PAINTING

航海通信[リオ・デ・ジャネイロへ]

エドゥアール・マネ

川瀨すみ子訳|ARCHIVE編集部改訂

Published in circa December 12th, 1848 - March 11th, 1849|Archived in April 19th, 2024

Image: Édouard Manet, “Le Kearsarge à Boulogne”, 1864.

CONTENTS

土曜日 アーヴル・エ・グアドループ号にて木曜日金曜日十二月二十二日 金曜日 アーヴル・エ・グアドループ号にて十二月十六日 土曜日十七日 日曜日十八日 月曜日十九日 火曜日二十日 水曜日二十一日 木曜日二十二日 金曜日十二月三十日 アーヴル・エ・グアドループ号にてマデイラ島を望む(十二月二十二日 金曜日|二十三日 土曜日|二十四日 日曜日|二十五日 月曜日|二十六日 火曜日|二十七日 水曜日|二十八日 木曜日|二十九日 金曜日|三十日 土曜日 午前四時)一八四九年一月六日、アーヴル・エ・グアドループ号にてテネリフェのサンタ・クルスを望む(十二月三十日夕 土曜日|十二月三十一日 日曜日|一八四九年一月一日 月曜日|一八四九年一月二日 火曜日|一月三日 水曜日|一月四日 木曜日|一月五日 金曜日|一八四九年一月六日 土曜日)一月七日 日曜日一月八日 月曜日一月九日 火曜日一月十日 水曜日一月十一日 木曜日金曜日十三日 土曜日十四日 日曜日十五日 月曜日十六日 火曜日十七日 水曜日十八日 木曜日 および 十九日一月二十日 土曜日一月二十一日 日曜日 および 一月二十二日 月曜日二十三日火曜日三十日 火曜日一月三十一日より二月四日にいたる十八日 木曜日 および 十九日リオ・デ・ジャネイロ湾にてリオ・デ・ジャネイロ湾にて 二月二十六日 月曜日リオ・デ・ジャネイロ湾内 アーヴル・エ・グアドループ号にて 一八四九年三月十一日

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

エドゥアール・マネは、17歳ごろに、見習い船員としてリオデジャネイロ行きの訓練船アーヴル・エ・グアドループ号に乗船している。本稿は、その時期の両親宛ての手紙の訳出を収録したものである。
WEB上での可読性に鑑み、旧字・旧仮名遣い・旧語・文語的な表記・表現は、それぞれ内容・文意を変えない範囲において、現代的な表記・表現に改め、一部漢字にルビを振り、適時句読点を施し、用語の統一・調整を行った。
なお、今日の通念に照らして適当でない表現(ex.「黒ん坊」)もあるが、そのままとした。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:エドゥアール・マネ(1832 - 1883)訳者:川瀨すみ子改訂:ARCHIVE編集部
題名:航海通信[リオ・デ・ジャネイロへ]原題:航海通信
初出:1848年12月12日ごろ〜1849年3月11日翻訳初出:1939年4月
出典:『丹靑 第二巻 第一号』(教育美術振興会。1939年4月。22-33ページ

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土曜日 アーヴル・エ・グアドループ号にて
 
母上様
 
もしまたお別れすることと、あんなに辛いさようならを申し上げるこわささえなければ、アーヴル〔フランスの港湾都市〕まで送っていただくはずでした。そうすれば僕たちのすばらしい船をご覧になれたのでした。船は申し分ありません。必要なものはもちろん、ある程度の贅沢品まで備わっています。息子さんを送ってきた、かわいそうなお母さんたちも、それを見て安心されたようです。
 
今日は自分の部屋で手回りの物の整理に一日かかりました。寝台が三十六あって、僕はハンモックに寝、マンドヴィユはその寝台の一つに寝ます。
 
明日出帆するか否かについてはよく存じませんが、僕たちは四時に船に乗り込います。そして出帆の姿勢で順風を待つのです。今朝僕たちはみな艦船勤務に必要な手続きを終わらせてきました。僕たちは船員名簿にそれぞれ登録されたのです。船には二十六人の水夫がいて、そのなかの一人はコック、一人は黒ん坊の給仕長です。
 
おまけに船尾にはとても綺麗なサロンがあってピアノが備えつけてあります。
 
ではさようなら、お別れするのは非常に悲しいことですけれど、反面 出立 しゅったつ するのがこのうえもなく嬉しいのです。マンドヴィユのお母さんから話をお聞きになって充分ご安心なさるようにお願い申します。これほど楽ができるとは思わなかったのでびっくりしたくらいですから。
 
弟たちや、エドモンや、僕の友達みんなに僕からよろしく。優しいお祖母さんにもよろしくを忘れないで下さい。
 
ではさようなら、お大事に。
 

ママを敬愛する     
エドゥアール M  

 
ジュール・ミュニクが停車場までさようならを言いに出ていてくれて、その親切に感激しました。

木曜日
 
母上様
 
その前の晩はダメでしたが、段々ハンモックにも慣れて、昨夜はよく眠れました。船はまだ順風を待って、最後の港内 碇泊 ていはく 区にいるので、大洋が近くいまも相当の 縦搖 じゅうよう がしています。僕たちみんなには、その間が非常に長く思われてなりません。
 
僕たちは休憩時間には 船橋 ブリッジ に登りますが、おかげで僕はとても身が軽くなりそうです。
 
食物についてはこの上言うところはありません。出るものは皆とびきりのもので、食事ごとに肉が二皿とデザートがつきます。
 
今日は午後八時までの上陸許可が下りました。上陸は実に嬉しいものです。
 
僕たちに軍隊風を与えようというので、サーベルと銃で武装された当直水夫が置かれました。これはまた警戒の一手段でもあります。こうしておけば脱船しようがありませんから。
 
待っていたお手紙を二通もいただいて、とても嬉しゅうございました。お示しくださったご訓戒は、きっと忘れません。
 
ではさようなら、くれぐれもお大事に。弟たち、ジュールやポール、従兄弟たちみんな、そしてソフィ、乳母にもよろしく。
 

ママを敬愛する     
エドゥアール  

 
僕たちはすっかり水兵のなりです。ゴム引きの帽子とメルトンのシャツ、麻の上衣とズボンです。この服はとても洒落ています。それで波止場にはいつも暇人が百人くらい僕たちを見物に来ています。
 
次に僕たちの日々の生活が、てっとり早くお分かりになるように日課を書きましょう。
 
七時半起床検閲。九時まで休憩。九時朝食。十時より正午まで学課。二時学課。四時昼食。六時より八時まで自習。十時睡眠。(十時になると船上に一つでも燈火が残っていてはいけないので、その時刻までには寝なければなりません。)

金曜日
 
母上様
 
僕はママに最後のさようならを申さねばなりません。明朝九時にはいよいよ出帆なのです。今夕すっかり帆の用意ができ、最後の手配が整いました。あとは羊と豚とだけですが、その積み込みはいざ出帆の間際にすることになっています。パパが明日お別れに船に来てくださるはずですが、出帆までパパがいてくださったのは本当に幸せでした。パパは僕たちが碇泊している間、とても優しくしてくださいました。
 
海はとてもうらら かになりそうで、明日の出帆は絶好の日和というべきです。ここでの生活はすべて申し分ありませんが、僕たちにとっては何にも増して、出帆が嬉しくてたまらないのです。何しろ僕たちには、僕たちの用を達する可憐な少年水夫四人と水夫見習二人がいるのですから。彼らをみんなが後ろから蹴とばしたり拳骨を見舞ったりしながら使いまわすので、大変よく言うことを聞きます。前にお話した黒ん坊の給仕頭が彼らの教育係なのですが、 へま 、、 をやるとその給仕頭が偉大な握り拳で乱打するのです。僕たちにも彼らを殴る権利があるのですが、大事な場合の備えに大切にしまっています。
 
