PAINTING

桃色の海老[The Intimate Journals]ほか

ポール・ゴーギャン|エミール・ゴーギャン

式場隆三郎訳

Published in May 1921, 1903|Archived in April 23rd, 2024

Image: Paul Gauguin, “Vincent van Gogh Painting Sunflowers”, 1888.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、最晩年のポール・ゴーギャンの手記集“Paul Gauguin’s Intimate Journals”(1921年、1930年。邦訳:『美わしき野生:ゴーガンの私記』)から、ゴーギャンの子息エミール・ゴーギャンによる「序」およびゴーギャンによる「桃色の海老」を収録したものである。
WEB上での可読性を鑑み、旧字・旧仮名遣いは現代的な表記・表現に改め、一部漢字にルビを振った。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:エミール・ゴーギャン(1874 - 1955)著者:ポール・ゴーギャン(1848 - 1903)訳者:式場隆三郎
題名:序・桃色の海老[The Intimate Journals]原題:序・桃色の海老
初出:1921年5月(「序」)、1903年(「桃色の海老」)
出典:『美わしき野性・ゴーガンの私記』(新潮社。1953年。5-9、64-72ページ)

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あれもーーこれも、すべて
 
孤独と原始生活の生んだ無意識の情念にかられてーー時には反省し、つねに美しいものーー個性的な美ーー人間的な美のみを愛する悪童の愚にもつかぬ物語を
 
フォンテナ氏に捧ぐ

ポール・ゴーギャン

父・ゴーギャン

たびたび語り伝えられるうちに歪められて、ゴーギャンの架空的な伝説が生まれ出た。それは彼の著しく個性的な絵画よりも、はるかによく知られていて、また少なくともこの国では絵画の巨匠たちの一人として一般に認められている私の父の地位に無関心な多数の人々から論議されている。
 
いたるところで、この物語は通俗的な嗜好に投じた。かつてあるところに、一人の中年のやや平凡な、どうやら成功している株式仲買人があった。彼は妻と三人の子をもっていて、彼らをこの上もなく愛していた。彼の家族も友人たちも、彼が反映する実業家および家庭の父として生涯を終えること以外に何らの野心も抱いていないのは、疑う余地もなかった。ところが、一夜にして彼は家庭的な徳性をすべて放棄してしまった。めざめたとき、彼は非人間的な妖怪であった。彼の家庭への愛は、消滅した。彼の中産階級的な野心と実直さは、失われてしまった。絵を描こうという燃えるような熱望が彼をとらえたのである。そこで彼は、自分にたよっている家族のことを全然考えも顧みもせずパリへ逃れて、アカデミックな因習に傲然と反抗して、彼の新たにとりあげた芸術に没頭した。そして、ついにあまりにも煩わしい文明にたえかねて、タヒチへ隠遁して、そこで生活し、恋愛し、絵を描き、そして野蛮人のように死んだ。
 
それは興味ある物語だ。非常に多くの信じやすい人々がそれに興味をもっているのに、それを反駁するのは惜しいことである。しかし、遺憾ながら、それは事実ではない。私の父が画家となるべく決心したことは、ジキルとハイドのような転換ではない。私は遠く一八七三年、即ち父母の結婚の年に描かれた母の画像をもっている。事実彼はいつも絵具まみれになっていて、母が大迷惑したことであるが、ときおり彼は母の最上等のリンネルのテーブル・クロスをカンヴァス代用にしたり、彼女の一番きれいなペチコートを絵具ふきのぼろ代用にしたりした。彼が美術のために商業を断固として放棄したのは、一八八二年であった。彼は母としかるべく相談した後に、それを決心するにいたったのである。父がパリへ行くことに母が同意したのは、彼女がその天才を信じたからではなくて、その美術への情熱を尊重したからであった。母のその心がまえは、健気なものであった。それは子供たちを養い、教育するという重荷を負うことを意味した。父は母を「うす汚いおかみさん」と称していたが、父は一生深く母を尊敬した。
 
