ART

未来派画家宣言

ウンベルト・ボッチョーニほか

木村荘八訳|ARCHIVE編集部改補訂

Published in April 11th, 1910|Archived in May 9th, 2024

Image: Giacomo Balla, “Dinamismo di un Cane al Guinzaglio”, 1912.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、木村荘八が意訳・抄訳したボッチョーニらの「未来派画家宣言(Manifeste des peintres futuristes)」を、ARCHIVE編集部が適時現代語・表記・表現を改め、原本に沿ってレイアウトを直したり若干の語句を補ったりしたうえで、収録したものである。
改補訂にあたっては、原本(‘Manifeste des peintres futuristes’)および神原泰による訳出(『未来派研究』248〜257ページ)を参照し、とくに神原訳から木村が割愛したと思しき・やや文意が汲み取りにくい箇所を補った。その際、一部の補足は〔 〕に入れた。
傍点強調は、太字に変えた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ウンベルト・ボッチョーニ(1882 - 1916)著者:カルロ・カッラ(1881 - 1966)著者:ルイジ・ルッソロ(1885 - 1947)著者:ジャコモ・バッラ(1971 - 1958)著者:ジーノ・セヴェリーニ(1883 - 1966)訳者:木村荘八改補訂:ARCHIVE編集部
題名:未来派画家宣言原邦題:未来派畫家の宣言原題:Manifeste des peintres futuristes
初出:1910年4月11日
出典:『芸術の革命』(洛陽堂。1914年。573-583ページ)

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宣 言
未来派画家

 

◼︎      ◼︎

 
1910年3月8日、トリノのキアレッラ座の舞台で3000人の公衆ーー芸術家、文学者、学生、野次馬ーーを前にして第一の宣言を行って以来、我々未来主義者はますます結束を固くしてその事に当たっている。〔神原訳:(「第一の宣言を行った。」で文意を区切り、)その第一回宣言書は、野卑や、官学的および衒学的凡庸や、古いものや蝕まれたものならなんでも盲目的にありがたがることやに対する我々の深大な嘔吐や、尊大な軽蔑と反逆とを含むところの乱暴にして抒情的な塊であった。〕
 
〔神原訳:それによって我々は、一年前『フィガロ』紙上で、F・T・マリネッティによって始められた未来派詩人の運動に加盟したのである。〕
 
〔神原訳:いまやこの驚くべき闘争が暫時休戦となった合間に、すでにミラノの未来派展覧会が輝くばかりの表明をなしたところの、我々の絵画革新計画を、技巧の方面から詳しく説明しようと思う。〕
 
〔神原訳: 彌益 いやます していく真理の欲求のため〕我々はもはや今日までの色彩・形体には満足していられない。我々の要するものは我々の色彩・形体である。
 
我々が画布に表現するものは、普遍的運動中の一点に固着しているものではなく、運動的感覚そのものである。
 
実にあらゆるものが動いている、あらゆるものが走っている、あらゆるものが速やかに変わっている。目の前にある人間の横顔も静止しているものではない、それは常に現れたり消えたりしている。眼の中に映るものはすべて動き、〔神原訳:運動中の物体は自らの数を増し、映像が次から次へと続いてくるために、形はくずれる。そは急激な振動が空間において起こす現象と同じである。たとえば、〕駆けている馬は四つ足ではない、それには二十本の足がある。そしてその運動は三角形である。
 
あらゆる芸術という芸術はコンヴェンショナルである。絵画に絶対というものは一つもない。昨日新しかった絵も今日は古くなっている。我々はこう言明するが、肖像というものは似るものではない、風景画は描く画家がその心の中に持っているべきだ。
 
人間を描くのにも人間そのものを描いてはいけない、その人を含有するアトモスフィアを描かなければいけない。
 
空間というものも存在しない。街の敷石も電閃の雨に濡らされて地球の底まで届いている。太陽と我々とは何千哩も隔っている、けれども目の前の家屋は太陽の面とぶつかっている。
 
感受性の鋭く尖っている今日、体躯の不透明を信じる人間がどこにあろう。X光線の解析の結果を与えることのできる我々の視覚の二重の力を誰が忘れられよう。〔同一節の神原訳:我々が創造したものの中、我々の視力が倍加されてX光線に似た結果を与え得るのを、なぜ忘却すべきであろうか?〕
 
〔神原訳:我々が提唱する真理を立証するには、無数ある例のうちからほんのわずかの例を引けば足りるであろう。〕
 
辻馬車〔乗合自動車とも〕の中にいる君の周囲の十六人の人は、同時にまた変わり番に一人であり十人であり四人であり三人である。彼らは不動でありまた場所変えをしている。彼らは行ったり来たりしている、街に転げ出して太陽の光に呑まれると、帰って来て君の前に座り込む。普通の動揺の永遠のシンボルのように。
 
いかにもしばしば我らは対談している人の顔に、街はずれを歩く馬を見たことであろう。
 
我々の身体は我々の座るソファーを透視し、ソファーは我々の身体を透視する。辻馬車〔乗合自動車とも〕は通りがかりの家屋に突入し、家屋は辻馬車に乗り掛かって、二つとも混合する。



現今まで絵画の構造はバカバカしく伝統的なものであった。画家は物を見せ、人々はその前にいるのだ。だが、我々は観る者を中心点に取り込むのだ。
 
我々はいかにしてもライフのただなかに突き進まねばならぬ。〔この段落の神原訳:人間精神のすべての領域において、洞察力ある個人の探求が独断の不動な曖昧さを一層してしまったように、生気を与えるところの科学の潮流は、遠からずして絵画を官学的伝統から解放すべきである。〕
 