船医さんが今日乗り込みました。でっぷりとした親切そうな人です。
 
ではさようなら、大事なママ、どうぞお大事に、エドモンたちも、それからまだパリにいらっしゃるのならお祖母さんにもよろしく。
 
ジュールとポールと僕の友達のボードアンの奥さんによろしく。ボードアンの奥さんは、僕が立ったあとボンヌフォン家の人たちが総がかりでするよりも、よりよくママを慰めてくれることでしょう。
 
リオ・デ・ジャネイロ湾を乗りまわすために、素敵な小型のヨットが積み込まれます。かえすがえすもママが僕たちの船をご覧にならなかったのは遺憾に堪えません。実に船は素敵です。アーヴル湾で一番美しい一番立派な船の一つです。約束以上の優待でこれ以上はできないくらいです。船には僕たちがふか や何かを釣るのに必要な釣針と糸まで備えてあります。それに 厳しい 、、、、 けれども士官は非常にいい人達です。もっとも、僕たちもオコナイ を慎まなくてはいけないのですが。なぜならば、僕たちは水夫と同じ罰則にしたがわなければならないからです。何か馬鹿なことをした奴はただちに禁固です。滅多なことはできないわけですよ。
 
ではもう一度さようなら
 

ママを敬愛する
エドゥアール M 

十二月二十二日 金曜日
アーヴル・エ・グアドループ号にて
 
母上様
 
やっとママに出帆以来の動静についてご報告する筆を執ることができました。実は僕たちの生活の一つひとつを毎日書き続けたいと思っていたのですが、 船暈 せんうん と悪天候に妨げられて失礼していました。
 
アーヴルを出るときに、僕たちは国旗に対して二発の礼砲を発射しました。そして僕たちの出帆を見ようと 突堤 とってい に群がってきたアーヴル市民に大声でさようならを告げました。素敵な天気で海は実に静かでした。仲間がほとんど全員酔って船べりにへばりついていましたが、僕は元気で船に酔っていないのが得意でした。午後の八時にアルフラールの灯台が見えました。そのとき以来、僕たちは陸地を見ないのです。その後の三、四日は省きましょう。僕はひどい船暈に悩まされていたのです。恐ろしい天候になりました。あの海の荒れ方は、見た者でなければ想像がつきません。覆い被さってきてほとんど船全体を一ぺんに包んでしまう山のような大波や、 綱具 つなぐ に当たってひゅうひゅう鳴る風、それからまた時には帆という帆を全部捲いてしまわなくてはならないほど強くなる風がどんなものかはお分かりにならないでしょう。あのときには、さすがの僕も絶えず家の楽しさをひしひしと思い出しました。英仏海峡〔イギリス海峡〕はうまく出られたのですが、逆風のためにアイルランド沖のほうまで流されたので、だいぶ航路に狂いが出ました。そこで我々はいまお話しした、怒れる大洋を見たのでした。おかげでいまでは大概の大波に揺られても平気になりました。船に乗り組んでから、もう何ヶ月も経ったような気がします。本当にこの船乗りの生活ほど単調なものはないでしょう。訪れるものは空と水ばかりです。来る日も来る日も空と水とが繰り返されるだけです。何という馬鹿げたことでしょう。僕たちは何も手につきません。教授連は気分が悪いし、中甲板には立っていられません、それほど横揺れがひどいのです。時には食事中みんな折り重なって引っくり返って、食卓に出ている皿まで僕たちと一緒に落ちることがあります。一体いつになったら天気が回復するのでしょう。僕たちはそれをみんな待ち望んでいるのですが、与えられる回答はいつも漠々としているのみです。風や海というものは運任せだというのです。打ち続いたこの苦しい生活は、十五日から十六日にかけての夜中にやっと変わった風によって、船の方向を転じてようやく軌道に乗ることができました。

十二月十六日 土曜日
 
すばらしい天気です。朝の七時に僕たちは汚れた下着を乾かすために 索綱具 さくつなぐ の間に登らされました。八時にはハンモックやベットに風を当てるために甲板に運び上げさせられました。これらはすべて必要なことで、一番せいせいしたのは寝室をすっかり洗ったことです。これで何もかも蘇生しました。そこへ降りて行くと嘔吐をもよお さずにはいられなかった悪臭もなくなりました。
 
今日の昼間、僕たちは軍艦でするようにマストに登って組み分けになりました。僕は前橋の 檣楼 しょうろう 員の組です。僕たちは数学ができるようになってから猛烈な演習にとりかかるはずです。

十七日 日曜日
 
恐ろしかった夜のうちにまた風が変わりました。なかには頭の上に滑車が落ちてきた気の毒な水夫がいましたが、それでも翌日は平気で作業をしている有様です。こういう人たちを見てみると、時には波が届くこともある 帆桁 ほげた にとまって帆を縮めたり、昼夜天候の良し悪しにかかわらず労働するということは面白いはずがありません。おまけに彼らはみんな自分たちの職業が好きなようにも見えませんが、それでもみんなずいぶん辛いこの職業に 攷々 こうこう として務めて、しかも不平も言わずいつも陽気なのですから、実際驚きます。
 
晩にはシャンパンが出ました。六人に一本でした。艦長も来て僕たちと一緒に乾杯しました。一同は艦長および上級士官の健康のために乾杯しました。僕たちは皆ブソン氏が好きになりました。彼はいつも礼儀を崩さず僕たちにとても優しくしてくれます。それでいてまったく威厳を保ち尊敬を得る術を心得ています。その点、副艦長は似てもつかないひどい乱暴な海の古 つわもの 、、、、 で、いやに厳格で人を小突き回して使うという型の男です。
 
晩、食事のあとで僕たちは後甲板に集まって合唱をしたり小唄を歌ったりします。船には幾人か音楽家が乗っているものですから………。そのなかには僕たちと一緒に航海している二十五になる若い船客がいるのですが、とてもいい男でまるで仲間みたいです。僕たちはヴィルム式によって歌を習うことになっています。熱帯に入ったらレッスンを始めようという艦長の意見です。

十八日 月曜日
 
まだ荒天で海は非常に荒れています。そのなかを僕たちの船は時速七ないし八ノットで進んでいますが、これは相当な速力です。いまこの船はガスコーニュ湾と同緯度の辺りにいます。
 
艦長は海鳥を射って楽しんでいます。彼はモーヴ を一羽射殺しました。モーヴは白い大きな鳥で、お母さんもブローニュで時折ご覧になったはずです。僕たちには見物することよりほか許されません。これほど沖に出て、こんなにクウェラン や潜水鳥のような鳥を見てびっくりしました。

十九日 火曜日
 
とうとう上天気になりました。今日から学課が始まります。ひどい横揺れでうまく字が書けないのですが、それでもかなり進みました。僕たちは早く勉強が始めたくてたまらなかったのです。一日中することもなく甲板でボンヤリしているのはとても長いのです。
 
昨夜、船はかなり進みました。僕たちはスペインの海岸に沿っています、そしてもし風が続けば六、七日でマデールに着けそうです、しかしそこでは残念ながら上陸はしません。ランチを出して郵便物を陸に届けるだけで満足することになるでしょう。多分そこで(今度の)大統領の名が分かるでしょう。
 
