SCIENCE

自然についての断片[ほか6篇]

ゲーテ

恒藤恭

Published in 1780, 1792, 1817, 1824|Archived in March 14th, 2024

Image: Heinrich Wilhelm Schott, “Aroideae Maximilianae”, 1879.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、『ゲーテ全集 第二十五巻』収録の「自然[他6篇]」の全章を収録したものである。
「自然についての断片」は、底本では「自然」と題されていたが、原題に倣って改めた(「自然についての断片」訳者註参照)。
「主観と客観との媒介者としての実験」は、底本では執筆時期が「一七九三年」とされていたが、正しくは「一七九二年」なので、直した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
旧字・旧仮名遣い・旧語的な表記・表現は、WEB上での可読性に鑑み、現代的な表記・表現に改め、誤植・脱字は直し(ex. 「すぐとそれは」→「すぐにそれは」、「あだかも」→「あたかも」、「直近もの」→「直近のもの」、「直近のもの」(「主観と客観との媒介者としての実験」の3箇所目)→「直接のもの」、「友誼的なを態度もって」→「友誼的な態度をもって」 etc.)、一部漢字を開いたり(ex. 「甞て」→「かつて」、「呉れない」→「くれない」、「其の」→「その」、「雖も」→「いえども」、「間」→「あいだ」、「能う」→「あたう」 etc. )ルビを振ったりし、使い分けではないと思しき表記のバラつきについて用語統一を施した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749 - 1832)訳者:恒藤恭
題名:自然についての断片[ほか6篇]「自然についての断片」「主観と客観との媒介者としての実験」「近代哲学の影響」「直観的判断力」「疑念と諦め」「形成衝動」「エルンスト・シュティーデンロート」「シュティーデンロート精神現象の説明への心理学」原題:「自然[他6篇]」「自然」「主觀と客觀との媒介者としての實驗」「近代哲學の影響」「直觀的判斷力」「疑念と諦らめ」「形成衝動」「エルンスト・シュティーデンロート」「シュティーデンロート精神現象の說明への心理學」
初出:1780年ごろ、1792年、1817年、1824年
出典:『ゲーテ全集 第二十五巻』(改造社。1940年。5-49ページ)

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自然
格言的に

(一七八〇年の頃)

自然! 私たちは彼女によって取り巻かれ、いだかれているーーそれから脱け出ることもできず、そのふところにより深く入り込むこともできない。頼まれもせず、予告もなく、彼女は私たちを踊りの環の中に引き入れて、そのまま足取りを進めて行く、やがて私たちがうち疲れて、彼女の腕からすべり落ちるまで。
 
自然は新しい諸形態を永遠に創造する。そこに在るものはかつて在りしことなく、在りしものは再び在ることはない。すべては新しく、しかも常に古いものなのだ。
 
私たちは自然のただ中に生きているが、彼女とは見知らぬ仲である。絶え間なく彼女は私たちと話すけれど、自分の秘密を打ち明けてはくれない。私たちは彼女に向かって終始はたらきかけるが、彼女のうえに何の威力をももっていない。
 
彼女は一切を個性のうえにきずき上げるかに見えるけれど、個物からしては何一つつくり出さない。彼女は常に建設し、常に破壊しているが、その仕事場には近づくすべもない。
 
彼女はまったく子供たちの中に生きている、だが、その母は、どこにいるのか。ーー彼女は無二の芸術家である。いとも単純な材料からいとも大なる対照をつくり、努力の痕もなく最大の完成にみちびきーー最も緻密な規定をあたえながら、常にいくらかの軟らかみをもっておお うている。その作品のいずれもが独自の本質をそなえ、その現象のいずれもが最も孤立的な概念をもちながら、しかも合して一つと成っている。
 
彼女は一つの劇を演じている。自分でそれを観ているかどうか、私たちには分からないけれど、しかし彼女は片隅に立っている私たちのためにそれを演出する。
 
自然のうちには永遠の生命、生成および運動がある、しかもそこから先へと彼女は進まない。彼女は永久に変化し、一瞬も静止することはない。停止に対しては彼女は概念をもたず、彼女の呪いは静止の上にかけられていた。彼女はがっちりしている。彼女の足並みは整然としている。彼女の例外は稀であり、彼女の法則は不変である。
 
彼女は常に思考した、そして常に思念している、だが人間としてではなく、自然として。彼女は一切を包括する特有の感覚をもっているが、何人もこれを知得することができない。
 
人間はすべて彼女のうちにあり、彼女はすべての人間のうちにある。彼女はすべての者と好意にみちた賭けをして遊び、誰かが彼女に勝てば勝ったほど機嫌がいい。彼女は多くの者たちと隠密のうちにそれをやるので、賭けが終わっても、彼らが気づかないくらいである。
 
最も不自然なものといえども自然であり、 最も粗野な俗悪事も 、、、、、、、、、 また何程か彼女の天 、、、、、、、、、 才にあずかっている 、、、、、、、、、 。いたるところに彼女を見ないものは、どこにも彼女を見きわめない。
 
彼女はわれとわが身を愛し、無数の眼と心とをもって永遠に自分自身を見まもっている。彼女は自分で自分を享楽するためにおのれ を解きわけた。彼女は飽きのこないように己を伝えるために、いつも新しい享楽者を生長させる。
 
自然は幻想をもって悦びとする。自己または他人における幻想を打ちくだく者に向かって、彼女は最も苛酷な暴君として罰を加える。信頼して彼女にしたがう者を、彼女は子供のように愛撫する。
 
彼女は無数の子供をもっている。どのちご に対しても物惜しみをしないが、好きな兒たちには存分に物をくれてやり、彼らのためには多くのものを犠牲とする。偉大な者には彼女の保護を結びつけた。
 
彼女は諸々の被造物を無から喚び起こすが、どこから生まれてきて、どこへ行くかを、彼らに語って聴かせない。彼らはただ走ればいいのだ。その路程は 彼女 、、 が知っている。
 
彼女はわずかの衝動しかもっていないけれど、それは衰えるということなく、常に活動し、常に多様である。
 
彼女はいつも新しい観客をつくり出すから、彼女の演劇はいつも新しい。生命は彼女の最もうつくしい発明であり、死は多くの生命を保つための彼女の技巧である。
 
彼女は人間を暗冥のうちに包み、常に光明へと駆り立てる。彼女は人間をして鈍重に大地に寄りかからせながら、常に彼を揺さぶり起こす。
 
彼女は運動を愛するゆえに欲望をあたえる。不思議にも彼女はわずかな欲望をもってこれらの運動をことごとく惹き起こす。あらゆる欲望は恩恵である。速やかにみたされ、速やかに再生する。彼女が新たに一つの欲望をあたえるならば、それは一つの新しい快楽の源泉であるが、すぐにそれは平衡に達する。
 
