HUMANITIES

ピカソ論

C・G・ユング

江野専次郎訳

Published in November 13th, 1932|Archived in April 3rd, 2024

“Sculpture on Strandudden, Kristinehamn, Sweden”, designed by Pablo Picasso.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原則として原文ママだが、旧字は新字に直し、一部漢字にルビを振り、誤植は直した(「対して 、」→「対して、」、「築建家」→「建築家」)。
傍点による強調は太字に統一した。
底本の行頭の一字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:カール・グスタフ・ユング(1875 - 1961)訳者:江野専次郎
題名:ピカソ論
初出:1932年11月13日(『新チューリッヒ新聞』)
出典:『ユング著作集・3 こころの構造』(日本教文社。1955年。179-189ページ)
Image: “Sculpture on Strandudden, Kristinehamn, Sweden”, designed by Pablo Picasso, photo by Xauxa, licensed under CC BY 3.0.

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精神病医たる私が、ピカソをめぐる興奮に巻きこまれることは、読者の御宥恕を乞わねばならぬ。断りにくい筋からの 慫慂 しょうよう がなかったら、私はペンを執らなかったであろう。とはいうものの、奇妙な芸風をもつこの芸術家がつまらぬ題目だなどといっているのではないーー文学の面でのピカソの兄弟ともいうべきジョイスのことは、私は真剣に検討したーーそれどころか、彼の問題は非常に私の関心をひいている。ただ、この問題は、あまりにも広汎で、あまりにもむずかしく、あまりにも錯綜しているので、短い新聞論稿などでは近似的にも意を尽くせないような気がするのだ。私が、ピカソについて見解を述べようとするのも、彼の「芸術」の問題についてではなく、彼の芸術の心理について、多少ともいうべきことがあるという、明確な保留のもとにおいてである。つまり私は、美学上の問題は美学者にまかせて、そうした芸術創作の基盤をなす心理についてのみ述べようと思う。私は心的過程の絵画的表現の心理を研究して、ほぼ二十年になる。だから、ピカソの絵画を職業的な眼で見うる立場にいるわけだ。私の経験にもとづいて読者に保証してもよいが、ピカソの心的問題性は、それが彼の芸術に表現されている限りにおいて、私の患者たちのそれとまったく類似しているのである。残念ながら、私はこれを立証することができない。比較の資料がごく少数の専門家にしか知られていないからである。したがって、これから私が述べようとすることは、不充分な根底の上に立つものであり、読者の好意ある想像によって補足していただきたいのである。
 
