PAINTING

ガシェとミュレールへの手紙[8通]

アルマン・ギヨマン

式場隆三郎訳

Published in 1873 - 1892|Archived in February 15th, 2024

Image: Armand Guillaumin, “Confluent de la Seine et de la Marne à Ivry”, 1889.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ルイス・ガシェが編んだ『印象派画家の手紙』から、アルマン・ギヨマンがポール・ガシェおよびウジェーヌ・ミュレールに宛てた8通の手紙を、訳注も含めて収録したものである。医師だったガシェは、手紙のなかでしばしば「ドクトル」と呼ばれている。
ARCHIVE編集部による(とくに人名に関する)補足は〔 〕内に入れた。
旧字・旧仮名遣い・地名や人名、年号、一部漢字・表現は、最小限度の範囲で現代的な表記に改め、一部漢字にルビを振り、誤字を直した(画飯→画飯)。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:アルマン・ギヨマン(1841 - 1927)訳者:式場隆三郎
題名:ガシェとミュレールへの手紙[8通]原題:「ギョーマンの手紙」
初出:1873 - 1892年
出典:『印象派画家の手紙』(耕進社。1935年。23-46ページ)

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1873年9月6日

親愛なる友よ(1)
 
手紙の返事が大変おくれてしまったが、君に逢いにオーヴェルへゆこうか当地(2)で訪ねようかと思った。先週の水曜君に逢えるかも知れないと思って、出かけたがしばらく君が来ないことを知った。しかしガシェ夫人の容態が悪くなったのでなければよいが、君は苦しみ疲れていることであろう。君は苦しみよりほかのことができたかどうか、あえて尋ねるわけではないが、リシャール・レスクリード氏(3)は君のエッチング誌が今月出るといっていたが、その広告が見えない、もう仕上げたのかね、それなら一枚絵を送ってくれたまえ、その代わり私が描いた君の肖像画をあげよう。
 
私は相変わらずオーヴェルに行きたいのだが、いつも故障が起こる、それでも9月の末までには君を訪ねるつもりだ。
 
版を刷るのにごく丁寧で、よく働く子供をみつけた、ついでに推薦しておく( レゲー 、、、 グランド 、、、、 グレー 、、、 グレー通1号)
 
他になにをいったものかしらーーマルタン(4)が訪ねてきた、私の新しい習作が大変気に入ったらしかった、お得意たちが帰ってきたら私のことを忘れないと約束してくれた。しかし君の意見や〔カミーユ・〕ピサロとポール(5)の意見がききたいものだ。
 
君がパリに来るまで大通り(6)へせいぜいお訪ねを乞う、 画版 、、 を一緒にやろう、目下私はいつも在宅、我々は君を待っている、少なくとも あて 、、 にしている、でももう一度なによりも気がかりなこと即ち奥さん(7)の健康のことに戻る、もしご来遊が遅れるようならちょっとお便りを乞う、そうならまたご病人にお見舞いをいう機会をつくっていただきたい。
 
さよなら

ギヨマン

 
(1)ドクトル・〔ポール・〕ガシェ
(2)ガシェはパリで診療に従事し、ギヨマンは当時パリ・アンジュー河畔にアトリエを持っていた。
(3)文学者、新聞記者、ヴィクトル・ユーゴーの秘書、出版者、種々な刊行物のなかマネの挿画入りの詩集「鴉」、「流れ」等がある。「銅版画パリ」という雑誌を発行し、ドクトル・ガシェ、ギヨマンはじめ多くの版画家が寄稿した。
(4)マルタン老。画商、小店ながら「新画派」の作品を買う珍しい商人の一人。
(5)セザンヌ。ギヨマンは当時ピサロやセザンヌと親交があった、彼らはしばしば明朗な画派における諸種の試みについて協議した。
(6)ギヨマンはその母の許にいた、セザンヌとガシェはしばしばそこで食事をした。
(7)ガシェ夫人はその息子の出産後病気だった。