彼女はあらゆる瞬間を最長の進程に置くのであり、あらゆる瞬間は目標にまでとどいている。
 
彼女は空虚そのものだ。しかし私たちにとってはそうでなく、至大の重要性をもっている。
 
彼女はあらゆる小兒をしてみずからをあやつらせ、あらゆる痴者をして自己を裁かしめ、幾千の者をして無感覚に己を超えて行かしめ、何ものをも見ざらしめる。そして彼女はすべてのものに悦びをもち、すべてのものに利得を見出す。
 
人は彼女の法則に反抗するときといえども、それに服従し、彼女の意に さからって 、、、、、 活動しようとするときにも、なお彼女と 共に 、、 活動する。
 
彼女はその与えるものをまず不可欠のものたらしめることにより、それらをすべて恩恵たらしめる。彼女は人をして待望せしめるために遅怠し、人をして飽かざらしめるために 疾行 しっこう する。
 
彼女は言語をも話術をももたないけれど、諸々の舌と心臓とを創造し、これによって感じもすれば語りもする。
 
彼女の王冠は愛である。ただそれを通して人は彼女に接近する。彼女はすべての存在のあいだに間隙をまうけるが、すべてのものはからまり合おうとする。彼女は一切を統括するために一切を孤立せしめた。愛の杯からの一掬二掬によって彼女は苦悩にみちた生涯を償ってくれる。
 
彼女は一切である。彼女は己みずからを賞し、己みずからを罰し、自分で自分を悦ばせもすれば、苦しめもする。彼女は粗野でそしてものやさしく、愛すべくかつ怖るべく、無力であって全能だ。すべてのものは彼女のうちに在る。過去をも未来をも彼女は知らない。現在は彼女の永遠だ。彼女は慈悲深い。私は彼女を彼女の一切のしわざと共に讃美する。彼女は賢くて、ものしずかだ。人は彼女からその実体についての説明を ることなく、彼女が進んであたえるほかには、いかなる贈り物をもうばいえない。彼女は狡猾だが、それは良き目的のためであり、彼女の詭計に気づかないのが、一ばんよい。
 
彼女はまったくして、しかも常に不完成だ。現にやっていると同じようなことを、彼女はいつまでもやることができる。
 
各人に対して彼女は特有な形態においてあらわれる。彼女はおびただ しい名称と術語との中にすがたを隠すが、いつも同じものである。
 
彼女は私を引き入れたが、また私を連れ出すであろう。私は彼女に自分を任せる。彼女は私を思いのままにすることができるが、彼女は彼女の作品を憎みはしないだろう。私が彼女について語ったのではない。否、何が真であるか、何が偽りであるかを、すべて彼女が語ったのである。すべては彼女の債務であり、すべては彼女の所得である。
 
訳者註 この文は一七八二年にティーフルトのジュルナール(Journal von Tiefurt)に載せられたもので、該誌においては、格言的に(Aphoristisch)という代わりに、断片(Fragment)と傍書されていた。
なおこの雑誌は一七八一年から一七八四年までワイマールで発行されたものであるが、印刷に付せられたわけではなく、十一部だけ謄写して、ごく狭い範囲の人々だけが読者だった。この「自然についての断片」は第三十二号にあらわれた。
この文を書いたころのことをゲーテは想い起こして、一八二八年五月二十四日、宰相フォン・ミュラーに宛てた解説の中で、当時は主に比較解剖亭の研究にたずさわっていたと述べている。

主観と客観との媒介者としての実験

(一七九二年)

人間が自己を取り巻く諸対象を知覚するにいたるや、彼はおのれ みずからに関係せしめてそれらを考察するが、これは当然のことである。なぜならば、それらのものが彼の気に入るか入らないか、彼の心を惹きつけるか反発するか、彼を益するか害するか、ということは、彼の全運命の関わるところだからである。かかる事物のまったく自然的な観方および評価の仕方は、必然的であると同様に容易であるかに見えるが、しかも人間はそれにおいて多くの誤りをおかし、そのためにしばしば恥をかき、苦境に陥るのである。

 

知識への活発な衝動に駆られて、自然の諸対象そのものおよびそれらの相互の諸関係を観察しようと努める人々は、はるかに困難の度の大なる仕事に手を着けるものである。けだしこの場合には、彼らが人間として物を 自己に 、、、 関係せしめて考察する場合に役立つ標準は、もはや用をなさぬからである。気に入るか入らぬか、心を惹きつけるか反発するか、役に立つか害となるか、といったような標準は、彼らには欠けている。彼らはこれに対してまったく断念し、超然としてあたかも神のごとくに、存在するものを探究することを要し、快適なるものを探究すべきではない。かくて真正の植物学者は植物の美とか効用とかを顧慮することなく、その成形や、自余の植物界に対するその関係を研究すべきである。そして、あたかも植物がすべての日光により誘い出され、照らされると同様に、彼は平等の穏かなまなざしをもって一切の植物を観察すべく、かかる認識への標準を、評価の与件を、自己のうちからではなく、観察される諸物の範囲からして採り来たること要する。

 

私たちがある対象を直接に欲求したり嫌厭したりしないで、それ自身とのおよび他の諸対象との関係において考察するや否や、私たちは平静なる注意をもってそのもの、その諸部分、その諸関係につき、かなり明晰なる概念をつくりえるであろう。かような観察を継続すればするほど、かつ諸対象を互いに連結すればするほど、私たちは自己みずからのうちにある観察力を一層多く使用するのである。もしも私たちが行動に際してかかる認識を自己に関係せしめることができるならば、賢明とよばれるに値するであろう。生まれつき節制的であるかまたは環境によって適度に制限されているところの、よく組織された人にとっては、賢明は決して困難な事物ではない、なぜならば生命は一歩ごとに正しく私たちに指示するのだから。しかしながら観察者がまさにこの鋭い判断力を不思議な諸自然関係の検討に応用するに当たって、いわば自分が独りしかない世界のなかで、自分自身の歩行に気を配り、急ぎすぎないように戒め、途中で何らかの有利なまたは不利な事情にすこしも振り向くことをせずに、常に彼の目的を眼中に置いているべきであるとしたら、そして彼が誰からも容易に 牽肘 けんちゅう されえないようなところにおいてもまた、自分みずからの最も厳格な観察者たるべく、かつ最も勤勉に努力せる際にも常に己みずからにして警戒すべきであるとしたら、何人といえども、これらの要求がいかに厳格であるか、他人に向けられると自己に向けられるとを問わず、これらの要求を十分に満足することのいかに望みがたいものであるかを悟るであろう。これらの困難は仮説的不可能性と呼ばれてもいいくらいであるが、しかも我々にとってあたう限りのものをなすことの妨げとなってはならぬ。卓越せる人々がそれによって科学を発展せしめることのできた手段を我々が一般に実現することに努め、また彼らが迷い、後世における経験がはじめて観察者を正路にみちびくにいたったまでは、多数の学徒が幾世紀のあいだ追随したところの邪路をば、正確にかきあらわすならば、我々はともかくも力のおよぶ限り進みえるであろう。

