PAINTING

若き日の手紙[9通]

カミーユ・コロー

福田久道訳

Published in 1821 - 1840|Archived in February 9th, 2024

Image: Jean-Baptiste Camille Corot, “Reminiscence of the Beach of Naples”, 1870-72.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、『コローの手紙と手記』(福田久道訳)内に収録されている、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの手紙と手記を精選して収録する連続プロジェクトの第一回である。原著は、ハンス・グラーベルが編著したコローの書簡集のようだ(訳者の序文〈1ページ〉参照)。
今回は、パリにいたコローが親友に手紙を認めた1821年8月21日から、イタリア滞在中の1840年の期間のうち、事務的な連絡を超えた内容をもつ9通を、訳注も含めて収録した。
エピグラフは、底本の訳者序文(本文Ⅰページ)から採った。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れ、CONTENTS内に関連情報を補足した。
旧字・旧仮名遣い・地名を含む固有名詞は現代的な表記に改め、一部の文語的な表現への最小限の修正を行い、一部漢字にルビや用語統一を施し、誤字・脱字・脱落は改め、手紙の日付の漢数字を英数字にして「年月日」を足した。
底本の行頭の字下げは、上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796 - 1875)訳者:福田久道
題名:若き日の手紙[7通]原題:「初期の手紙」「伊太利からの手紙」
初出:1928年
出典:『美術文献叢書第1篇 コローの手紙と手記』(木星社。1928年。4-5、12-16、16-22、28-32、33-38、41-43、46-52、52-55、56-58ページ)

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1870年代のはじめに、なかば失明しつつあるドーミエが、その小さな住家を、家賃の滞納から奪われようとしているとき、この老いたる友のために、その家を買ってやったコロー、それから「自然は一つの永久の美だ」と言ったコローは、いかにもコローらしくはないだろうか。

福田久道

1821年8月21日〔パリ〕

我が友よ〔コローの親友のアーベル・オスマン〕
 
早く帰ってきてください。でなければ手紙をください。あなたがもう二ヶ月以上ものあいだパリを留守にしたということと、これほどしばしばあなたのことを思う個人のことを、あなたは決して思わなかったということは、決して誰も信ずることはできないでしょう。僕はいつも待っていました。本当に、こないだも僕は毎日、あなたが着くだろうと思ったのでした。それがあなたに僕の非難を知らせることを延ばしていたための理由でもあるのです。多分あなたは、遠慮のない一匹の小僧として、通信のような 些事 さじ には、僕がなんらの価値も置いていないものと思ったのでしょう。しかし僕は反対に、それに非常な価値を置いています。なぜかというと、あなたとこの交際は、僕にはただ利益になりえるばかりですから。この無遠慮な言い方を遮ってくださるな。この粗野なエールの下に、しばしばあなたは、友情の最も快い感情に親しみやすい心を見出すでしょう。もしあなたがそういう風にもう一度不在になっても、きっとあなたは僕を等閑にしないだろうと思います。そしてそのときには僕はきっと、自分の非常に有利な関係に対して幸福を望みえるだろうと思います。
 
あなたはここで家にいてもなんら愉快な気分を見出さないでしょう。しかしあなたはすくなくとも、あなた自身がひどく 身狭 むさ に拘束されねばならなかった家庭というものの苦痛に多少の緩和をもたらすことはできるでしょう。あなたは帰ってこられても、もう再び彼女ーー僕の哀れな妹(1)を見分けることはできないでしょう。彼女の状態は非常に悪いのです。我々は日ごとに彼女のいなくなるのを見ています。彼女の可愛い娘(2)は死にました。だん をしていれば彼女はまったくこの大きな不幸に気付かないので、なにか彼女と話をしていてやりたいのだけれど、それもいまは止められていることを、あなたは想像できるでしょう。ーーこのようなお喋りがあなたを疲らせはしないことを信じるくらいには、僕は十分に高くあなたを評価しています。ーー許してください。
 
バシイ〔フランス西北部の村〕のオスマン氏(3)はついさきごろ田舎から来ておいでですが(4)、一種の非難の意味で、僕の母にこう言われましたーー「私達はアーベルが旅立ってからというものカミーユ君に会ったことがありません」と。たしかに僕が間違っている。けれど、僕は自分の 桎梏 しっこく の上に 一瞥 いちべつ を投げられるのです。だから誰でも僕のことを弁解してくれるでしょう。本当に僕は滅多に自由な時はない身なのですから……
 
僕はいつでも風景を描くことをもって満足しています。けれど、僕の描くことのできないものは、再びあなたに会いたい、そして旅行の話をあなたがしてくれるのを聞きたいという欲求です。
 
二伸、非常に耳新しいこと。相互に共通すること。アンリエットさん(5)、彼女の姉妹両王とも、それからアマーブルさん(6)も月末に立ち退く。新顔、それがちょっと注目をひく。
 
御機嫌よう! 実際僕の舌は切らねばならなかった。いや、このペンが折られるべきだ。


(1)カミーユの妹のイクトワール・アンヌのこと。彼女は1821年9月8日、たった24歳で死んだ。
(2)この子は8月15日に、生後16ヶ月で死んだ。
(3)アーベルの叔父。
(4)これはおそらくヴィル・ダヴレーのコロー家の別荘のことであろう。
(5)マダム・コロー(カミーユの母)の家の女手芸者たち。
(6)(5)におなじ。

1825年12月2日(ローマ)