1867年8月12日 パリにて

親愛なるドクトル
 
ずいぶん長いこと返事もあげずにいて大変恐縮している。しかも今日のこの手紙が大切なものときているのでなおさらのことだ、しかし〔ウジェーヌ・〕ミュレールが君に感謝し、我々が日曜にお受けできなかった理由を説明したはずなので、君に書くのを延ばし、それ以来おまけに経済的不能に陥ってしまったのだ。
 
強欲な昔の債権者と折り合がつかない私の月給に 差し押さえ 、、、、、 (1)をした、その不快さはお察しを願いたい、しかもこの金貸しを満足させるのに要する金額を調達するのに50フラン足りない、貸してもらえないかしら。
 
私は別にあてにはしていない、君が最近訪ねて来たとき君自身もずいぶん困っていたのを覚えているから。
 
その金子は必ず今年の末までに二三回に分けてお返しする。
 
君にお願いすることを許してくれたまえ、いままで君は私に大変親切だったのでこの急場に いきなり 、、、、 救助を乞う次第なのだ。
 
とにかくこのことは内密にしておいてくれたまえ、君の返事がどうであろうとも私の気持ちは変わらない。

君の忠実なる友
ギヨマン

お返事はどうかアンジュー河畔へたのむ。
 
(1)ギヨマンはパリで 監督官 アンスペクトール という小役人をしていた。この手紙はほとんどすべての印象派画家の手紙のごとく、いかに彼やその友人たちが当時窮乏していたかを示している。
 

1876年9月2日 土曜日

親愛なるドクトル
 
例の(1)君のご厚意によって私を脅かした嵐は追い払われた。
 
おかげでここに君の懇切なお手紙にこたえ、感謝することができたわけだ。
 
私がオーヴェルへ君に逢いにゆくかどうかとお尋ねだが、必ずゆく、もっともいつのことやら分からん話だが! 近頃そうしたいと思っていたが、とても行けそうにない、ドクトルよ、ご存知のごとくミュレールのことでここしばらくは落ちつけない。
 
どんな気持ちでいるのか全然分からない。マリー嬢(2)の祝日以来連中に逢っていないのだ、我々もこれに関係している以上秘密厳守を乞うて、二つの打ち明け話を君に告げよう。なんとか始末をつけねばならないこんな災難が起こると、かつてそのときどきに私を助けてくれた友のことをつづけざまに考えたものだ。
 
いままで私はいつも彼の申し出を拒んでいたが、事情が切迫していたので彼の助けを求められると信じていた、その結果は彼に門前払いを喰らわされてしまった、とにかく私は彼の難儀を知っているので、その日にできなくても三日もすれば彼にとってそんなことくらいはわけもないと思うのだ、たとえ彼に頼んだ金の全額を貸すことができなくても、そのなかの幾分かでも前貸ができたろうに。結局これで私の本当の友人たちが分明したのだから、ここしばらく彼のところところへは行くまい、だが本当にジャニュス(3)を一層愛さなくなるわけだ。
 
打ち明け話のもう一つの事柄は、ただ私の気持ちが平静だということである、私は令嬢を愉しい眼で見、どうやら恋に陥っていないとはいえないことをいまや気がついた、あまり私を笑ってはいけない、最も完全な独身を守り、そのうえ全身を仕事に打ち込もうと覚悟し、他のことには手を出そうとも思わないのだから、すこしづつ退却したほうがよさそうだ。ご賛成のことと思う、これは絶対に秘密に願う。
 
それでいささか閉口しながら、できるだけ働いている。そして当分は働けば働くほど収入はすくなくなる。こんな状態は実に有害だ、一枚の画布を描き始めようとする場合に、しばしば費用のことを考えてそのまま何もしないでいることがある。
 