 

人間の企てる一切のものにおけると同様に、私がいま特にそれについて話しているところの自然科学においてもまた、経験が最大の影響をもつことかつもつべきであることは、何人もこれを否定しないであろう。同様に、人は、これらの経験が把握され、総括され、整序され、仕上げられるところの精神力に対し、その崇高な、いわば創造者的に独立な力を否認しないであろう。だが、これらの経験をいかにして行い、いかように利用し、我々の力をいかにして養成し、使用すべきかということは、それほど一般に知られるわけにも、また承認されるわけにもいかない。

 

鋭敏な新鮮な感覚をもった人間が諸対象に注意を向けるようにさせられると、じきに彼らは観察に慣れかつ長ずるにいたるものである。私は光学および色彩学を熱心に研究するようになって以来、元来はかような觀察をまったく知らない人々と、私自身がひどく興味をもった事柄について語り合う習いとなってから、しばしばこのことに気づくことができた。ひとたび彼らの注意が惹き起こされただけで、彼らは私があるいは知っていなかった、あるいは見逃がしていた現象に注目した、そしてしばしばこれによってあまり早急につくられた観念を訂正し、そのうえ刺激して従来より速やかに歩みを進めさせ、かつ骨の折れる研究がしばしば私たちを閉じこめる拘束からして脱け出るようにしてくれた。

 

他の多くの人間の企てにおけると同様に、ここでもまた言われえる事柄であるが、多数の者の関心が一つの点に向けられるときにのみ、なんらかのすぐれたものは生み出されあたうものである。ここでは、好んで他人を発見の名誉から遠ざけようとする嫉妬や、なんらか発見されたものをただ自己流に取り扱いかつ仕上げようとする不当な欲望は、研究者自身にとって最大の障害である、ということが明白となる。

 

多数の人々と共に研究する方法は、これまで私によく適応していたので、これを継続せずにはいられなかった。私の研究の道程においてこのことやかのことにつき誰のおかげを被っているかを私はよく知っていり、将来それを公表することは私のよろこ びでなければならぬ。

 

ところで単に自然的な注意深い人々ですらかように私たちに有用でありえるとしたら、教育ある人々が互いに提携して研究する場合には、その利益はいかにより一般的でなければならぬであろうか。すでに一の科学はそれ自体として大なる集塊であって、一人ではこれを担いきれないけれど、多数の人々ならばこれを支ええるのである。知識はあたかも閉じこめられた、しかし動きのある水とおなじように、 漸次 ぜんじ に一定の水平にまで高まるものであること、そして最もうつくしい発見は人間によってなされたというよりは、むしろ時によってなされたものであることが知られる。現にいとも重要なる事柄が同時に二人のまたはそれ以上の老練なる思索者によって同時になされた場合がある。我々はかの第一の場合には社会および友人に負うところが多いのであるが、後の場合には世界および世紀に負うところがより多いであろう。そして我々は双方の場合において、正しい道程を保ちかつ前進するために、報告や助力や追想や駁論がいかほど必要であるかを、いくら承認しても十分ではないくらいである。

 

だから科学的事物においては、芸術家が有益とみとめるのとは正反対なことを行うべきである。けだし芸術家は、他から忠告されたり、助力を与えられたりすることをふせぐために、彼の芸術品が完成するまでは、これを公開せぬことが望ましいけれど、これに反してそれがすでに完成した以上は、彼は非難もしくは賞讃を考慮し、懸念すべく、これを自己の経験と結合し、もって新しき作品のために修養し、準備することを要する。しかるに、科学的事物においては、各個の経験を、否憶測をすらも、公に発表することがすでに有益であり、そして科学的建築への設計および材料が一般に知れわたり、評価され、選択されるまでは、起工せぬことが望ましいのである。

 

我々の前になされたところの、かつ我々自身がまたは他者が我々と同時になすところの経験を、意識的に再び反復し、一部分は偶発的に、一部分は人爲的に発生せる諸現象を再現せしめるときは、我々はこれを実験と名づける。

 

一つの実験の価値は主として、それが簡単であるにもせよ、複雑であるにもせよ、条件づけられた諸事情が結合される以上は、いつでも再び既知の装置と必要な熟練とをもって、一定の条件の下に反復されえる点に存する。人間の悟性がこの最終目的のためにつくった諸結合をただ表面からながめ、かつそのために発明されたところの、実に日毎に発明されると言ってもいいところの諸機械を観ただけで、我々は当然にも人間の悟性に驚嘆するのである。

 

あらゆる実験は個々に見てもねうちがあるけれど、しかし他の実験との結合および連絡によってその真価をあらわすのである。だが、互いになにほどかの類似点をもつ実験を結合し、連絡することは、するどい観察者がしばしば自分で要求したよりも以上の厳格さと注意を必要とする。二つの現象が互いに近似していながら、しかも我々が信ずるほどには相接近していないことがありえる。二つの実験が相互に連結するように見えていても、両者を真に自然的な連絡にまで持ち来たすためには、なお両者のあいだに大なる系列を置かねばならぬことがありえる。



それゆえ、実験からしてあまり急いで結論せぬように、どれほど注意しても足りないくらいである。なんとなれば経験から判断へ、認識から応用へ移るに際しては、あたかも一つの通路に当たって一切の内部の敵が人間を待ち伏せしているような具合に、想像力、不忍耐、早急、自己満足、頑固、思想形式、先入見、怠慢、軽率、無定見、およびその他多勢の者どもが、すべてここに伏兵として控えており、行動する実際家をも、あらゆる激情を抑制せるように見える平静な観察者をも、共に気づかぬうちに征服するのである。

 

人が考えるよりも一層大きく、一層手近なところのこの危険を警戒するために、一種の逆説をここに持ち出して、より活発な注意をよび起こしたいと思う。すなわち私はあえて次のように主張する。一つの実験は、否、連結された多くの実験は何事をも証明しない、実に、なんらかの命題を直接に実験により証明しようと思うことほど危険なことはなく、この方法の危険と不十分さとを洞察せぬことからして最大の過誤が生じたのである。私は、ただなにか奇妙なことを言おうとするのではないかという疑惑をよび起こさないために、もっと明晰に説明しなければならぬ。

 

我々のなす各々の経験や、これを我々が反復する各々の実験やは、元来我々の認識の孤立的部分であって、しばしば反復することにより我々はこの孤立する認識に確実性をあたえるのである。同一の部面における二つの経験が我々に知られており、かつ両者が近似している場合に、外観上は一層近似しているやうに見えることもありえるが、我々はそれらを実際よりも一層近似せるように思いこむのが通常である。このことたる人間の本性にもとづくのであって、人間悟性の歴史は我々にあまたの例を示すのであり、私自身もこの誤謬をしばしばおかすことに気づいていた。

