PAINTING

キュビズム[一]

アルベール・グレーズ|ジャン・メッツァンジェ

木村荘八訳|ARCHIVE編集部改訂

Published in 1912|Archived in April 27th, 2024

Image: Albert Gleizes, “Le Dépiquage des Moissons”, 1912.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ゴーギャン『ノア・ノア』の「第一章」を収録したものである。
原則として原文ママ。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:アルベール・グレーズ(1881 - 1953)著者:ジャン・メッツァンジェ(1883 - 1956)訳者:木村荘八改訂:ARCHIVE編集部
題名:キュビスム[一]原邦題:「立体派」(『芸術の革命』)、「立體派の畵論」(『未来派及立体派の芸術』)原題:Du Cubisme
初出:1912年
出典:『未来派及立体派の芸術』(天弦堂。1915年。95-127ページ)出典:『芸術の革命』(洛陽堂。1914年。497-550ページ)

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ここにキュビズム(CUBISM)という言葉を用いたのは、ただただ我々の考究することに読者が不審を抱かないようにするためだ。しかし、この名称によって起こる観念が、完全な作画の実現を志しているその運動を定義することはできない。と、すぐあとからそう言い加えておく。
 
けれど、定義は下すまい。我々はただ、限界のない芸術を一定の絵画の限界内に限るという喜びは、確かに努力が必要なだけはある、ということを暗示したいのだ。また、この努力に精を出す人は、だれでもそれを完成させるに足る人なのだ。
 
自分たちの成功するしないは問題外である。我々は、人が自分の日常生活全般と連絡を保っている仕事について云々するときに覚える快意に、励まされ促されているのだ。自分たちは、本当の絵描きを、その人自身の好き勝手な道から見て証明しようとしているだけである。それが、自分たちが立派に信じていることだ。そうでないことは、何にも口にしなかった。
 

 

キュビズムの価値を見積るには、ギュスターヴ・クールベに帰りつく必要がある。
 
この大家は、ダディッドおよびアングルが立派に永遠のアイディアリズムを完成したあとを受けて、ドラクロワやドヴリアにもしたがわず、雇人根性の無駄骨を折りもせず、独立独行した。彼は写実的衝動に手を付けたが、それはあらゆる近代人の努力を駆けめぐっているものだ。とはいえ、彼もよくない視覚習慣の奴隷となっていた。本当の連理を表現するには、まず外形にある幾多の真理を犠牲にしてとりかからなければいけないことに気が付かないで、彼はすこしも知解によって統御しないで、自分の網膜に投影するものを全部受け入れていた。目に見える限内のものすべてが、知解作用によってのみ、はじめて本物になるということに気が付かなかったのだ。我々に強く激しく印象してくる対照も、形象を四六時中保っているという事実が、その存在を美事にするだけとは限らない。これに疑念を持たなかったのだ。
 
実在というものは、アカデミックな法則よりも一段深いものである。また複雑もしている。最初に大洋を観察した第一人者は、クールベのようだ。それも波の動揺に後ろを向かされてしまって、深みという観念を持っていなかった。けれども、我々が彼を咎めることはできない。ここまで微細を穿ち、ここまで力強い我々今日の喜びを、自分たちはクールベに帰しているからである。
 
エドゥアール・マネはそれよりも一段高いところを指し示した。だが彼の写実も、アングルの写実に比べて劣っている。また〔マネの〕《オランピア》も〔アングルの〕《〔グランド・〕オダリスク》のかたわらにあっては重苦しい。我々は、マネが構図の老衰しきった法則を打破し、もったいぶった挿話や逸話の尊重を貶しめて「ごく当たり前のこと」を描いたことに、愛敬の念を持たされている。マネは先駆者なところがある。事実、我々として見れば、〔マネの〕作品の美はまったく作品のなかに入りきっている。なにもただ作品に関する口実のようなもののなかにあるわけではない。物足りないところもあるが、我々はマネを写実家としている。マネが毎日現れる状景を描いたからではなく、ごく平凡なところに光彩ある実在として隠れている力強いものを、いかにして生かすべきかを知っていたからである。
 
彼の没後にはすこし断絶がある。写実的衝動は、外面上の写実と内面のそれとに分けられた。前者には印象派ーーモネ、〔アルフレッド・〕シスレーなどーーを必要とし、後者にはセザンヌがいる。
 
印象派の芸術には不合理が含まれている。いろいろな色彩によって生活を創造しようとし、それで弱々しく効果のすくない素描を振興させようとしている。着物は驚くほど色彩の遊躍に輝いているが、形象は現われないで、いじけている。クールベ以上に、網膜が頭脳を負かしているのだ。印象派もそれを自覚していた。それで、言いわけとして、自分で知解的能力と芸術家的感覚が両立しないことを口にしている!
 