我が友よ
 
君を置き去りにしてきた野蛮人は、まず君にこういうことを告げたい、彼は無事にローマへ着いたということ、彼はいつもアーベルのことを思っているということ、この苦痛な隔たりを有効に仕事へ転換しようと決心したこと、それから喜びに満ちた心で、一日も早く良き親類の者たちや、良き友人の ふところ 、、、、 に帰りたいということを。
 
ローマの気候についてはお話することができません。僕がここへ来てからというものは絶えず雨ばかり降っています。けれどそれは僕を悩ましはしません。それは覚悟の前でしたから。これまで僕は、書道について言えば、自分は製作するためにはあらゆる必要な材料を見つけることができるということを信じています。君は僕のほほ笑んでいるのがお分かりでしょう。そうです。僕はほほ笑んでいます。僕はパリへ帰って、友人たちに会い、彼らにその楽しみにしているスタディーを見せることのできるのは二重の満足だから。
 
いたるところで僕はパリ育ちでないバリジャンヌ(1)を探しますが一人もお目にかかりません。のみならず、それらしい者にも出会いません。すみませんが、彼女たちがバック街〔パリの7区にある通り〕にいないーーというのも僕はそう想像しているからなのですがーーかどうか教えてくださいませんか。もし 僥倖 ぎょうこう にして夕方などに彼女たちを見つけたら、どうか勇敢になって、本当に力いっぱい彼女たちを抱擁してやってください。けれどもしそのうち二人以上抱擁すれば、君は 遊蕩児 ゆうとうじ ですよ。僕の言うことは分かりましたね。
 
僕は君に、ボローニャ〔イタリア北部の都市〕滞在の話をするのを忘れました。おあ、アーベル、決してボローニャなんかへ旅行するものではありません。この都市にはあまりに誘惑的なジレンネ(2)が住んでいます。僕はほほ笑んでいます。僕はわずらわしい、わけても暑い旅行のあとに、清涼剤として僕らーーと僕は言いますーーに与えられたボローニャ人のオペラの最も誘惑的なプリマドンナに、僕は誘惑させられました。この旅行は僕らが「操り人形」で会ったあるフランス人によって、その機会を与えられたのです。それは僕のこの旅行に、非常に愉快な印象を残しました……フィレンツェの女にはなんら 吃驚 きっきょう するような美しさはふさわしくありません。けれど、僕らは好きな住所を供給されてローマに着きました。僕はおそらく君に、あるカロリーナ(3)の話をすることができたでしょうが、しかしいまは沈黙を守ります。彼女の話をしないのには、十分な理由があるのです。というのも、僕はまだ彼女を知らないからなのです。神がもし僕を生かしていてくだされば、僕はきっと君になにかその話をするつもりです。
 
もし誰かがこの手紙を読ませてくれないかと言ったらこう言ってくださいーー乱筆だし、それに僕の手前ちょっと見せることはできないって。
 
僕のこのお喋りが君を退屈させるようだったら、僕はがっかりします。なぜって、君とお喋りするここは、僕を限りなく満足させるのだから。
 
どうか、オスマン夫妻にくれぐれもよろしく。それから君の叔父さんのアンドレに、僕は イルギール 、、、、、 (4)をほうりなげはしないということを言ってください。
 
君の、気の狂った友。たしかにその男の頭は狂っている。なぜといって、彼は君たちを見捨ててきたのだもの。
 
ではーー彼は君に全心から握手をしています。

カミーユ・コロー

 
このごろ、僕は父に手紙を書いているが、その手紙が元日ごろに着くだろうということは考えていません。そして僕は父にも家族全体にも新年おめでとうを言うのを忘れています。そのくせ僕はさっき君に抱擁してやってくれと頼んだ婦人たちは忘れていないのですが。
 
(1)コローの母のところにいる女たちのこと。
(2)神話による海女神、美音にて人を誘惑すという女頭身の怪物。
(3)多分コローの母のところにきている女達の一人の名であろう。
(4)(1)におなじ。

1826年3月(ローマ)

親密なる友(1)よ。

 

僕はいま君に、君のお手紙は僕を非常に満足させたということが言いたい。僕らの、手紙での話は、いつも僕をパリへ押し戻し、そしてそこのほとんどすべての悦楽を再び与えてくれるのです。こうして僕を自分の良き友人たちから 離間 りかん しておくことができるためには、すでに僕は熱心に仕事にかかるまったき大きな必要を真剣に感じなければならない。僕にはもうあの美しいゆうべ はない。僕らはもうバック街〔パリの7区にある通り〕での四人ずつの秘かな会合を自分たちにさせることはできない。しかも君は疑いもなく相変わらず行っている。僕は君にお願ひする、その夕、ときどき彼女たちにこう言ってくれるようにーー

 

「今夜カミーユが来られないのは慰めがたいことだ。けれどたしかに、彼と離れているのは満足ではない。なぜって、彼はただ僕らと一緒においてのみこういう満足を見出すのだから」と。それを君は、僕流にやや粗野な言い方で言ってくれることと思います。

 

