SCIENCE

光と生命

ニールス・ボーア

天野清訳

Published in July 1942|Archived in March 30th, 2024

Image: Kobayashi Shotaro, “Untitled”, January 4th, 2024.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿については夭折の物理学者・天野清による訳序に詳しい。
旧字・旧仮名遣い・旧来的な表記は現代的な表記に改め、一部漢字にルビを振り、英語表記のみの人名については前に日本語表記を補ったうえで英語表記を( )に入れ、訳注(*)を該当文章の近くに移動させ、約物表記を整え、脱字(ex.「重要な意義もつこと」→「重要な意義をもつこと」、「物理的説明の本質」→「物理学的説明の本質」、「物理的研究」→「物理学的研究」、「理的に考え」→「〔合〕理的に考え」、「けれど、も」→「けれども、」、「もし人あって」→「もし人があって」、「有機的機能の中求む」「有機的機能の中に求む」)を直した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
付録として、本稿で天野が言及している「現実の構造」(湯川秀樹・木村素衛)より該当部分を引用・掲載した。
底本の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ニールス・ボーア(1885 - 1962)訳者:天野清
題名:光と生命
初出:1942年7月
出典:『科學日本 七月號』(大日本出版。1942年7月。140-154ページ)付録出典:『科學思潮 六月號』(科學思潮社。1942年6月。10-11ページ)

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訳序
ここに訳出した一文は、現代原子物理学の 巨擘 きょはく たるニールス・ボーア(Niels Bohr)教授が、一九三二年八月十五日コペンハーゲンにおける第二回国際光線療法会議の開会に際しておこなった講演である。量子力学から得られた教授独自の相補性(Complemenarity)の概念を縦横に駆使して、生命の問題を論じながら独断に陥らぬ点は、物理学そのものの本質を反省させると同時に、真に科学的な生命論への洞察を開陳するものとしてきわめて示唆に富んでいる。つとに菅井準一氏によって『科學』誌上に紹介されたことはあるが、単行本に収められておらず、その後の電子顕微鏡の発達、放射線の曝射が生物に応用されている事実などを思い、この講演の内容がそれらの問題に反省を与える点を考えると、多少の注訳を施してふたたび訳出する価値もあると思われる。(*印はすべて訳者の注である。)

 

*相補性とは、同一の対象についてある一定の実験条件の下で得られる知識が、この条件の実現と矛盾するような他の条件の下で得られる知識と相補って、初めてその対象の記述を完全にするような事情をいう。したがって詳しくは相互排他的補足関係とでも言い表わすべきであろう。この概念をさらに拡張した例は「自然哲学と人間文化」(『科學』第九巻二四四頁)等に見られる。

 

本篇は Nature Vol. 131,p.421, 457(1933)およびNaturwissenschaften 21, S. 245(1933)に掲載され、英文は簡明であり、独文は懇切であるが、この訳では両者を折衷した。原文には章節がないが、読みやすくするために内容の題目を太字で挿入した。

 

この講演と同様の思想を説いたものとしては、左記の文献がある。同じボーア教授の Atomtheorie und Naturbeschreibung「原子理論と自然記述」一九三一年(英文もあるが、創元科学選書にも翻訳される予定)とくに一四ー一五頁(独文)Kausalität und Komplementarität「因果性と相補性」Erkenntnis 6, 293(1936)とくに三〇〇頁以下、ボーア教授来朝の際の講演藤岡由夫氏記『科學』第七巻三二六頁(「物理学ノート」に再録)、最近では『科學思潮』六月号「現実の構造」中で湯川〔秀樹〕教授が言及されている〔ARCHIVE編集部注:本稿の付録として末尾に発言部分を引用した〕。

 

かつてボーアに学び、協力もした理論物理学者H・A・クラマースは、ボーアの論説の特徴として、一見すると結論がはっきりしていないという印象を与えるかもしれないが、それは非常に注意深く考えられ、未知の領域を開拓しているからであるとし、その適例として本篇を挙げている(『科學』第五巻二九七頁)、相補性の思想が単に無益の論争を避けるのに役立つばかりでなく、実験方法に注意を促し、新理論の構成にも寄与することを希望するものである。

 

〔以上天野による概説。以下、ボーアによる講演〕

(一)物理学と相補性

序説
私は、生命のない物質の性質を探究することを仕事としている物理学者でありますから、光の治療効果について、私どもの知識を向上させるためにここに会合せられた科学者諸君の前で、お話するようにという親切なお勧めを承諾しますには、多少躊躇しないではありませんでした。人類の福祉にきわめて意義深いこの学間の分野に、自ら貢献をするということは、私のよくするところではありませんから、せいぜい純粋に無機的な光の現象について、二三の考察をいたすことに止めなければなりません。
 
