魅する音響の千変万化の活動を見出すだろう。こういったからとて、ハイドを音楽会場から永久に追い出してしまえ、などというつもりではけっしてない。ことにロシアでは、ハイドンの作品は必要欠くべからざる石段であって、われわれはこの石段によって、わが国の大衆の大多数を導いてベートーヴェンの水準に達し、ベートーヴェンを評価する方法を知らせることができる。私はただハイドンの形式および観念の不足と浅薄とを、後の大作曲家たちの一人の大作と比較してみたいと思っただけである。

〔1873年〕

ベートーヴェン

私はベートーヴェンの原則に間違いがないと叫んでみたいと思っていないし、またどの点でも彼の歴史的価値を否定しないが、彼の作品全体を一様にまた無差別に称讃するような不誠意には反対する。だが疑いもなく、ベートーヴェンはその交響曲のあるもので、同時代の人たちが達し得られなかった高所に達した。

〔1871年〕

 
第八交響曲と第九交響曲の比較
ベートーヴェンの第八交響曲は、それより前の作品とも、またその後の作品——偉大な合唱交響曲(第九)——とも異なっている。形式の異常な簡潔と破綻のないよろこびと陽気な性質とによって。この作は最後の明るい微笑であって、この人間的な悲哀と絶望の詩人が、歓喜の声に答えた最後の声であった。第九交響曲で、ベートーヴェンは同胞愛に結ばれた人類の永遠なまた宇宙的な合唱をあらわし、自然と造物主に対する忘我の熱狂的頌歌を唄う「歓喜への頌歌」によって、この巨大な作品を結んでいる。けれどもこうした歓喜はこの世のものではない。これは理想的な到底実現し得られないあるもので、この世とは没交渉であり、ただ芸術と美の世界にのみ存在する神性に対する人類の瞬間的なあこがれにすぎない。その無限な悲哀、その疑惑の煩悶と、みたされない希望とをもつこの俗界の谷は、その後益々陰惨になり、脱れ出る道を失ったように思われる。われわれは第九交響曲において、幸福の信仰を永遠に失った大天才、しばらく実現できない希望の国に、翼を折られた理想の世界にのがれた一大天才の絶望の叫びを聞くものである。第八交響曲はこれとは反対に、落ちついた満足と自由な歓喜の気持ちに充たされている。この作は霊魂が悪と疑惑と絶望とにまどわされる以前の、人類の温和な、現世的なよろこびを描いている。
 
第一楽章の二つの主題は、いずれも高雅と優美とに充たされ、その提示は簡単また簡潔、微妙な伴奏と透明な和声とをもっている。第二主題はその思いがけぬ好転と調の気まぐれな変化に非常に独創的である。第二楽章(アンダンテ・スケルツァンド)は、第七交響曲の有名なアレグレットと共に、一般的人気にあずかっている。その独創性は主として木管楽器の使用にあって、ベートーヴェンは管楽器を器楽編成法の習慣的な法則とは反対に伴奏として用い、ヴァイオリンは活発な——ほとんど諧謔的な——メロディーを維持し、バスは同種の楽句で重々しく答えている。すべてが人の意表に出て、新鮮で、きびきびしている。第三楽章はメヌエットの形式と拍子とをもち、その様式およびその指導観念の天真爛漫な単純性によって、ハイドンのメヌエットを思わせる。最終楽章——ベートーヴェンの交響曲の傑作の一つである——では、ユーモラスなま思いがけない挿話、和声の対照、さまざまな転調および、巧妙な管弦楽的な効果の無限な連続にぶつかる。私は嬰ハにおける全オーケストラのめざましいユニゾンの効果をあげなければならない。この嬰ハはベートーヴェンがさまざまな楽器のちがった音域で第一主題を思い出すディミヌエンドの直後、不意打ちに縁遠いハ長調に闖入する。なおまた規則立った音程でスタッカートを打つヘ音で、ドラムとバスーンとを結びつけてあらわしたすこぶる諧謔的な効果——二度繰り返される——をもあげなければならない。最終楽章はこうした興味深い細部に富んでいる。

〔1872年〕

 
第七交響曲
ベートーヴェンの第七交響曲は有名なアレグレットのおかげで大衆に非常な人気がある。この偉大な交響楽家の作品の中でこのアレグレットは、普通の歌劇で「お好みのアリア」として知られているものと同じ役割を演じている。こうしたアリアは、非常に多くの場合、その前後の楽曲とちがっている。というのはメロディはずっと俗向きで、和声はお粗末で、また詩的でないからである。大多数の人はいつも芸術的色彩の美しい漸進には盲目である。明るい色合、鮮やかな輪廓および強烈な色彩法——目をとらえる効果——これだけが彼らの注意をひくことができる。柔らかな半音、完璧な細部、形式の雅致ある完成、すべてこうしたものは、これら不幸な盲目な犠牲者達の注意をひかない。最初看過され、誤解された細部がこの絵の背景から離れはじめるには、永い時間を経過しなければならない。一つの音楽作品が大衆の所有物となればなるほど、最初聞いた時に評価し得なかったあらゆる美を、驚異をもって観察しはじめる。同時に大衆は「お好みのアリア」に魅せられなくなって、その曲が平凡であることを見出し、ついには町の流行歌になり、そこで「お好みのアリア」以上には発達しない大衆に媚びる、愉快な辻楽師の財産になる。
 