君はローマの天候については分からないでしょう。ところで、もう一ヶ月このかた、僕は毎朝僕の室の壁に燃えつきそうに射す太陽の輝きで目を覚まされています。手短に言えば、天候はいつも美しいのです。しかしそのためにまたこの太陽は、僕を絶望させるような光をも放射するのです。僕は自分のパレットのまったき無力を感じるのです。自分の目前のこの輝かしい自然と並べると、それほどにも貧弱で、それほどにも哀れに見えるので非常に苦しんでいる君の哀れな友を、どうか慰めてください。本当に、なにもかもみんな失くなってしまえばいいと思うような日がある。しかし僕は自分が画道の生む不機嫌と心配とについて君にお話しようとしているのを知っているのです。では、その話はやめて、僕はもっと気楽な事柄について君と話したいと思いますーーアレキシーナさんについては、たとえば、僕は狂喜しているということ、彼女は僕に彼女の気に入るような機会をつくってくれるということを、君は彼女に言ってくれるでしょう。僕は法皇によって神聖にされた小さな数珠を彼女のために探すでしょう。それをじきにパリへ帰るダルマーニュ君に頼むつもりです。この数珠は僕の父に渡され、そして君の名前がついている小さな小包のなかにしまわれるでしょう。ところで、これがどういう意味かお分かりですね。僕は君の親切を頼りにしているのです。僕はこういう心配を他の人々にすべくありたいものだと思っています。が、たしかに彼女はなにも依頼しはしませんでした。ただ僕は与えられた依頼にしたがうべく強いられているだけです。僕が君にお願いしたことの履行に対して払われた君の熱心に対して、僕は非常に感謝します。そして君の誠心誠意に対して君に酬いんがために、僕は君に、あらためてはじめることをお願いしたいのです。しかもちょうど、すでに君がやられたように。けれどそのときには感情の色をぼかしてくれるように。僕の親しい挨拶に対して、その感謝を僕に伝達することを君に頼んだ人がとくに二人いると、君は言ってよこしたが、そうである以上、彼女たちはまた僕を気の毒に思いもするにちがいない。いまはなき幸福の思い出というものは哀情をともなうものだから。君は僕がこう言うのを許してくれるでしょうねーーあれはまったく似てないように僕には見える。しかし僕のしばしばの訪問、僕が慣れているあのころの僕の満足気な顔付きとは何を語っていなければならなかったかということをいま君に言うのは必要なことだということを。

 

要するに、アーベル、僕はこのイタリア滞在中にきっと沢山に仕事をするということを誓います。なにか持って帰らずに、長い間外国にいたということを赤面するようなことがあってはならないように。きっと僕は今度帰るときには幸福でしょう。僕は自分がきっと感じるであろう狂喜を予感しています。それは僕に新しい力を与えてくれます。きっと僕は、フランスに帰れば、おそらくこの美しい国イタリアを 追惜 ついせき するでしょう。しかし、僕はそのときには自分のアトリエにすくなくとも幾枚かのスケッチを持っているでしょう。さらにあの平野で 逍遥 しょうよう することを許される幾枚かの写生を持っているでしょう。

 

僕の健康を祝して取り上げられる乾杯のためのに、その一人として心を分かってくれる君に対して、僕は非常に感謝します。

 

君たちはパリでたくさんの舞踏会に行くでしょう。が、僕だけには決してそういう機会はありません。運命は僕を恵んでいると言えば言えるでしょうが、僕はローマで誰一人も知りません。僕はまったくの一人ぼっちです。まったく謝肉祭のとき仮装舞踏会に行って、僕はローマの婦人が分かるようになりました。僕は本当に面白く思いました。こういう風な展覧会は、僕にはまったく未知なものでしたから、一般にローマの謝肉祭は最も愉快なものの一つと思われています。そのときには誰でも本当の乱痴気騒ぎをやりますから。この話ならマダム・スニョン(2)ができます。僕は彼女にいろいろその細かいことを知らせてやりましたから。彼女を訪ねたら、彼女に言ってください。「マダム・スニョン、カミーユの依頼ですが、どうかローマの謝肉祭について、何か話してくれませんか」と。

 

僕は、毎年君が元日に受けたたくさんの礼訪に対してやりはじめた君の答礼に御挨拶します。礼訪とボンボンについては、味がぬけないように火を通してたくさんに入れておいた小さな袋を、彼女にやってくだすったら、僕は非常に喜びです。フォルト君(3)に、僕からって力いっぱい握手してやってください。彼の親切な挨拶に対してよろしくお礼を言ってください。そしてイタリア語でなにか僕が彼の必要になれるのでしたら、僕はパリに帰っても非常に幸福だろうということを、彼に言っておいてください。しかしいままで僕は、自分の仲間のあいだではいつもフランス語で話しているので、まったくすこしも進歩していませんが、しかしこれからです。

 

さようなら。君を抱き、そして君にお願いします、僕がわずらわしたあらゆる骨折に対する 宥恕 かんじょ のために、どうか友情の、愛すべき、そして まざる使者を遣わしてくださるように。しかしその使者の熱心は僕を慰めてくれます。僕はこの使者にこう言いたいーーではまた明日と。しかし明日はまた来ますーーでは。

 

ご機嫌よう。君を愛する者

カミーユ・コロー
カフェ・グレコ(グロコにあらず)〔ローマ最古のカフェ〕
 

僕に代わって父や母を抱いてやってください。くれぐれもスニョン(4)によろしく。

 

(1)アーベルのこと。
(2)コローの姉。なおここに、姉に書いたように言っている手紙は、彼女は受け取らなかった。
(3)フォルト・デュ・ピュイペリエのこと。コローおよびオスマンの共通の友。
(4)コローの姉の夫。

1826年8月8日(パピーニョ)