 

この誤謬は、大抵の場合にそれの生ずる原因をなすところのいま一つの誤謬によく似ている。すなわち人間は事物そのものよりも表象のほうをよろこぶのである、否、むしろ次のごとく言わねばならぬ。人間は一つの事物を表象する限りにおいてのみそれをよろこぶのである。事物は彼の感覚の仕方に適合せねばならぬのであって、彼は彼の感覚の仕方を普通以上に高く持ち上げ、はるかに強化しようとしても、しかもそれは、多数の対象を、厳格にいえば存在していない、一定の理解しえべき関係にまで持ち来たすような実験たるにすぎないのを常とする。それからして、仮説、理論、術語論および体系への傾向があらわれるのであるが、それらは我々の本性の組織から必然に生ずるのであるから、我々はこれを否認することができない。

 

一方からは各々の経験、各々の実験はその性質にしたがって孤立的と見られるべきであり、他方からは人間精神の力は、その外部にあり、それに知られるところの一切のものを非常なる強力をもって結合しようと努めるのであるとしたら、既成の理念をもって個々の経験を結合し、またはまったく感性的でないが、しかし精神の形成力がすでに言いあらわしたところのなんらかの関係を、個々の実験によって証明しようとする場合に人のおかす危険がたやすく観取される。

 

かような努力によって多くの場合に著者の敏感に名誉をあたえるような理論や体系が成立するのであるが、それが公平以上の賞讃を博したり、正当以上に永く維持されたりするときは、それがある意味においては促進する人間精神の進歩に対し、かえって妨げとも害ともなるのである。

 

すぐれた頭脳は、提供される資料が少なければ少ないほど、ますます技巧を用いるものであることに、人は気づくことができるであろう。彼は、あたかも彼の支配を示すためのように、現前の資料のなかからすらもわずかの気に入ったものだけを選び出し、残余のものは、まともに邪魔にならぬような工合に 按配 あんばい することを心得ている、そして彼は最後に彼に敵対するものを自由自在にあしらって押し出してしまい、実にもはや全体をして自由に活動する共和国のようではなく、専制的宮廷に類似するものたらしめることを知っている。

 

そのように多くの功績のある一人の人間には、かかる仕事を歴史的にまなび、嘆賞し、あたう限り師匠の構想方法を習得しようとする崇拝者たちや弟子たちがなかろうはずはない。かような学説は、もしもそれに対して疑いをいだくことをあえてするならば、大体で向こう見ずだと見られるほどにも、優勢となることがしばしばある。ただ後世の世紀のみがかかる神聖物に向かって反抗し、考察の対象をば再び通常の人間感覚に取り戻し、事物をいくらか手軽に扱い、ある機智に富んだ者が偉大なる自然科学者に対して、もしも彼がよりわずかに発見したのであったならば、より偉大な人であったろうに、と言っているところをば、一つの派の創始者についても反復するであろう。

 

だが、危険を指摘し、それに対して警告するだけでは十分でないであろう。人が少なくとも自己の意見を公にして、いかにして自ら窮した邪路を避けえると信ずるかを知らしめ、または我々以前に他のものがいかにしてそれを避けたかということを彼が発見したか否かを知らしめるのは、正当なことである。

 

私はさきになんらかの仮説の証明のために実験を 直接に 、、、 応用することをもって有害とみとめるものであることを述べ、これによって私は実験の間接的応用を有益と見るものであることを知らしめたが、一切はこの点に懸かっているから、明瞭に説明することが必要である。

 

生ける自然においてはなにものも全体との結合のなかに立たぬものは生起しない、そして経験は我々にとってただ孤立してのみ 現れる 、、、 としても、また我々は実験をただ孤立せる事実として視ねばならぬとしても、そのために、それらが孤立して ある 、、 ということにはならぬのであって、問題は単に、いかにして我々はこれらの現象、これらの出来事の結合を見出すか、ということにある。

 

我々が上に見たように、一つの孤立せる事実を思惟力および判断力と直接に結合しようとした人々が第一に誤謬に陥るのである。これに反して、唯一つの経験、唯一の実験のすべての側面および様相をすべての可能性において検討し、研究することを怠らぬ人々が、最も多くの業績を収めたことを、我々は見出すであろう。

 

自然における一切のもの、特により一般的な諸力および諸要素は永遠の作用と反作用とにおいてあるゆえに、各々の現象について、それは無数の他の現象との結合のなかに立つ、と言いえるのである、あたかも我々が自由に空中に浮かんでいる光点について、それはすべての方向へ光線を放つ、と言うのと同じように。だから、かやうな実験を行い、かような経験をなしたときは、なにが 直接に 、、、 それに隣接するか、なにが 最初に 、、、 それに継起するかを、どれほど周到に研究してもなお不足なくらいである。このことは、実験に関係をもつところのものよりも一層よく我々の見とどけなければならぬものである。すなわち 各個の実験の多様化 、、、、、、、、、 が自然研究者の本来の義務である。彼は、他人をたのしませようと欲する著作者とは正反対の義務をもつのである。後者はもしも思惟すべきなにものをも残さぬならば、退屈を惹き起こすであろうし、前者は、あたかも後者になにものもなすべきものを残すまいと欲するかのようにあますところなく研究しなければならぬ、たとえ彼が事物の本性に対する我々の悟性の不釣り合いのゆえに、なんらかの事柄において完結を告げるために十分な能力は何人にもそなわっていないということを、いい頃合いに十分に想い起こさせられるのであるとしても。

 

私の光学的論文の最初の二篇において私が立てようとこころみた実験の系列は、最初は互いに隣接し、直接に接触しており、もしもそれらをすべて精密に知りかつ見とおすならばあたかも唯一つの実験をかたちづくり、最も多様なる形相をもつ唯一つの経験を呈示するようなものであった。

 

多数の他のものから成り立つかような一つの経験は、明らかに一層高級の経験であり、それによって無数の個々の計算例が言いあらわされるべき公式を提示する。かかるより高き種類の経験へと研究を進めることは自然研究者の最高の義務であると私は思うのであって、この部門において研究した最も卓越せる人々の例は我々にこれを指示するのである。

 

ただ直近のものを直近のものに連結するとか、またはむしろ直接のものを直接のものから生ぜしめるというこの思慮深さを、私たちは数学者から学ばねばならぬ。そして私たちがなんらの計算をも用いぬようなところにおいてすらも、あたかも最も厳格な幾何学者の意見を 参酌 さんしゃく する必要があるかのように、仕事を進めなければならぬ。

 