この光の現象は、あらゆる時代を通じて物理学者から特別に注目されてきたのでありますが、それには光が私どもの最も重要な観測の手段であるということも、少なからぬ理由だったのであります。けれどもこの機会に、そうした二三の考察と関連して、物理学の限られた領域で得られた結果は、生きた有機体が自然科学の組織のなかで占める地位について、私どもが抱いている見解に対し、一体どんな意義をもつであろうかという問題を論じるのは、おそらく興味のあることであろうと思います。
 
生命の謎は究め尽くせぬものではありますが、この問題は科学の発達のどの段階でも現われてまいりました。それは本来科学的説明というものが、複雑な事態を簡単なものに帰着させることである以上、当然であります。しかしながら、最近の原子理論の発展によって、私どもは自然の機械的な記述には限界があるという、思いがけない事実をおし えられましたので、今日この古い問題は新しい興味をもって迎えられることになりました。この限界は、まさに光と物質との交互作用を詳細に研究して、従来物理的説明に要求されていたことと調停できないようなある性質が明らかになった結果、はじめて認識されたのであります。これから明らかにしようと思いますが、この状況を会得しようとする物理学者の努力は、ある意味で生物学者が多少とも直覚的に、生命の諸問題に対してとってきた立場と似ております。しかし、同時に私は、光があらゆる物理的現象のなかで、おそらく一番簡単なものであり、ただ前述の純粋に形式的な点で生命と似ているだけであって、生命の多様性にいたっては、科学的探究の領域をはるかに超えたものであることも強調したいのであります。
 
光の波動性と量子論
物理的な見地からすると、光は空間的に離れた物体間のエネルギーの伝達として言い表わすことができます。ご承知のとおり、こうしたエネルギー伝達は電磁理論で簡単に説明されるのでありますが、この理論は古典力学の趣意を拡張したものとみられ、遠隔作用と近接作用の対立を取り除くのに適したものであります。この理論によると、光は電気的と磁気的な振動が組み合わさったものとして記述され、無線電信に利用されるような普通の電磁波とは、ただその振動の周波数が大きく、波長が短い点で違うだけであります。光が実際上ほぼほぼ直線的に進行するということは、我々が直接肉眼で見るなり、適当な光学器械を使うなりして、物体相互の位置を決定する場合によりどころとしていることでありますが、実は、観察されている物体や器械の大きさと比べて、波長が非常に小さいという条件があればこそそうなるのであります。
 
ところが、この光の波動性という観念は、分光学で物質の内部構造を明らかにするのに非常に価値があった色の現象を説明する根拠となるばかりではありません。これは、光学的現象を精細に分析する上にいつも重要な役割を演じるのであります。典型的な例として、いわゆる干渉像だけを挙げれば充分であります。これは同一の光源から出た光が二つの違った道を通って、白い 衝立 ついたて に到達したときに現れるものであります。この場合には別々の光束それ自身で生じるはずの作用が、両方の波の列が同じ位相をもつような、つまり両方の光束のなかで電気的と磁気的の振動が同じ方向をもつような衝立の箇所では強められますし、それらの振動が反対の方向をもつような、あるいは、波の列が位相が外れているといわれるような箇所ではこの作用は弱められ、時には完全に消えることさえあります。との干渉像によって光の 伝播 でんぱ の波動的性質をきわめて精細に証明することができますから、この表象は決して普通の意味での仮説として考えるべきでなく、問題の現象を記述するのに欠くことのできない手段とみるべきであります。
 
*ボーアの有名な原子構造論は分光学から得られた水素スペクトルのバルマー系列にまず実験根拠を求めた。この理論が光の量子性の典型的な応用であるが面白いのである。
 
それにもかかわらず、私どもが誰でも知っておりますように、エネルギー伝達の機構中に電磁論の立場からではまったく理解できない独特な原子的相貌が発見されたのを根拠として、光の本質に関する論争が近年ふたたび新たに取り上げられました。それは、すべて光によるエネルギー伝達は個別的な過程から起こり、その際いつも一つの光量子といわれるものが交換され、それのエネルギーは電磁振動の周波数と、プランクの常数、いわゆる普遍的作用量子との積に等しいということが明らかになってきたからであります。光の過程の個別性と電磁論から要求されるエネルギー伝達の連続性との尖鋭な対立の結果、私どもは、いまだかつて物理学で見られなかったような一つのジレンマに直面するのであります。それは波動像が不完全なことは目に見えいるにもかかわらず、それを通常の力学的観念にもとづいた別の像で置き換えることが到底問題にならないからであります。とくに力説しておきたいのは、光量子の概念を導入するということは、光のエネルギーの担い手は、はっきり決まった軌道をもった物質粒子であるという古い観念に帰るのは断じてないということであります。すなわち、すべて光の現象でそれを記述するのに波動像が決定的な役割を演じている場合には、光量子の個々の軌道を追跡しようとするあらゆる実験は、いま分析しようとしている現象そのものを破壊してしまうということが言えます。それはちょうど、もし私どもが、光のエネルギーが二つの路のどちらかを通って光源から衝立へ伝播することを確めるために、片方の光束を不透明な物体で切断すれば干渉像が消えてしまうのとまったく同様であります。
 