 
鬱蒼 うっそう とした森の奥から、そして瀧のザーザーと落ちているところで、僕は君に、親愛なアーベル、決して君を怠慢だなんて責めはしなかったことを断言したい。母と妹が君の病気について非常によく知らせてきてくれました。君に腹を立てるどころか、僕は心から君をお気の毒に思いました。これでもその忌々しい苦痛は君を去ろうしないのでしょうか? 僕は聖なる父にそれを祈ります。それはきっともう治るにちがいありません。だってリューマチとでは二倍の悩みではありませんか。僕には君の手紙がすぐ分かりました。しかしそれでも僕は実際に、その手紙は前のような筆の確かさを示していなかったことに注意しました。僕は君の努力に非常に動かされました。
 
アーベル、君は二ヶ月も病気でいてもそのあとまた彼女たちに会っている。だのに、僕は九ヶ月も健康でいながらまだ会わずにいる。ひどく悩むのが、今度は僕の番だという気がする。彼女たちはみんな丈夫だと聞いても、それはちょっとしか僕を慰めてはくれません。実際、アレキシーナさんは満足していますか? あの数珠を送ったとき、僕は悪い選択をしたものだと、そういう非難を自分にしました。そのあと僕は、彼女がもっと気に入っただろうと思う物を見たのです。しかしそれはいまのことなのです。
 
ああそうだ、もう一度言うけれど、かくて彼女のしっかりした筆跡と、彼女の不幸な 極印 ごくいん を押した手紙とは、あの愉快な記憶をまったく目茶苦茶にしてしまったのです! もろい対象を見出すことはまったく困難だというのは本当です。それは 児戯 じぎ でした。僕はあるローマ人の 玉工 ぎょっこう のところへ行って、手紙のなかへ入れることのできるような、小さな石を見せてもらったのです。ついに彼は僕に、古代のものであることがただ一つの 御利益 ごりやく である小さなガラスの切片を見せました。それは馬鹿げて重くもない、また馬鹿げてかさばるものでもなかったので、僕はそれに決めたのです。で、それから君がそれを、手を施して渡してくれたわけなのです。どうか僕の弁解をしてくれませんか。そしてただ自分が人に忘れられたくなかったジャン・バプティストという名のある男の良き意志を言い表わしてください。しかし結局は、親密なる、Aさんは非常に僕を気に入り、さらに僕も気に入ったのです。けれどもただ僕は、生涯あくまでも執拗に追求したいところの一つの目的をもっているにすぎないのです。そしてそれは風景を描くことです。この確固たる決心は、それに僕を真剣に縛っておくことを妨げるでしょう。僕の言っているのは、言うまでもなく結婚についてです。すこしばかり冗談について言えば、もし僕がパリへ帰ってから、ときどき彼女に接吻することが許されるなら、僕のカトリックの坊さんみたいな独身生活も諦めることができるだろうということを、僕は君に断言します。僕は相変わらず彼女を愛してます、あの若い人を。しかし僕の独立的な性格に、自分がそのために非常な要求を感じているところの真面目な研究とは僕にことを冗談にとられるでしょう。ああ、要するに、僕は気がちがっているのです。僕はあそこのままの空気を呼吸し、あそこのままの樹木を見、サン・クローにおける自分だと思っています。僕は一時間以内に君たちみんなに会うことができます。けれど否、そこには、僕が君たちと四百マイル離れていることを自覚させる呪わしい一つの滝がある。きっと、僕は君たちみんなに再会するでしょう。しかし、必ず三年の愉快は失ったでしょう。人は僕に言うでしょう、若い男にとっては旅行することは善いことだ。いかにもそれは若い者を教育します。たしかに、しかし絵を描くということなしには、僕は旅行することなどは思いつかせられなかったでしょう。
 
このあいだ、僕は手紙を書きましたが、無考えにも、その手紙は八月十五日ごろでなければ着かないだろうということ、それから父の誕生日なみに母のそれのために何か封入すべきだったということまでは考えなかったのです。それゆえ、この両方の場合にはどうか僕の代わりにしてくれるように、そして同時にこの無考えのために僕のことを弁解してくれるようにお願いします。どうか、ルイの日(1)には、田舎へ気持ちのよい旅行でもするようにしてください。ヴィル・ダヴレー〔パリから西へ12km離れた緑豊かな村。コローがたびたび滞在したことで有名〕の倭林は、美しい、若い婦人たちの大入りを歓待すべくいつも用意されています。行きたまえ、行きたまえ。そしてあの太い幹のかしわ の木と、あのメランコリックな白樺の唐草模様のしたで遊びたまえ。ことに、いまでも君のあの麦わら帽があるなら、あれを被りたまえ。君はあの帽子が預言者イザヤの悪い間食の分け前で一杯にされたのを覚えているでしょう。
 
どうか僕の代わりに姉を抱いてやってくれませんか。それからあの小さい姪や甥たちをも。スニョンに心からよろしくということを忘れないでください。どうか僕のために一通りみんなによろしく言っておいてください。そしてよろしくやってください。もしフォルトに手紙を出すなら、僕からの親しい挨拶をしておいてください。オスマン夫妻、ならびにまたアンドレ君にもよろしく。それから善きアマーブルのここも僕は忘れてはいません。
 
もし君が病苦を脱し、そしてすぐに返事ができるなら、君はその忠実なる友を喜ばせることを楽しく思うことができるでしょう。

カミーユ・コロー

つぎはローマで。
 
(1)コローの父の誕生日のこと。

1826年8月23日

親愛なるアーベル
 
君からのお手紙二通落手。本当に長いあいだ僕のお返事を待たせました。僕は困った男です。しかし僕は田舎での自分の仕事が非常にわずらわしいので、手紙での談話の快い喜びに耽る決心をすることができないのです。僕は二三日ローマにいます。君が僕に知らせてくれた消息のお礼を言うために、僕はこのときを利用してすこし落ち着いた時間を得たいと思っています。
 