なんとなれば元来数学的方法は、その思慮深さと純粋さとのために肯定における各々の飛躍をあらわにするものであり、その諸証明は本来単に迂回的な手続きにすぎず、結合にまで持ち来たされるところのものは、その最も単純な諸部分においておよびその全帰結においてすでに存在していたのであり、その全範囲において見わたされ、すべての条件の下に正しくかつ不可避的に発見されたというのにすぎない。だからその解明はつねに 論証 、、 であるよりはむしろ 説明 、、 であり、 再説 、、 である。私はここでこの区別をしたから、後を振り返ることを許してほしい。

 

第一の諸要素を多くの結合を通してみちびいていくところの数学的解明と、賢い演説者が論証からみちびきあたうであろうところの証明とのあいだには、大いなる差別が見出される。論証はまったく孤立的な諸関係を含みながら、しかも機智と想像力によって一点にみちびき寄せられ、正不正、真偽の外観が驚くべきほど十分に生ぜしめられえるのである。同様に一つの仮説または一つの理論に都合のいいように個々の実験を論証とひとしく一緒に並べ立てて、なにほどか人目をくら ぜしめるような証明をなすことができる。

 

これに反して自分自身および他人とまじめに仕事をすることを念とする人は、個々の実験を最も用心深く遂行し、もってより高き種類の経験を成就しようとするであろう。これらの経験は短い明瞭な命題によって言いあらわされ、置き並べられるのであり、次第に成就されていくにつれて整序され、あるいは個別的に、あるいは結合されてあたかも数学的命題と同じように動かすべからざるものとして立つような関係のなかに持ち来たされるのである。

 

多くの個々の実験であるところの、これらの経験の 諸要素 、、、 は、何人によっても研究され検討されえるのであり、多くの個々の部分が一つの一般的命題により言いあらわされあたうか否かを判定することは困難でない。けだしここではなんらの恣意も起こらないからである。

 

しかるに、我々の主張するところのあるものを、あたかも 論証 、、 によると同じように、 孤立せる 、、、、 実験によって説明しようとする他の方法においては、判断は、それがまったく疑問とされない場合には、しばしば単に 詐取 、、 されるのである。だが人が高級の経験の一系列をつくり上げたときには、悟性や想像力や機智やがそれに向かってできるだけのことをやってみたところで、有害とはならず、かえって有用ですらある。かの第一の仕事は用心深く、まじめに、厳格に、実に衒学的に十分というほどに遂行されることはできない。なぜならばそれは現代および後世に対して企てられるものだからである。だが、これらの材料は系列に沿って整序され配置されることを要し、仮説的な仕方でよせあつめたり体系的形式に利用されたりしてはならぬ。かくして何人でもそれらを自分の方法によって結合し、それからして、人間の表象方法にとってなにほどか都合よく快適であるような一つの全体をつくることは自由である。この方法で、区別されるべきものは区別されるのであり、そしてあたかも建築の終了した後に運ばれる石材のように、以後の実験を無用として差し控えねばならぬ場合よりも一層速やかにかつ純粋に経験の集積を増加しえるのである。

 

最もすぐれた人々の意見と彼らの事例とは、私が正しき路にあるという希望をいだかしめる、そして私はこの説明がいったい光学的研究における私の意図はなんであるかということを度々私にたずねたところの私の友人を満足せしめむことを願うものである。私の意図はこうである。この部門における一切の経験を蒐集し、一切の実験をみずから装置し、最大の多様性においてこれを実行し、これによりこれらが容易に模倣されえべく、多くの人々の視野から遠ざからないようにしたい。次には、高級の種類の経験を言いあらわす諸命題を提出し、それらがどれほどより高き原理の下に従属せしめられるかを期待したい。しかし想像力と機智とが辛抱しきれないでしばしば先を急ぐことがあっても、この処理方法そのものは、それらが再び還り来たるべき点の方向をあたえるのである。

 

訳者註 ゲーテは一七九八年一月十日にシラーに文を送り、四五年前に執筆したものである旨をことわっている。ただし、印刷されたのは、よほど遅れて一八二三年のことである。

近代哲学の影響

(一八一七年)

本来の意味における哲学に対しては私はなんらの器官をももっていなかった。ただ、迫り来たる世界に抵抗し、これを自分のものとする必要からして、これに向かって反応することを続けた結、哲学者たちの見解を、あたかもそれらが対象であるかのように、 把捉 はそく し、もって自己の教養に資するという方法に到達するにいたった。私は青年のころにブルッカーの哲学史を好んで熱心に読んだものであるが、それによって得たところといえば、あたかも、生涯を通じて自己の頭上に星空の回転するのを眺めて、多くの際立った星座を見わけながら、天文学についてなんら理解することなく、大熊星を知っていても、北極星を知らぬ、といったような人に似たものがあった。

 

芸術およびその理論的要求については、私はローマにおいてモリッツとよく議論した。一部の小印刷物が今日でも当時の私たちの怖るべき無知を証示する。次に植物変態の実験の叙述に当たっては、自然に叶った方法が展開されねばならなかった。なぜというに、植物はその営みを一歩々々と示してくれたので、私として迷いようもなく、そのままに放置することによって、植物が最も潜在的な状態を次第に完成へと進めていく道程と方法とを承認せざるをえなかったからである。物理学的研究に際しては、次のような確信に到着したーーすべて諸対象の考察における最高の義務は、その下に一つの現象のあらわれる各条件を精密に探求し、諸現象のあたう限りの完成をもたらすことに存する。けだし、これによって、諸現象は互いにつが り合うか、またはむしろ互いに重なり合わねばならぬようになり、研究者の直感の前で一種の組織を形成し、その内的生活の全部を顕示せざるをえないからである。しかしながらこの状態はいつもただ薄明りを見せるだけであって、私の意味における啓蒙を私はどこにも見出さなかった。思うに、終局において各人は自分自身の意味において啓蒙されねばならぬのであるのに。

 

カントの『純粋理性批判』〔一七八一年〕が世に現れてからすでに久しかったけれど、それはまったく私の関心の範囲外にあった。ただし、私はそれに関する討論にしばしば居合わせた、そして、我々の精神的存在に対して、我々の自我はどれだけの貢献をなすか、外界はどれだけの貢献をなすか、という古い主要問題が更新されることを、わずかの注意でもって観取することができた。私はこれらの二者を分離したことはかつてなかった。私が私なりに諸対象について哲学したときには、無自覚な素朴さをもってそれをしたのであって、私の見解が眼の前に見える、と信じきっていた。だが、かの論争が議せられるにいたるや否や、私は最もよく人間の名誉を保つような議論の側に味方することを欲し、カントと共に、我々のすべての認識は経験をもってはじまるけれど、しかもそのゆえにすべて経験から発生するものではない、と主張する人々に、全然賛意をあらわした。先天的認識もまた私にとって意に叶うものであったし、先天的綜合判断も同様であった、なぜならば私は全生涯を通じて、詩作しつつかつ観察しつつ、総合的に作業しては、次にまた分析的に作業したのであったから。人間の精神の収縮と膨張とは、私にとってあたかも呼気と吸気とのごとく常に鼓動して、決して分離することはなかった。しかもすべてこれらの事柄に対して私は言葉をもたなかったし、まして文句をもっていなかったが、いまやはじめて一つの理論が私に呼びかけているような気がする。私の意に叶ったのは入口である。迷宮そのものに踏み入ろうと私はしなかった。あるいは詩才が私をさまたげ、あるいは悟性が私をさまたげた、そして私はついに改善されたというように感じなかった。

