PHILOSOPHY

誰が世界の支配者か?

オルテガ・イ・ガセット

保々隆矣訳

Published in April 1931|Archived in March 1st, 2024

Image: Franz Wilhelm Seiwert, “Mass”, 1931.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れた(カッコ内「( )」はおそらく訳注である)。
旧字・旧仮名遣い・旧語的な表記・表現は、WEB上での可読性に鑑み、現代的な表記・表現(ex. 「予」→「わたし」、「〜如く」→「〜ように」、「〜せる」→「〜しよう」、「〜せしめる」→「〜させよう」)に改め、誤植・脱字は直した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:オルテガ・イ・ガセット(1883 - 1955)訳者:保々隆矣
題名:誰が世界の支配者か?原邦題:世界を支配するのは何人か?原題:Wer herrscht in der Welt?
初出:1931年4月(Die Neue Rundschau. XLII. Jahrgang der Freien Bühne. Viertes Heft.)
出典:『邦文外國雑誌 第一巻 第五號 七月號』(邦文社。1931年7月。36-37ページ)

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ヨーロッパ文明はーーわたしが幾度か主張しているようにーー民衆の叛乱の結果だ。民衆の叛乱はきわめて好ましい一面をもっている。そしてそれは現代の生活が経験してきた発展と同義語だ。だがその裏面は人類の道徳的墮落を示している。我々はこの道徳的墮落を新たな観点のもとに観察しようと思う。
 

新たな歴史的時代の本質または形態は形式的で機械的な内的変化ーー人間およびその精神の変化ーーと外的変化の所産である。この後者の変化のなかで最も重要なものは、明らかに、精神的変化を引き起こす「権力」の変化である。
 
ゆえに一つの時代を理解せんとするならば、我々はまず第一に、その世界を支配する者は何人かを問題としなければならない。世界は相互と関連のない各々の地方に分裂していた、たとえばミルティアデス(アテネの勇将)の時代には地中海沿岸の人々は極東の存在を知らなかったように。かかる場合においては、我々は、世界を支配する者は何人かの問題を、各々の社会集団に向かって新たに提出しなければならない。だが十七世紀以来、人類は統一の過程を経過してきた。その時代以来、世界を支配する者は、実際において、決定的な勢力を全地球上におよぼしているのである。この役割は三世紀間ヨーロッパ民族に帰していた。すなわちヨーロッパが命令し、そして世界はその支配の下に統一的な、またはすくなくとも著しく統一化された生活をしてきたのである。
 
この生活態度は、通例、「近代的」といわれている。というのは実は「ヨーロッパ覇権の時代」ということなのだ。
 
一言付け加えるが、世界を支配する力というものは結局外的な武力などではなく、精神力ーー世論さらに言い換えれば民衆の力である。このことを承知の上で、この問題を検討しよう。
 
精神的に相近似している民族の集団としてのヨーロッパは、数世紀間世界を支配してきた。中世紀には何人も世界を支配していなかった。ゆえにそれは混沌狀態であったことを意味する。中世紀以前には、ちょうど近代におけるように、限られた世界とはいえ、世界を支配した時代があった。それはローマである。ローマは地中海沿岸およびその国境地方に秩序を制定したのである。
 
大戦後、ヨーロッパはもはや世界を支配せずとの噂が立てられている。我々はこの主張を認めるのか? それとも何人が支配するのか?
 

今日ヨーロッパには何が起こりつつあるか。近ごろヨーロッパの没落を説く者が多い。〔オスヴァルト・〕シュペングラーの名は最も多くの人々に記憶されている。最近現われたヴァルドー・フランクの「アメリカの再発見」もまたヨーロッパは死に瀕しているこの過程に基づいている。だがフランクは本質的基礎として彼の論証に役立つ事実を問題として解剖していない。したがって彼はヨーロッパの没落を信じていないのだと疑われるのである。
 
私は今日世界を支配している新たな人間の型に前に一言触れたが、それは民衆であり、その主たる特徴は民衆は通例慣習に基づく權利を宣言して、彼に優越する裁判所を認めることを拒絶するという点である。この生活態度が一国民を支配しているときには、それが民族全体のなかにも現われることは、当然である。ゆえに歴史を創造した選ばれた種族に対して反抗する「民衆」が存在するのである。もしもこの選ばれた小国家が世界の片隅からヨーロッパを誹謗して、その世界史からの没落を先触れするならば、まったく笑うべきことである。
 
ではいま何が起こりつつあるのか? ヨーロッパは数世紀にわたる力と生産力とによって基準となってきた。この規準は絶対的のものではないが、ほかのこれに代わるべきもののない限り、明らかに拘束的なものである。それを克服せんとするならば、新たなものを創り出さなければならない。いまや民衆は、ヨーロッパ文明と同様な、かの基準の組織〔裁判所〕まで死滅せりと宣言しているのである。しかし彼らはほかの代わるべきものを創り出すことができない、そこで彼らは時代を経過されるために、悪戯を思いついたのである。
 
世界に新たな支配者が現われるとき、落伍者は何の生活綱領もなく存在するだろう。
 

あるジプシーが懺悔しようとしたら、謹直な牧師は神の十戒を知っているか否かを、彼に尋ねた。ジプシーはこれに答えた、「先生、私はそれを学ばうと思います、だがそれを廃止しようと噂しているのを聞いたことがあります」と。
 
これが世界の現状ではないか。ヨーロッパ的十戒はもはや行われないという噂が立っている、ゆえに人類ーー個人と民族ーーは、十戒なしに生きるために、この機会を利用しようとするのである。新たな命題が古いのを排除したとか、新たな熱が古い冷却した霊感を克服したとかは問題ではない。そんなことは当然なことだ。否、かかる場合には古いものは、それ自身が年数が経ったら古いのではなく、ほかの原理が存在するがゆえに古いのである。そしてこの原理は、新たなものであるという理由から、一撃をもって既存のものを古いものとしてしまうのである。
 
今日ヨーロッパに起こりつつあるものは、きわめて不健全であり、特殊的である。ヨーロッパ的十戒は、ほかのものが水平線上に現われないのに、その効力を失っている。ヨーロッパは支配することを止めたと人はいうが、何人がその代わりに現われたかがハッキリしない。ヨーロッパという場合には、我々は主としてフランス、イギリス、ドイツの三者を指す。この三国が占める地球上の領域には、今日の世界を形成した人種が住んでいる。この三民族が没落して、その拘束力を失うとき、世界が道徳的に拘束を失うということは、不思議ではない。
 
それで結局、世界を支配するものは何人か。民衆は古い文化の上に新たな文化を発展させていく。民族思想と民族感情とはある意味において最も顕著な発見である。そこに来たるべき将来のドラマの型式がある。