彼女が結婚した、典型的なアンナが。そのことはそんなに深く僕に触れはしません。なぜって僕は彼女に求婚するなんてことは決して考えなかったから。歳をとればとるほどますます、僕は夫という者になるべく定められておない人間だという確信に来たるのです。しかし僕は君に、我が善良なるアーベル、そのために僕は彼女を忘れはしないということを言っておきたい。僕は相変わらず彼女を非常に愛しています。僕が風景を描くために彼女が心を共にしてくれたのは君も知っていますね。まったく僕の元気を 泹喪 たんそう せしめないように、彼女はいまもなお僕の仲間であることを約束しています。彼女は僕に手紙をよこし(このことは君にだけしか言いません)、そして二人は共に笑い、共に相見るだろうという希望を、僕に許しているのです。君には僕が非常に満足しているのが想像できますね。だから僕はきっとよい風景を描いてみせるーーそれだけは忘れてはいません。君の書かれているところによると、彼女の結婚はかなりあの人たちを興奮させたようですね。それはまったく無理もありません。毎晩、彼女たちは幾分不快にちがいないと、僕は思っています。
 
僕はフォルトに挨拶をします。結婚は我々を事実上奴隷にすると。
 
風紀の 紊乱 びんらん ということについては、僕はそれをこう説明しましょう。我々の呪われたる画道なるものは、その点において恐るべきものです。今日では、我々は自惚れ、自分たちを優越せる天才だと思っています。が、明日になると、我々は自分たちの仕事を思って赤面し、もはや我々は何の役にも立たない。我々はそれによってあまりわずらわされてはいけない。つまり我々は馬鹿なのです。それはたしかに分かりきったことです。僕はいま、この瞬間にこの田舎から帰ります。といって、僕は自分のことで夢中になっているのではありません。願わくば、明日はより喜ばしくあらんことを。僕が帰るときには、これほど長いあいだの留守中の努力と苦労とを償うために、僕は非常な喜びと幸福とを必要とするでしょう。僕は自家にいたときはなるべく長くこっちにいられることを願っていました。それはおそらく、非常に必要であるにちがいないのです。けれど僕はそれをできるだけ短縮しようと努めます。
 
君についていえば、ヴィル・ダヴレー地方の砂の上を散歩することは非常によいことです。僕らはよく一緒にあの砂の上を歩き回ったものでした。イタリアの砂はかなり熱いのです。しかしそれだから僕は、その上を舞踏靴では歩きません。
 
君のお手紙、フリューリ(1)が僕に渡してくれました。光栄にも、僕のために君と踊ったというこの不思議な若い婦人というのは誰のことか、僕は忖度しかねます。ですが、もし君がたまたま彼女に、その邸宅の薄暗い広間で会ったら、この心やさしい紀念がどんなに僕を感動させたかを、どうか彼女によく言い表わしてください……ご機嫌よう、善き友よ。いつも僕のことを思っていてください。僕は君を愛していますから。
 
(1)レオン・フリューリはベルタンのアトリエの出身で、コローの仲間であるが(そして彼のことはすでに1826年10月29日の手紙で話されているが)、ちょうどローマに着いたのであった。

1826年10月26日(ローマ)

僕の善きアーベル

 

僕は本当に長いあいだ君に、君のお手紙のお返事を待たせました。しかし僕ら風景画家は、山にいるとまったくのやつです。僕らは終日仕事をしているので、夕方になるとまったく疲れてしまうものだから、そのほかになにかすることはとてもできないのです。僕は君にお返事することができるためにローマの滞在を待っていました。僕は二週間ばかり前にローマへ帰ったのですが、着くや否やまた出発してしまったのです。その付近ですこし滞在して勉強するために。ところがそこは、他のように不幸にも、もう一度ローマへ帰ることを僕に余儀なくさせたのでした。そこでこれ以上このお返事を延ばしたく思ったのです。

 

パリの君の事務所はおそらく塵埃が大変でしょうが、しかしイタリアでは、僕はまったく泥土ばかりを見ています。

 

君にお願いしたすべての依頼の遂行に君が尽くしてくれられた熱心に感謝します。そしてそのことが君のいわゆる愛すべき人々と顔を合わせる喜びを君に与えたことを、たまらなく嬉しく思います。僕について言えば、たしかに僕は、自分は君たちに離れていることをそれほどよく認めています。もし猛烈に勉強にかかっていなければ、僕はいつも悲しいでしょう。けれどありがたいことには、僕の帰るときでも僕らはお互いに、なお幾度かの行楽をすることができないというほど年をとっていないことです。そしたら僕は合奏団における自分の役目をも果たすために、音楽に対する自分の明晰な感覚を得るよう努力するでしょう。幸福なるアーベル、どうか彼女たちに言ってください、僕は彼女たちの愛らしい挨拶を聞いて動かされたということを。とくに折り入って君に依頼してよこしたサン・ローランにはより以上にしなければなりません。僕ほどの不幸な者が自分のことを彼女に話したとは! しかしもし君のそばにあることができれば、僕は非常に喜んでその話をするでしょう。向こうではいつも彼女たちのことを思っているのに、彼女たちのほうでしばしばそのお弟子(1)のことを思わなければ、彼女たちは二人にも非常に善くないことをするわけです。そして君が非常に言葉美しく言っているように、その返報として二人に与える より 、、 大きなものとしては、僕は外の時間(2)を与えること以上に何物をも良いことを自分に望まないでしょう。後者は左に女の隣人を持ってように思われます。その人は、君が僕によこした書き方によれば、悪い人ではありませんが。いつまでも僕がいまのように理性的でなければ、実際君は僕がローマにいる後悔を僕に起こさせることができたでしょう。僕はローマにいて、誘惑的な人々とふざけることもできるだろうから。ぜひ彼女に言ってください、彼女が本当に親しく会ってくれること、そして僕が帰らないうちはバック街のあの気持ちのよい隠れ家を去らないことを約束してくれなければ、僕は彼女の色艶の魅力ある新鮮さを失くさせてしまうように、自分の風景のなかで、彼女を必ず 赫灼 かくしゃく たる太陽のなかへ置くことによって復讐するからということを。もし彼女が僕にすこしでも希望を抱かせてくれるなら、僕は彼女を鬱蒼と繁った林の涼しい木蔭の芝生の上に気持ちよく置くでしょう。そしてそのときには、僕は彼女のそばにノルマンディーのサン・ローのある紳士を置いて、彼の退屈を追い払い、そして彼女をほほ笑ませるようにすることができます。アーベル、そのときこそ君はアーデル・アディンから作られたことを非常に満足に思いますよ。実際にこの名は、僕には非常によい前兆に思われます。