 

不幸にもヘルダーはカントの弟子ではありながら、しかも対立者であった、そして私はいまや一層わるい状態に立っていた。私はヘルダーに同意することができなかったが、さりとてカントに従うこともできなかった。しかしともかくも私は有機的自然の成形および変形をまじめに追究することを続けていったが、その際、私が植物を取り扱うために用いた方法は、私にとって信頼すべき道しるべとして役立った。自然は常に、生命をもつ神秘的全体からの発展というような分析的作業をいとなむが、次には再び綜合的にはたらいて、まったく縁のないようにみえる諸関係を相互に接近せしめ、それらをして 一つに 、、、 連結せしめるのである。それで私はまたしてもカントの学説に還っていった。個々の章が順次にわかってくるように思われ、自家の用途に充てえる多くのものを獲得した。

 

だが、今や『判断力批判』〔一七九〇年〕を手に入れ、そのおかげで私は生涯の最も愉しい時期の一つをすごした。ここに私のたずさわった最も異種的なところのもの、すなわち芸術の所産と自然の所産とが並べて置かれ、互いにおなじような仕方で取り扱われるのをみ、美的判断力と目的論的判断力とが互いに照らし合っているのをみた。

 

私の表象の仕方では必ずしも常に著者についていくことができず、往々なにかを見うしなうことがあったにもせよ、この著作の偉大なる主要思想は従来の私の創作、仕事および思索にまったく似かよえるものであつた。芸術ならびに自然の内的生命、内面から発する二者の相互的なはたらきは、この書のなかに明晰に言いあらわされた。これらの二つの無限の世界の所産はそれら自身のために存在すべきであり、そして他のものと 並び合って 、、、、、 存立するところのものは、互いに他に 対して 、、、 存在するのではあっても、意図的に互いに他のために存在するわけではない。

 

究極原因に対する私の反感はいまや規律され、是認された。私は目的と結果とをはっきり区別しえたし、なにゆえに人間悟性がしばしば二者を混同するかということを会得した。詩の技術と比較的自然誌とが、いずれも同一の判断力に従うものであって、互いに酷似せるものであることは、私にとってよろこばしかった。情熱的に動かされて、私は私の道程をひたむきに急ぎ進んだが、このことたる、私自身その道程がどこにみちびくかを知らなかったということ、そして私に適合したところのものおよび私に適合した仕方がカント主義者たちにおいてはあまり共鳴を見出さなかったということに因るのである。なぜならば私は書物で読んだ事柄ではなく、自分のうちに感じたところを発言したからである。自分自身をたよるほかはなかったので、私はかの書物をくり返し研究した。いまでもその古い冊子のなかに当時アンダーラインをした個所を見つけるのは愉快であるが、より深くみかい することができそうに見えたところの理性批判のなかにおける同じような個所もまた私をよろこばせる。けだし一の精神から生じた著述は常に互いに指示し合うからである。カントの学徒たちに接近することは同じようにはいかなかった。彼らはよく私の言に聴いたけれど、なんら私に答弁しえなかったし、なんら私を啓発するところもなかった。彼らのなかの誰かが微笑をふくんだ驚嘆をもって、それはカントの説の類似物だ、しかし稀有の類似物だというように、私の説を評するのには、一再ならず出会った。

 

いったいそれがどれほど驚くべきことであったかということは、私のシラーに対する関係が活発となるにつれてはじめて明瞭となった。私たちの会談はまったく生産的または理論的であり、通常は同時にそのいずれもであった。彼は自由の福音を説き、私は自然の権利の縮小せられざらんことを欲した。自己の確信からしてというよりは、むしろ私に対する 友誼 ゆうぎ 的な心持ちからして彼は『美学的書簡』〔1795年〕のなかでは、「優美と威厳」の論文をして私にとってそのように厭わしいものたらしめたところの、あの粗硬な表現をもっての良き母を取り扱わなかった。しかし私は、私の側から頑固にいこじにギリシャ的な詩風およびそれから生じた詩の長所を称揚したのみならず、もっぱらこれをもって唯一の正しくかつ望ましい方法だと主張したために、彼はもっとするどい省察を強いられたのであり、「素朴的なおよび感傷的な詩について」の論文はこの衝突に由来するものである。両種の作詩法は相和し、両立しつつ、互いに平等の地位をみとめ合うべきであった。

 

彼はこれによって新しい美学の全体の最初の基礎を置いた。けだしギリシャ的と 浪漫 ロマン 的と、およびその他これと同義の語をもって表わされえるところのものは、現実的なまたは理念的な取り扱いの優越がまずもって問題とされるところにまでことごとく帰着せしめられえるからである。

 

かようにして私は漸次に、これまでまったく未知であった言語に慣れていったのであるが、私にとって特にそれに親しみやすいわけがあったというのはそれがもたらしたところの芸術および科学についてのより高き観念によって私は自分自身をより高貴にかつより豊富にかんがえることができたからである、しかるに通俗哲学者たちおよびどのように呼んでいいかわからないところの他の種類の哲学者たちにとっては、私たちはまったく品位のないものとして取り扱われるほかはなかった。

 

それ以上の進歩を私は特にニートハンメルンに負っている、彼は最も友誼的な態度をもって、主要の謎を解く上に、また個々の概念および表現を展開し、説明する上に私を助けてくれた。同じ頃におよびその後に私がフィヒテ、シェリング、ヘーゲル、フォン・フンボルト兄弟およびシュレーゲルに負うにいたったところについては、私にとってそのように有意義であった彼の時期、すなわち前世紀の最後の十年間を、私の立場から、よく叙述しないまでもが、 略叙 りゃくじょ することを企図する機会にめぐまれたならば、その際感謝の心をもって論及するであろう。

 

訳者註 この文は一八一七年に書かれ、「形態学」の第一巻(一八二〇年)に載せられた。

直感的判断力

(一八一七年)

