PHILOSOPHY

自然の体系の真意[抜粋2篇]

クロード=アドリアン・エルヴェシウス

マルクス書房編輯部訳

Published in 1774|Archived in March 7th, 2024

Image: Levi Walter Yaggy, “Yaggy's Geographical Study”, 1887.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、エス・セムコフスキー編『マルクス學教科書 第四巻』「一八世紀フランス唯物論者中より」「物質と運動とに就いて、靈魂と精神に就いて」を収録したものである。二篇とも、1774年にロンドンで刊行されたエルヴェシウスの“Le Vrai Sens Du Systeme De La Nature(『自然の体系の真の意味』)”の第一章からの抜粋である。
旧字・旧仮名遣い・旧語的な表記・表現は、WEB上での可読性に鑑み、現代的な表記・表現に改め、誤植・脱字・誤訳は直し、一部漢字にルビを振り、レイアウトを整えた。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:クロード=アドリアン・エルヴェシウス(1715 - 1771)訳者:マルクス書房編輯部
題名:自然の体系の真意[抜粋2篇](一八世紀フランスの唯物論者|物質と運動、霊魂と精神)原邦題:一八世紀フランス唯物論者中より|物質と運動とに就いて、靈魂と精神に就いて原題:Le Vrai Sens Du Systeme De La Nature(『自然の体系の真意』)
初出:1774年
出典:『マルクス學教科書 第四巻』(マルクス書房。1930年7月。110-111、114-120ページ)

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自然体系の真意(第一章からの抜粋2篇)

一八世紀フランスの唯物論者

人間は自然の産物である。それは自然のなかに存在し、自然の法則に従属している。人間は自然から解放され得ない、人間は思惟においても自然の限界を超え得ないーー自然によって創造されたる存在者には、その一部をかれが表象しているところの大目的の彼岸にはなにものも存在していないのであるーー自然に超在しまたは自然から別個に存在している存在は、たんなる幻想にすぎなくて、我々はそれに関して現実的な表象を持ちえないのである。

 

人間は純粋に物理的な存在である。精神的人間とは、物理的人間が、一定の視点から観察されたものにすぎない。なんとなれば人間の組織は自然の創造物であるから。人間の可視的活動、人間の不可視的運動は、人間の機構から派生するところの、自然的機能である。人間の発明したすべてのものは、人間の本質の不可避の結果にすぎない。我々の観念についても事情はまったくこれと同一である。技芸とは自然によって創造された器具を使用して活動するところの、自然にすぎない。

 

人間はそのあらゆる求道において物理学と経験とにしたがわねばならないーー自然は単純な諸法則をつうじて作用する。我々が経験を斥けて空想にしたがったならば、我々は誤謬に陥るであろう。経験の不足は人間が物質について不完全な観念をつくりあげるにいたった一つの原因であったーー盲目的に洗礼やしきたり、権威に追従せんとする怠慢は、活動力を要求する経験や、反省を要求する理性に転向するよりも便宜ではあろう。ここから、普通の法則に反するすべてのものを忌避せんとするものが起こるのであって、それはまた昔から存在しているところのすべての制度に対して敬意を表することになるのだ。信仰もまたかような経験が欠けていることの産物である。経験を体現しよう、宇宙に注目しよう、しからば我々は宇宙のいたるところに物質と運動とのみを見るであろう。

物質と運動、霊魂と精神

運動のみが我々の器官と、我々の内部または外部にある事物とのあいだの関係をつくりあげる。
 
原因とは、他者を運動に導いたり、その他者のうちに変化を起こさせたりするものである。結果とは一つの物体がほかの物体のなかに運動をつうじて生産するところの変化である。
 
それこれの物体が我々におよぼす作用がどんなものであるにせよ、我々はその作用が我々のうちに喚起するところの変化をつうじてこの作用を知るにすぎないのである。
 
我々は作用を土台としてのみ内的運動や、思考や、作用や、ほかの感情やを判断するのである。我々は、ある人が逃げ出すときに、その人が恐怖を感じていることを断定する。
 
諸物体の運動はつねにそれらのものの本質から生ずる必然の結果である。一切の存在はその固有の運動法則をもっている。
 
宇宙のうちのすべては運動である。自然の本質は活動のうちに包蔵されている。すべての存在物には、生まれ出て、成長し、減少しかつ消滅すべき性質のみが与えられている。石や鎧等々もーーみな活動をしている。地上に横たわっている石は、地球を圧迫しかつこれに作用をおよぼしている。これと同様に運動によっても最も微細な物体の浮動も我々の嗅覚に達するのである。
 
自然のこの運動はそれ自身から獲得したのである。なんとなれば自然は絶大なる全一体であって、その外部にはなにものも存在し得ないのだから。この運動は物質の本質である。物質は固有の運動によって運動している。物質は諸々の特質をもっていて、これらの特質は適応して活動するのである。
 
物質に運動をくわえたところの(自然外の)原因を仮定するためには、この物質がいつしかは存在をはじめたことを前提としなければならないが、それは不可能事である。なぜかというに、物質は全体として不滅であってその存在をやめないのであるならば、その物質がいつしか存在をはじめ得るということは、どう解釈してよいか分からないのだから。
 
物質はどこから現れたか? それはつねに存在していた。物質の運動はどこから受け取ったのであるか? 物質は昔から運動せざるを得なかった。けだし運動は物質の存在の、その本質の結果であり、また存在は存在物のうちにいくらかの特質を前提するものであるがゆえに。だが事物が自己の特質をもっているとするならば、その活動形態は必然にその存在形式から生ずべきである。ある物体が重力をもっているならば、それは落下せざるを得ない。
 