いまごろパリはきっと大騒ぎでしょう。内乱にならなければいいと思いますが………、内乱は嫌なことです。もしマデールで何も分からないとすると、あと一月半しなければ分かりません。それより早くリオ・デ・ジャネイロに着きませんから。
 
船医は鮪を取るために釣り糸を下しました。まるでとれません。ついでに鮪を取る餌のことをお話しましょう。おそらくママはお信じになられないでしょうが。まず丈夫な綱の端にしっかりと赤い栓をした瓶を結びつけ、そしてそれに相当大きな釣り針をつけるのです。なんでも彼らにとって最も 蠱惑 こわく 的なものなのだそうです。

二十日 水曜日
 
また風が変わって天候が悪くなりました。そのため朝食からパンを制限し出したのです。僕たちはビスケットを食わされました。それが とても 、、、 まずいのです。昼にも晩にも小さなパン一切とビスケットです。僕たちはみんな憤慨しています。といってもそれは無理もないことで、おそらくパリにいる人たちは船でビスケットを食べるということがーーそれも三度三度食べなくてはならないということがどんなことだかお分かりにならないでしょう。ポールに聞いてくだされば分かりますが、僕は自分のためにパンを貯えています。見つかり次第失敬して自分の部屋へかくしますが、船で 吝嗇 りんしょく になることはお話になりません。
 
マンデヴィルは海に慣れるのにだいぶ骨を折っていますが、まだからだが本当ではありません。まだ他にどうしても慣れそうもないのが二人いて一日中寝ています。それにママはお信じにならないでしょうが、本当は僕らの船の水夫たちもはじめはみんな酔ったのです。荒くれ男の海の古つわものがですよ。
 
荒天の夜が来そうです。船は相当波を被っています。それでも僕はいい塩梅に安眠できそうです。

二十一日 木曜日
 
雨は陸でもずいぶん退屈なものですが、船ではいっそう退屈です。今日は中甲板に籠っていなくてはならないでしょう。
 
今朝は先生がまだ船暈していて、数学のクラスはありませんでした。
 
いまでは僕たちもすっかり組織が整って、ママに僕たちの日課の時間割をお話できるほどになりました。六時半起床。みんな後甲板に上って当直士官の検閲を受けます。八時に朝食、八時から十時十五分前まで自習、十時まで休憩。十時に左舷の側水兵が数学のクラスに出ます(僕はこの水兵の一人です)。十一時半昼食。一時に偶数番号に当たる水兵の文学時間。二時半から三時まで休憩。三時全学生の英語のクラス。四時晚餐。七時まで休憩でそれから九時まで自習、そして九時に就寝です。
 
今日は木曜日で悪天候にもかかわらず実習の時間がありました。そのほかの時間は自分たちの部屋で煙草を吸ったりドミノをしたりダーム〔ボードゲーム〕をしたりして暮らしました。こういう遊び道具を船で僕たちのために備えつけておいてくれるのです。雨でもやや慰められるのは風向きがいいということです。

二十二日 金曜日
 
ああ船が見えます。それを呼びとめて郵便物を頼もうというわけです。
 
ではさようなら僕の大事なママ、パパもお祖母さんも弟たちもジュールもさようなら。ボールとエドモンとばあやとソフィによろしく。
 
それから僕の友人達にもよろしくお伝え下さい。
 

ママを敬愛する
エドゥアール マネ

十二月三十日 アーヴル・エ・グアドループ号にてマデイラ島を望む
 
十二月二十二日 金曜日
 
母上様
 
今朝はあまり早く手紙を書き終われとせつつかれましたので、僕たちの船とすれちがった船との会見の様子をお話することができませんでした。その船を認めるが早いか僕たちの船は全帆をあげてそのほうへ走りました。その船は気の毒にこっちが追跡しているのだと思って 尻に帆をかけ 、、、、、、 ました。こんな言い方をしてお許しください。決まり文句ですからね。先方を安心させるために 此方 こなた で旗を揚げると、先方も安心して自国の旗を揚げました。するとポルトガルの二本マストの 小帆船 ブリッグ がこっちに敬礼しました。そこでこちらでは大尉が一人水兵が三人乗ったランチを下しました。こっちから船長に二つの贈り物をしました。オランダチーズと新しいパンを二個とコニャック二缶で、これは乗込員全員を喜ばせました。かわいそうにこの連中はほとんど食糧を持っていませんでした。彼らはニューヨークから来たので、もう二十二日も海上にいたのです。八日間というものはわずかな帆で航行しなければならなかったのです。彼らはポルト〔ガル〕に向けて帰りました。今朝僕たちのいるところからそこまでの距離は百二十リュー〔フランスのかつての距離単位〕です。
 
二十三日 土曜日
 
いい天気ですが逆風です。長い一日でした。
 
二十四日 日曜日
 
僕たちは盛大にクリスマスを祝いました。真夜中十二時には素敵なクリスマスイヴの夜食を食べました。船長は僕たちにシャンパン六瓶とガトー・ド・サヴォワを四つとハバナの葉巻二箱とをくれました。そのほか学生たちが用意したチョコレート等も飲みました。知ってるだけの歌を歌い尽くして寝たのは朝の四時でした。
 
今朝出会ったスペインの 小帆船 ブリッグ のお話をするのを忘れていました。僕たちはこっちの船より貧弱なその船から、僕たちの船に対して当然敬礼があるものと待っていましたが、そいつは此方の船とすれすれに摺れちがったのに知らん顔して行ってしまいました。
 
二十五日 月曜日
 
ほどなくマデイラが見えるだろうと待っています。陸地が見られるのは何という喜びでしょう。もう十八日も陸地を見ないのです。
 
とうとうマグロ を捉えました。美しい魚です。僕にはうまい魚だとは言えません。なぜといって、そいつは士官連中のご馳走になるのですから。
 
二十六日 火曜日
 
今日は斜航(強風を除けて電光形に進むこと)しなければなりませんでした。これでまた航路が迂回になります。船はポルトガルの沖を過ぎました。もうほとんど暑いと言えます。美しい太陽、そして昼が午後六時までのびました。そちらではまだ寒いはずですのにね。昨夜はいつもより夜光が強く、船がまるで火の海を切って進むようで実に綺麗でした。
 
二十七日 水曜日
 
何というすばらしい一日だったでしょう。僕たちはポルトガルの海岸を過ぎました。太陽は一段と暑くなりました。それを利用して今朝見習い水夫の身体を洗ってやりました。甲板に大きな水槽をおいて、それへ三人の小僧を突っ込みました。一人の水夫に軽石でこすられて、前は真っ黒だったのが出た時には雪のように白くなっていました。けれどこの無理矢理の冷水浴はあまり愉快ではなかったでしょう。
 
今夜のディナーは船長の食卓でした。ブソン氏は実際すてきな人です。彼は食卓の作法を完全に心得ています。
 
お正月が近づいてユージェヌとギュスターヴはさぞ嬉しいでしょう。僕たちアーヴル・エ・グアドループ号の住人は、こんなに遙かなところからしかおめでとうが言えないのを、少しばかり慰め合う工夫でもしなければなりません。
 
二十八日 木曜日
 
終日よい天気で、甲板で撃剣ができるほど海は静かでした。ブソン氏は一人の学生に彼と試合をする名誉を与えました。船には棒の師範がいて、僕は今日レッスンをとりました。僕には素質がありますから、演習の終わりまでには上達できそうに思います。
 