*今世紀初頭の黒体輻射の分布、光電效果からはじまりコンプトン效果等におよぶ一群の現象は、光に原子性を考えないでは説明されなかった。
直観的な波動像から出発して、これを「量子化」して粒子性を記述する方法も、前述の事実をくつがえ すものではない。この現在素粒子の理論にも盛んに用いられる「量子化」については、伏見康治教授の名著『駿馬電子』三二九頁以下にみられたい。
 
光の両性質の相互補足性
以上のようなわけで一方時空中を光が伝播する場合の連続性と、他方光の作用の原子性とは、各々それ自身として光の現象の重要な諸相を表現しております。力学の立場からはそれらを調停できなくとも、決して直接撞着することはあり得ないという意味で、同一事物の相互に補足的な側面として捉えなければなりません。なぜなら、力学的な表象に基づいて、一方の相かあるいは他方の相をさらに精細に分析するには、相互に相容れない異なる実験装置を必要とするからであります。これと同時に、まさにこうした事情がありますために、私どもは光の現象について因果的な記述を遂行するのを断念し、光によるエネルギー伝播の電磁的記述は、統計的な意味ではやはり成り立つという事実に基いている確率計算で満足しておかなければならないのであります。
 
このような計算はいわゆる対応的推論(Correspondence argument)の典型的な応用であります。対応論は、力学的表象や電磁的表象を適当に制限して利用する場合に、作用量子そのものはこれらの理論の見地からは不合理なものと見做さなければならないのではありますが、古典物理的理論の合理的一般化と見られる原子現象の統計的記述を保存しようという私どもの努力の一つの現われであります。
 
*対応的推論とは、古典理論が統計的あるいは近似的に成り立つと解釈される場合、その形式に適当な条件を付けて記号化し、新しい事実に適合させる方法で、ボーアの対応原理の提唱(一九一八年)によって定式化された。ハイゼンベルクが量子力学を建設する際にも、この方法を用い今日でも行われる一種の発見法的な手段である。これを逆にして記号的な量に物理的意味を見出すのにも有益である。
 
おそらく一見すると、ここに述べた事態はすこぶる不満足に思われるかもしれません。しかし新しい発見によって、従来それが一般に成り立つことは少しも議論の余地がないと思われていた観念に根本的な制限のあることが明らかにされた時、科学の歴史に幾度も起こりましたように、ここでこそ、私どもはこれまで調停できないと考えられた現象のあいだに一歩進んで関係をさえも見つけ出す広い見地と大きい能力を得ることによって償われるのであります。まさにこのようにして、古典力学に作用量子で象徴化されるような特異な制限を加えることによって、およそ自然現象を力学的に記述する場合に、いつも基本的な前提となっている原子独特の安定性を理解するための鍵が、私どもに与えられたのであります。
 
原子の安定性
原子の不可分性は機械的な概念では説明されないという認識は、なるほど、いつも原子論の特徴でありました。そして物理学の発展によって、不可分の原子が電気的な粒子、すなわち今日元素の原子も、化学的化合物の分子もそれから成り立っていると考えられている電子と原子核とで置き換えられましたが、この事態は本質的には変わりませんでした。
 
しかし、私がここで言及しましたのは、これらの要素的粒子そのものの安定性の問題ではなくて、これらの粒子から構成された体系に必要な安定性であります。古典力学や電磁理論の特徴である連続的なエネルギー伝達の可能性そのものが、その本質上、元素や化合物の特徴をなす種々の性質を説明することと調停できません。否、古典的理論は、現象を空間時間のなかに秩序付けることを目的するすべての測定が究極において基としている、固体の存在という事実を説明することさえもできないのであります。
 
*古典電気力学によると、ラザフォード・ボーアの原子模型のように、正負の荷電粒子からなる遊星型の系は、電磁輻射でエネルギーを連続的に失い、たちまち壊滅してしまうことになるから、原子は一定の性質をしばらく保つことさえできない。
 
しかしながら作用量子の発見と関連して、私どもは原子や分子のあらゆるエネルギー変化は、原子や分子が、問題の体系に特徴的なある一つの定常状態から、他の一つへ移る要素的過程と見做さなければならないことを知りましした。光が原子から発射されるか、吸収されるかする一つ遷移過程では、ちょうど一個宛の光量子が発生するか、消滅するかしますので、我々は分光学的な観測の助けを借りて、直接これら各々の定常状態のエネルギーを測定できるのであります。このようにして私どもが得ました知識は、原子衝突の際や、化学反応の際のエネルギー交換の研究によっても確証され、きわめて教えられるところが多かったのであります。
 