だが世の中には教養のあるものも、教養のない者も同様に楽しませる力をもつ珍しい作品が若干ある。これらの作品の美は不変不易で、聴けば聴くほど愛するようになる。その力および独創性は解剖に不可能なものである。だがけっして短命にはならない。というのは模倣も剽窃もできにくいからである。第七交響曲のアレグレットはこの種の音楽に属する。これは——六十年以上も——文化の世界全体にとって、快楽の豊富な泉であった。この不思議な作品の第一および最後の楽章は、一八一二年に全欧洲を驚かした時——ベートーヴェンがはじめてこれらの楽章を紙挟みから取りだした時——と同じような光輝を放っているが、アングレットに劣るものではない。だが私は繰り返していうが、後者は幾分はその人を魅すメロディーのおかげで、幾分は音響の物質的な美——その歎賞すべき器楽編成法——のおかげで、人気と特権を得た。
 
この交響曲の第一楽章は幅広い、大胆な序奏部ではじまっていて、徐々に興味を加えて行くところ非凡である。ベートーヴェンはこの興味を、精力的な特色をもつ簡単な、短い主題を「推敲」なる術語でよく知られていたものによって発展させた。この序奏部の最初における管弦楽的効果はすこぶる独創的で、つづいてしばしば繰り返される。楽器の全体は大きなスタッカート和音を奏し、この和音から最初は気づかぬ位かすかに、だが後にははっきりと、オーボーにて持続された序奏部の主題が形づくられる。アレグロの第一主題は素朴な、田園詩的性質のメロディーで、ベートーヴェン時代の修辞癖家はこれを、交響曲的主題の選択の眼識に不足するといって、ベートーヴェンを非難する口実にした。あたかもアルプスの風景の荘厳、あるいは海洋の嵐を描いた画家が、単純な田舎の風景を描いても同様な成功は得られないだろうといったように。
 
本来のアクセントが小節の第三拍にあるこの主題のリズムは、全楽章を通じて驚くべきほど巧妙に維持されている(〔底本の著者である〕ニューマーチ注。私はこの文章をロシア語で現わされた通り印刷したが「第三拍」は明らかに「第一拍」の誤植だと思う)。転調、主題の変化、めざましく新しい、大胆なハーモニーはたえず興味を増してつづき合う。だが第一位を占める根本的リズムは全体を通じて変化されない。この統一における無限の変化の、驚くべき効果を言葉に訳すことは不可能である。ただベートーヴェンのような巨大な天才のみが、聴衆の注意を疲らせずに、あるいは一時最初のリズム音型を執拗に反復して快楽以外のなにかを感じさせておいて、こうした困難な仕事に美事な結果をもたらすことができたのである。この不思議な作品の他の細目の中では、私は第一楽章の終わりのストレットを指摘したい。ここではバスとチェロとヴィオラとが、短い二小節からなる楽句を連続十二回繰り返し、オーケストラの高音域は主和音の前進的発展をなして動いている。この独創的な進行方法は、序奏部の最初の和音同様、無数の模倣者にとってモデルになっているが、中でベルリオーズは彼の「ロメオとジュリエット」の第一楽章の終わりで、同様な効果をあげるために利用している。
 
アレグレットは構想では、異常に簡単なリズム音型の発展からなっていて、この簡単な主要観念は、この楽章に否定できない美を授け、この美のおかけで、この楽章は非常な人気を博した。この音型ははじめ低音部、ヴィオラ、チェロおよびバスから聞こえる。これがヴァイオリンに移ると、短調で対位法的性質を帯びたもの悲しい、哀訴するような楽句をもつチェロといっしょになる。主要主題は徐々に成長し、いよいよ目だち、ついにはオーケストラの全勢力で奏される。その後に落ちついたまたよろこばしい、まだ遠方にある幸福といった何かを求める希望を暗示する対照的なメロディーがつづく。とかくするうちに、予感のささやくような独創のリズム、陰気なモメント・モーリがバスに聞かれる。主要主題が帰ると、それは全然変形され、小遁走曲形式で最後の展開を受ける。やがてそれも消え去り、あたかもまだ何かいうべきことがあるかのように断片的に再現し、終わりに漠とした和音でまったく消える。かくも永い年月を経ても、なおの驚くべき作品の構想および完成に示された力、その斬新さと清新さに驚かされるから、われわれの祖先は、ベートーヴェンが彼の天才の魔力によって、永遠の美と調和との理想的な世界を、人類の眼から隠したカーテンをはじめて上げた時、どんなに驚いたことか!
 
