PAINTING

ザ・ニュー・ヴィジョン[抜粋]

モホイ=ナジ・ラースロー

『Vou』編集部訳

Published in 1928|Archived in March 18th, 2024

Image: László Moholy-Nagy, “Fotogramm”, 1922.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、『Vou』(編集人:北園克衛)に掲載されたモホイ=ナジ・ラースロー「藝術とそのisms」を収録したものである。
底本に出典の明記はなかったが、ARCHIVE編集部の同定作業により、本稿は、ナジの主要論文『ザ・ニュー・ヴィジョン』内の「Art」および「The Art “ism”」の二項目の訳出であることがわかった。
翻訳は匿名で発表されているため、現時点で著作権が消滅している。北園克衛による訳業の可能性を調査したが、同定に足る証拠は不存在だった。そこで、ARCHIVE編集部は、雑誌の性質や論考の内容、編集後記に照らして、北園が『Vou』編集部として訳出・掲載したものと仮定し、(底本ではそうは記されてないが)「『Vou』編集部訳」と記載した。
原本(『The New Vision and Abstract of an Artist』)に対応するよう文章を分けた。
旧字・旧仮名遣い・旧来的な表現は現代的な表記に改め、一部漢字にルビを振り、一部表現に用語統一を施し(「いく」・「幾」→「幾」、「すなわち」・「即ち」→「すなわち」、「人々」・「人びと」・「ひとびと」→「人々」)、誤植(「づつける」→「つづける」)を直した。
約物の仕様(「,」「.」→「、」「。」)を変えた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:モホイ=ナジ・ラースロー(1895 - 1946)訳者:『Vou』編集部
題名:ザ・ニュー・ヴィジョン[抜粋]原邦題:「藝術とそのisms」原題:「Art」「The Art “ism”」(『The New Vision and Abstract of an Artist』)
初出:1928年
出典:『Vou 39号』(Vouクラブ。1955年。23-24ページ)対応箇所:『The New Vision and Abstract of an Artist』「Art」「The Art “ism”」(George Wittenborn。1948年。32-33ページ)

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芸術

今日 こんにち においてなお、われわれの存在は、すべての創造が内部的要求からほとばしる新しい人生のプランにくらべる時、過去からの付着増大物によって重荷を負わされすぎているように思われる。
 
このように一見、孤立してみえる芸術的経験すら、社会にとって欠くことのできない存在なのである。それはもっとも親しい感覚の言語である。人間と人間とを直接につなぐものである。今日の芸術の真の機能は、時代の地震計であり、われわれの情緒的、知的、社会的存在のあいだに行方不明になっているバランスへの直覚的探究であることである。精神分析学の創始者ジグムンド・フロイドがこれらの関係について言わねばならないことは大変面白い。『われわれの文明においては、思想の力は、ただ一つの分野にのみ保留されている、すなわち、芸術のなかに。芸術のなかにのみ、その願望によって消費しつくされた人間はなおもその願望に似た何物かを生産することができるのである。そうして、このあそびは、芸術的幻影のおかげで、まるでそれが本物であるかのような効果をもたらすのである。』
 
一方、ピート・モンドリアン、現代の最もすぐれた画家の一人は指摘する。「この結果は遠い将来には、われわれを芸術の終結に行きつかせるであろう。芸術が現実の造型的真実であるところのわれわれを 囲繞 いにょう する環境から離れたものとして。しかしこの怒りはまた同時に新しい始まりである。芸術は経験するばかりでなく、ますますそれ自身を実現していくであろう。最高の発展をした建築、彫刻、絵画の統一により、一つの新しい造型的真実が創造されるであろう。絵画と彫刻はそれぞれ離れたオブジェクトとして、また建築そのものを破壊する「壁画」や「応用芸術」として現われることなく、純粋に構成的であるがゆえに、巧利的、合理的であるばかりでなく、その美しさにおいても純粋かつ完全なものとして現われるであろう。』

芸術の「イズム」

創造者の問題は、その内容をみた すに十分な正しい諸要素を発見することが重要であるということである。その時代のあらゆるムーブメントや渇望を反映しつつ、彼は彼自身の方法によって表現しようと試みる。原則的にいって、このことが過去幾百年のあいだに出現したところの多くの芸術上のイズムたちに共通な命名者である。たとえば、naturalism、realism、impressionism、pointillism、neoimpressionism、expressionism、futurism、suprematism、neoplasticism、purism、constractivism、dadaism、surrealismなどの。
 
大多数の観察者には幾ダースもある藝術上のイズムの混沌のなかで、それらのひとつひとつを区別することはほとんど困難であるーーそれらのイズムが分類され合理化され、そして歴史的な様相のなかにあってさえ、なぜならばこの共通の命名者というものが知られていないからである。それらのイズムは一般人にとってはあまりに数が多くなっているからである。それゆえに多くの人々にとっては、それぞれの絵画や音楽や詩の作品を理解するにはその奥ふかくよこたわる哲学的下部構造すなわち、その印象に直接に身をまかせるよりは、頭をひねり考えることが必要であるかのように思われる。
 
しかしながら小数の人々は、ほかの多くの場合におけるごとく、人生への調整においてひとつの誤謬があるということを認めるのである。
 
人々は多くの障害にとり囲まれ、また生贄の知識に苦しめられているにもかかわらずまず最初に経験の水路をクリアにすることなしに、あらゆることを一時に理解しようとする。観察者はまず彼自身の生活のなかに支配する法則を認識し、そして社会的制約にもかかわらずその法則をまもりつづけることに努力することを学ばねばならない。かくすることによって彼はその法則を非常に多面的な様相とそしてすべてのマニフェステーションのうちに認識するところの位置にいたることができるであろう。かくて芸術そのものへの第一歩を踏み出すことが容易な事実となるであろう。最初は複雑にみえたさまざまな芸術の形式やイズムが組織的な関係をもって明快に秩序だてられたものとなるであろう。
 
たとえば科学と同様に芸術はより多く関係をもった探究と表示によって、われわれの環境をよりよく調節し、われわれの目常生活にその結果をより明らかに同位化させるということは、最も興味を引くことである。