近年にいたって原子理論は異常な躍進をいたし、現在では、私どもは原子の定常状態のエネルギーの値でも、遷移過程の確率でも、計算できる非常に完全な方法をもっております。それでありますから、原子の性質を対応的推論の意味で説明する場合、その完全で首尾一貫している点にかけては、ニュートン力学によって天文学上の経験を説明するのに比べても、決して遜色がないのであります。もちろん、原子力学の問題を合理的に取り扱うのは、新しい記号的な補助手段を導入してはじめてできたことではありますが、我々が光の現象の分析によって得た教訓は、この発展を私どもが検討する場合には、なおいつも決定的に重要であります。すなわち、定常状態の概念を明確に用いることは、原子内の粒子の運動を力学的に分析することとは、排他的に補足し合うのでありまして、ちょうど前述の光量子の観念が、電磁的輻射論と補足し合うのに相当します。実際、遷移過程の経過を細部まで追跡しようとする実験では、いつも原子と測定器械とのあいだに制御することのできないエネルギーの交換がともなって、我々の研究しようとしているエネルギーの遷移そのものをまったく攪き乱すことになりましょう。
 
因果性と相補性
古典的な意味での因果的記述は、問題にしている作用が作用量子に比べて大きく、したがって現象本質的にみだ さずに、さらに細かく分析することのできる場合にしか行われません。この条件が充たされていないと、我々は測定器械と研究対象とのあいだの交互作用を度外視するわけにいかず、なにはおいても、現象を力学的に記述するのに必要な種々の測定が、互いに他と相容れないような実験装置を使わなければできないという点を顧慮しなければなりません。この力学的分析の原理的な制限をすっかり会得するには、一つの物理的な測定では、対象と測定器械との交互作用を直接眼中に置くことは決してできるものではないということも、はっきりさせておく必要があります。つまり器械自身は、観測手段という役割を演じているその性質上、同時に研究のなかに含めるわけにいかないのであります。相対性の概念が、物理的現象それを空間時間のなかに秩序立てるのに用いられる基準系に根本的に依存するものであることを示しておりますように、相補性の概念は、現象はそれを観測する手段から独立して存在するという我々の通常の観念を、根本的に制限する事情が原子物理学に現われてくることの象徴として役に立つのであります。
 
*適当な条件の下では、観測手段と見られた系を研究対象に含めても合理的に記述されることが、ノイマンによって数学的に証明されている。しかし、この場合には観測手段は別に設けられているので、以前の観測手段はもはや観測手段ではなくなっていることを注意していただきたい。

(二)生物学と相補性

生物と原子理論
この力学の基礎の変革は、私どもが物理的説明ということで一体何を意味しているか、という問題にまで関係してくるのでありますが、これは単に原子理論の内部の状況を 闡明 せんめい するのに決定的であったばかりではなく、生物学の問題に対して物理学がどんな立場にあるかを論じるのにも、新しい背景を創り出しました。けれども、このことは決して、本来の原子現象では普通の物理現象よりも、もっと生きた有機体の性質によく似た様子が見られるという意味ではありません。一見したところでは、原子力学の原理上統計的な性格は、私どもがどの生活体にも見るような、きわめて微細な胚芽のなかにすでにその種族のあらゆる典型的な性質を潜めている感嘆すべき微妙な組織とは、到底調和することが難しいようにさえ思われるかもしれません。けれども私どもは、機械的因果記述を許さず、相互補足的な記述でしか捉えることのできない原子過程独特の法則性は、生物の機構を理解する上にも、少なくも無機的な物質の種々の特質を説明するのと同程度に重要であるということを忘れるわけにはいかないのであります。例えば、植物の炭素同化作用には、動物の栄養もかなりお蔭をこうむ っているわけでありますが、これを理解するには、光化学的過程の個別性が必要なことはきわめて明白なことであります。さらにまた、原子構造の機械的でない安定さが、植物の同化作用や動物の呼吸作用に重要な役割を演じる葉緑素やヘモグロビンのような非常に複雑な化合物の特性に現われていることを見逃すことはできません**
 
しかしながら、化学上の経験から採ったアナロジーは、生命を火に比べる古い喩えと同様で、よく行われる時計仕掛けのような純器械的なモデルに比較すること以上に決して生きた有機体を満足に理解させるものではありません。たしかに生物の独自性は、通常の力学で分析される性状と典型的な原子的性状とが、無機的の世界にはまったく相当するものがないように、互いに織り合わされているその特殊の組織のなかにのみ求むべきものであります。
 