スケルツォは生命と喜ばしい動きとに充たされ、中間の挿話部に、ベートーヴェンはこの楽章に勝利の厳かな歓喜の性質を与えている。この楽章にはもう一つめざましいと同時に斬新な効果——それが書かれた時代から見て非常に独創的な——がある。私は上声部と対照をなす属和音のペダル・ポイントと倚音のアクセントとをいっているのである。
 
アレグレットの真面目な性質と対照して、スケルツォがよろこばしい気分に目だっているとすると、最終楽章はほとんどバッカス信者風で、拘束されないよろこびと生の満足とに飽き足りた情景の全体を描き出している。この宏壮な最後の楽章に聴き入ると、われわれはベートーヴェンの創造的想像か、形式の完成か、あらゆる音楽的方法を取り扱う驚くべき熟練か、主題の展開および楽器編成の充実と絢爛との驚くべき熟練か、どれをもっとも歎賞したらいいのかわからない。

〔1872年〕

ロベルト・シューマン

第四交響曲について
たしかにこういっていいだろう。この世紀の後半の音楽は、将来の芸術史上においても、たしかに来るべき世代から「シューマン風」として知られるだろうと。根本的には、ベートーヴェンの音楽に類似し、しかも同時にきわだってちがっているシューマンの音楽は、新たな音楽形式の一世界全体をあらわしていて、まだ先人の命令で震えたことのない心の絃にふれている。われわれは今日の男女の心をかき乱すわれわれの精神生活の深刻な、神秘的な動揺、疑惑、絶望、理想に対するあこがれなどの反響を、彼の音楽の中にとらえうるように思う。歴史はまだシューマンを認めていないが、ただ遠き将来において、彼の作品の客観的批評的評価をすることができるだろう。だがこの作曲家が近頃の音楽家の中でもっとも輝かしい星であることは、争われない事実である。なぜかとなら、今日催されるよき音楽会で、シューマンの多数の作品の少なくとも一つを含まないものはないからである。彼の作品では、創造力は驚くべき生産力と比例している。
 
音楽協会が催した最近の音楽会で、われわれはシューマンの第四交響曲(二短調)とピアノの小品「夕べ」(トロイメライ)を聞いたが、この小品は簡潔であるにかかわらず、魅力と真の天才とに充たされている。私は大きな交響楽的作品よりもむしろ、この微妙に詩的な小品に団扇を挙げたいとさえ思っている。第四交響曲は、彼の交響曲の最後のもので、同時にもっとも価値に乏しい(〔底本の著者〕ニューマーチ注——これに本当は第二であって、チャイコフスキーはこの事実を見落としていたらしい)。この作品は最初の二つの交響曲にてわれわれを打ったあの圧倒的な力、あの鋭い哀感をもたない。不幸にしてこの交響曲の美の総和をもってしてもシューマン、とくに交響楽作家として見たシューマンの作品全体に行きわたる大きな欠点をつぐなうことはできない。この欠点とは画家が色彩の欠乏と称するもので、楽器編成の青白色である。乾燥無味である——殺風景といってよかろう。私は技巧上の細目にわたらずとも、読者にこう説明できる。楽器編成(つまり一つの作品をさまざまな楽器に配分すること)なる技術は、楽器の個々の集団を交互に用いる方法、楽器の集団を適当にまぜ合わす方法、強烈な効果を節用する方法などから成立し、また色彩のたくみな使用——すなわち楽想に「音色」を応用すること——から成立している。シューマンはこの知識を獲得しなかった。彼の管弦楽曲はつづけざまに作られ、楽器はことごとく彼の思想の説明と発達とに参加している。楽器を分けて使わないから、その間に対照がない(そして対照の効果は、オーケストラ編成では無尽蔵ではない)。たいていの場合は連続する怒号とまじり、しばしば作品のもっともよい部分を傷つけている。器楽編成にかけては、シューマンはベルリオーズ、メンデルスゾーン、マイエルベールおよびワーグナーのような大家より低い水準にあるばかりでなく、最善の霊感を彼から借用した多くの第二流の作曲家にさえくらべられない。

〔1871年〕

 
第一交響曲について
シューマンの第一交響曲は、一八四一年に書かれ、この種の作品の最初の試みであった。二十才にて作曲をはじめ、美事なピアノ曲を数曲と多数の歌曲を書いたシューマンは、三十一才になってはじめて管弦楽に手をつけた。この大家がこんなに遅く交響楽に手をつけたという事実そのものは、オーケストラに対して強烈な嗜好をもたなかったことを立証するように思われる。彼の気に入りの楽器——ピアノ——の性質全体と、そのもっとも微妙な資源の偉大な鑑定家である彼は、この小規模のオーケストラの豊富な、ありあまる響鳴性を引きだす芸術にかけての無類な大家である。けれどもシューマンには明らかに、近代オーケストラの無尽蔵な宝をあらわすことはできなかった。その後期の作品は、いずれも色彩の感じと天才的工夫との不足を示している。彼は色彩を侮り、刷毛よりもペンと鉛筆とを好んだ。シューマンの音楽——いつも創見に富んでいるが、色彩に青ざめている——のもっとも熱烈な嘆美者たちはいずれも、彼の管弦楽曲がピアノに編曲されると、事実よくなるのを認めている。シューマンは思想の富に美しい音響をかぶせる技術をもたなかった。彼の管弦楽編成はいつも曇っていて、重々しく、華麗と透明とをかいている。シューマンの天才のこの性格的な消極的特長は、彼の第一交響曲にはあまりあらわれていない。シューマンはこの作をメンデルスゾーンの力強い感化と親しい指導との下に書いたといわれている。ところがこの感化の形跡ははっきり出ていない。シューマンはその積極的性質と消極的性質とをことごとく有する第一交響曲にて、メンデルスゾーンよりも多くの力と、能力とより偉大な個性とを示している。一方では想像の富、構想の簡潔およびその根本的形式におけるベートーヴェン流の成形力、また一方では色彩の不足、朦朧および管弦楽編成の魅惑的な細目の無視——これが交響楽作法におけるシューマンの最初の論文に見出されるものである。
 