運動のみが物質の変化、変形の形態をつくりだす。運動によってのみ、存在物のすべては生起し、使い古され、成長しかつ破壊されるのである。
 
運動によって、物質の原子の移動や交替や絶えざる循環が行われる。これらの原子は、新しき存在を創造せんがために廃滅する。一つの物体がほかの物体を育てる。一定の中間期がすぎるたびに、分子の共通質量は、それから摂取されていた分子を取り返すのである。自然は自己の穴道をつうじて太陽を創造する。運動は、それをもってこれらの人を惑わすごとき質量ーーそれは人間がその短い生涯のなかにわずかにチラと見受け得るにすぎないものーーをつくりだしたところの、部分をいつしか逸散せしめることがあるかもしれない。
 
我々が活動しつつある原因を見るときに、我々はその活動を自然的なものと認めるのである。しかるにその原因を我々が発見できないような異常な現象を見るときには、我々は想像を馳せて、その結果幻影を描くのである。
 
しかしながら自然においては自然的な原因と作用のみが存在している。すべての運動は恒常な、そして必然的な法則にしたがって行われる。したがって仮に我々がその法則を目にしないとしても、そのためにそこに作用している下忍は超自然的なものだという結論を下し得るものであろうか?
 
諸物体のすべての運動の可視的な原因は所与の状態を保存し、好ましいものを引きつけ、有害なものを斥けることである。すべての存在物は、因果関係によって条件づけられた本質に固有の運動を行っている。
 
一切の原因は作用を起こし、また原因なき作用はあり得ない。そういうわけで、もしもすべての運動が自己の原因をもっているならば、もしもすべての運動が自己の性質によって、自己の本質によって、自己の属性によって条件づけられているならば、しからばすべては必然であり、また自然の各産物は一定した条件のうちに存在し所与の属性をもっていて、それが作用しているのよりほかには作用し得ない、ということになるべきである。必然性とは原因とその作用とのあいだの不変の、恒常の関連であって、この克服しがたい力は、この普遍的必然性は、事物の性質そのものから派生するのであって、それにもとづいてすべては げがたき法則によって作用するのである。
 

ーーー

 
人間はどの瞬間においても必然性にしたがっている。人間の気質(性格)はかれに依存するものではない。それと同時にこの性格は人間のすべての情熱に働きかけるのである。多いと少ない、熱いと冷たいの差はあれ人間の血は、多かれ少なかれ分布した神経は、かれを養っている食物は、かれの呼吸している種々の空気はーーいずれも人間に作用するのである。
 
人間とは種々の物質から構成された、組織された全一体であって、自己の属性と調子を合わせて活動しているのである。人間の運動の、かれの表象の原因を認識することが困難であったことが、かれをして自己の本質を二つの本質に分たしめた。かれは事物を認識し得ずして、言葉を発見したのである。
 
人間は、自余のすべての存在がそうであるがごとく、自然の産物である。だが人間はどこから出現したのか? 我々はこの問題を解決すべき充分の経験をもっていない。
 
人間は永遠の昔から存在していたか? それとも自然の瞬間的な作品であるか? これは二つとも一様に可能なことである。
 
物質は永遠なものである。だがその結合とその形態とは過渡的である。おそらくは人間はこの地球固有の創造物として、ずっと昔に発生したものかもしれない。この我々の地球上ではほかの創造物も、人間でさえも、気候の変化につれて変化するのである。人間は疑いもなく雌雄の姿で出現したのであって、人間と地球とのあいだの諧調が破れないかぎり将来も存続するであろう。もしもこの諧調が壊れたら、人類は、そのとき地球が獲得するであろうところの属性に合致する性質をもった新しい存在物に地位を譲るであろう。
 
人間の神にちかい性質や人類創造やを語ることは、自然のエネルギーを知らないこと、自然がいかにして人間を創造し得たかを知らぬことの証拠を挙げるも同様である。
 
人間は自分を自然のうちで特権ある(例外的な)存在だとみなすべきなんらの根拠もない。人間の優越に関する観念は、自画自賛の前提に基づいているにすぎない。
 
我々の霊魂と称するものは、我々と一緒に運動している。しかるに運動は物質の一性質である。さらにこの霊魂は、それが物体の側から受けるところの克服しがたき障害において、物質的なものとして自己を現すのである。たとえば霊魂は、なにも障害がなければ私の手を動かすことができるが、手にひどく大きなおもり が下っているときにはそうする力をもたないのである。こういう具合にして、物質の質量は精神的原因によって与えられた刺激を破壊するのである。もしもこの精神的原因が物質とのあいだになんらの同似性ももっていないならば、それは、物質の側からはなんらの抵抗も受けないはずである。運動は運動しつつある物体の外延と内包とを前提とする。こういうわけでもしもなんらの原因が作用をなしたとするならば、それは必然に物質的なものと見るべきである。私の肉体が前進する場合には私の霊魂は断じてあとに残らない。したがって霊魂は私の肉体と共通な、そして物質に特有の性質をもっているのである。霊魂は肉体の一部分を構成していて、肉体によって経験されるすべての革命を嘗めている。それは幼弱の状態を経過し、肉体と苦楽をともにし、老衰、終息ならびに死滅の兆候を現す、霊魂は肉体以外のなにものでもないが、ただその機能(作用)のあるものに関して別個に見られているにすぎない。我々の感覚がそれについて我々に与え得るなにものをも現さないがごとき存在は一体なんであろうか? 決して物質ではなく、しかも物質に作用し得る存在であろうか? すべての感覚の網からすべり抜けるようなものをどうして肉体が包蔵しかつ、保存できるだろう?