その放浪生活の間中、父は私たちと全然交渉をたったことは、一度もなかった。不規則な間隔をおいて、彼はよく私たちに情愛のこもった手紙をよこして、近況を知らせてくれるようにと望んだ。彼は一度タヒチからあの異常に個性的な絵の包みを送ってくれさえしたが、それは軽蔑されはしなかったにもせよ、冷淡に扱われて屋根裏の部屋に押しこまれてしまった。しかし、母がこれらの油絵を子供の養育費のたしにするものと考えてーー遺憾ながらそれは成功しなかったが、それらの絵を売ろうとしたとき、父は少なからず腹をたてた。数年後、少しばかり絵がばからしい安値で売れたようだった。
 
父についての私の最後の思い出は、妙にありありと残っている。最後にタヒチへ旅立つ前に、私たちに別れをつげるために父はコペンハーゲンへやって来た。父がそんなに平静でやさしかったことは、それまでにかつてなかった。疑いもなく父は自分が熱帯の楽園へ帰ることに期待をかけて非常に愉しんでいたのである。別れのかたみとして、父は私にその年ウジェーヌ・カリエールが描いた父の背像をくれた。それは実によく父に似ていて、私は今もなお保存している。
 
この随想録が完成したとき、父はマルケーザ島〔マルケサス諸島のヒバ・オア島〕にいた。彼はそれをアンドレ・フォンテナ氏に送って、自分の死後に出版するか、もしそれができなかったらポール・ゴーギャンの敬意のしるしとして、とっておいてくれるようにと頼んだ。フォンテナ氏は出版者をみつけることができなかったので、結局それは私の母と弟の所有に帰せざるをえないことになった。母のもう亡くなった現在、私は彼女に代わってそれをイギリスの読書界に提供するのである。薄汚い小市民どもにーーおそらくは。
 
これは今までに私が見出すことのできたものの中では、父の唯一の最も長い文学的様式をもった随想である。「ノア・ノア」はシャルル・モリス氏によって父の原稿にもとづいて校訂されたが、それはほとんど父の制作の精神をとどめてはいないと私は思う。その文体をこの随想録あるいは父がフランスの雑誌にときおり寄稿した美術に関する随筆と比較すれば、その相違は明らかになるだろう。というのは、少なくとも私にとってこの随想録は、一つの特異な性格を解明する自画像であるからだ。それは父についての私のあまりにもおぼろげで少ない追憶を美化し、鮮明にする。それは私のために父の温情、ユーモア、反逆的精神、観察の明澄性、偽善と虚偽に対する異常に烈しい憎悪をはっきりと浮かびあがらせてくれる。
 
人々がこの随想録をどう解釈するか私は知らないし、またさほどそれを気にもかけない。父は一生涯とりすました名望のある人々を故意にいやがらせ、同じ意地の悪い理由からこの随想の中でも述べているある猥褻な絵を壁にかけておいた。死後もなお彼らにいやがらせをしつづけるほど父にふさわしいことがあるだろうか。
 
彼らと種類を異にする人々は、誤解しないだろう。そしてこの随想録は、ポール・ゴーギャンの画布の中に流露していると同じように、自由で大胆で敏感な精神の自然な表現であることを認めそこなうことはあるまい。
 

エミール・ゴーギャン  
一九二一年五月 フィラデルフィアにて。

桃色の海老

一八八六年の冬。
 
雪が降り始めている、もう冬だ。私はあなたに 経帷子 きょうかたびら を貸してあげよう、それはただの雪だ。貧民たちは、苦しんでいる。地主たちは、しばしばそれを理解しない。
 
この十二月の月に、わがパリのルピック街では道ゆく人々はぶらついてみようなどという気にもなれずに、いつもより急ぎ足に歩く。彼らの中に混じって、異様な風ていの震えている男がこの街の外廓にある広小路へと急いでいる。彼は羊の皮の上衣をつけ、正しくうさぎ の皮でつくった帽子をかぶり、赤髭をもじゃもじゃ生やしている。彼はまるで家畜商のような風体だ。
 