 

君はマダム・アナに、彼女の挨拶を非常に感謝することと思います。どうか彼女たちの前で彼女に、本当にはっきりとこう文字通りに言ってくださいーー僕が彼女に二度目の訪問をすることを妨げるためには重要な理由を必要とするということ、しかし、もし自分がこの予期せざる出陣から帰れば、僕は早速バック街に駆け込む決心をしているということを。

 

……僕は彼女たちがみんな畑のそばに、ある者はその前に、ほかの者はその上にという風に集まっているのを見出すことを楽しみにしています。どうか君もそこへ顔を出してください。お互いに笑う日が来るでしょう。こうした冗談を除いては、僕は実際に目のあたり自分がそうする時期に来るのが待ち切れません。

 

君はあの小さな絵を褒めていてくれますが、哀れなアーベルよ、実際僕にとっては不幸にもあれは本当に良くないのだということを信じてください。そしてなにか良いものを作ろうとするには、どのような労作や努力を要するものだかということを考えてみてください。

 

ついでに、画道についていえば、僕はもう一度君の趣好を試したいのです。もし誰かがフォーブール・サントノレ街〔パリの中心部にある由緒ある通り〕三十六番地のフリューリのところへ行けるなら、彼に頼んでやってください。今年ローマへ来る番の若い衆のだれかのところで訊いてくれるように。たとえば、その便利屋が僕の小さな絵具箱を僕に持って来てくれることができるかどうかを、その男に訊いてくれるように。その場合には、フリューリは親切にその 諾否 だくひ の返事を君に伝達してくれるでしょう。もしそれが「よろしい」となら、すみませんが、クワエ・ド・レコールのコルコ・ブルジョワのところへ行って、彼が良いアンチモンの黄色を持っているかどうか訊いてくれませんか。もし持っていなければそれでいいのです。ある知人がローマへ来る前に彼のところへそういった物を買いに行ったのでしたが、コルコ氏は良くない物ばかり持っていたので、それを断念することを余儀なくされたことがありました。だから、それが非常に良かったら、一ポンドとってください(一オンスの値段は二フランです。)なお黄色を四分の三ボンド願います。それから、すみませんが、フリューリが君に報告したアドレスに、その小包を持たせてやってくれませんか。僕は君に非常に感謝しなければなりません。そして僕は、君に君のお立て替えをお返しするように、家へ書くつもりです……

 

二人の愛すべき若い婦人のなかで、あの「白色夫人」の音楽がどんなに君を喜ばせたことでしょう。僕は君の感じたにちがいない幸福が君を、ちょうど僕もその一人であるとおなじにそういう音楽家にするだろうと思います。

 

君の進歩を期待して君を抱きます。君の友

カミーユ・コロー

 

(1)音楽上のお弟子のこと、即ち自分のこと。
(2)絵を描く時間のこと。

1828年2月2日(ローマ)

親愛なるアーベル

 