四時頃 ねずみいるか 、、、、、、 (marsouin)を鋸で射ちましたが、二頭しか傷つけることができませんでした。この巨大な動物は十頭から十二頭の群れをなして船の周り、とくに舳先のほうに来ます。彼らは電光のように走るので、的中させるのがとても難しいのです。
 
二十九日 金曜日
 
終日マデイラ島に近づくことができずに斜航してみなければなりませんでした。
 
三十日 土曜日 午前四時
 
何という騒がしい夜だったのでしょう。夜中の十二時か一時頃、見張りの水兵が陸だと叫び出しました。たちまちにして船員が甲板に出ました。ポルト・サント〔マデイラ諸島のひとつ〕でした。少し離れたところに黒い線が見えます。それがマデイラです。今日中にはあそこに行けるでしょう。
 
陸地を見て嬉しくてたまりません。ずいぶん長い間僕たちは陸地に焦がれていたのです。
 
さようならママ、ママもパパもお祖母さんも弟もジュールもお大事に。ポールやエドモンや、そのほか友達みんなによろしく。
 
追伸、パパが僕がパリで試験を受けるように申し込みをしておいてくださるようお願い申します。
 
リオ・デ・ジャネイロでママのお手紙が受けとれるように祈っております。

一八四九年一月六日、アーヴル・エ・グアドループ号にてテネリフェ〔カナリヤ諸島最大の島〕のサンタ・クルスを望む
 
十二月三十日夕 土曜日
 
母上様
 
暁方 あかつきがた の二時に前便で申し上げたとおり、見張りの水兵が陸が見えると怒鳴りました。船は少しずつ近づきました。明るくなるのを待っていると、ポルト・サント島が見え出しました。四時まで僕たちはそれを四リューか五リューの距離に眺めていました。それは岩に囲まれて漁師だけしか住んでいない山だらけの島です。マデイラは二十五マイルの距離に横たわっています。風が悪くてマデイラにまで行こうとするには斜航しなければなりませんでした。
 
僕は島の外観のスケッチをしました。僕のスケッチで島がだいたいどんなかよくお分かりになると思います。景色は正確に捉えてあります。僕たちは今日すばらしい釣りをしました。船具工長が巨大な ねずみいるか 、、、、、、 を一頭銛で仕留めたのです。そいつを大骨折りをして甲板に引き揚げました。これは実に奇妙な魚で、 家鴨 アヒル くちばし のようなものを持っており、それのあご の周りには白い鋭い小さな歯が一列に並んで生えています。僕たちはそれを食べました。肉は牛肉のような味がして決して悪くはありません。フライパンでバターでいためて食べるのです。
 
十二月三十一日 日曜日
 
すべての希望はダメになりました。僕たちはマデイラには寄航しないでしょう。船は一日中風を間切って進みました。風は始終逆なのです。それで夜の八時にはポルト・サントが視界から見えなくなりました。船はアフリカの沿岸に沿って進います。僕たちはみんなすっかり憂鬱です。なぜなら僕たちはそこで手紙を出して、そしてオレンジをしこたま仕入れるつもりでいたからです。
 
一八四九年一月一日 月曜日
 
親愛なるパパとママ、遙かに新年おめでとうを申し上げます。お祖母さん、弟たちもおめでとう。ジュール、ポール、伯母様、エドモン、僕の友達に私からの新年の挨拶をよろしくお伝えください。
 
船の上のお正月の模様をこれからお知らせしましょう。朝六時に水夫たちは僕たちの寝室に降りてきて、千もの祝詞を述べたてて僕たちを起こしてしまいました。彼らは自分たちの手でこ
しらへた ねずみいるか 、、、、、、 の素敵なパテを持ってきてくれましたが、とても美味でした。身仕度をすませると僕たちは船長に新年の祝詞を述べるために、みんな後甲板に登りました。彼はマデイラ酒を取り寄せて万事如才なくしてくれました。
 
昼間は「 鵞鳥 がちょう 叩き」をして遊びました。この遊戯は目かくしをして 桁構 けたがまえ に縛りつけた鵞鳥の頭をサーベルで叩くのです。賞品をとったのは一人の水夫でした。三時に突然起こった暴風雨のために遊戯はダメになってしまいました。船は続いてわずかな帆で航行しました。それは舵桿を結びつけなければならないような、みんな中甲板に降りていかなくてはならないような嵐の一つでした。それでも夜を愉快に過ごす邪魔にはなりませんでした。僕たちは船員を全員晩餐に呼びました。シャンパンが出ました。水夫のなかに一人オペラとオペラコミックをほとんど全部知っているのがいて、八時半まで知ってるかぎりの歌を僕たちに歌って聞かせてくれました。僕たちはこの夜会にすっかり満悦して寝ました。
 
一八四九年一月二日 火曜日
 
まだ帆を減らして航海してます。海はひどく荒れています。横揺れが激しいのでほとんど仕事ができません。
 
僕たちはいまモロッコ沖にいます。
 
一月三日 水曜日
 
今日は速力が出ます。船は真っ直ぐに正しい航路をとって走っています。
 
一月四日 木曜日
 
ずっと晴天が続いています。今日は終日八ノットないし八ノット半で航行しました。僕たちはカナリヤ群島に近づいてます。
 
一月五日 金曜日
 
今日四時にはテネリフェの峻嶺が見えるはずです。この峰は海上四十リューのところから見えるときもあるのですが、眩しい太陽光に包まれて見えなかったのです。けれどわずかな順風にはすべての帆を揚げて僕たちは十時か十一時頃にはテネリフェのサンタ・クルスの前方に投錨することになっています。僕たちが手紙を出すのはそこです。多分新鮮な食料品を積み込むでしょう。オレンジがとても安いので買うことが許されると思います。ここのパイプは大変いいという話ですから、水夫に買わせましょう。パパやエドモンやそのほかうちの知り合いの煙草 みに持って帰ってあげるとお伝えください。
 
さようならママ、パパや弟達、お祖母様もさようなら。
エドゥアール マネ
 
一八四九年一月六日 土曜日
 
父上様
 
また当てが外れました。サンタ・クルスを目の前に見て終日風を窺っていましたが、とうとう投錨できずに去らなければなりませんでした。風は向かいです。しかしテネリフェ島は完全に見えました。この有名なテネリフェの峰ほど美しいものはありません。その山は高さ一万千百三十フィートで頂きは雪に包まれています。それは垂直に切り立った本当に岩の塊です。首都であるサンタ・クルスは一つの小さな湾に面しています。この小さな町の白い家々が太陽に輝いている風景はこのうえなく美しいものです。僕たちはそれが見えなくなるのを惜しみました、そしてその高峰が見えなくなるまで名残を惜しんでいました。僕たちが出帆してから一ヶ月です。このくらいの航海をするには普通は十二日あればいいのです。それに僕たちはあらゆる天候に遭遇しました。帰りには僕たちはみんな相当の海の古豪になっているでしょう。午後四時頃、船から四メートルか五メートルのところに遊んでいる鯨を一頭見つけました。何という大きな動物でしょう。びっくりするほど高く水を吹き上げて水面から跳躍したので、鯨のからだが全部見えました。
 
艦長は苛々しています。そして、どうも島に縁がないな、と僕たちにいっていました。
 
午後一時に船は貿易風に乗りました。横なぐりの強風で船は時速十ノットで進みます。もし好天気が続けば二十五日でリオに着けそうです。

一月七日 日曜日
 
続いて好天候、順風です。この頃は毎日日中は射撃の練習をさせられます。朝は六時半から八時まで演習をします。僕たちは帆綱を張ったり弛めたりします。ブソン氏はそれを僕たちにリオ湾にいる軍艦でさせるつもりです。彼は僕たちを熟練したギャビエ(トプマン、船橋係の水夫)に仕立てたいのです。
 