対象に即さない芸術は、本質的にはその内容を「内部」から引き出す。この「内部」は意識に対応することはできない。なぜかというと、意識は誰もが見るような諸対象の模写を含んでおり、その模写は一般の期待にそうような形をとらざるをえないからである。ところがピカソの対象は、一般の期待にそうものとは別なものであるらしい。いや、それどころか、それが外部的な体験の対象のつもりであるというような様子さえ見せないのである。彼の作品を年代順に並べてみると、経験的な対象からの隔離はしだいに烈しくなっている。そして、いかなる外部的な体験にも対応せず、ある「内部」から生まれてくるような要素が、しだいに増加している。この「内部」は意識の背後にかくれている。いずれにせよ、意識の背後にある。そのくせ、五感の上位にある一般的な知覚器官のような顔をして、外界を向いているのである。意識の背後にあるのは、絶対的な無ではない。無意識の心なのだ。そして無意識の心が、背後から、また内部から、意識を刺激するのは、ちょうど外界が意識を前と外から刺激するようなものである。したがって、外部に対応しないような形象的要素は、「内部」から生まれたはずである。この内部は、見ることも考えることもできないくせに、意識に非常に強い影響を与えるものであるから、主としてそのような影響を蒙っている患者たちに対しては、私はその影響をできるだけ絵に描いてみるようにすすめている。「表現法」の目的は、意識にのぼらない内容を捉えやすい形にし、理解に近づけようとするにある。この方法の治療上の効果は、無意識の諸過程の危険な分裂が、意識によってさまたげられるという点にある。絵画的、表現された背後の諸過程および諸作用は、対象的ないしは「意識的」な表現とはちがって、象徴的である。つまり、まだ知られていないある意味を、近似的に、でも暗示しようとする。こうした事情であるから、たった一枚の絵を見て、なにごとかを確信ありげに断定することは、まったく不可能である。おかしな絵だなと思い、こうごたごたしていてはどうにも見当がつかぬと感じるくらいのものである。なにが示されているのか、なにを描こうとしたのか、わかりようがない。理解の可能性は、いくつもの系列をなす絵を比較することによってのみ生ずる。患者たちが描く絵は、おおむね芸術的な想像力を欠いているために、近代の芸術家たちの絵よりも、明瞭で、単純で、したがって、わかりやすい。患者をノイローゼ患者と、精神分裂症患者の、二つの群に分けることができる。前者の描く絵は、気分がすみずみまでゆきわたり、統一的で、綜合的な性格をもっている。もしもそれらの絵がまったく抽象的であり、したがって感情的なモメントをもっていないとしても、すくなくとも、明確な均斉を保っているか、または、明確な意味をもっている。後者の患者群はこれに反して、ただちに感情の違和を暴露するような絵を描きだす。これらの絵はいずれにせよ統一的・調和的な感情を媒介せず、感情の矛盾、ないしは感情の完全な欠如を媒介する。ごく形式的にいえば、分裂の性格が支配的である。これは、いわゆる「断層」という形で現われる。つまり、一種の心的な地割れが絵の中をはしるのである。その絵は、冷たい印象を与える。さもなければ、絵を観るものに対して、逆説的な・感情阻害的な・凄槍な・もしくはグロテスクな無関心のために、驚異の気持ちを起こさせる。ピカソはこの群に属する。
 
*このように固定したからといって、この二つの群のいずれかに属するものは、必ず、ノイローゼか、精神分裂症であるといっているのではない。この区分が示そうとすることは、前の場合にはある心的阻害が、予見的には、通常のノイローゼ的徴候を誘発し、後の場合には、精神分裂症的な徴候を誘発するであろうというだけのことである。したがって、この場合の「精分裂症的」という言葉は、決して、精神分裂症という精神病が存在するという意味ではなくて、それにもとづいて、ある重大な心的葛藤が精神分裂症を生むかも知れないような、性向なり、性癖なりが存在するというほどの意味である。私もピカソやジョイスが精神病患者であるといっているのではない。ただ彼らが、ある深刻な心的障害に対しては、普通の心的ノイローゼでは反応せず、精神分裂症的な、微候群で反応するところの、厖大な人間集団に属するというのである。さきの私の言葉が、若干の誤解を招いたようだから、このような精神病理学的な理論を書きそえた。
 
この二つの群は、このようにはっきりした相違があるくせに、一つだけ共通点がある。象徴的内容がそれだ。両方とも、意味を暗示的に表現する。けれども、ノイローゼのタイプは意味を求め、彼の感情は見るものにその意味を伝達しようと努力する。だが、精分裂症患者はほとんど、そのような傾向を示さない。むしろ、彼が、この意味の犠牲者であるかのような外観を呈する。まるで、彼は、それによって圧倒され、呑みこまれてしまって、ノイローゼ患者ならすくなくともそれを統御しようとする諸要素の中へ、彼自身が解体してしまったかのようだ。精神分裂症的表現については、私がジョイスについて述べた言葉があてはまる。絵を見る人の気持ちなど、すこしも迎えようとしない。一切が彼にそっぽを向く。ときに現われる美でさえ、許しがたい退却の逡巡といわぬばかりだ。醜悪なもの・病的なもの・グロテスクなもの・不可解なもの・陳腐なものが求められるのも、表現するためではなくて、包みかくすためなのだ。包みかくすのも、探す人を考えてのことではない。住む人もない湿地帯の上に立ちこめた、冷たい霧のようなものだ。何の作意もない。見物なしでやれる芝居なのだ。
 