この作は主要観念を遅い拍子で、金管楽器数個にて提示し、全オーケストラが繰り返す序奏部にはじまる。これはいわば、作が進むに従って姿をあらわす贅沢な、雑多なベイジェントを先触れる合図である。第一主題の勝利の歓喜は、対照的な性質をもつ挿話に席を譲るが、この挿話は——きわだってちがっているにかかわらず——それに先だつものと密接な関連をもっている。これらは双子のテーマで、シューマンの心から同時に生まれたものであることは明らかである。その連結は、楽想を一つに糊づけする浅薄な習慣のある劣等な作曲家の作品に見られるあの見苦しい連結に傷められてはいない。シューマンはこの主題を仕上げるにあたって、モーツァルトとベートーヴェンが定めた古典的形式から離れずに、全然新たな進行方法を紹介し、以前の大家たちの感化を完全に脱した独立をあらわしている。この第一楽章全体は新しい浪漫的なまた独創の思想が、形式の既定伝統と一致できることを証明したもので、いわばベートーヴェンで終わる古典派とシューマン、ショパンおよびベルリオーズが参加した新運動とを連結する環である。この交響曲の他の楽章もまたこの折衷主義の刻印をもっている。アンダンテでは華麗な変奏曲を伴う哀歌的性質の美しいメロディー、ことにそのメロディーが下属音の調でチェロに移る時、魅惑的な効果を生む。第三楽章では、そのリズムはベートーヴェンの交響曲に見出されるようなスケルツォよりも、メヌエットを連想させ、最初のトリオは弦楽器と木管楽器が互いに呼びかけているように見えるたくみな和音、なおまた急走する切分音化されたリズムとすこぶる独創的な和声とを有する最終の結尾部の故に、とくに目だっている。大胆な、華麗な形式の完全な美しい転調と多様なリズムとハーモニーとに富んだ最終楽章は、この微妙な作品への歎賞すべき結尾部として役だっている。

〔1871年〕

 
ピアノ五重奏曲について
シューマンは巨大な創造の天禀をもちながら、管弦楽や室内楽を媒体にして思想をあらわす特殊な本能をかいていた。この点で、「もっとも卓抜な」ピアニスト、作曲家であったショパンに似ている……形式、構造、仕上げにかけて、シューマンの交響楽的作品にはありあまる美が散在するにかかわらず、第一位は純粋なピアノ作品、およびピアノが主役を演ずる室内楽に与えられなければならない。変ホ長調の美しい五重奏曲はこの種のものに属する。
 
第一楽章はきわめて簡単な、だがめざましくまた美しい主題、互いにきわだった性質をもつ二つの主題にもとづいている。アンダンテは送葬行進曲の様式とリズムにて、ほの暗い悲劇の全体を小規模に描いている。シューマンは不思議な主要主題を提示してから、森厳な宗教的色彩をもつ従属的楽想に移り、信仰と自棄、神の摂理へのおだやかな服従、運命の不可抗な命令に従う快諾をあらわしているように思われる。やがて送葬行進曲の暗い主題に帰るが、この主題は突然愛するものの悲劇的な死に興奮し、反抗する激越な霊の声を反響する嵐のような挿話に妨げられる。だが送行進曲の音譜は、いま一度断腸の挽歌のように、この音楽の中に闖入する。やさしい宗教的情緒が次第に他のあらゆる情緒を征服し、興奮した精神は鎮まり、天上の美を期待して地上生活の苦悩と和解しようとつとめる。アンダンテは最高のフリュート風な音域で、ヴァイオリンとヴィオラとがハーモニックスにて奏する透明な長調の主和音にて霊妙な終止に達する。スケルツォは男らしい精力と霊感的な激越とに充たされている。最終楽章は聴く者を第一楽章のよろこばしい気分に帰らせ、ここでシューマンは最初および最後の楽章の主要主題をベダル・ポイントとして、主題の多音的発展にその無類な技巧の手練をあらわしている。これは天才の説明できない音楽現象の一つで、音楽専門家はその前に頭を下げて敬意を表するよりほかはない。