〔神原訳:いかなる犠牲を払っても、我々は再生したい。〕名実相伴う科学は、古い時代に就くよりも我々の時代に就くことを願っている、我々は芸術をしてついには我々の中にある智解に貢献せしめるであろう。〔同一節の神原訳:我々の時代の勝利者である科学は、我々の時代の物質的欲求によりよく応ぜんがために、自らの過去を否定した。おなじように芸術が自らの過去を否定しかくて、我々を動かすところの精神的欲求に応じ得ることを、我々は欲する。〕
 
我々の革新した心は人間を見て宇宙の中心とは思わない。我々にとって、人間の悲しみは、痙攣的に悲痛の表白を色彩に行っている〔同一箇所の神原訳:痙攣的跳躍をして苦しみ色彩の胸の張り裂けんばかり悲痛な表情をして叫ぶ〕電燈の苦悩と同一の興味がある。近代服装の色と線の調和は、なお古の大家に裸形が働いたのとおなじくらい我々の感受性に作用する。
 
未来派の画の新奇な美を認め理解しようとするには、遺伝や教化から眼を離し心を純にしなければならない。するとただひとつの規準として、美術館ではなしに自然を見るようになる。
 
この効果が得られるや否や、人間の皮膚には鳶色というものがなく、黄色と紅の輝き、緑・青・紫などの舞踊が、まだ見ぬ魅力を織りなすのに気が付く。〔神原訳:夜の生活のために我々の生活が二倍となり、かくて色彩感覚が倍加された今日、いかにして人間の顔を薔薇色に見ることができよう?〕人間の顔は黄・紅・緑・青・紫から成っているのだ。宝石商の飾り窓を覗いている婦人は、宝石のプリズムのような光彩よりも虹のような色をしている。
 
時は経過していく。そして我々の画布にこれを私語させている。我々は未来のある時に当たって、さらに華々しくこれらを語りたいと願ってやまない。〔同一段落の神原訳:絵画における我々の感覚は、もはやささやかれ得るものではない。我々は今後は、耳を聾するばかりの勝ち誇ったブラスバンドのように、我々の感覚が画布の上で歌い鳴き轟くことを欲する。〕
 
暗色に馴れた諸君の眼も、やがては新たなる光の下に開くであろう。我々の描く影は、我々の古の大家のハイライト以上に輝くであろう。そして我々の絵は、美術館にかかっているものの次を受けて、深夜に現れた光のように輝くであろう。
 
今日絵画は 分割法 ディポジショニズム を他所にしては存在を許されない、と我々は結論する。これも意のままに学び適用し得る行程ではない。分割法は個性にしたがって生来の補充質である。そして最も要素的なものであり要用のものである。
 
我々の芸術は〔神原訳:不均斉なまた廃頽した頭脳の作用に帰して〕いろいろの点から非難されよう。が、それに対しては単に我々は〔神原訳:百倍された〕新しい感覚の原始人である、とのみ答える。そして我々の芸術は自発性と力に狂うまでになっているのだ。
 
これらを我々は言明する
一、模倣的なあらゆる形体を排斥し、特質あるすべての形体には栄誉の席を与える。
二、「調和」「趣味」というこれらの言葉の跳梁に対してはあくまで反抗をする。これらの表現するところはあまりに弾力性がある、危うくするとこれらの助けを借りて容易くレンブラントやゴヤ、ロダンなどの作品をも破壊しやすい。
三、美術批評家は有害にして無益である。
四、熱烈に元気あり、自尊に充ちて鋼鉄のごとき我らの生活の旋風を表現するためには、それまでの画題という画題を一掃してしまう。
五、あらゆる革新者に対して猿轡にも似て下される「狂人」という名称は、名誉の称号として受ける。
六、生来の補充性が絵画にあって絶対に必要となっているのは、あたかも詩歌における破調音楽における雑音のごときものである。〔同一条項の神原訳:詩における自由韻律や音楽における多音性と同じく、先天的補充主義は、絵画には絶対の必要である。〕
七、普通の運動力は運動感覚と等しく絵画に描写する。
八、自然を描写するに際して最も根本ともなるべき要件は誠実および至純である。
九、運動力〔神原訳:や光〕とは体躯の実質を破砕するものである。
 
これらに我々は反抗する
一、近世の油絵に時代の色調を与え去らんとするビチューメンの彩料を棄絶する。
二、平滑な色調によって行われる皮相極まる初心の原始思想を唾棄する。彼らはエジプトの線描を模倣して、子供じみてグロテスクな、力もない総合に絵画を貶める者である。
三、 分離派 セセッショニスト および 独立派 アンデパンダン によって未来に就かんと欲する偽りの要求に反抗する。彼らはただただ前代の条理に拘泥する陳腐な新しきアカデミーを守り立てるにすぎない。
四、あたかも文学に扱われる姦通のごとく、不快にもどかしき油絵の裸体画に対して反抗する。
 
この最後の一条についてはすこし説明を試みよう。我々にとって不道徳なるものは一つもない。我々が反抗するのは、裸体画の単調なることに対してである。主題というものは無であってすべてのものが取り扱われるべきものであるという。これには賛同の意を表し、我々もまた肯定する。しかし多くの画描きは情婦の裸形を是が非でも展覧しようとの念にかられて、サロンを腐った肉の市場に化している!
 
で、我ら同志には、向こう十年間絶対に裸体制作を封じるように要望する。
 

ウンベルト・ボッチョーニ 画家(ミラノ)
カルロ・D・カッラ 画家(ミラノ)
ルイジ・ルッソロ 画家(ミラノ)
ジャコモ・バッラ 画家(ローマ)
ジーノ・セヴェリーニ 画家(パ リ)
 

ミラノ、1910年4月11日