*マックス・ハルトマンは「物理学と生物学における因果性」Berl. Ber. 1937 で、同化作用は分子の因果的に決定された変化であるから、粗視物理的現象であると、ボーアやヨルダンに反対しているがこれは用語法の誤解であろう。
**P・ヨルダンは原子的な過程と関係のあると思われる生物学の問題を原子物理学の立場から取り扱っているが、実験的事実の検討に着実さを欠いているために、生物学者からかなり批判されている。Anschauliche Quanten theorie の第五、六章、『二十世紀の物理学』〔P・ヨルダン『二十世紀の物理学 : 現代物理学思想の内容への入門』八元社。1940年〕邦訳、序文一三頁、二二八頁および『科學』第十一卷二九七、三七八頁参照。
 
感覚器官の機能
この組織がいかに微妙にできているかは眼の構造と機能とを研究してみると興味深く教えられます。これにはまたも、光の現象が簡単なことが非常に役に立ってきました。この会合では一々細かく説明する必要はありませんが、ただ人間の眼が光学器械としてどんなに理想的な性質をもっているか、眼科学の教えるところを想起したいと思います。光の波動性の結果として、眼中に像が形づくられるのに限界を与える干渉像の大きさは、まさに、脳に通じる別々の神経の路をもっている網膜の微小部分の大きさとほぼ一致するのであります。またきわめて少数の、おそらくはただ一つでも、光量子がこのような網膜要素によって吸収されれば光の感覚を起こすのでありますから、一歩進んで、眼の感度は光の現象の原子的性格によって置かれた絕対的限界まで達していると言わなければなりません。この両性質の点では、眼というものは、個々の光の過程を記録するための適当な増幅装置を備えた上等の望遠鏡か顕微鏡と同じような性能に達しております。もちろん私どもはこのような器械的補助手段を用いて、我々の観測能力を著しく増すことはできますが、しかし、光の現象の性質上制限が置かれる結果、眼ほどその目的に対して効能のある光学器械は想像することができません。このように、眼がいわば理想的に精巧にできていることは、最近の物理学の発展ではじめて充分に認識されたことでありますが、これはある感官の印象を受け取ったり、このような印象に対する有機体の反応に役立ったりする他の器官もまたその目的に対し、同じように適応していること、また作用量子で象徴化されている原子的な性状が、適当な増幅の機構**と結びついていたるところで決定的な意義をもっていると推測させます。いままでのところ限界を他の器官で見出すことができなかったのは、おそらくは、すでに幾度も強調しましたように、他の物理的現象に比べると光の現象が著しく簡単だという点と関係があるのでありましょう。
 
*P. Jordan, Anschauliche Quantentheorie(1936)S. 29 参照。やや異なる意見が「 驢馬 ろば 電子」一〇四頁にみられる。
**増幅装置の説はヨルダン等もしばしば主張している(前掲書二九五頁)が、諸方面から反対も少なくない。(例えば前掲ハルトマンの論文)。増幅管とのアナロジーをあまり窮屈に考えなければ、広い意味では増幅と似た性能が生物に認められることは否定できないであろう(『科學思潮』六月號一〇頁参照)。
 
物理的研究の限界
しかしながら、根本的に原子的な性状が、生きた有機体の機能に対して重要な意義をもつことを認識するだけでは、いまだ諸々の生物学的な現象の独自な本質を説明するには決して充分ではありません。したがって、決定的な点は、私どもの自然現象の分析にはなお一つの本質的な見地が抜けているのではないかという問題にあります。生物学的現象は実際上究め尽くせないほど内容が豊富だという点をまったく度外視しましても、物理学的説明の本質に関する問題を作用量子の発見に促されてすでに行われたよりも、さらに深く追究しなければ、これに対する解答を与えることはほとんど不可能でありましょう。生理学上の研究は私どもが生命のない自然について知っているのとは非常に性質を異にすることを見逃せないような驚嘆すべき幾多の事実着々と明るみに出してきます。そこで一方では多数の生物学者は生命の独自の本質を、純粋に物理的基礎に立って、真実に理解できるようになることを疑うようになりました。他方このーーしばしば生気論(Vitalism)と呼ばれるーー見解は、物理学にはまったく知られていないなにか特殊な生命力が、すべての有機的生命を支配しているというような古い推測によっては、決して充分にその趣旨を表すことはできません。なぜならば、私どもはほとんど皆、科学の本来の基礎は自然は同一の条件の下では同一の法則性を示すという確信にあるとする点では、ニュートンに一致しているからであります。そこでもし私どもが生きた有機体の機構を原子現象の分析と同じところまで進めることができたとしても、その場合私どもは無機的な物質とはなにか異なった性状を発見するとはほとんど期待しないのであります。しかしこのジレンマに直面して、私どもは生物学的研究と物理学的研究とで知られる性状は、直接互い同士を比較することはできないという点を考慮しなければなりません。それというのは研究対象を生かしておくという必要は、生物学的研究にとって、物理学的研究のほうにはそれに相当するものがない一つの制限を意味するからであります。例えば、もし私どもが、動物の器官を研究して一つ一つの原子がどう生活機能に参与しているかを示せるほど深入りすれば、その動物を殺してしまうことは疑問の余地がないでありましょう。したがって生きた有機体について実験する場合には、それの置かれている物理的な条件にはいつもある不確かさが残っております。そこで、かような意味で私どもが有機体に許してやらなければならないごくわずかな自由でも、まさに彼らの最後の秘密を私どもから隠すに足るほど重大なものではないかという思想が湧いてくるのを禁じ得ません。この見地からすれば生命の存在ということは、一つの基本的な事実と考えるべきもので、それ以上さらに根拠付けることはできず、それを生物学の出発点と見做さなければならないことは、まさに古典力学的な物理学の立場から不合理な要素に見える作用量子が、要素的粒子の存在と相まって、原子物理学の基礎をなすのと似ております。本来の生活機能がここに述べましたように、物理的化学的には説明できないものであるということは、この意味において原子の安定性を理解することが機械的分析のよくするところでないのと同様であります**
 