お心厚い君のお手紙受け取りました。そして君に対して僕はまさしく罪ある者だったということだけはあまりに本当です。君はこの延引を君のために弁解する必要はありません。しかしまあ聞いてください。率直にいえば、パリ人としての君の地位は、便りをよこすとか、ある者には非常に興味あるあの詰まらぬことをなにかと話してくれるとかするためには非常に恵まれているのです。君はそこで我々の親類や友人のなかにいるのだから。君はみんなのことについて、またどんなことが起きたかを僕に話してくれることができるが、ローマ人たる僕にあっては場合が反対です。すなわち僕は君と実際にただの話ができるだけです。しかも僕は君を倦怠させることを恐れねばならないのです。世間というものについて言えば、僕はこちらから出かけません。でなければ僕はすくなくとも、自分がそこで会うことのできたであろう美しい人々のことを君に話すことができたでしょう。そこへいくと、べールはその反対に、まったく僕のようにベール ではなく、いたるところへ出かけていきます。彼はすべての公使に紹介されていて、夜にも舞踏会にも必ず出ます。けれど僕は、君が彼のために僕に頼んでよこしたことを彼に果たすその機会を見つけました。彼は君に感謝しています。そして、君の挨拶を聞いて非常に感動しました、ちょうどフリューリと同じように。彼もローマでまったく僕とおなじように暮らしています。彼は朝から晩まで仕事します。それから、翌日またそういう風にきちんと仕事をはじめるために寝に就く。そしてこういう風なのがいまの生活ですーーこういう行動にあってすら、人はまったく非難を免れるというわけにはいかないものです。君が僕に言うところから推すと、僕の行状は最善でないと母が恐れているように思われるのです。それはいま、僕の消化することのできないなにものかです。言い換えれば、僕は決して放蕩者の素質なんか示しもしなかったのに、人は僕の場合、金を頼みさえすればそれを悪く釈るように早くも用意しているようなものです。だからいま、僕は君に、それも君だけに、あのお金の必要の理由を言いたいと思うのです。僕らはフリューリと、田舎で勉強しなければならなかったのです。フリューリは一文無しだったので、壮麗な景色を見る可能性を奪われていたのです。僕は、この障害を取り除くためには、自分がパリにその資金をもっていることを知っていたのです。そこで僕は、父を支払い者と指定して為替を振り出すことに決心したのです。そのとき僕は父に、僕のもっている小さな資本から支払ってくればいいからと言ってやったのです。なんで僕がいい加減なことなんか言うものですか。けれども、僕の父や母の目から見ると、僕は罰すべき人間になったのです。そしてそこに、説明すれば決して僕のために幸運でないこの問題の動機があるのです。いつになったら、ついに父や母は僕をそんな者ではなく思ってくれるのでしょう? 君に対しては、弁明しさえすれば分かることで、僕は卑劣ではないと信じていますが、けれど父にしては、僕はそれをあえてしようとはしなかったでしょう。それは僕らのあいだにだけとどめておくべきことですから、このことについてはだれにもなんとも言わないでください。本当に想像さえも浮かばせないように。なぜって人はすぐ思うでしょうから、ローマにいる自分の仲間を補助するために、僕は始終お金を頼むだろうと。しかし幸福にも彼らにとってはそんな必要はないのです。それはまったく非常な場合だったのです。フリューリもその点ではもうずっといいし、僕らはもう臨時補助を必要とはしないことと思います。

 

それでは人は、僕がすこしは進歩したということを決定的に思っているでしょうか? 僕は君に言いたい、この冬は素晴しいということ、もし僕が外戸で仕事をするためにこの冬を利用しなかったら、僕は罰せられても仕方がない者と思われるだろうということをこういう風で僕は、したがって二枚写生しました。それを僕はまずパリに送り出すでしょう。それは悪いものではないと思っています。もし僕がさらにもう一年勉強しても、君が展覧会(1)で見たあの絵におけるようにそのためにそのできあがりが弱くなるなんてことはないと思います。君のご依頼は非常に楽しみですが、しかしそれはパリでなければ果たすことができません。パリでなら、僕はもう勉強にわずらわされてはいないでしょうから。

 

君は非常に幸福だと言える、彼女たちに会うことができるのだから、と僕は相変わらず思っています。僕は自分の美しい協力者がそのありがたくない関係者を見捨ててしまうことを恐れてます。我々が観衆の前に出るその瞬間には、それは一つの不実でしょう。けれども、僕は悲しみの混った喜びをもって、君がみんなの依頼で僕に伝達してくれた挨拶を受け取ります。君からして、彼らはイタリアの芝生の上で戯れたのを得意にしていると思っているくらいですが、僕はそれがなんでもないことだったのを非常に恐れているのです。君の思いやりが君にそう思わせたのです。僕は君に千度感謝しなければなりません。君が焼いた 巴且杏 はたんきゅう の小袋を作りあげたこと、彼女たちが心厚い思い出のなかに僕を保っていてくれたことを。

 

歳をとるにしたがって、僕はますます寛大になってゆきます。毎日我々は自分で分かっていきます、同胞の欠点に対して目を閉じることを人は余儀なくされることが。それでは、それを僕が推量しなかったからといって、なぜ僕は自分の名誉のために、もはや踊ってもらってはならないのですか。それは実際あまりに敏感さを意味しています。僕と共に、人はその点がよりすくなくならねばなりません。なぜなら、人はしばしばまったく意外な侮辱を感じるからです。だから僕は、君たちは僕のために踊ってくれたのだと思いたいのです。

 

もし僕の両親に会う機会があったら、僕からの挨拶を忘れないでください。それから彼女たちみんなを僕の代わりに抱擁してやってください。君の伯父さんと伯母さんとに僕からよろしくと言ってください。フォルト、アマーブル、ルカムス、スクライブ、それからドゥエルニー氏に、どうかよろしく。

 

心から君を抱いている君の友
カミーユ・コロー

 

アデールさんが煙草の箱の形をした、小さな頭巾を、記念として僕にくれたところにあの謎の解決があるのです。僕はそれを失くさずに持っていますーーいつも抽斗に入れてあります。

 

ローマには、婦人についていえば、僕よりも冷たい人は一人もありえません……のみならず君はおそらく育ちの仲間に会う機会をもつでしょう。そのときにはそれがどういう事情だか分かります。

 

(1)コローは1826年のサロンに初めて出品した。それも”yue Prise a Narni”と”Campagne de dome” と風景二点を。

1828年3月27日(ローマ)

我が親愛なる〔テオドール・〕ドゥエルニー様

 