昨夜晩餐後に一同後甲板に登り、士官、学生から最後の一見習い水夫にいたる全船員が王様の日〔Le Jour des Rois〕の豆を引きました。豆の当たったのは我が黒ん坊でした。彼は艦長を王妃に選びました。艦長は彼のためにキルシュ酒を一杯持ってこさせて彼に葉巻を一箱与えました。

一月八日 月曜日
 
午後五時に僕たちは北線を過ぎました。僕たちは赤道からもうほとんど五百二十リューくらいしか離れていないのです。赤道では盛大な赤道祭があるはずです。

一月九日 火曜日
 
いま、飛魚の群がいくつも見えます。今朝甲板に落ちた奴が一匹います。飛魚は脊中に長い翼が二つ、腹の下に小さいのが二つあるかわいい魚です。大きさは鯉ほどですが、鯉よりもずっと細いもので、彼らはこの辺りに棲息しています。

一月十日 水曜日
 
今日は英国艦二隻に遭いました。 小帆船 ブリッグ です。此方の船と舷が触れるほどにすれちがいましたが、一隻だけが僕たちの船に敬礼しました。我々はまだパリで何が起こったか、現在何が起こっているかという懸念から僕たちを救ってくれるフランスの郵船に出遭う機会に恵まれませんでした。僕たちは誰それという大統領が任命されて、その後どういう結果になったかということについて憶測することで我慢しています。
 
段々と暑さがこたえてきました。ここではもはやすっかり夏です。部屋にいると息がつまりそうです。

一月十一日 木曜日
 
暑い無風の日でしたが、愉快な一日を過ごしました。僕たちは射撃をしました。ボネット(帽堡)のバス・ヴェルグ(本樞帆架)の一つに藁人形を結びつけました。艦長の腕前は非凡でした。五時頃素敵な大きい鮪を一匹とりました。そいつを直ちに開いて見ると腹のなかに飛魚が二匹姿のままで入っていました。僕たちはいま鱶の本場にいるのです。やがてそいつをとろうというのです。

金曜日
 
船は時速九ノットないし十ノットで進んでいます。そして暑さは益々加わります。そして僕たちは晩九時半に海水を一杯いれた大きな桶のなかで水浴します。

十三日 土曜日
 
毎日とても上天気ですが暑熱は倍加します。そのため喉が渇いて始終苦しめられています。

十四日 日曜日
 
今日は熱帯地方でなくては見られない無風の日でした。セーヌ河でも確かにこれほど静かではありません。そよとした風もなく船は進みません。
 
昼間ボートを海に下ろしました。僕たちみんな順番に散歩をしました。それから射撃をしました。

十五日 月曜日
 
まだ凪です。僕たちはここの退屈な状態から僕たちを引き出してくれる嵐を待っています。なにしろ一月でもこういう風が続くこともあるのです。
 
この静止の状態を利用して演習をしています。僕たちはだいぶ強くなりました。各自が負けじと魂を発揮してやります、誰が勝つか競争です。

十六日 火曜日
 
僕たちはいま 墨壺 、、 のなかにいます。嵐に遭ったのです。まもなく赤道直下に入る希望をもって、また進行をはじめました。みんなめいめい秘かに赤道祭の準備をしています。

十七日 水曜日
 
今朝二隻の船を見かけました。正午頃 いるか 、、、 (sonffleur)のかなりの大群が船の側を通りました。この魚はほとんど鯨ほどの大きさがあって非常な高さまで水を上げます。それから恐ろしい旋風や熱帯特有の 驟雨 しゅうう にも遭いました。

十八日 木曜日 および 十九日
 
ほとんど毎日雨と風とがあります。二匹の大きな鱝が今朝から船についてきています。水のなかに鱝釣りの針を投げ込んだのですが食こうとしません。

一月二十日 土曜日
 
一リュー二リューくらいの距離に入隻の船が見えました。同経度の辺りで赤道を過ぎる習慣があるのです。それでこのように出遭うわけです。

一月二十一日 日曜日 および 一月二十二日 月曜日
 
僕たちは明日赤道を通ります。それで今日は前祝いをしました。正午に赤道神のお婿さんに当たる占星師が腹心をつれてメインマストから下りてきました。彼は艦長を後甲板に上がらせて太陽の高さを測り、取るべき航路を示しました。そして艦長をからかったりしたあとで、再びもとのところに登りました。そこで彼は赤道神の領分を我々が通行するのを許すかどうか伺いをたてるのです。その返事は夕方五時にならなければもらえないことになっています。果たして晩餐後、乾豆の雨とバケツに何杯もの水が檣楼から僕たちの頭上に降ってきて、赤道神のお便りの到着を知らせました。お使いのあとから鶏や卵や煎餅をかついだブルターニュ風の農夫がついてきました。
 
使者は赤道神からの手紙を艦長に渡しました。赤道神が我々の赤道を通過することを許すという趣き、彼が明日この船に来るという趣きが読み上げられます。百姓になった男はそれから色々の道化をして、艦長がその品物をしらべている顔に麦粉をつかんで投げつけたりしました。使者は使者でみんなころがるほど鞭で脚を打ったりしました。
 
今朝(二十二日)は船の舳先に行くことを禁じられました。そこにはテントが張ってありました。みんな待ち遠しそうにしています。僕たちは後甲板に整列させられました。やがて静かな鐘の音が聞こえます。ミサがはじまるところです。とうとう行列が動き出します。先駆として聖堂警戒者、次に司祭が行きます。次に聖歌隊の少年、赤道神とそのお嫁さん、みんな何ともいいようのないような化粧をしています。海神ネプチューン、床屋が一人、衛兵が二人、最後に悪魔とその息子が行きます。行列は後甲板に登りました。赤道の神様は艦長に何か挨拶をして、お嫁さんを彼に紹介しました。それから司祭が一同にとても滑稽な説教をしました。そしてまず、いまだ一度も赤道を通ったことのない二隻のボートの洗礼にとりかかりました。行列はまたテントのなかに入りました。そして二人の衛兵が受洗者を順番に一人ずつ連れにきました。これから洗礼のやり方をお話ししましょう。まずはじめに祭壇のところに連れていかれて、そこで懺悔をします。司祭がむやみと宣誓をさせます。それからご聖体を授かります。それから床屋の手に渡されます。そこで顔といわず頸筋といわず絵の具を塗られ、お次に木で作った長さ二尺もある剃刀で皮膚をいやというほど引っかかれます。それだけではありません。一人の男が司壇のかたわらに置いてある大きな鉢の水で顔を洗えと言います。まさか僕は悪ふざけとは思いませんでしたから、遠慮なく洗うと僕の両脚をつかんでいやというほど頭を水のなかに突っ込むのです。この試練がすむと誰でもたいていこれでごめんだと思います。ところがテントを二歩と出るか出ないうちにほかならぬ我が黒ん坊が扮している悪魔の手中に落ちて、墨汁をふんだんに含ませた尾で身体中汚されてしまいます。洗礼を受けてしまうと、みんなてんでに桶をとって 我勝 われがち に争って水を浴びます。先生たちも艦長もみんな加わりました。みんなからとくに目を付けられたのはデュボアで、みんなが頭から爪先まで墨をこすりつけました。その上桶の水を何杯となく打ち掛けたので彼はカンカンになりました。とうとうそれをやめて、からだをきれいにするときが来ました。僕たちはみんな腰のところまで真っ黒になりました。僕たちはグリースを溶かしたもので、二時間もからだを擦らなければならなかったので、油臭くなってしまいました。それからの時間も面白く過ごしました。休暇をもらいましたし、晩は御馳走でした。これで僕たちも一人前の船乗りです。僕たちは赤道を通ったのです。船長さんでも赤道を通ったことのない人が沢山いるのです。