*J・S・ホルデーンの『生物の哲學的基礎』(邦訳〔J・B・S・ホールデン『生物学の哲学的基礎』(弘文堂書房。1941年)〕あり)と比較されたい。物理学の新しい観測事実を表す言葉は生物に求めるべきではないかとするホルデーンの意見[The Philosophy of a biologist(1935)p. 24]はいきすぎであるとしても、物理学もある種の問題では、生物学的な相補性から逆にアナロジーが得られる。W・M・エルザッサーは統計集団の要素はそれを不確定性関係の許す限度いわゆる純粋状態まで追跡してはその統計集団を破壊することになりはしないかという思想をこのボーアの講演から示唆されている。Phys. Rev. vol. 52, p. 987, (1937)エルザッサーは具体的な成果を挙げなかったが、注目してよいと思う。
**ブロイレル、マイエルホーフ等は生理学の立場から生物学に対するボーアの相補性の考え方に反対しているそうであるが、ヨルダンはさらにそれを反駁している(Anschauliche Quantentheorie S. 309以下)。生物学者、生理学者の側からの徹底した批判を聴きたいと思う。ただその場合、ボーアの相補性はホルデーン等の一面的な全体性論とは異なり、生体に対しても一面では物理的化学的研究を方法さえ適当ならばどこまでも有効とする点に注意しなければならない。「因果性と相補性」三〇二頁参照。
 
物理学と生物学の方法の差異
しかしながら、私どもはこのアナロジーをさらに追究していく際に、物理学の問題と生物学の問題とは本質的に違った側面をもっていることを念頭に置かなければなりません。それは原子物理学では私どもはまずなによりも、きわめて簡単な形での物質の種々な性質に関心を持っているのでありますが、生物学で取り扱う物質系の複雑な性状は、本質的な意義をもっております。それというのはきわめて原始的な有機体でさえも、すでに多数の原子を含んでいるからであります。古典力学の応用領域は、原子物理学で利用される測定器械にもおよんでいるほど広汎でありますが、それは多数の原子を含む物体を記述する場合には、作用量子のために起こる相補性を大部分は度外視できるということに基づいていることもちろんであります。しかし、生物学上の研究では、一個一個の原子が置かれてる外部の条件は、原子物理学の基礎的な実験の場合と同じようには、制御できないという点が特徴なのであります。私どもは事実上厳密に考えて、一体どの原子がある生きた有機体に属しているのかさえ決定できません。それというのはあらゆる生活機能には新陳代謝がともなっており、そこでは不断に原子が有機体に摂取されたり排泄されたりしているからであります
 
*伏見教授は肺の中の空気は人間に属するかという問題から、概念にたとえ曖昧さが多少あっても、充分有用なこともあるという意義深い意見を書いておられる。(『驢馬電子』二三二頁)
 
この物理学的研究と生理学的研究との根本的な相違の結果として、物理的な表象を生命現象へ適用する場合には、原子力学で行ったように、力学的因果的記述の領域と本来の量子的過程とを分離することに相当するような、はっきり決まった限界を引くことは決してできないことになります。もっともこの事態の結果として上述のアナロジーに置かれる制限は、主として私どもが物理学とか力学とかいう言葉をどんな意味に使うかという約束にもよることであります。一方では、生物的における物理学の制限という問題は、もし私どもが物理学という言葉でその語源の意味**に一致して、ただ自然現象の記述ということを了解しようとすれば、まったく意味をなさなくなってしまいます。他方、もし私どもが日常の言葉遣いのようにメカニックスという言葉を現象の一義的な因果記述を表すだけに用いようとするならば原子 力学 メカニックス というような表現は誤解を生むかもしれません。
 
