絵画にあっては新印象派や点描派、および分離派が、形成の作用を支配している物質性を無くそうと努めてモデリングだとか習慣化した遠近法の直観だとかを制圧した。しかしながらこのことをはじめて体系化したのは 立体派 である。すなわち立体派においては悲劇的形成が、純粋な色彩の対置や自然的な形の抽象があらわれたためにほとんど力を失っている。まったく同様に絵画以外の諸芸術にあっても立体派や未来派、あとになってダダイズムは形成作用における悲劇的なものの支配を弱め、かつ滅ぼした。
真の抽象による絵画ないしは新しい形成の絵画にしてはじめて自らをまったく自由にし、かつ実際に新しい形成となったのである。同時にそれは、悲劇的形成を求めた古びた評価や解釈を超えて高められ、すっかり新しい形成となったのである。
不均衡性が人間にとって呪詛であるということについては一般に明らかにされず、もっぱら悲劇的なものに関して感情を開拓することがつづけられている。今日にいたるまでは最も外面的なものがすべてを支配している。女性的なこと物質的なことが生活や社会を支配し、男性的な機能による Spirituell な表出を拘束している。女性に対する、また女性的であることに対する憎しみの公表は、たとえば未来派のマニフェストなどにもあらわれているが、これはまったく正常と認められる。男性の 裡 なる女こそは、芸術における悲劇性の支配の直接の根源である。
その悲劇性を求めた古い解釈のしかたは今日の大衆を支配している。今日の演劇、演奏会や映画などの芸術はそこから糸を引いている。悲劇的形成は芸術の古い解釈が用いたネガティヴな力であり、これによって人々を拘束した。人々は自分が道徳をロにし、訓戒やお説教を垂れたりするときにこの力を用いるのである。我々の社会は美とともに効用ということをも求めていることに注意しておかねばならない。
それでも、古いものは変化して新しいものへと成長する。我々は新しいものの発生を見る、すべての芸術においてその新しいものは多かれ少かれ開花している。
古いものは、それが新しいものに対して妨げをなす限りにおいて有害である。古いものは新しいものを顧慮に入れてみるときには、もはや問題にならぬ。過去のいずれの時期においても、古いもののなかでの差異があるごとにそれは「新しく」あったのであるけれども、それは「新しいもの」ではなかった。
なんとなれば、これは忘れてはならないことなのだが、いま我々は文化の転回期、すべての古いものの終局にいるのであり、その差別は絶対的、決定的なものだからである。将来は悲劇的形成がもはや理解されないであろうこと、あたかも青年が子供の心を理解しないのにも等しいことは、これを好ましいことと考えようと考えまいと、論理的に予見することができる。新しい精神は芸術における記述的な性格を悲劇性の支配と同様に抑制する。形の妨げがなくされることによって新しい芸術が純粋な形成を肯定し、新しい精神は己れの造形的表出を見出した。この新しい精神が成熟するときに、一と他とは相殺され、全体のなかに統一される。内なるものは外なるものと明白な統一のなかに溶け込み、均衡のとれた二元性となって、これが絶対的な統一を形づくるのである。個性的なものと普遍的なものとは、より強い均衡的な対立関係において向きあう。記述ということは過剰なものとなろう。個性的なものと普遍的なものとは溶け合って統一となり、一は他において認識されるからである。両者は形に頼ることなしに、造形的に自らを表出する。両者の関係が(直接的な形成手段によって)形成を創造する。そして絵画において新しい形成がはじめて完全な表出に到達した。その原理はすでに確固と築かれているので、新しい形成は絶えずその完成に努めつつある。
新しい形成は立体派にその根源を有している。同様に新しい形成は真の抽象の絵画の 謂 となりえるであろう。抽象は数学的な諸科学におけると同様に、ただしそこでのように絶対的なものに到達することはせずに、一種の造形的実在性をもって表出されえるからである。このことはとくに絵画における新しい形成の本質である。この絵画における新しい形成は、彩色された方形(レヒトエック)の合成体であって、この合成体は最も深い実在性を表出するのである。これは諸関係の形成的表出によって到達するのであり、自然的なあらわれ方を用いるのではない。そしてすべての絵画が求めてきたが、作りものの形式による以外には表出できなかったところのことを実現するのである。彩色されたいろいろの面が、その位置や大きさやその色彩の強さによって諸関係のみを造形的に表出するのであって、形を表出するのではない。
新しい形成はその諸関係を美的均衡にもたらし、そうすることによって新しいハルモニーを作り出す。