ちょっと見ただけでは、いけない。寒くはあるがあなたはその男の白い優雅な手と、澄んだあどけないあお い眼をよく観察しないで素通りしては駄目だ。彼はきっと貧しい乞食か何かだろう。
 
彼の名は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
 
彼は急いで古い鉄の鋳物、蛮人の矢、安物の油絵などを売っている店へ入ってゆく。
 
哀れな画家よ! 君はいま売りに来たこの油絵の中に、君の魂の一片をこめたのだ。
 
それは桃色の紙の上に、桃色の海老をかいた小形の静物である。
 
「家賃を払うたしにするのですから、この油絵で少しばかり貰えませんか?」
 
「とんでもない、あんた、わしの商売もうまくいってないんですよ。お客さん方は安いミレーの絵とおっしゃるのですからね。それに、ねえあんた」と亭主はいいそえる。「あんたのは、あまりぱっとしない、今はルネサンスの御時世なんだ。しかし、まあ、あんたは才能があるという話だから、何とかしてあげたい。さあ、百フランだけあげましょう」
 
そしてまる い貨幣が 帳場 ちょうば で鳴る。ヴァン・ゴッホは不平もいわずにそれをとって、亭主に礼をいって出て行く。彼は悲しげにルピック街へと帰路をたどる。彼が下宿に帰りつこうとするとき、ちょうどサン・ラザールから出てきた一人の貧しい女が、彼の恵みを期待しながらこの画家に微笑みかける。美しい白い手が、彼の外套の中から現われる。ヴァン・ゴッホは読書家だ。少女エリザのことを想い浮かべて、彼の五フラン貨はその不幸な女の所有となる。自分の慈善行為を恥じるかのように、彼は空腹をかかえて立ち去る。
 
やがてある日がやってくるだろう。その日が一度みたことでもあるかのように、ありありと目に浮かぶ。私は競売画廊の九号室へ入る。私が入ってゆくと、競売人は一連の絵の束をせり売りしている。
 
「……『桃色の海老』が四百フラン、四百五十フラン! 五百フラン! さあ皆さん、これはもっと値がありますよ」……誰も何ともいわない。「さあ、売った! ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「桃色の海老』だ」
 

*   *   *

 
南洋の北緯十七度には、他のどことも同じように陸軍大将、弁護士、裁判官、官吏、憲兵たちと、一人の知事がいる。彼らはみな社会の中枢人物である。そして知事はこういう。「ねえ、諸君、この地方では金塊を拾うより他には仕事がないのですよ」
 
検事である一人の太った弁護士が、二人の若い窃盗犯を取り調べた後に私を訪ねてくる。私の小屋の中には、あらゆる種類のこまごましたものがあるが、それらのものはここでは珍しいものなので、奇異な感じを与える。それは日本の版画、マネ、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ドガ、レンブラント、ラファエル、ミケランジェロの写真版などである。
 
アマチュア画家である太った検事はきれいな鉛筆のスケッチを描くという話だが、あたりを見回してドレスデン美術館のホルバインの妻の像の前へ行って、私にこういう。「あれは彫刻の写真じゃないですか?」
 
「いや、それはドイツ画派のホルバインの絵です」
 
「ああそうですか、どちらにしても同じことです。私はこれを嫌いじゃありません。きれいですよ」
 
ホルバインが! きれいだとは!
 
彼の馬車が待っていて、彼はオロフェナが眺められるきれいな郊外にかこまれた草原の上で行儀よく昼食をとるために出かけようとしている。
 
牧師(知識階級の一員)もまた私が風景を描いている時に、突然話しかける。
 
「ああ、あなた、きれいな遠近法を描きあげようとしてますね」!!!
 