二十三日火曜日
 
順風です。あと十五日でリオに着けそうです。

三十日 火曜日
 
二、三日前から船の塗り替えにかかっています。僕たちはできるだけ綺麗になってリオに入りたいのです。このお洒落のためにいくぶん遅れます。僕たちはすっかりお化粧ができないうちに着いてしまわないために、迂廻しているのです。
 
愛するパパ、どうぞ僕がパリで試験を受けたい希望を持っていることをお忘れにならないでください。それが一番いいのです。僕は田舎に受けにいきたくはありません。それに僕のいまの仲間もみんなそうするはずなのですから。

一月三十一日より二月四日にいたる
 
昨日リオ・デ・ジャネイロの前方四マイルに来ました。僕たちは明日までに入るのに都合のいい風を待ちます。一時から六時のあいだでないと港に入れないのです。みんな とても 、、、 じれったがっています。

一八四九年二月五日
リオ・デ・ジャネイロ湾にて
 
母上様
 
二ヶ月間の海上生活とかなりの悪天候とを経たあとに、やっとリオ湾に来ました。三時に船は第三 堡塁 ほうるい の前を通って湾内に入りました。堡塁の人々が間査しましたが、何を聞いているのかわかりませんでした。第二堡塁も僕たちの船を 誰何 すいか しましたが、今度はむこうでこっちの返事が聞こえませんでした。それで此方に向けて大砲を一発放ちました。先方が何を要求してるのか分からないので、そのまま進行していますと第二発を放ちました。そこでこちらではこの塁の前に投錨することに決めました。しかし、これはいい結果を生みました。なぜならばその塁では、もう一発、今度は弾丸を見舞うつもりらしかったからです。投錨してしまうと検疫官が船にやってきました。それから港の役人と税関吏がやってきて臨検のすまないうちに貨物を下ろすことを防ぐために、下役の一人を船に残して行きました。
 
制規の手が全部終わって僕はやっと周囲を眺めることができました。リオ湾は非常に綺麗です。湾内は各国の軍艦で埋められ、湾を囲んだ緑の山々には美しい人家が点在しています。船が着くや否や僕たちが上陸したいかを聞きにやってくる土人のはしけ で包囲されてしまいました。リオについてはこれ以上のお話はできません。僕たちの手紙は明朝の四時に出るはずです。僕たちは木曜日までは上陸しません。
 
艦長が昨夜上陸しました。そして十通ばかりの手紙を持って帰ってきました。僕はそのなかにそちらからの手紙があるといいなと思いましたが、その幸福に恵まれませんでした。コール氏はパパにこういう機会があることを知らせておいてくださらなかったと見えます。
 
さようなら愛するお母様お父様、お祖母様、弟たち、ジュール、伯母様、エドモンもさようなら。僕の友達のボードアン夫人によろしく。ソフィと ばあや 、、、 にもよろしくお伝えください。
 
いまでは僕はとてもこの仕事が面白くなってきました。これから二ヶ月間は、新米の船乗りを鍛えあげる煩しさから放免されて、しかもとうとう真水が飲めるのです。もう毎日毎日塩漬けの肉を食べないでもいいのです。

リオ・デ・ジャネイロ湾にて
 
母上様
 
前便で僕たちがリオに到着したことはお知らせしました。この海は前にも申し上げたとおり、非常に綺麗です。僕たちは次の月曜日まで上陸できなかったので、この綺麗な湾をただいいなと思って眺めているばかりでした。この間の時間の長さったらありません。いつも艦長や士官たちや僕の親友のあの船客が上陸すると、僕たちは堅い土地の上に足を置く瞬間をいっそう待ち遠しく感じるのでした。やがてみんなめいめいに貰ってきた紹介状を発送しました。僕はルブールがくれたのを出しました。月曜日にミサの後で(船でミサがありましたので)僕はジュール・ラキャリエールという僕と同年の青年と一緒に出かけました。彼は僕をウヴィドール街に婦人雑貨店を開いている彼の母親の家に連れていきました。彼女はリオから五分のところにすっかりブラジル風の小さな別荘も持っています。彼らの家で昼も晩もご馳走になりました。家族は兄と弟が一人と十三の妹とです。僕はこのうえなく歓迎されました。昼食のあとで、僕はこの新しい友人と一緒に街を歩きました。ここは町の大きさに比して道路が狭隘ですが、ほんの少しでも芸術的素質のあるヨーロッパ人にとっては、まったく独特なものを感じさせます。街では黒ん坊の男女にしか会いません。ブラジル人はあまり外出しませんし、女の人にいたってはさらに稀にしか出ません。女たちはミサにもう でるときか、夕方、ご飯のあとかでなければ見られません。夕方、彼女たちは自分の部屋の窓辺によりかかっています。ですから楽に彼女らを眺められますが、昼間はたとえ彼女が窓のところにいることがあっても、誰かが見ているのに気がつくとすぐひっこんでしまいます。この国では黒人はみんな奴隷です。この不幸な人間はみんな馬鹿な様子をしています。白人が彼らに対して持っている権力は絶大です。僕は奴隷の市を見ましたが、僕たちには見るにたえない風景です。黒人の着物はただズボンだけです。麻の作業服のようなものを着ることもありますが、奴隷としての彼らには靴をはくことは許されません。黒人の女の大部分は腰のところまで裸です。頸に絹のハンカチを結びつけて胸まで垂らしているのもいます。黒人の女は普通醜いのですが、僕は相当綺麗なのも見かけました。彼女らは念入りななりをしています。ターバンを用いている者や、縮れた髪を非常に芸術的に結んでいるのもあります。そして彼女らは揃って大きな裾飾りのついた下だきを着けています。
 
ブラジルの女性について申しますならば、彼女たちはほとんど美人だということです。彼女たちはすばらしい黒い瞳と漆黒の髪を持っています。髪の結び方は支那風で、いつでも外出するのにかぶりものを用いません。着物はスペインの殖民地風のもので、フランスでは見られない薄いものです。女は決して一人では外出しません。いつでも奴隷の女をともなっているか、自分の子供と一緒です。子供と申しましたが、この国では十四かそれ以下でも結婚するのです。僕はいくつかの寺院教会に行ってみましたが、フランスの教会ほどの価値はありません。すっかり金ピカで飾ってありますが、趣きというものがありません。町のなかにいくつかの修道院があります。なかにイタリアの修道院が一つありますが、そこでは神父たちは修道服を着て大きな顎髭を生やしています。このリオの町ではなんでもとても高く、通用しているのは紙幣と銅貨だけです。
 
リオではブラジル人の女は 輿 こし に乗っています。馬の代わりに 驢馬 ろば を使うので、驢馬の引く馬車や乗合もあります。
 
王宮のお話をするのを忘れましたが、実際みすぼらしいけちな建物です。そのうえ、王様はあまりここには住まないで、少し離れたサン・クリストヴァンという城に住んでいるのです。ブラジルの実際にいたっては、滑稽というよりほかありません。ブラジルにも一種の国民軍や検閲法もあって、現在実施されています。それはバイヨンに乱が起こっていて、始終そこへ軍隊を派遣しなければならないからです。
 