ブラームス

あらゆるドイツ人はこの作曲家——まだ若い——を熱情をもって眺め、音楽を未だ踏査されない道へと導く運命を負った人を彼に見出したと思い、ブラームスはその創造的天禀の力によって偉大な先輩たちと同等ばかりでなく、凌駕することさえできると思っている。この風説はシューマンの発意によってブラームスの第一作が発表されるやいなや、ドイツの音楽界中に流布された。大作曲家が正確な批評的本能をほとんど授けられず、一般に同じ芸術家仲間に対してすこぶ寛大だということは周知の事実である。シューマンはこの批評的寛大のめざましい例である。彼は一生を通じてメンデルスゾーン、ショパンあるいはベルリオーズに頭を下げ、ヘンセルトやヒラアその他のような、凡骨にさえ頭を下げた。彼は天才の新しい表現にあうと、心から恍惚となって、ただただ彼自身の価値を低めるにすぎなかった。シューマンは生涯の終わり近く、ライプツィヒで発行していた音楽雑誌を通じて、音楽の全世界をてらし、ベートーヴェンが残した空席を充たす音楽のメシア(救世主)の降誕を予言しはじめた。
 
ブラームスの最初の奏鳴曲があらわれた時、シューマンは「彼は来た」という簡潔な一句をもって若いブラームスの名において声明した待望の天才の誕生を告げた。だが、時はシューマンの思いがけない声明が、この寛大また温厚な作曲家を易々と陥らせた間違いであったことを証明した。ブラームスはシューマンが彼に課した、また彼において人格化された全ドイツ音楽に課した責任を果たさなかった。ブラームスはドイツ派に豊富な旧習墨守的な作曲家の一人にほかならない。彼は流暢に、巧妙に、正確に書くが、独立した天才の火花をもたない。だいぶ前に陳腐になった空虚な音楽思想(主としてメンデルスゾーンから借りた)をもつ無限につまらぬものに満足している。なおまたシューマンのある外的なマンネリズムを模倣しようと努めている。だがブラームスは才能をかいてはいない。したがって同時代の人々より頭角をあらわしている。けれども今日彼の天才には不可能な希望の実現という問題はない。

〔1872年11月〕

ベルリオーズ

ベルリオーズは音楽史上におけるはなばなしいと同時に、例外的な現象である。彼は芸術のある活動範囲内で、他の芸術家のかつて達したことのない理想的な高所に達した。彼の作品は一つとして、形式美と合した該博な技巧上の完成と、思想の深さ芸術のあらゆる偉大な作品の本質的財産——とをあらわしていないものはない。多くの点で新機軸をひらいたが、まったく新しい派に属する人とはいわれないし、また直属の弟子をも残さなかった。彼は一生を通じて非常興味を呼び起こしたが、モーツァルトあるいはベートーヴェンおよび——今日では——ワーグナーのもっているような、ああした熱心な仲間および保護者をもたなかった。ドイツのほとんどいたるところで——ライプツィヒ音楽院の片意地な態度は別だが——またロシアで与えられた熱烈な歓迎は、彼の音楽に対する世界的同感というよりも、むしろある副衝動によるのであった。ドイツおよびロシアはベルリオーズという名において、彼の清廉な仕事、熾烈な芸術愛、愚鈍、因襲、無知および詩人が「群像」と呼ぶ残酷な単位の集団の陰謀に対して戦った精力的な、また気高い努力に敬意を表したのであった。
 
ベルリオーズの天才のある方面がどんなに目だっているとしても、また彼の同感的な個性が現代の偉大な音楽家の中でどんなに傑出しているにしても、なお私はこう主張する。彼の音楽はモーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、シューベルト、メンデルスゾーンの音楽、あるいはワーグナーが将来にかならず書くにちがいない音楽と同じ意味で、大多数の人を感動させはしなかったと。ベルリオーズがフランス国民の誤解の犠牲になったこと、彼がその国で尊重されなかったこと、彼がうまずたゆまず刻苦精励の芸術家に普通与えられる運命よりも立派な幸福な運命に値する人であったこと——こうしたことは皆否定できない事実である。だが芸術上同時代人の間に占めた孤立位置、成功の不足、大衆および音楽家たちの冷淡、こうしたものは彼の例外的音楽気質のある特性、および多くの点で彼の自然な、創造的天真の未完成に帰すべきものである。
 
作曲上、われわれは二つの別個な要素を区別しなければならない。純粋な発明力と想像力との二つに区別しなければならない。音楽の歴史は、第一流の驚くべき力をもつ作曲家たちの模範
を提供する。これらの人たちは努力もしくは労作の結果ではなくて、生まれつきの本能と傾向との結果であった美しいメロディー、楽想および微妙なハーモニーを無尽蔵に生んだ。この点でシューベルト、ショパン(ある程度まで)およびわがロシアの作曲家ダルゴムイジスキーを例にあげることができる。他の作曲家たちは、創造的精神の第二流の要素を授けられているが、発明力に比較的乏しい作曲家たちは、音楽的発芽のあらゆる内容を抜きとる方法を知っていて、色彩対照の変化により、また外的な美に対する特殊な注意によって、事態を極度に利用している。メンデルスゾーン、リストおよびバラキレフはこうした作曲家である。想像の富と合したメロディー、リズムおよびハーモニーの発明力の一様な均整は、モーツァルトおよびベートーヴェンのような偉大な作曲家にのみ発見される。
 