私がカントの学説によく精通しようとしないまでも、あたう限りそれを利用しようと努めたときに当たって、この卓越せる人はいたずら気味に反語を弄するのではないか、と思うことが度々あった。というわけは、彼は認識能力を最も狭く限定することに骨を折っているかと思うと、次には、自分で画した境界の彼方へと横目を使って説き立てるからである。たしかにカントは、わずかの経験をもって気がるに備えただけで、直ちに無分別に発言し、早急に何事かを確認しようとし、頭にうかんで来た思いつきを諸対象に押しつけようと企てる人間が、いかに思いあがった仕方で傲慢にふるまうものであるか、ということを語っている。このゆえに、我々の先生は彼の思惟者を反省的、比量的判断力に制限し、これに規定的判断力を認めることを全然拒んでいる。しかるに、我々をまったく窮地に追うこめ、実に懐疑にまでもみちびいた後に、彼は断然と気前のいい議論をはじめて、彼がある程度に我々にみとめてくれた自由を、我々が思いのままに利用するに任せるのである。この意味において次の個所が私にとって最も重要であった。

 

『我々の悟性のように比量的ではなく、直観的であるがゆえに、綜合的普遍(かかるものとしての全体の直観)から特殊的なるものへ、すなわち全体から部分へ進み行くような一種の悟性を、我々は考えることができる。ーーこの場合かような原型的知性が可能であることを論証することはまったく不必要であって、ただ我々の比量的なる、そして形像を必要とする悟性(模写的知性)およびかかる性質の偶然性をそれに対立せしめることにおいて、原型的知性にみちびかれるということ、かつこれがなんらの矛盾をも含まないということを論証すれば足りるのである。』

 

もとより著者はここで一種の神的悟性を指しているように思われるが、もしも我々が道徳的なるものにおいて、神、徳および不死に対する信仰を通して自己をより高き世界へと昇めて、第一の存在者にまで近づけるべきであるとしたら、同じように理知的なるものにおいても、我々は普段に創造する自然を直視することにより自然の諸々の生産作用に対する精神的参加に値するものとなりあたうべきはずである。 私ははじめ 、、、、、 無自覚に 、、、、 内的衝動か 、、、、、 らしてかの 、、、、、 原像的なるもの 、、、、、、、 類型的なる 、、、、、 ものに休み 、、、、、 なく迫っていき 、、、、、、、 、しかも幸いにして自然的叙述を成就しえたのであるが、しかも私がいまや、ケーニヒスベルクの老人自身の口吻を借りるならば、理性の冒険を大胆に企てることを妨げるなにものもなかった。

 

訳者註 一八〇七年にゲーテは、自分の研究の上でカントの学説から影響をうけた点を反省することを企てた。この文と次の二つの文ーー「疑念と諦らめ」および「形成衝動」ーーとは、そうしたカント考察の成果の一部分にほかならない。

疑念と諦め

(一八一七年)

私たちは世界建築をその最大の延長において、その最終の可分割性において考察するに当たって、全体の基礎に一つの理念があり、これにしたがって神は自然のうちに、自然は神のうちに、永遠から永遠へと創造し、活動しえる、という想念をしりぞけることはできない。直観や、考察や、省察はかの神秘に私たちを近づける。私たちは僭越にも理念をすらもあえて獲得しようとする。私たちは謙遜して、かの太初に類似すると思われるような諸概念をつくる。

 

ここで我々は、いつも明瞭に意識されるとは限らぬ特有の困難に遭遇する、というわけは、理と経験とのあいだには我々が全力をつくしても超えがたいところの一定の 罅隙 こげき が横たわっているように見えるからである。それにもかかわらず我々は理性、悟性、想像力、信仰、感情、幻想をもって、かつもしも他に何の手だてもなければ、荒唐無稽をもってしても、この罅隙を飛び越えようと永久の努力をつづける。

 

丹念に継続した努力の後についに我々は、いかなる理念も十分に経験に適合せぬことを主張し、しかも理念と経験とは類似的でありあたうこと、否あらねばならぬことを認める哲学者が、多分正しいのだということを見出すのである。

 

理念と経験とを互いに結合することの困難は、すべての自然研究においてはなはだ妨害となるように見える。理念は空間および時間に依存せぬし、自然研究は空間および時間において制限されている。だから理念においては同時的なるものと継起的なるものとは最も緊密に結合しているに反して、経験の立場においてはいつも分離している。そして理念にしたがえば同時的でありかつ継起的であると思惟されるべき一つの自然作用は、一種の幻覚に我々を陥らしめるように思われる。悟性は、分離せるものとして感性の提示するところのものを、結合せるものとして思惟することができず、かくして理解されたものと理念化されたものとの矛盾が永久に解決されることなく存続する。

 

それゆえなにほどかの満足を求めて詩の世界にのがれ、多少の修正により古き歌謡を更新することをもって妥当としよう。

 

 つつましやかなまなざしをもって
 永遠の女の傑作を見まもれ
 一と踏みにより千本の絲が動き
 桜はこなたかなたに走り
 筋はたがいに飛び交い
 一つの手さばきが千の結びをつくる!
 彼女はそれを貰いあつめたのではなくて
 永遠のむかしから織りつづけている
 それにより永遠の主人が
 安んじて緯を投じえるようにと

形成衝動

(一八一七年)

上述の重要な事柄においてなされたところについて、カントは彼の判断力批判のなかで次のごとく説いている、『この新生説の理論に関しては、その証明のためにならびにその適用の正しい諸原理の基礎づけのために、一部分はそれのあまりに不当な使用の制限を通して、何人もブルーメンバッハ氏以上に寄与したものはない。』

 

良心的なカントのかかる証言に刺激された私は、以前に読んだことはあるけれど、精読しなかったところのブルーメンバッハの著作を再びひもといた。ここに私は、一方ではハラーおよびボネット他方ではブルーメンバッハの双方のあいだに立つものとして、私のカスパール・フリードリヒ・ウォルフを見出した。ウォルフは彼の新生説のために、有機的なる生にまで規定された存在に対し栄養を提供するところの一つの有機的要素を前提せざるをえなかった。そして彼はこの物質に、自分みずからを産出することを欲しかつそれによって産出者の地位にまで自己を持ち上げたところの一切のものに適応するような本原力をあたえた。

 

この種の表現はなお若干の希望をさしはさむべき点をともなっている、なぜならば一つの有機的物質においては、それがどれほど生き生きと思惟されているとしても、なお常になにほどか素材的なものが付着しているからである。力という語はまず単に物理的なるものを、さらには機械的なるものを言いあらわすのであり、そしてかの物質から組織されるべきところのものは我々にとって不明な、理解すべからざる点として残るのである。そこでブルーメンバッハはかの表現の最高および最終のものを獲得した、彼は謎の語を擬人化して、それについて語られていたところのものを創造本能、すなわちそれによって形成が行われるべき熾烈なる作用としての衝動と呼んだ。

 