だが、ある一つの力というものは、それが根を張っている総体的思潮に反して現れることはできない。我々は印象派を見るのに、出発点が誤っているとしてはいけない。芸術の誤りはただただ模倣にある。摸倣は時の法則を侵害するものだ。と、こういうのがつまり「法則」なのだ。ただただ彼らの技巧によって現わされ、色彩の構成的要素中に見られる自由によって、モネやその仲間たちは努力の境域を拡げようとした。彼らは一度も、装飾的にも象徴的にも、また道義的にも描こうとしなかった。大画家ではなかったろうが、彼らは画家ではあった。そうした理由から、我々は彼らを尊重する。
 
人々はセザンヌを 不出来 マンクー な天才のように扱っていた。それで、人々はこういうのだ。セザンヌの智識は賞賛に値するが、彼は自分の思想を歌いも言いもせずにただ吃るだけだ。実際、友達のなかでは不幸であった。そんなセザンヌは、歴史に標界を建てた芸術家たちのなかでも、屈指の大芸術家なのである。彼をヴァン・ゴッホやゴーギャンと比較するのは我々を不快にさせる。彼はレンブラントを暗示する。《エマオの晩餐》の作者のように、バカげた喝采を無視しながら、力強い眼で実在を試見した。内的な写実主義がいつとはなしに光輝ある心霊主義に移動していった境地、たとえば彼自身はこの境地に到達しなかったにせよ、すくなくとも彼は、しきりにそれに到達しようにしている人々のために、シンプルな驚くべき手法を残したのである。
 
セザンヌは一般の力学主義に超越することを我々に教え、その相互変換を示した。無生と仮定されている事物から起こってくるのである。また我々はセザンヌによって、物体の色彩を変えることは、その構造を汚す所以であることを教えられた。本源ともなるべき量を追究することは、我々にいまだ知られていない地平線を開くことになるということも、セザンヌは予言をした。同質のマッスをもっているセザンヌの製作は、一目に物をわけもなく見てしまうことや、省略や拡張、色褪せているとか輝いているということなどを横に置いて、立派に次のように証明をしている。絵画はーーもはやーー線条や色彩の力を借りて事実の模倣をするだけではなく、我々の本能に成形的な意識を与える芸術なのだ。
 
セザンヌを理解することは、すなわちキュビズムを先見することになる。それで、我々は臆することなくこういえる。キュビズムと、それ以前の状態のあいだに横たわる相違といえば、ただただ烈しさの相違である。これを事実と確かめるために、わけてもこの写実主義、すなわちクールベの外形的実在を離れて、セザンヌとともにより深い実在へ突入し、不知のものを撤回しようと努めつつ光を増していく写実主義の手法を、気を付けて見守るのが必要になってくる。
 
ある者は、こういう傾向は、伝統が画した曲線を歪めてしまうと主張している。どこからこういう論を引き出してるのだろう。過去からか、また未来からか。我々の知るところによれば、未来は彼らの手に帰していない。そして、もはや存在していないものによって存在を保っている物を測るには、だれしも特別に公明正大を心がけなければならない。
 
あらゆる近代絵画を罪に貶めようとするとき、我々はキュビズムがその適任であると認めなければならぬ。キュビズムは近代的手法を継続させるべきものであり、それにのみ、我々が、この時代に絵画芸術の成すべき最大限の意想が見られるからである。言い換えれば、今日において、絵といえば、すなわちキュビズムである。
 
だから、我々は一般にいわれている誤解を解きたいと思う。その誤解の一掃についても、すでにほのめかしておいた。多くの人は、早晩、装飾的な意想が新しい画家たちの心を占めるはずと思っている。疑いようもなく、彼らは、装飾的制作を、絵画と正反対のものとするという、きわめて明らかな兆しに気が付いてない。芸術の装飾的制作は、ただその「目的」のために存在しているのだ。その目的と一定の事物のあいだにある、関係ばかりに勢いづけられている。まったく他によりかっているものであり、どうしても不安全なものだ。せいぜい、それを正当のものとし完全のものとする、ある場所から引き離さないようにして心を満足させるほかない。一つの仲介物にすぎない、ある器械である。
 
絵画はその口実、いわばその存在する理由を内に保っている。君たちはなんの差し障りもなく、絵を教会から客間へ、美術館から書斎へと持って回れる。まったく独立したものだ、なんといっても完全なものだ、すぐに想像を満足させる必要はない。その反対に、絵画はすこしずつ想像を導いて、同格の光がある仮想の深みへと連れていく。絵画は、それやこれやの周囲と調和しないで、一般の事物と調和するのだ。一つの有機体である。
 
我々は、絵画のために装飾を軽視しようというのではない。たとえば、知識が、すべてのものをそれぞれのあるべき位置に配置する術なのに、過半数の芸術家がそれを体得していないことは、十分我々の証するところである。そのせいで、より成形的で絵画的な装飾が、より混乱したものや有耶無耶なものがあるのだ。
 
我々の原始芸術の最初の対象となっているものに云々いうつもりはない。以前にはフレスコが芸術家をして格段のものを描出させる刺激となっていた。単純なリズムを織りなし、表面の広大なところから光が必然に、ある時間からほかの時間にわたるありさまという限内にも広がっていた。今日では油絵が、我々には表現しがたいものとされていた深みや密度、永続性の心持ちまでをも表現させ、合成的リズムの下に、一定限内で事物の真義の溶解を描出させようと鼓舞している。あらゆる芸術の先入主もなる偏執が、取り扱われる材料から起こることから、我々が装飾的偏執を画家のなかに発見するとすれば、ただただ作家の無能を隠すくらいの役にしか立っていない、あの不当な設計としてそれを発見することになるのだ。
 
物事を感じやすい教育のある人たちまでが、近代作品を見るときに当面する難解は、現今のありさまによって起こるのだろか。そうである。しかもそれは、姿を変えて享楽の根源となれるはずだ。昨日は腹を立てさせられた物にも、人は今日楽しむことができる。しかし、この姿の変化はきわめて遅々としているが、それもわけもなく説明できる。いかにしたら理解が創造的能力と同じようにすみやかに展開するだろう。つまり問題は人たちの目が醒めたあとにある。