ベルリオーズはといえば、彼は疑いもなく作曲家の第二の範疇に属している。火のような詩的想像力が音楽の絶対的創造力を凌いでいることは、とくに彼にあきらかである。というのはベルリオーズは、主要な思想の発展にかかすことのできないハーモニーの技術を欠いているからである。彼のハーモニーはゆがめられていて、時とすると精緻に組織されている耳には聞くにたえない。われわれはその中に狂的な支離滅裂、自然な感情の欠乏、各部分の秩序紊乱を発見する。これが彼の作品を妨害して、聴衆の音楽的情緒に卒直には訴えない。ベルリオーズは想像力に依頼して作をした。彼は人の注意をひき、興味を感じさせることはできるが、われわれを感動させることは滅多にできない。ベルリオーズはメロディーの霊感に乏しく、ハーモニーに対する精妙な感情を欠いている。だが聴衆の想像を刺激する驚くべき天恵を授けられ、創造力の全部をあげてこれを音楽美の外面に用いた。この傾向の結果は、ベルリオーズを霊妙なまた霊感を受けた詩人、近ずきがたき偉大な大家であることを声明したあの驚くべきオーケストラ編成法、無類な響鳴の美、自然なまた幻想的な世界の絵のように美しい表現にあらわれている。私たちは「ファウストの劫罰」の超自然な世界を描いたあらゆる詩的な魔力、あるいは「ロミオとジュリエット」交響曲のスケルツォ、あの「マブ女王」の小さなお伽噺を思い出す。ここでは音楽は想像を——美しい夢のように——久遠の理想的な幸福の谷間にある未知の境地へと連れさるといったような、そうした幻想的な題材を取り扱った写実的な画をあらわしている。

〔1872年11月〕

サン・サーンス

サン・サーンス氏は自国では音楽の進取的要素を代表する少数の仲間に属している。現代フランスの作曲家の中でもっとも天稟のある人々——マスネ、デュポアおよびパラディル(去年三十才で死んだ、非常な天分をもつ作曲家ビゼーもその一人であった)よりなるこの進歩的な仲間の中で、サン・サーンス氏はきわめて卓越した位置を占めている。
 
氏の国民性のもっとも共鳴的特長の全部、心からな誠実、感情のあたたかさおよび知識が、わが客人の作品の一音一音にあらわれている。これらの特長は氏の芸術的な演奏によってさらに光輝を放っているが、その演奏はなんらてらいの跡がなく、そうした特長と思慮深い、入念な句法をあらわしている。

〔1975年11月ごろ〕

 
私が間違っていないとすれば、このフランスの大家の創作方法の独創性は、セバスティアン・バッハ——氏はあきらかにバッハを好んでいる——の様式と、とくに気持のよいリズムがはっきりと感じられるフランスの国民的要素とを、美事に結びつけた事実にある。

ワーグナーについて

ワーグナーは疑いもなく音楽界の地平線上にあらわれたもっともめざましい個性である。彼の作品はまだドイツでも外国でも一般大衆には理解されていない。だが、あらゆる既成の権威に反対する狂暴な論戦と、彼自身が解決しかけていた問題の広大性とによって、全音楽界の注意を自己にひきつけるに成功したばかりでなく、音楽を日常生活の事件としない人たちの興味をさえ起こさせるに成功した。ある者はワーグナーを音楽の燈台で、ベートーヴェンにのみ譲るものと見ている。ところが他の者には現代の「アビシニアの大家」流の山師と見られている。だがとにかく、ワーグナーがどんな代価を払っても盛名をかち得たいと思っていたと信じてよい——理由がないでもない——とすれば、彼の目的は今や達成されたわけである。彼は熱心な崇拝者をもっている。同等に彼の一言一句を批評するのを仕事にしているおそろしい敵をもっている。そうして彼の言葉は両半球の大衆から歎賞、反抗もしくは単な好奇の気持ちをもって期待されている。
 
われわれは芸術あるいは科学を研究する人たちの中に、二つのタイプをはっきりと区別することができよう。第一は天職に従って自己の力にもっとも適しているように思われ、自己固有の性質および身分とだいたい一致するように思われる道を選ぶ人たちからなっている。この人たちは方法として、時好に投じた観念はなんなりと採用しない。権威者を倒して自己の道を掃き清めようともしないし、また自己を盲目な人類の目を開けることを義務とする、神の器械たらしめようともしない。彼らは働き、勉強し、観察し、そして自己を完成する。そして自然な性質と、彼らが開発した時と場所との事情によって創作する。彼らは自己の問題を解決し、人生の競争場裡より退き、将来の世代の快楽と利益のために、労作の果実を残しておく。「芸術家・働き手」のこの種のタイプにバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマン、グリンカなどが属している。もう一つのタイプに属する人たちは、もっと迅速に卓抜な位置に達し、がやがやと騒々しい群衆の中を押しわけて通るために、はかることのできない野心に疲れ、行く手に出会う人たちを追い散らし、自己自身に一般的な注意をひきつけようとつとめる。こうした芸術家はいつでも新しい——時には虚偽の——思想の代表者を気取り、彼らの天才を実現するためでなく、ただ彼らのドン・キホーテ主義で社会を驚かせようとつとめる。このタイプにワーグナーとセロフが属する。