すべてこれらの点をより精密に考察するならば、次のような事柄を容認することが一層簡明で、適切で、かつ恐らくは一層根本的であることを知るだろう。ーー現存するものを考察するためには、我々はそれに先行せる活動をみとめねばならぬ。そして一つの活動を思惟しようと欲するときは、我々はそれがはたらきかけることのできる適当な要素をそれの基底に置かねばならぬ。我々は結局この活動をいつもこの地盤と共に成立しかつ永久に同時的に共存するものとして思惟しなければならぬ。

 

この 厖大 ぼうだい なるものが人格化されて、我々に対し神として、創造者兼保持者としてあらわれるのであり、我々がこれに祈願し、これを崇拝し、これを讃美することがあらゆる仕方で要求されるのである。

 

哲学の領域に立ち帰って、開展説と新生説とを再び考察するときは、これらの語はただ我々の前進をさまたげるものであるようにみえる。開設説が高い教養の人にはまったく不満足なものであることはもちろんであるけれど、しかも摂取および受容を説く学説においては摂取するものと摂取されるものとが前提されねばならぬ。そして我々が事前の形成ということを思惟しえないとすれば、事前の輪廓づけ、事前の限定、事前の決定、その他名称のいかんを問わず、我々がなにものかを認識しあたうにいたる以前に先行せねばならぬところのものに、到着するのである。

 

だが私はこれだけを主張することをあえてしたい、一つの有機的なるものが現象にまであらわれるときは、形成衝動の統一と自由とは形態変化の概念なくしては把握されえない。

 

最後に、これ以上の追思索を促すために一つの式を掲げる。
 

エルンスト・シュティーデンロート
シュティーデンロート精神現象の説明への心理学 第一部

(一八二四年出版)
 

ある重要な著述が、あたかも私の現在の努力に合致するような時期に手に入って私の仕事に力を添え、したがってまたそれを促進するというようなことを、私は以前から最も幸いな出来事の一つに数えてきた。そうした著述はしばしばとおい古代のものたる場合もあるけれど、同時代のものは最も有効であった。なぜならば最も手近なものは常に最も生命にみちたものであるから。

 

さて上掲の書物によって私はかかる愉快な場合に遭遇した。ーー

 

専門の哲学者たちはこの著述を批評し、 品騰 ほんとう するであろうが、私はただそれと自分との交渉を手短に述べる。

 

しずかにはしる小川に浮かびながら、流れのまにまに押し進められて行く木の枝が、おそらく一つの石に瞬時せき止められ、どのようにか彎曲してしばらく停滞した後、元気のよい波にながされて、それからそれへと前進していくありさまを思いうかべたとしたら、この筋の通った、影響の多い著書がいかなる仕方で私にはたらきかけたかということが観取されるであろう。

 

かくいう私の真意を著者こそは最もよく洞察するであらう、なぜというとすでに早くから私は多くの機会に、 下級 、、 および 上級 、、 の精神力に関する学説が若い時代の私の不満をよび起こしたことについて述べているからである。宇宙間におけるごとく人間の精神においてもなにものも上とか下とかに在るわけではない、そこには、まさに一切の部分とそれとの調和的関係を通して神秘的存在を顕示するところの一つの共同の中心点があって、すべてのものはこの点にして平等の権利を要求するのである。最近時にいたるまでの古き人々および新しき人々のすべての論争は、神がその本性において一体として産出せるものを分離することに由来する。よく知られているように、個々の人間の資性においては通常いずれかの能力の優越があらわれ、それからして必然に表象の仕方の一面性が生じる、けだし人間はただ自己を通して世界を知るのであり、そのために素朴な思いあがり方をして、世界は彼によって、彼のために打ち建てられていると信ずるのである。かようにして彼は、自己の主要能力を全体の頂に置き、劣勢なるものをまったく拒否して、その本来の完態のなかから追い出そうとするにいたるのである。人間の実体のすべてのあらわれ、すなわち 感性 、、 理性 、、 想像力 、、、 悟性 、、 は一つの決定的統一を形成せねばならぬのであって、これらの性能のいずれかが自己において優越的であるにもせよ、それは問題でない、という確信をもたぬ者は、常に好もしからぬ制限にくるしむのであって、なにゆえに多数の頑強な反対者をもつのであるか、なにゆえに自分自身すらもが瞬間的な反対者たる場合に出会うのであるかを到底理解しえないであろう。

 

かくて、いわゆる精密科学へと生まれかつそだてられたある人は、彼の悟性的理性の頂点に達したときにおいても、精密な感性的想像がありあたうのであり、それなくしては実に芸術は思惟されえべくもないということを、容易に理解せぬであろう。感情宗教の論者と理性宗教のそれとはやはり同一の点をめぐって争うのである。後者は宗教が感情からして出発することを認めようとしないが、前者は宗教が合理性にまで到達せねばならぬということを肯定しようとしないのである。

 

このことおよびこれに類したことについて私は上記の著述から刺激をうけた。誰でもそれを読むことにより、それぞれ益するところがあるであろう。私はさらに精読してなおしばしば多くの幸いなる思索の機会にめぐまれんことを期待するものである。



思惟の領域が詩作および造形の分野に直ちに接続する地点について、以上にそこばくの 瞥見 べっけん をこころみたのであるが、ここにその一つの場合がある(一四〇頁)。

 

『上述せるところから知られるように、思惟は再現作用を前提する。再現作用はその時々における表象の被規定性にしたがってなされる。だから一方においては、有能なる思惟は現前の表象が十分にするどく規定されていることを前提するのであり、他方においては、再現されるべきものの豊かさと適当の結合とを前提するのである。思惟にして役立つような、この再現されるべきものの結合は、それ自身大部分は思惟において行われるのであって、多くのもののなかから相対応せるものがその内容の親近関係により特殊の結合に立ち入るのである。だから有能なる思惟はあらゆる仕方で、人の行いえる再現作用の合目的性にまったく依存するであろう。このにしてなんらの正当な貯えをも持たない者は、なんらの正常なものをなしえないであろう。再現作用において貧疎なる人は、精神の乏しさを示すべく、再現作用が一面的である人は、一面的な考え方をするであろうし、再現作用の無秩序で混乱せる人は、はっきりした考えやらをなしえないであろう、そしてその他も同然である。かくて思惟は無から何ものかをつくるのではなく、十分なる予備形成予備結合を前提するのであり、そして狭義の思惟としてはたらくところでは、事物に適合せる、諸表象の結合と整序とを前提するのであるが、その際どれだけで十分であるかはおのずと会得されるのである。』

 

訳者註 Ernst Stiedenroth(1794 - 1858)はヘルベルト派の学者で、ゲッチンゲン大学およびベルリン大学の講師を経て、グライフスワルト大学の教授となった。Psychologie zur Erklärung der Seelenerscheinungen 第二部は一八二五年にあらわれた。