*量子力学では測定器械は古典的因果的に記述されると考え、量子的に記述される対象とは一応はっきり区別する。この区別の限界をハイゼンベルクの切断(Schnitt)という。
**ギリシャ語のフュシカ。
 
私はここでこのような単に 言葉 ディアレクチック の争いにすぎない問題にこれ以上立ち入ろうとは思いません。
 
*ボーアがいわゆる「弁証法」ということにあまり関心をもっていないことがわかる。「自然哲学と人間文化」『科學』第九卷二四七、Phys .Rev. 48, p.702(1935)参照。
 
ただ上述のアナロジーの核心は、一方すべての物理的分析に必要な細分と、他方個体の自己保存とか、繁殖とかいうきわめて特徴的な生物学的現象とのあいだに成立する典型的な相互排他的な補足関係であることを強調しておきたいと思います。さらにこの事態の結果として、生命の本質に考慮を払わなければならないような問題では、力学的の分析ではなんら容れる余地のない、合目的性の概念にも、ある種の応用領域があるということがいえます。この意味において生物学での目的論的推論の役割は、原子物理学で〔合〕理的に考えに入れようという、対応的推論で定式化され作用量子を合でいる努力を想起させるものがあります。
 
*カントが判断力批判で説いた自然の合目的性の取り扱い方と比較するのは興味あることである。
 
心理作用の問題
私どもは生きた有機体に力学的概念が適用できるかどうかという問題を取り扱う場合、有機体をまで他の物質的な対象と同じように見てきました。しかし生理的研究の特徴であるこの態度は、なにも生命に結びついている心理的過程を無視するわけでないことは取り立てて言うまでもありません。むしろ原子物理学で力学的表象が制限されることを認識すると、これは生理学と心理学とを特徴づける外見上対立した見地を調停するのにきわめて適しているように思われます。すなわち、原子力学で測定器械と研究対象とのあいだの交互作用を顧みる必要があるということは、まさに私どもが心理的分析の場合に出会う独特の困難を想起させるのでありますが、その困難というのは、意識の内容は、その要素の一つに注意を向けようとするや否やすぐに変わってしまうという事実から由来するものであります。この最後のアナロジーは、生物学的な問題の特殊な性格を必要に応じて顧慮すれば、いわゆる精神物理的 竝行 へいこう 性の闡明に新しい出発点を与えるものでありましょう。けれども、これ以上進むことは我々の題目から離れることになるかもしれません。ただこれに関連して私がはっきり力説しておきたいのは、ここに述べたような考察は、原子現象を分析するのに因果的記述の適用が制限されるということから、物質的過程へ直接心理的に働きかけることに新しい可能性が開けたとみるあらゆる企てとは、雲泥の相違があるということであります。例えば、もし人があって、意志は、原子理論に基づき確率的計算しかできない有機体中の、原子的過程を統御することにその活動領域があると考えるとすれば、これはここで述べた精神物理的竝行性の説明とは調停できない見解であります。私どもの立場からすると、意志の自由の感情は意識生活に独特な一つの特性と見るべきもので、それと物質的に竝行するものは、力学的因果記述もいたり得ず、また原子力学の統計的法則の明確な適用を十分徹底させる物理的研究をも許さないような、有機的機能の中に求むべきものであります。ここで、およそ「説明」の概念そのものの分析が、その本質上、我々自身の意識的な活動を説明する点ではいつも一つの断念をもってはじまり、それに終わらなければならないということを言ってもおそらく形而上的な冥想に陥ることにはなりますまい**
 
*ヨルダンの説く意志の規制作用の概念はこうした見解と多分に類縁をもつようである。
**ボーアは「因果性と相補性」三〇三頁で結局どんな言葉もそれを直接使用することとその本来の意味を詳細に分析することとは相互排他的補足関係に立つ……」と書いているが、ここもその意味で説明に用いる言葉そのものは説明できないことをいうのであろう。
 