〔1975年11月ごろ〕

 
〔ワーグナーの「私の転職は歌劇の範囲内にあるのだから」という発言に対して〕ワーグナーのこうした言葉は先入の理論がこの頑固な、天分の豊富な、だが狭量なドイツ人の心を害していた程度を示してはいないだろうか。

ミハイル・グリンカ

「皇帝に捧げた命」について
〔ロシア音楽の父と目されていたミハイル・グリンカの「皇帝に捧げた命」はワーグナー的な意味で歌劇的だったが、新作の「ルスランとリュドミラ」は「失敗作」であると断じた批評家アレクサンドル・〕セーロフの批評の方が理屈に合っていると思わないわけにはゆかない。特殊な音楽的見地からこの問題を観察すると、セーロフは音楽材料について、「ルスラン」の価値を否認していないし、またまったくその最善の性質を否認してもいない。だが芸術の大作が尊重されるのは、作家の疑いのない創造力よりもこの力と形式の完成、その均斉、観念とその外的表現との巧妙な融和になることは周知の事実である。音楽家はみな、モーツァルトが、またシューベルトが、音楽霊感の大量——より大量でなくとも——をもっているのを知っていながら、ベートーヴェンを作曲家の第一人者と見なす理由は、これではなかろうか。われわれが音楽家の神殿におけるグリンカの位置を指摘したいと思ったら、その創造的天才の純粋な力の点で、彼を音楽のもっとも偉大な代表者の中に加えていいだろう。だが運命がグリンカを、彼の天稟を充分に発達させるに必要な境地に置かなかったことは、事実である。彼は好事家主義の羊皮をかぶった獅子である……寓話に出てくる富裕な青年のように、彼は実現しなかった力の資本を抱いて、それに値する方向を、その力に与える方法をのみ込んでいなかった。その音楽的性質の特長が著しく抒情的で、また交響楽的であったにかかわらず、グリンカは純粋な交響的作品をほとんど残さなかった。
 
だが彼の歌劇にあらわれる挿話から判断すると、彼はこの様式に無類な例証を与えている。グリンカは教養の高い音楽的環境を奪われ、当然値する努力を見出さなかったから、霊感の出口をもとめ、霊感そのものをあらわす第一主題に心を奪われた。彼はこれを熱烈に抱擁して、この主題が芸術の見事なまた厳粛な作品に適するかどうかを考えて、躊躇するようなことはなかった。たとえば「皇帝のための生命〔皇帝に捧げた命〕」は、グリンカがこうして、マヅルカのリズムのきわだった効果およびロシア民謡の憂愁性に心を奪われた表明である。「ルスラン」はまったく彼の音楽的霊感——彼の劇的な本能というよりもむしろ交響楽的本能——を興奮させたいくつかの幻想的情景のために書かれたのであった。従ってたまたま美事な構想に作曲した「皇帝のための生命」は立派な歌劇となったが、異なった時代に異なった人たちによって集められた連絡のない幻想的情景よりなる「ルスラン」は、模範的な歌劇とは見なされない。というのは、その組織は有機的でなく、まったく劇的な興味を欠いているからである。この作はもっとも卓抜な音楽と合した霊妙な見世物である。
 
「フォルムスキー公爵」について
この作品で、グリンカは当時のもっとも偉大な交響楽作曲家の一人であることを示した。「フォルムスキー公爵」の筆致の多くはベートーヴェンの刷毛を思わせる。使用された方法には同じ節制があり、単なる外的効果を求める努力は全然ない。ベートーヴェン同様の、労作した観念でなく、霊感された観念の真面目な美と明快な叙述とがあり、形式および型の適応性がある。最後に気取りやこじつけから遠く離れ、強烈な、だがけっして騒々しくない、堅実な、またハーモニー的構想の浅薄あるいは朦朧を脱した、ベートーヴェン同様の無類な器楽編成がある。序曲につづく各間奏曲は、大衆の手で描かれた小さな絵である。これらは連続した長い交響曲の全体として、第二流の作曲家を満足させる交響楽的奇蹟である。

アレクサンドル・ダルゴムイシスキー

ダルゴムイシスキーが歌劇の方面で、二三の選ばれた作品によってのみ完全の域に達することができたのは、彼の驚くべき微妙な本能と力強い個性とのおかげにほかならなかった。彼の力は主にその不思議な写実主義と、すぐれた声楽上のレシタティーフ、つまり彼のすばらしい歌劇に無類な独創性を与えた性質とにある。この作曲家は自己の天分のもっとも目だった性質を認めた。だが不幸にも、真面目な批評的本能に支持されないこの知識は、彼に全部レシタティーフからなる歌劇を作曲するという奇怪な考えを抱かせた。こうした意図をもって、ダルゴムイシスキーはプーシキンの「石の客人」を台本に選んで、その一字一句をも改めず、歌劇の実際上の要求に適合させもせずに——非常に長い台本の各行に一々レシタティーフを当てはめた。われわれはこのレシタティーフがなんら定まったリズムをもたず、輪郭のはっきりしたメロディーも、音楽形式ももたず、単に音楽建築の各部分をくっつけるセメントに過ぎないことを承知している。レシタティーフは、一方では場面の発展に必要な普通条件なるが故に、また他方では歌劇における抒情的状態と対照をなすが故に、必要欠くべからざるものである。美的発展の生真面目な概念にすこしも指導されない勇敢なこの人の、何たる心得ちがいであろう! 音楽のない歌劇を書く——これは言葉や動作のない劇を書くことと同じではなかろうか。