自分のことはこれだけ、セザンヌは三四日前から帰ってきている。彼に対する君の希望を伝えた、彼は君に逢いに行くだろう、多分我々は一緒にゆくことになろう。それから君は仕事をしているか、もう君は決めたのだ、君を待ち侘びている絵具(4)を使いにきてはいかが。私は相変わらずW嬢に対する仕事がある、風景のある彼女の絵を一枚描くことを約束したが、いやはや!! この冬彼女の肖像を描かねばならない、というのはなにしろ可愛らしい人なのだから。これで君にいうべきことはみんないったと思う、一晩我々と食事をしにきたまえ、君は我々一同を楽しませることだろう。この月曜からは4週間のうち、月水金に在宅。
 
ここへ明後日の月曜に来るなら、セザンヌ老(5)が、私の母に逢いに6時に来るといっていたので一緒に食事をすることになるだろう。
 
できるだけ早くおいであれ。もう一度感謝しつつ。

ギヨマン

 
(1)ドクトル・ガシェは前の手紙で請求された50フランを貸し与えた。
(2)ミュレールの妹。
(3)二つの顔をもつ神話の神、ここでは言うことと行うことの違う人物を風刺していう。
(4)ギヨマンはそのアトリエで絵を描きにくるはずの、ドクトル・ガシェのために彼の商人のところで絵具を買ったのである。
(5)老人のごとく見えるので、「セザンヌ老」という、親しみをこめた意である。

1877年2月27日 パリにて

親愛なるドクトル
 
お手紙は私に後悔の念を抱かせた、以前から君に逢ってお話ししようと思い、またせねばならぬところだったが、お礼をいって直接 恩借 おんしゃく をお返しすることのできる恵まれた機会をいまかいまかと待っていたが、あいにく最近お目にかかったときから天気がひどく鬱陶しくなってしまったのは残念だ。
 
しかし私に対してあまりご立腹でないように念じ、もしパリへおいでになったらご一緒にすごしたく思っている。私についてなにかよい便りをとのご注文だが、何もない、しかも遺憾ながら他の友人についても、同様かあるいは大体似たものだ。
 
我々一同はわれらの次の展覧会(1)を期待している。
 
噂によればそれは相当面白そうに思われる、お望みのように確かな情報をお知らせしたかった、とうとう今日まで待ったがついに大したことも分かっていない。
 
展覧会は4月1日に開かれるはずだ、その場所と推測されているのは旧オペラの地所で、そのためにわざわざ建てたバラックのなかだという、いまはっきりとお伝えできるのはわずかにこれくらいにすぎない。こんなことは大したことではない、相当の額にのぼる経費は多分(従前通り)仲間の金主(2)二三人が出すのだろう。彼らがその観覧料から回収することになろう、欠損すればいまだ決定はしていないが、ある条件のもとに出品者が埋め合わせをするのだろうと思う。
 
これ以上なにもいえない、がサン・ジョルジュ通り35号のルノアールに訪ねたら色々な情報がきけると思う、展覧会の準備はそこでやっているのだから。セザンヌはいつも彼の家で非常に勉強している、彼がよろしくといっていた、私は君の手紙を受け取ったときには、彼もそこにいたのである。できるだけ早く来てほしい、どうも友人があまり散らばりすぎる!
 
相変わらずWにはいろんな仕事がある、この女にどうしてやったらよいものか、女がつづけて来るように手紙を書こうかと思ったが、もう居所が分からない。
 
ご存知のようにユニオン協会(3)の展覧会がグランド・ホテルで開催されている、ピサロとセザンヌと私はそこへ出品せねばならなかったのだが、結局我々は辞退してしまった。今後はそのことを話すことにしよう。

ギヨマン

 
(1)いずれも極めて窮乏していた印象派画家たちは、絵を売らんがためにパリのベルチェ通りで展覧会〔いわゆる「第三回印象派展」〕を開かんとしていた、それは4月に開催された。
(2)ピサロおよびとくに資産のある〔ギュスターヴ・〕カイユボット。
(3)画家、彫刻家、石版師、陶工等の無名団体。1875年8月パリに設立さる。ピサロおよびセザンヌがその発起人中に加わっていた。

1877年3月25日

親愛なるドクトル
 
とりいそぎ一筆。展覧会は4月5日、担保として各自の割り当て額は350フラン。事務所はルノアール宅。彼はカイユボットと共に司会者である。
 
いつおいでにや?
 
