PAINTING

絵画論

ポール・ゴーギャン

小泉鐵訳

Published in 1903|Archived in April 23rd, 2024

Image: Paul Gauguin, “The Invocation”, 1903.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、最晩年のポール・ゴーギャンがヒバ・オア島(旧・ドミニカ島)で記した手記である(底本内の訳者解題参照)。年号は記されていなかったが、ゴーギャンが当地へ赴いたのは死没年であることから1903年とした。
WEB上での可読性を鑑み、旧字・旧仮名遣い・旧語・文語は(文意を変えない範囲で)現代的な表記・表現に改め、適時句読点を打ち、誤字・脱字を修正した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ポール・ゴーギャン(1848 - 1903)訳者:小泉鐵
題名:絵画論原題:繪畫
初出:1903年
出典:『ノア・ノア』(洛陽堂。1913年。215-225ページ)

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絵画は最も立派な芸術である。絵画のなかにはあらゆる感じが包含されている。一目見て誰でも自分の想像の振動にしたがってロマンスをつくることができ、また深い回想によって自分の心臓をみたすことができる。なんらの記憶の浪費ということがない。すべては瞬間を包容するーー完全なる芸術、それはほかのすべてのものを一つにし、それらを完成する。音楽のように絵画は感覚を通じて心のうえにはたらき、調和のあるトーンは音響の調和に該当する。しかし、音楽には求められない統一に、絵画は達する。音楽は音の継続ということに基礎をおき、その発端と結末を一緒にまとめようと思うなら、精神はつかれてしまう。耳は、全体として見るに、眼よりは低級な感覚である。聴覚はただ一度に一音だけである。これに反して、視覚は一目のうちにすべてを包摂し、そしてその際自分の思いのままに単純化する。
 
人は音楽を聞き、画像を見るというと、自分の夢をしずかに自分に与えることができる。書物では人は著者の奴隷になる。
 
文章家は情緒への道を発見する前に、知能に自分を向けなければならない。熟慮によって達した感じは直接性を失う。
 
ただ視覚だけが直接の 効果 エフェクト を生む。書物を判断するためには、知能と智識が要る。絵画と音楽とを判断するためには、知能と芸術上の智識とのほかに、まだ自然における特別な感じが要る。一言でいえば、人は芸術家として生まれなければならないのだ。多くのものは、しかし呼びかけられてはいる、そして、ただ少数のものだけが選ばれる。各個の観念というものは形式化させられる、しかしそれは感情どおりの感じとはちがう。彼の恐怖、彼の熱中の瞬間を制御するためには、どれだけの努力が要るか。恋愛は往々にしてしばしば最初の発見において起こるではないか、そして恋愛はいつでも盲目ではないか。そしてその際、思想は自ら精神と呼ぶ、本能、神経、情緒は物質の一部分をつくるのだ。なんというアイロニーだろう。
 
一番不定で、一番つかみにくい、一番変わるものが物質。思想は感じの奴隷。
 
人間以上に自然は立っている。
 
人間の思想が言葉によってあらわされる、それが文学である。
 
〔シェイクスピアの〕オセローが猜疑に胸を喰いつぶされて、デズデモーナを殺したときに、オセローがたとえどんなに生々と描かれようとも、オセローが運命をはらんだ額をして部屋のなかに突進したてい を自分の眼をもって見たときに、私の印象は幾倍強かったろう。これゆえに諸君は諸君の作品を完成するために舞台が要るのだ。
 
諸君は暴風雨を人の気を惹くように叙述することはできる。しかし、暴風雨の感じを与えることは、諸君には手がとどかない。
 
数の場合のように、楽器は基底に統一を持っている。全体の音楽の組織は、この原理の上に立っている。耳は分音に慣れている。それで諸君はほかの基底をとることができる、正音、半音、四分音をつづけてとることができる。この範囲の外では、音調は不調に陥る。眼は不調音を感じるには、耳よりも慣れてない。しかし、その代わりもっと複雑な、もっと大きい錯雑した分音が多くの統一に相対して立っている。
 