前の場合には、彼が何を表現したいと思っているかを予想でき、後の場合には、彼が何を表現できないかを予想できる。いずれの場合にも、不可思議な内容が現われる。画布に描かれた絵であろうと、紙に書かれた言葉であろうと、そのような形象系列は、ネキュイア、つまり、「冥府ゆき」の象徴ではじまるのが普通である。それは、無意識への下降であり、地上の世界との別離である。その後に起こることは、なお画の世界の形式や形象の中に表現されるが、それは秘められた意味を暗示し、したがって象徴性をもっている。たとえば、ピカソの「青の時代」は、まだ対象性を失わない形象ではじまる。夜の青、月光の、水の青、エジプトの冥府のトゥアートの青だ。(トゥアートは、サハラ砂漠の西北部にあるオアシス群・訳者注)彼は死ぬ。そして、彼の魂は馬に乗って彼岸へゆく。日常の生活が彼にまつわりつく。子供を抱いた妻が、ものいいたげに彼に近づく。彼にとっては、画は女であるが、夜は、心理学的に明るい魂と暗い魂(アニマ)と呼ばれるところのものだ。暗い女の姿が彼を待ってじっと坐っている。青いたそがれの中で、彼を待ちうけている。病理学的な予感を呼びおこす姿である。色彩の変化とともに、われわれは冥府の中へはいってゆく。対象性は死神に捧げられ、肺と梅毒を病む若い娼婦という、すさまじい傑作の形で表現される。娼婦のモティーフは彼岸にはいるとともにはじまる。ここで彼は死せる魂となって、大勢の娼婦たちと出会うのだ。私が「彼」というのは、冥府の運命に耐えるピカソの中の人間を指している。この人間は画の世界の方を向かないで、運命的に闇の方を向く。万人の認める美や善の理想を追わないで、醜と悪との悪魔的な魅力にひかれる。この醜と悪は、近代人の心の中で、異教徒的に、悪魔的に、ふくれ上がり、末世的な気分をかもしだす。この明るい画の世界を、地獄の霧でおおい、致命的な崩壊を感染させ、最後にはまるで地震地帯のように、現世を断片・断層・廃墟・瓦礫・ぼろきれ・無機物などに解体してしまう。ピカソおよびピカソ展は、これらの絵を見に出かけた二万八千人の人々とともに、時代の現象なのだ。
 
概して、無意識は男性には「暗い女」の姿で現われる。すさまじくもグロテスクな、この世のものとも思われぬ醜悪さか、あるいは地獄的な美しさをそなえた、クンドリイ(ウォルフラム・ファン・エッシェンバハの『パルツィファル』に現れる醜い女性で、聖石の使者・訳者注)の姿をとる。もちろんこれは、そのような運命に見舞われた患者がノイローゼ群に属する場合のことである。エヴァ、ヘレーナ、マリア、ゾフィアという、グノーシス派の冥府の四人の女性像に対応して、われわれはファウストの変身の場合には、グレートヘン、ヘレーナ、マリア、それから抽象的な「永遠に女性的なるもの」という四人の女性を見出す。それと同じように、ピカソも変貌して、悲劇的なアルルカンという地獄の姿で現われる。このモティーフは数多くの絵をつらぬいており、ちょうど、ファウストのように殺人事件の掛り合いになり、第二部でふたたび姿を変えて現われる。ちなみにいえば、アルルカンは冥府の神である。
 
*この詳しい証明はW・ケーギー博士の好意ある指示に負う。
 
太古への下降も、ホメーロスの証言以来ネキュイアの一部である。ファウストはブロッケン山の原始的な妄想の世界と古代の怪像をかえりみる。ピカソは怪奇な野蛮性をもつ野卑な地霊を呼び出し、ポンペイの昔の霊魂喪失状態を、冷たい光の中に輝くばかりによみがえらせる。ジュロ・ロマノ(イタリヤの画家にして建築家〈一四九九ー一五四六〉・訳者注)にもこれ以上醜悪には描けまいと思うほどである。私の患者の絵の場合、まず必ずといってよいほど、新石器時代の形式に立ち帰って、古代のディオニゾス的陶酔の思い出にふけるのである。アルルカンもファウストと同じように、これらの形式を遍歴する。とはいえ、彼の存在をうかがわせるものは、彼の酒か、彼の竪琴か、せいぜい彼の道化衣裳の極彩色の縫取飾りだけというようなこともある。そして、人類数千年の歴史を気ちがいのようにさ迷い歩いて、彼はなにを体験するのであるか。形式と色彩の破片や断片、さては生まれ損となったか、早死してしまったもろもろの可能性の堆積の中から、彼はいかなるエキスを蒸留するのであるか。究極の原因として、またあらゆる解体の意味として、いかなる象徴が現われるのであるか。
 