アレクサンドル・セーロフ

「ログネーダ」について
この歌劇の成功が長つづきすること、この歌劇がロシア音楽の演奏曲目中に占める堅実な位置とは、その固有の美よりも、むしろ作曲者を導いた効果の微妙な予想に帰すべきである。セーロフは他のもっと力強い天分を有する作曲家が、すでに衰えかけた年齢に作をはじめたので、どちらかといえば内的衝動から仕事をしたのではなかった。というのは、長年あらゆる方面にわたって音楽の批評的研究をしたので、迅速にまた楽に作をすることを知っていたからである。疑いもなく、セーロフのようなすぐれた知識の倉庫をもつ天稟の音楽家は、一般的な同情をかちうる機会という機会を逃がさなかった。どこの国でも大衆は、美学のことではとくにやかましくはない。彼らは外的な、また感覚的な効果と強烈な対照とを好み、上演曲目が非常に色彩的で、見ばえがして、華麗でないと、深いまた独創の芸術品であっても、一向に冷淡である。セーロフの場合もこれであった。彼は大衆をとらえる方法を知っていた。彼の歌劇がメロディーの霊感に乏しく、有機的連続に不足し、レシタティーフとデクラメーションとに力弱く、ハーモニーと器楽編成とは未熟で、ただ装飾的な効果しかもたないにしても、この作曲家はどんなに感覚的な効果を積みあげに成功していることか! 鵞鳥と熊と、赤い馬と犬になった役者、ルアルドの死という人を感動させる挿話、われわれの目にありありと見させる王子の夢、われわれの耳にはっきりと聞かせる支那人の歌、すべてこうしたもの——霊感の欠乏の結果である——が、文字通り破裂して驚くべき効果をあげる。
 
すでに述べたように、セーロフはすばらしい経験と、非凡な知性と、該博な知識とをあわせもつ凡庸な才人にすぎなかった。だから「ログネーダ」の中に——沙漠の中の珍しいオアシスのように——すぐれた音楽を見出したからとて驚くことはない。こうしたすぐれた音楽は、第二幕の偶像崇拝者の合唱、イヅィアスラフの人を魅する小唄、ログネーダのバラード、およびこの歌劇をむすぶ美事な讃美歌である。とくに大衆の気に入った音楽はといえば、おたぶんにもれず、その真価がかち得た成功とは逆比例をなしていることを証明している。たとえばルアルドと旅人との二重唱は、一ダースのイタリア歌劇の二重唱よりよくもなければ悪くもない。有名な第三幕が成功したのも、一つには無伴奏の美しい合唱、二つにはルアルドの死の挿話によって目ざめさせられた信仰と愛——キリスト教的意味で——の人を感動させる情緒のおかげである。

リムスキー・コルサコフ

第三交響曲について
この交響曲のだいたいの印象をかいつまんでいえば、こうなるであろう。技巧上の熟練が思想の性質にまさり、霊感と情熱とを欠いている。代わりに入念な構想をもっているが、賛美な細部が多過ぎる。この交響曲はすべての教育は子供をあたため、食事を与え、大事に育てるにあると信じた一種の母性愛にあまやかされ、なだめすかされ、世に出されたもののように思われる。リムスキー・コルサコフは明らかに過渡期にある。彼はいまでも助力の一点を求めて、近代的なものと古いすたれた音楽形式への秘密な同感との間をためらっているが、この点、彼には最初から辿られるだろう。この俗人——本心は保守主義者——は自由思想家の敢闘場に引き込まれ、びくびくもので信仰を棄てた。こうした誠実の不足の結果、リムスキー・コルサコフの近頃の作品は無味乾燥なつめたい無形式のものになった。真相はいつもその賛美な手際と微細な点画に隠されている。こうしたわけでわれわれは大衆が特殊な心酔をもって彼の交響曲を迎えないでも驚かない。
 
鑑賞家はかならず人をひきつける細部と、耳に媚びるような音の組み合わせの遊戯とをよろこぶものである。この作曲家はどちらの側に属するか、はっきり決定はできないから、俗人と改革者との二つ仮面を交互にかぶっているが、この仮面を通して、われわれの眼にはたえず力強い、非凡な天分をもつ、優雅な創造的な個性がちらついて見える。リムスキー・コルサコフが明らかに彼の生まれつきの音楽的素質から発するこの精神的醗酵の経過を歩いて、発展の一定の段階に達した時、彼はたしかに現代第一流の交響楽作家の一人になるだろう。だが彼はベルリオーズおよびリストの形式をもたない浪漫派よりも、むしろ自己の音楽上の性質が傾いている古典派の仲間に加わるだろう。その時こそ、彼はもっともよい意味で——グリンカのように——音楽の折衷者になり、自己の作品中に、厳格な古典的形式および方法と、そこに新派の絶対的な性質があるあの近代的表現の目をくらますような美とを合するだろう。