僕はお父様が(僕の世話になってる)この小母さんに優しい手紙を書いて、僕に対する待遇のお礼を言っていただきたいと思います。月曜日毎に招待してくれるそうです。しかし婦人雑貨店という肩書きで心配なさらないでください。彼女は例外で、彼の息子は Pension Jouffroy の生徒で本当に僕等らの仲間の多数よりは躾のよい子です。実のところ、はじめての日曜の外出には小売り店なんぞにいる自分を見て、ずいぶん変に思われましたけれど、いまでは慣れました。もしルブールにお会いになりましたら、僕の代わりに彼にお礼を言って、帰りには彼の友達の手紙を持っていくとお伝えください。
 
ピント氏の所番地は知っているのですが、誰もピント氏の話をするのを聞いたことはありません。彼はポルトガル人です。僕は多分二、三日中に彼に会いにいくことになっています。パパは多分そのおつもりだと存じますが、もし僕への手紙を彼の家気付になさるのでしたら、ディレクタ通り三十八、マニュエル・フェレイラ・ピントとお書きください。でないとこの町のポルトガル人は誰も彼もピントという姓なのですから。
 
いまひどい雨です。雨は四日も五日も絶え間なく続きます。本当に船の上の雨ほど退屈なものがあるでしょうか。
 
リオでは図画の先生が見つかりませんでした。艦長は私に友に絵を教えろと言います。で、とうとう僕が図画の先生に任命されました。それには僕が航海中すっかり有名になって士官や教授たちみんなから似顔絵を描いてくれと頼まれ、艦長までがお年玉にするのだから自分のも描いてくれと頼んだことを申し上げなくてはなりません。幸い、僕はどうにかみんなを満足させるようにやれたのです。
 
毎木曜日には朝の四時に出かけます。僕たちは艀で湾の町とは反対側に行きます。そして山野を 跋渉 ばっしょう します。水を浴びたり、食事をしたり、食糧持参でコックや給仕を連れていきます。散歩はとても愉快でこの景色はこのうえなく美麗です。果物は欲しいだけいくらでもあります。毎日土地の艀がバナナやオレンジやパイナップルを満載して船にやってきて、何でもとても安いのです。
 
リオの謝肉祭は本当に他にない特徴を持っています。謝肉祭の日曜は、丸一日町を歩いてみました。三時になるとブラジルの女たちは全部、あるいは門口に出たりあるいはバルコンに出たりして通りかかる男たちに リモン 、、、 という水をいっぱい詰めた色とりどりのろう の玉をぶつけます。
 
いくつもの通りで、僕もこの国の風習にしたがって襲われました。僕もリモンをポケットにいっぱい入れてできるだけの応戦をしました。そうしなければいけないのですから。この騒ぎは夕方の六時まで続きました。それから町は平静に戻りオペラ劇場の舞踏会をまねた仮装舞踏会が催されましたが、その会ではフランス人だけが光っていました。僕たちは謝肉祭の火曜日を野外に出て、大変愉快な行楽をして過ごしました。ずいぶん奥の方まで遠足の足を伸ばしましたが、これによっていっそうこの国を讃美したくなりました。残念ながら非常に蛇が多いので草叢のなかを散歩するときには絶えず注意していなければなりません。美しい蜂鳥も見ました。
 
二十四日の土曜日に母上様のお手紙をいただいて、とても嬉しく感じました。そのあとずいぶん長いこと音信に接しませんもの。
 
僕は三日間三人の年長の独身者と三人の学友と一緒に田舎に行ってきました。せいいっぱい遊び暮らして、処女林で猟などをしました。
 
さようなら母上様、イギリスの郵船が出ようとしていますから、これで筆を擱きます。ママもパパも弟たちもお母さんもジュールたちもみんなお大事に。
 
伯母様とエドモンとマリーによろしく。
 

ママを敬愛する
エドゥアール マネ

リオ・デ・ジャネイロ湾にて
二月二十六日 月曜日
〔従兄(弟)ジュール・ド・ジュイ宛て〕

 

親愛なるジュール、君の手紙はとても嬉しかった。来てるかしらという予感はあったが。君と同様、僕も身内の者と離れていると自分のことを考えていてくれる印を受けとるのが嬉しいということがわかった。乱暴だが僕の感想を判読してくれたまえ。実際はじめは相当辛かった。荒天にともなう苦しみや、それに船暈になるとすっかり仕事がいやになってしまう。僕は何度か「どうして俺はこんなつまらない危険な仕事をやりだしちまったんだろう」と思った。けれどもいやな時代は過ぎた。いまではみんな戦場往来の海の戦士なのだ。リオ・デ・ジャネイロは我々に少しばかりの退屈も慣れきれない乱暴な生活の苦しさも、横暴な上官が年中怒ってるのも忘れさせてくれた。

 

リオについて君に細かいことを書くにしても、ほとんど僕が母へ送った手紙に書いたことを繰り返すくらいのものだ。町はずいぶん汚いけれど芸術家にとっては面白い特徴があるとか、人口の四分の三は黒人か黒白の混血だというようなことだ。この人たちは、黒人の女と混血の女の多少の例外を別にしては、概してひどい。混血の女は大体綺麗だ。リオでは黒人はみんな奴隷で奴隷の売買は非常に盛んだ。ブラジル人についていえば彼らは意気地なしであまり気力を持たないらしい。ブラジルの女は概して非常に綺麗だがフランスで評判するほど軽佻ではない。ブラジルの女ほどすましていて、間の抜けてるのもめずらしい。彼女らは日中は決して往来に出ない。夕方五時になってはじめて彼女らはみんな窓のところに出て来るので、そのときにはゆるゆる 偸見 ぬすみみ することができる。謝肉祭のやり方はずいぶん変わってるよ。僕もみんなと同じように被害者にもなったが自分でもやった。午後の三時から町中の女はみんな窓辺に出て通りがかりの男にリモンという水のいっぱい入った蠟のまりで人に当たると倒れて水がかかる仕掛けになったものを投げつけるのだ。しかしこれは男のほうでも応酬していいことになっている。僕もこの許された権利を自分のために行使した。夜はパリにならって仮装舞踏会があった。

 

郊外の山野は実に美しい。僕はこれまでこんな美しい自然を見たことがない。昨日は独り者数人と湾の奥にある島へ遠足に行って非常に面白かった。我々がそこで三日間住っていた家はとても美しくて、全然殖民地風だった。我々は処女林を跋渉したがとても珍らしかった。だが蛇がいて少々散歩の興味を削がれた。

 

僕は二人の、一人はごく最近だが、僕のことをよくしてくれる人を得た。だんだん僕をよくしてくれて甘やかすくらいだ。

 

いまではリオを見尽くしてしまったので、とてもフランスに帰りたくなった。そしてできるだけ早く君たちの仲間入りがしたいと思う。僕たちはバイヤまでか、それともこの沿岸の他の港に行こうとしている。

 

どうして居所を変えたのかね。これは意外だった。では本当に君の居所は物騒なわけだろうか? 君は大の政治通だもの、ルイ・ナポレオンの当選をどう思う? 彼を皇帝にすることだけはよしたまえ。あんまり滑稽だからね。

 

ユージェヌはかわいそうに始終しょげていそうだが、変な子だね。あきれる。あいつは今年あらゆる点でうまくいったはずだのに。多分数学がはじまったので骨が折れてつまらないのかもしれない。ギュスターヴは真面目になったらしいね。君にもっと話したいが僕たちの手紙は三時の郵船で出ることになっているのに、出帆のことをおそく知らせてくるものだからせっつかれて書けない。