ピカソの世界の雑然とした多様性を眺めると、それを指摘する勇気も湧きかねる。それゆえ、私はまず私の資料の中になにを発見したかを述べようと思う。冥府への旅は無目的な、破壊専門の、巨人的な下降ではなくて、意味深い「洞窟への参入」だ。清祓と秘められた認識との洞窟へ降りてゆくことだ。人類の魂の歴史を遍歴することは、血の記憶を呼び起こすことによって、全体としての人間を回復しようという目的をもっている。ファウストが母たちの国へ降りてゆくのは、罪悪をも含めての全人間を連れ戻すのに役立つ。パリスやヘレーナがそれだ。こうした人間はそのときどきの現在の一面性の中へ迷いこんだために忘れ去られてしまったのである。こうした人間こそは、あらゆる激動の時代に地上の世界を揺るがしたものであり、今後も揺るがすであろう。こうした人間が目前の人間と対立するのは、彼は昔からいつもそうであったのに対して、後者は目前においてそうであるにすぎないからだ。これに対応して、私の患者たちの場合は、下降期と回復期の次には、人間本性の対立性と、矛盾をはらむ対称物の必然性とを承認するようになる。したがって、緩解期にある狂人体験の諸象徴の次には、明暗・上下・白黒・男女などの対称物の併存を、表現するような形象が現われる。ピカソの最近作には、対立物を、まともに対峙させたまま統合するというモティーフが、実にはっきりと現われている。ある絵などは(もちろん多くの断層によって切り刻まれてはいるが)明るいアニマと暗いアニマの並置さえも描いている。最近のピカソがけばけばしい、いとも明瞭な、血なまぐさい色を使うようになったのは、諸感情の葛藤を力づくで統御しようという、無意識の傾向に対応するものだ。
 
患者の心的発展の場合は、この状態は終局でもなく、目標でもない。この状態は、いまや道徳的・獣的・精神的な人間性の全体を包括するところの、視野の拡大を意味するにすぎない。だが、まだこれを生きた統一体に形成するには至らないのである。ピカソの「内面劇」は、運命の転換をはらむこの最後の頂上にまで達している。今後のピカソについては、私は予言を差し控えたい。というのは、この内心の冒険は危険なことであって、どの段階でも停滞に陥るかもわからないし、並置した対立物が破局的な爆破を起こさないとも限らないのである。アルルカンの姿は悲劇的な曖昧さをもっている。そのくせ彼の衣裳は、心ある人にはわかることだが、すでに次の発展段階の諸象徴をそなえている。彼は冥府の 欣快 きんかい 険路(ルビ:けんろ)を踏破すべき英雄なのだ。だが、彼は見事それをやってのけるだろうか。私もこの質問には答えられぬ。アルルカンの姿は、私には不気味である。彼は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中の、例の「道化役にも似た、おかしげな奴」を余りにもよく思い起こさせる。なにも知らぬ綱渡り(バヤツォーに対応する人物)を跳び越えて、そのために彼を殺してしまう男だ。そのとき、ツァラトゥストラは、ニーチェによって痛ましくも実現される言葉を吐く。「お前の心はお前の体よりも早く死ぬだろう。だから、もう怖れることはないぞ。」誰が「道化役」であるかは、彼の力弱い昔のエゴである綱渡りに向かって、彼が叫ぶ言葉によって明らかだ、「お前より善い奴が歩く道を閉してやれ!」彼は殻を破るところの、より偉大なる男だ。そして、この殻はときとしてーー脳髄なのだ。