新しい造形的形成の将来、およびその絵画においてとくに述べた実現は、建築の色彩形成の問題にかかっている。この色彩形成は建築物の内外を、そこで諸関係を色彩によって形成的に表出させるところのものすべてをもって支配する。「新しい絵画としての形成」(Neue Gestaltung-als-Bild)は「装飾」でもなければ、装飾を準備するような彩色された形成でもない。それはまったく新しい絵画であり、そこでは絵画的な絵画も装飾的絵画もすべて解消される。それは装飾的な絵画(よりはるかに強力であるが)の客観的性格と、絵画的な絵画(よりはるかに深められているが)の主観的性格とを合一する。今日のところではその精確な外貌を伝えることは、物質的な根拠からも技法的な根拠からもきわめて困難である。
目下のところすべての芸術は自らの形成手段によって最も直接に表出することに腐心し、できるかぎりこの手段を自由なものにしようと努めている。音楽は音響の解放を文学は言葉の解放を、それぞれ目指している。こういう風にしてこれらの芸術は造形の手段を浄化しながら、関係の純粋な形成へと到達する。浄化の程度も仕方も、その芸術やその芸術の到達する時期にしたがって変化する。
訳者付記
1917年『デ・シュティール』誌の発刊によって活発な実験的活動を開始したモンドリアンは、その制作実践の理論的裏付けの面でいわゆる「新造形主義」として知られる方法を主張した。ここに訳出したのはハルトッホ(R. F. Hartogh)の独訳によるモンドリアンの論文「新しい形成、均衡的形成の一般原理」(Die Neue Gestaltung. Das Generalprinzip Gleichgewichtiger Gestaltung. Paris, 1920 ーー“Neue Gestaltung”: Bauhausbücher Bd. V)の一部(ebds. 9. ーーs 11)である。
モンドリアンは構成派やピュリスムと同じように「均衡」ということを重視し、制作の上でもこれの実践に努めたが、理論的にはこれを人間の本質において考えられる普遍的と個性的、無意識的と意識的、精神的と自然的等々の二元的な、それぞれ対立する性格をその対立関係におきつつもこれを統一するというような一種の弁証法的作用の表出によって求められるものとした。されば作品における均衡や調和は対照や対比、対置等々の緊張的な等値的対立関係によって得られることになる。そして自然的な対象の形を排し、色彩や面の諸々の関係が重視される。これに対して在来の古い芸術では前述の均衡が破られ、とくに個性的なるもの、自然なるものの優位があり、このために作品は悲劇的、女性的な相貌を呈した。新しい形成はそれらの過去の系列に見られる記述的、形態造形的、感傷的な諸種の方法や手段を棄てねばならない。例えば音楽においても過去の音階や記述的旋律や在来の楽器編成までもが新しいものにとって代えられねばならぬ。また言語芸術にあっても在来の悲劇や喜劇、叙事詩や抒情詩や小説などすべて悲劇的形成のさまざまのあらわれに他ならない。散文の成因となった「美において考えること」と詩を生み出した「美において感じること」とが一つの仕方で作品のなかに結びつけられるときに新しい言語芸術の創造がある。なお古いものが執拗に支持され、新しいものの実験が阻まれがちであることに関してモンドリアンは、とくに社会的に考えて経済機構がその有力な因をなし、当時のそれが芸術の歴史的発展を妨げていることを強調している。
原文の参照ができなかったし、理念的な内容として述べられている諸概念が、そのまま具体的な制作方法上の問題に適用されまた多くの前衛的な芸術理論が、これに耳を傾ける人々に芸術に関しての 黙契 的なコレスポンダンスをかなり大幅に前提し、ないしは要求して論旨を進めるために、必ずしも厳密な個々の概念の検討を準備していない傾向がモンドリアンにも見られるので、訳者にはここに抄訳した部分についてもきわめて不完全な理解しかないことを併記し大方のご教示を 俟 つ次第である。
それから「新しい形成」ーー(Neue Gestaltung, Nieuwe Beelding)は「新造形主義」(Neo Plastizismus)という一般的に行われている名称からしても「新しい造形」とすべきであったかもしれないが狭義の造形に対して、モンドリアンが芸術の各ジャンルについてこれを主張している点、より広い一般的な理念的立場として適用されている概念である点からして、これも不完全な訳語であるが一応前記のようにして、plastisch, bildnerisch 等の概念と区別した。(S)