楽器は一つの音から出立する。絵画は多くの音から出立する。黒をもってはじめ、白にいたるまで分けるーーこれが最初の統一、一番簡単な、一番多い、したがって最もつかみやすい統一である。しかし虹のすべての色をとり、それらに複合された色によってつくられた統一を付け足し、そして統一の驚くべき数にいたる。画家は色彩の法則をあまり知らず、公衆はそれをあまり理解してないということは、この豊富にとって驚くほどのことではない。しかし自然に密接な関係にあらわれるためには、こうした充実が要る。
 
画家が、色を混ぜずに並べておくというと、ひどく非難される。しかし、この領分においては、私たちは勝利を主張しなければならない。私たちは、自然をこの論争における最強の後援に呼び寄せることができる。なぜならば自然が一体そうなのだから。
 
赤と並んだ緑は、混合色の赤褐色を生ずるのではなく、二つの振動している響きを生ずるのだ。赤と並べてクローム黄をおくとーー三つの色響が双方からお互いに豊富になり、そして第一のトーン、黄の強度を増す。
 
黄の代わりに青をおくと、そうすると力によって振動し、お互いに双方から給し合って、三つの違ったトーンができる。
 
黄の代わりにすみれ をおくと、そうすると赤の調子のただ一つの複合したトーンができる。
 
結合は無制限である。色の混ぜ合わせは汚ないトーンを生む。ただ一つの色は生硬である。そんなものは自然には存在しない。それは虹において明らかに見られる。しかし豊富な自然は、一つの色がほかの色から起こってくるように意志され、変わらざる秩序において相並んで私たちにあらわれるように用心している。
 
さて、諸君は自然よりも不充分な手段を持っている。そして、自然が諸君の手のなかに与えたものを断念しようと判決を下している。諸君は自然のようにそんなに多くの光をお持ちか、また太陽のようにそんなに多く熱をお持ちか。そして諸君は誇張ということをお仰る。しかし諸君が自然のあとに 瞠若 どうじゃく たる場合に、どうして諸君は誇張を望めるだろうか。
 
諸君が誇張ということで、各自の見悪く平凡な作品を理解したとしても、諸君はこの意味において正しいのだ。諸君の作品もまた臆病で光沢がないということを、私にいわせてください。それは、もし調和を害するものならば、誇張されたのである。
 
だが、調和の法則があるのだろうかーーある。
 
まさしく色彩画家のの感情は、自然の調和に該当する。歌い手のように画家もときたま間違って唄う、画家の眼に調和が欠ける。
 
段々を通って後々に調和の方法が発達する。それはこうだ。人はアカデミーに行くとか、もしくは多くの画室に行くとかいうようなものだ。実際、絵画の段々を二つの範囲に分ける。まず物を素描することを習う、次に彩画を習う。それは、すでに決まったコントゥール〔輪郭〕に色をつけ、像を描くということと同一のことなのだ。
 
いままでにこの進み方で、ただ一つのことが明らかになったということを、私は知らねばならない。それはこういうことだ。人は、色彩ということを、付けたりの余事として見たということである。描く前によく形をとるということが大事だーーこのことはなんらの矛盾をも生じさせないトーンのなかに決算される。このほか えらいとんま 、、、、、、 なことが、いつもこういう仕方でいわれる。
 
人は手袋の代わりに長靴をはめるのか。人は素画は色彩によって決められない、その反対だということを、真面目に証拠だてることができるか。色彩によって満たすことによって、おなじ素描が小さくも大きくも見せられるということを、私は自分に証拠だてる義務を帯びている。人はレンブラントの頭をまったく同じプロポーションで素描したりする。色彩が同時に不調和になるあいだに、人はいかなる無形式に達するかということを納得するために、ルーベンスの色の配合をやったりする。
 
一百年来、人は素描を要求するために非常な総額を支出した。画家の数は一歩も先へ起こさずにのぼった。私たちは今日いかなる芸術家を賞賛するのか。流派と戦っているもの、彼らの智識を自身の自然の観察から引き出しているものだけだ。