 

では愛する従兄よさようなら。友人たち、とくにジュール・ミュニクによろしく言ってくれまたえ。彼にあったときには、若いクレミュから彼によろしくということを言い足しておいてくれ。クレミュは僕の友人の一人だ。

 
君の忠実なる友 エドゥアール マネ

リオ・デ・ジャネイロ湾内 アーヴル・エ・グアドループ号にて
一八四九年三月十一日
〔弟ユージェヌ宛〕
 
愛する弟よアーヴル行の船を利用して一筆書く。僕からの手紙は君の手紙が僕を喜ばせるように君を喜ばせるだろうと思うから。僕たちの実習ももう終わりかけている。我々は四月十日にはもう八人の船客と十二人のブラジル人の新入学生を連れてリオを立つはずだ。いまではもう海上生活に慣れて、現在までずっと船の上でばかり生活してきたようにさえ思われる、アーヴル港に帰ったら本当に嬉しいだろうと思う。この職業は色々いやなこともあるけれど、大変僕の気に入った。僕たちにとってよかったのは、最初の見習い期間中に辛い目に遭ったことだ。なにしろ航海の三日目からテネリフェまでは暴風雨などの荒天続きで普通なら四十日でできる航海に二月もかかってしまった。
 
それはそれとして変な話だが、僕は航海中よりもリオに着いてからのほうが退屈なのだ。なぜって目の前に陸地を見ながら、木曜日と日曜日とにしか上陸ができないのだから。それから僕が君に手紙を書いているいままでに、僕はもう二週間というもの船から出ない。町の人たちと一緒に行った野外遠足で蛇か何かに足を刺されて、ひどく腫れてしまった。大変な痛さだったが、もう治った。アメリカ大陸のこの美しい国について僕の意見を述べることは控えよう。だって自然は美しいのだけれど始終雨で、ひどい雨が四日も五日も続く。とにかく湾内に碇泊しているのは面白くない。僕は苦しい目に遭い、相当虐待もされた。それから何度も「斜航する」誘惑も受けた。この言葉のわけは、ポールに聞くといい。
 
リオにはフランス人が多勢いるから、こっちの言うことを通じさせるには別に困らない。ポルトガル人やブラジル人は無気力でのろまな国民だ。それにあまり人付き合いも好きではないようだ。往来では黒ん坊にしか出会わない、彼らは全部奴隷でリオの人口の四分の三を占めている。
 
僕は今年合格する望みを持ってはいない。誰でも船で生活していれば陸にいるより邪魔にされがちだし、それに今度採用になったやり方はまるで学校に入学することを不可能に近いものにしてしまうものだ。
 
ママのお手紙によると君は数学でしょげているということだけれど、そんなことで失望してはいけない。誰でも最初のうちは同じなのだから。
 
ロラン学校の友人たちによろしく言って握手しておいてくれるように頼む。
 
帰ったら従兄弟のエドモン・サンシリアンに会いたいと思う。彼は頑張っている? この冬は思うぞんぶん面白いことがやれたかしら。彼の親父が今年はオペラ座の舞踏会に行くことを許したのを知っていたので、僕は謝肉祭のあいだじゅう、彼のことを思い出していた。謝肉祭といえば、こちらはあまり盛んではなかった。君はママに出した僕の手紙で水のはいったボールをぶつけるという、この国の奇習のことを知っているだろう。それが三日間ぶっ通しに続くのだ。
 
町では僕たちのことが盛んに話題になっている。さきだっては新聞にフランスの練習船の記事が出ていて、生徒も先生も最大級に誉めてあった。
 
僕たちは演習で強くなった。僕たちは僕たちのかたらわに碇泊している軍艦よりうまいとまでは行かなくとも、同じくらいのうまさに帆を捲くことができる。それでは賞められた。
 
君も知っているようにジュールが手紙をくれた。彼はゲネゴー街を引き払ったと言ってきた。あそこは非常にいいところだったと思うんだが。ルイ・ナポレオンになっても僕が帰ったときに彼がまだあそこで代理でいればいいと思っていたのだけれど。
 
目下、リオは動揺している。カリフォルニアという新しい開けた国に大変な鉱脈が発見されたところなのだ。船はみんなそこへ行く相談をしている。ビール一本がそこでは五百十フランで売れるとか何とか言っているしまつだ。船長も船員も奥地に金を採掘しに行くために船を見棄てるという狂気沙汰なのだから。必要品がそんな途方もない値で売れるほど、金がザラにあるとは金儲けには千載一遇の好機というわけだ。
 
僕は先だってポルトガルの芝居にいった。あんな面白くない間の抜けたものはない。綱の上で踊るのだが、それがすこぶるつたない。ここでは見物して出るときに金を払うのだが、残念ながいくら面白くなくっても何も払わずに出るというわけには行かない。
 
ボートアン夫人のところへ行ったとき、太っちょのジュールやもしひょっとしてルエラコに会ったらよろしく言ってくれたまえ。
 
猿を一匹持って帰りたいと思ってる。一つ貰える約束があるから。僕が森や処女林を散歩するときには、きっとパパのことを思い出してステッキを探して歩く。すでに何本かの少し曲がった木を手に入れた。
 
もし君が運動場で僕の友達のキャケに会ったら僕からよろしくと言ってくれるといい。
 
ではさようならユージェヌ、僕の代わりにママやパパやお祖母様やギュスターヴによろしく。ジュールとポールとエドモンと伯母さんとマリーによろしく。
 

君を愛する兄
エドゥアール マネ  

 
火曜日にはリオでブラジルの皇后の誕生祝いがあり、大祝典があるそうだ。

リオ・デ・ジャネイロ湾内 アーヴル・エ・グアドループ号にて
一八四九年三月二十二日
 
父上様
 
ユージェヌが受け取る手紙が僕の最後の手紙になると思いましたが、機会がありますのでそれを逃したくありません。
 
そちらのお手紙を三通もいただいたのに僕のほうのは一通もお受とりにならないとは驚きました。十二月二十一日にポルトガル沖のポルトと同緯度の辺りで行きあった 小帆船 グリッド に托したのが着いていなければならないはずですが。
 
船は碇泊所を離れて今日から二千五百ないし三千袋くらいのコーヒーを輸送せねばならぬので、その積荷のために入港しています。
 
目下リオでは連日の祝典ですがリオには坊さんが沢山いますので宗教的な祝典が多いのです。
 
パリではまだ人心が動揺しているのでしょうね。僕が帰るまでいい共和国をとっておいてください。どうもルイ・ナポレオンはあまり共和政体が好きらしくなさそうですから。
 
R氏の友人でモンテビデオ〔ウルグアイ〕の代理公使のギレモ氏がリオに到着しました。同氏はフランスに帰るので多分僕たちの船に乗るでしょう。パパは覚えていらっしゃるかしりませんが、ポールは彼に宛てた紹介状を僕にくれるつもりだったのです。
 
お祖母様のご病気のことを伺って心配ですが、いまは段々いいそうで、その状態が続けばと願っています。
 
ユージェヌとエドモンの手紙は大変嬉しく感じました。 徒然 つれづれ の折には、皆様のお手紙を出して繰り返し繰り返し読みふけります。
 
ではさようならパパ、ママ、それからみな様に何卒よろしく。もう発送するそうですから、これで筆を擱きます。僕は今日当番でした、手紙を書く用意もしてなかったのです。
 

パパを敬愛する      
E マネ