結論
結論として私は、この私の考察によって、物理的科学や生理的科学の将来の発展の可能性に対して、なにか懐疑めいたことを言い表そうとしたのでないことを強調しておきたいと思います。このような懐疑は、私どもの最も基本的な概念に限界を認識したそのことが、まさに私どもの科学が多方面な徹底的な発展を来す結果となったこの時期に当たって、一個の物理学者にとって思いもかけないことであります。同様に生命そのものの説明を断念せざるを得なかったということは、現代生物学のあらゆる分野を通じる(治療術についてもきわめて有効であった)驚嘆すべき進歩に対してなんの障害ともなっておりません。私どもは物理的基礎からは、健康と病気とのあいだになんら明確な境界を引くことができないかもしれません。けれどもフィンゼン**の開拓的な研究以来、きわめて順調に継続されている、光線療法の医療効果の研究とその物理的基礎の探究を緊密に結びつけることを特徴とする進歩の大道を逸脱しなければ、それはこの会議の意義深い課題の解決に対して、なんら懷疑の根拠を与えるものではないのであります。
 
*ハイゼンベルクの不確定性原理等をもって科学の危機であるとか暗い虚無の表象であるとか言うことが、いかに物理学の現実に無智な迷想であるか、このボーアの言葉からも反省しなければならない。〔本誌第一號四二頁参照〕
**Niels Ryberg Finsen(1860-1904)デンマークの医学者、光が天然痘やその他の皮膚病におよぼす治療作用を研究し、現代光線療法の基礎を置き、フィンゼン光線医学研究所を創立し、一九〇三年ノーベル医学賞を受けた。

(天野清ならびに訳注)

付録:「対談:現実の構造」

精神現象と物質現象
 
木村素衛
ボーアの書物をかじり読みしたことがあるのですが、その中で例の「不確定性の原理」というもの、ーーニュートン物理学なぞの機制的因果の必然性の観念をあれは微視的世界に関して斥けているわけですが、彼のこの不確定性の理論が古来から哲学の方面で議論の絶えなかった、意志が一体自由かどうかという問題、ーー意志自由か決定かという問題にいくらかの示唆を与えないだろうかというようなことを、非常に謙遜な態度でもって注意しておるのです。いま言った時間の未来性という問題、ーー可逆的な意味をもった空間では時間の本性を捉えきれないということは非常に興味のあることですが、ボーアなどが自分のやっている学問が人間思想界全体に対してどういう意味とつながりを持っているか、自分の研究が人間の文化全体のどういう位置と方向とにあるかということについて常に見通しをもっているということを知って、その一般的教養の広さと奥行きの深さとをくゆ らしているように思えてずいぶん考えさせられたことでした。

 

湯川秀樹
なるほどーー実際物理者の中でもボーアなどは哲学的な教養がよほど深い人です。ところで意志の自由というような問題、これは大分先のほうの問題で、我々にはなかなか手がとどきません。もう少し手前の問題、例えば生命などというようなものになりますと、ーー私もその辺り一向不案内ではありますがーーとにかく物理学のほうからも、なにか臆測ぐらいはできます。その中で代表的な見方をあげると二つあります。一つはいまいったボーアなどの見方です。量子論では相補性ということをいいますが、例えば粒子とか渡動とかいう概念はお互いに相補的といわれます。ところで生命に関する現象でも我々は常識的には、ーーたとえそれがどんなに複雑であってもーー色々な物理的化学的現象の複合と考える。そして物理的化学的な一方法で、どこまでもできると信じている。しかしそれが果たしてどこまでも無制限に行い得るだろうか。ボーアはここへその相補性の概念をもってくる。あまり細かく知ろうとすれば結局生物を殺してしまう、生命を奪ってしまうことになるであろう。つまり生きているーー生命をもっているーーということと、生命にともなう物理化学的現象をどこまでも分析してゆくということが相補的だ。こういうふうにいうのですね、そういうだけではまだどうも漠然としております。しかし物理学や生物学がもっと進歩しなければ、はっきりしたことがいえないのです。もう一つは例えばヨルダンなどという人の考えです。生命とか生物とかいうものは一つの拡大装置だとかいうのです。例えばラジオのようなものですと、非常に弱い電波で来たのを適当な装置でうんと増幅して大きな声が出てくるようにします。これはむしろ例外的な特殊なものです。自然界に存在する物質は大部分そんな拡大装置ではないのです。例えばここにあるコップ、これを動かす時に起こるのは、普通のニュートン力学で記述できるような現象、いわゆる古典力学的現象です。ところが生物は非常に複雑な構造をもっております。生物の中にどこからかごく微小な、ちょっとした変化がある、それが非常に大きくなって生物全体が動く、例えば人間でいえば脳細胞のごく小さな変化によって人間の身体全体が動かされる。このごく小さな変化というのが、少数の分子や原子だけが関係する現象ーーいわゆる微視的現象ーーにまで還元できるかもしれぬ。するとそこには不確定性があらわれる。これと生命や意志の自由などとをなんとかして結びつけようとする、こんな見方もある。実際生物が一種の拡大装置だということは異論のないところですが、不確定性が入ってくるかどうかは問題であろうと思います。いずれにしても、量子論の発達によって生命の問題へ近づいていく路が開けたことは事実です。