ロッシーニは、よくこういった。ーー「私は自分がバッハのような音楽家ではないことはよく知っているが、また自分がオッフェンバッハのような音楽家でないことも知っている」
 

*   *   *

 
人々は私が玉突きの選手であり、私がフランス人であるといっている。アメリカ人たちは躍起になって、私がアメリカで試合すべきだと提議する。私はそれを承諾する。莫大な金額がそれに賭けられている。
 
私はニューヨーク行きの汽船にのる。すさまじい嵐で船客はみな縮みあがっている。食事を全部平げた後に、私は欠伸をして床につく。
 
広い豪華な(アメリカ式の豪華)部屋の中で、すばらしい試合が始まる。最初に私の敵手が演技する。彼は百五十の得点をおさめる。アメリカ人たちは、大悦び。
 
私はこつん、こつん、こつん、といった調子で悠々迫らずやって行く。アメリカ人たちは、気が気じゃない。私の心臓はおちつき払っている。依然として悠々迫らず、こつん、こつん、こつんと球は屈折して進む。二百、三百。
 
アメリカの敗け。
 
それでもやはり、私は欠伸をする。悠々迫らず、球は屈折してゆく。こつん、こつん、こつん。
 
私が仕合わせだという。そうかもしれない。
 

*   *   *

 
巨大な堂々とした虎が檻の中に私と同居している。撫でて貰うのが好きだということを髭と爪の動きで見せながら、臆面もなく愛撫を求める。虎は私が好きなのだ。奴をなぐりつける勇気はない。こわいからだ。虎はつけあがる。小癪だが、彼の軽蔑に甘んじなければならぬ。
 
夜になると、私の妻が愛撫を求める。彼女は私が彼女を怖れていることを知っていて、つけあがる。私たち二人とも野獣同様で、恐怖と空威張り、悦びと悲しみ、強さと弱さにみちた生活をおくる。夜は石油ランプの光の下で、獣の悪臭に窒息しそうになりながら、私たちは愚かな臆病なやからどもを見守る。いずれもが死と殺戮にかつえ、浅ましくて、鎖や屈従、むち や刺針の憂き目にあうさまを見たがり、それをたえしのぶ動物たちの慟哭に飽くことを知らないのだ。
 
私の左には、馴らされた動物のねぐらがある。始まりかけたオーケストラは、急に荒々しい不協和音を鳴らしだす。万物の霊長である二人の哀れな人間は、たがいに拳で打ちあい蹴り合う。飼い馴らされた涙は、それを真似ようとはすまい。
 
生活と社会の一つの象徴だ!
 
一緒に集っている小径を歩きながら、頭のからっぽなひなびた人々の姿が、私には何かわからぬものを無心に探し求めている。
 
これはピサロの絵のようだ。
 
浜辺の井戸。華かな縞の衣裳をつけた数人のパリ人が野心に渇きながら、正しくこの涸れ井戸で彼らの渇きをとめる水を求めている。すべての情景は謝肉祭に投げ合う紙片だ。
 
これはシニャックの絵のようだ。
 
美しい色は存在する。われわれはそれを信じて疑わない。そしてその色はつつましく覆ったヴェール越しでも察知されるだろう。愛情のうちにはぐくまれ、手を握り合い、いつくしみ合い、やさしい想いをよび求めている若い娘たち。
 
一も二もなく私はいう、カリエールの絵だと。
 
熟した葡萄が狭い皿の縁に溢れかかっている。クロスの上には鮮緑色と紫紅色の林檎がまじってのっている。白いものは青く、青いものは白い。何というすごい画家だろう、このセザンヌは!
 
あるときポン・デ・ザールの橋を渡りながら、彼はすでに名をあげている一人の友人に逢った。
 
「やあ、セザンヌ、君はどこへゆくのだ?」
 
「ごらんの通り、僕はモンマルトルへ行くし、君は美術院へゆくのさ」
 
ある若いハンガリー人が私に向かって、自分はボナの弟子だといった。
 
「それは結構だね」と私は答えた。「君の先生はそのサロンの出品画で郵便切手コンクール賞をもらったところだからね」
 
この挨拶は、功を奏した。あなたはボナが悦んだかどうか想像がつくだろう。その翌日、その若いハンガリー人は、私をやっつけようと待ちかまえていた。