例のごとくその前にお知らせを乞う。

ギヨマン

〔日付不明〕

フランスなる(1)サン・ルイ島にて
 
親愛なるドクトルと友よ
 
君に約束した負債についてしばらく解決をつけられるようになった、今日まで引きつづき一度に返済できるような もっけ 、、、 の幸いに出逢いはせぬかと思っていたが、そんな僥倖はどうしてなかなかやってきそうもない、あまり摂理に頼りすぎた感がある。
 
だから許してもらえるならまとめてくだすったのを分割でお返ししよう、皮切りに15フランを同封して送る、これ以上はできないというお詫びと一緒に納めていただきたい。この貧弱な落着が幸いにお気に召したら、全部一遍に支払うよりはかえって早く返済できよう、これもまた私が君になすべき心尽くしの一つである。
 
やがてパリで君に逢えるだろう、私にそれを知らせてくれたまえ、そして大通りか河岸のここか(2)で逢うことにしよう、もし三四日前に来られれば、私の習作をお見せする、またここへ来るいとま がなければ私が君のところへ行く、どちらでも都合のいいようにしてくれたまえ。

ギヨマン

 
(1)ギヨマンのアトリエのあったアンジュー河畔は、パリ・サン・ルイ島のセーヌ河畔にあって、ギヨマンが「フランスなる」と書いたのは冗談にいったものである。
(2)彼の母の家(ブールヴァル)かあるいは彼のアトリエを指す。

1891年10月7日 水曜日

親愛なるミュレール
 
毎日君に逢いに行きたい(1)と思いながら今日まで待ってみたが、私は風景画をたくさん片づけねばならなかったし、また片づけねばならない、私は好晴を利用としたいと思っている、それから帰ってみると 町に 、、 (2)色々用事があった。第三にアトリエを探している、以上が君に逢いにゆく妨げとなっている。
 
され私はいつ出かけようか?
 
私は十五六枚絵を持ち帰った、水曜日の二時から三時にかけて来てくれれば在宅する。
 
他の日は留守 、、、、、、
 
君はいつアルジェリアにたつのか?
 
またしても 近来 きんらい は思う存分絵を描いている。
 
私の計画にすこしでも変更があれば、お知らせする。
 
マリー嬢によろしく。

ギヨマン

 
(1)ギヨマンはミュレールを「お前」とよんでいた、それは二人ともムーラン(アリエ県)の出身だからである、ギヨマンはパリで生まれたがムーランで育てられ、ミュレールと学友であった。
(2)ギヨマンが生活のために監督官の小役をつとめたパリの都を指す、彼はルクサンブール誓うのセルヴァンドーニ通り20号のアトリエを明け渡さねばならなかった。

1892年10月22日

親愛なるミュレール
 
ボルチェ(1)と私は次の木曜、君に食事に来るように伝えにゆきたい、そして君の収集品を非常に見たがっているあるアマチュアとが午後に落ち合うはずだ。
 
こうした連中が気に入らぬならご一報を乞う。
 
今年はずいぶん仕事をした、私の絵の大部分は目下モンマルトル大通りのグーピル商会(2)にある。
 
君の健康を祈り、マリー嬢に対しても同様お逢いする楽しみを待ちつつ握手する。

ギヨマン
セルヴァンドーニ通り25号

 
(1)パリの画商
(2)テオドル・ファン・ゴッホ(画家フィンセントの弟)が支配人となり、彼の友ピサロ、ギヨマンその他多数の印象派の作品の展覧会をしばしば開いた画廊。