去年の九月から、あなたの愛すべきお手紙へのお返事を、僕は長いあいだあなたにお待たせいたしました。あなたのお手紙は非常に僕を喜ばせました。それによると、あなたは僕が進歩したと思われた由、それはただ僕を勇気づけることができるばかりです。それゆえ、僕は田舎での最後の勉強をさらに試みようと一生懸命になりたいと思っています。進歩すればするほどますます困難にぶつかると言うのはまったく本当です。画道には、僕が取り扱いたいと思っているところによれば僕には征服しがたいように思われるある領域があります。それが非常に広いので、僕が冬の初めに写生した絵を僕はやってみる気がないくらいです。

 

天気はずっとよかったので、僕は戸外に出かけてばかりいました。アトリエでは我慢ができなかったのです。

 

僕はこの九月にイタリアをあとにして、パリへ帰り、もし無事にあなた方みんなに会えればそこで熱心に仕事にかかるつもりでいます。もし親類の者や仕事の友達たちのなかで自分の絵に没頭することができれば、僕はどんなに幸福だか、あなたは知っておいでです。もしもこのままもう僕が美しい天候や美しい景色によって方向を転じられないなら、僕はまったく 肯緊 こうけい を得るでしょう。そして仕事のあとに、その疲れを休め、翌日のために自分を元気づける愉快な晩のくるのを楽しみに待つのです。十二年前に、僕はこの幸福を夢見ていました。いま、それに僕はまったく近づいているのです。運命がそれを僕からいまだ運び去らないでいてくれればいいが!

 

僕は五月にしばらくナポリで過ごすつもりでいます。そこから、今度はローマの付近に帰りたく思います。そこで改めて僕は自然の力と優美とを得るべく努力するつもりです。もしそこから、僕がより高い程度でその出来を満足するような習作を二三点持って行くことができれば、僕は非常に幸福だと思うでしょう。しかし僕はすこしでもより良い習作をするように努力します。

 

いまのところ、ローマで僕は野外の習作をします。僕はコスチュームを素描、油で描き、それから、いまだ田舎にいるあいだに二三のコンポジションをします。どんな程度にまで僕が自分の仕事によって満たされているかを、もし実際に人が知ってくれたなら、おそらく人は僕の怠慢を許してくれるでしょう。それからあなたがもし僕の作ったところのすべてを御覧になれば、あなたはたしかに僕の言うことを正しいとされ、ことにその出来が僕に容易に気に入らないことをきっと信じられます。僕の仲間の一人がちょうどサロンのことを書いた一つの小さな新聞を手に入れたところですが、それに「コロー氏、二二一ーー二二二は色彩においてよく、ピリッとしたエフェクトと、ハッキリとした印象。我々は氏に、より良く線を描くことと、その樹木のかたちをより多様に形作ることを要求する」とあります。すべてそれ相応に、僕はこのサロンの記事に関してはあまり苦情を言うところはないのです。が、ただしかしそれはどうでもよかったのです。人は一つのところに停滞していることは許されないものですから。だからもし進歩しなければ、僕は罰せられてもしかたがない人間です。

 

マダム・ドゥエルニーにくれぐれもよろしく伝えてください。僕はお母さんやお子さんが無事であることを祈ります、そのようにあなたの家族全体が無事であることを。もし父や母にお会いになったら、どうか僕の代わりに彼らを抱いてください、またスニョン夫妻をも。もしたまたま幸いにしてバック街の彼女たちにお会いでしたら、どうか彼女に言ってください、みんなは僕に大変不都合なことをしていると。僕は相変わらずおなじ善良な青年です。が、ただすこし気が変になっているばかりです。

あなたの友   
カミーユ・コロー

〔1840年4月5日(パリ)〕

なんという魅惑的な空、本当にナポリの湾はなんて壮麗でしょう! なんというカポディモンテ〔ナポリ北部〕の演劇! そしてクワイ・フォン・サンタ・ルチアの散歩、そこからカプリとイシアの島々を眺めながら……家へ帰ると、僕たちはお互いによくお喋りをします。それは僕を喜ばせます。そして僕の思い出、それが消えたり、浮んで来たりします……

 

いまあなたは、線の鋭さと大きさとではとても無比のこの都市ローマにおいでですが、ぜひビンチオ、ギャルディーノ・ファルネーゼ、カンポ・ヴァチーノへ散歩なさい。それらの相貌を研 究してください、そうしてあなたが帰られてから、この大きな鋭い自然を僕がよく再現してみるかどうかを、僕に話してくださることができるように。ローマのカラテラでティベル川の岸をモッレ橋まで散歩することをお忘れなさるな。あなたはこの美しい都市とその付近とについて的確な想像を描かれるのに、十分に時をもっておいでです。 ティヴォリオにも一度おいでにならなくてはいけません。それからモンテ・カーヴォ、アルバノ、フラスカチ、グロッタ・フェラッタ、マリーノ、それとネミにぜひおいでにならなくてはいけません。マリーノに行ったら、サラ・マルタをお尋ねなさい。そこにはいまでも一軒の旅舎がありますから。そこへいらしたら1827年に共に宿をとっていた、そしてその年に、前には二人の絵かきーーその一人はびっこでしたがーーと一緒にいた一人のフランス人からと、どうか幾重にもよろしく言ってください。僕はあなたに、ポドニエと、アカデミーの寄宿生のビュッテュラとのアドレスをあげましたが、二人をお訪ねになりましたか? すみませんが、二人に僕からよろしくと言ってください。またジャルダン(?)という青年にも。そのアドレスはカフェ・グレコで受け取られておいでのところですが、その青年は僕に非常な友情をもっていて、手紙をくれたのでした。それに僕はこのつぎ返事をしたいと考えているのですが。どうかご機嫌よく……