PAINTING

ミレーの手紙[「落穂拾い」まで]

ジャン=フランソワ・ミレー

福田久道訳

Published in 1849 - 1857|Archived in February 9th, 2024

Image: Jean-François Millet, “Gleaners”, 1857.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ジュリア・カートライト著『ミレーの芸術とその生涯』(福田久道訳)内に多数収録されている、ジャン=フランソワ・ミレーの手紙を精選して収録する連続プロジェクトの第一回である。
今回は、パリで「干草狩り」(「干し草を束ねる農夫たちの休息」や「刈入れ人たちの休息」とも)の制作が終了する1849年から、バルビゾンで「落穂拾い」(1857年)の制作が終了する1857年の期間のうち、事務的な連絡を超えた内容をもつ12通を収録した。なお、母からミレー宛の手紙を1通収録している。
エピグラフは、底本の第一章の扉(本文61ページ)から採った。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れ、CONTENTS内に関連情報を補足した。
旧字・旧仮名遣い・地名を含む固有名詞は現代的な表記に改め、一部漢字にルビや用語統一を施し、誤字・脱字は改め、おもに手紙の日付などの漢数字を英数字にした。なお、日付のない手紙については、カートライトの記述を根拠に、ARCHIVE編集部が補足した。
底本の行頭の字下げは、上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ジャン=フランソワ・ミレー(1814 - 1875)訳者:福田久道
題名:ミレーの手紙[「落穂拾い」まで]原題:『ミレーの芸術とその生涯』
初出:1902年
出典:『ミレーの芸術とその生涯』(大洋社出版部。1939年。61、139、143-144、154-155、156-159、167、168、179-180、182-183、203-204、204-205、214-216、256-258、260-261ページ)。なお、本書は『ジヤン・フランソア・ミレエ』(聚英閣。1921年)、『『ジヤン・フランソア・ミレエ』』(木星社書院。1929年)、『ミレー芸術史』(成光館書店。1933年)などと版元や書名を変えて刊行されている。底本には、そのうち最新のものを選んだ。

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芸術は慰みの遊びではない。それは戦いであり、物を噛み潰す歯車仕掛けである……自分は哲学者ではない。自分はわざわざ苦痛を取り除く気もなければ、自分をしてストイック的ならしめ、無頓着者たらむる方式を見出そうという気もない。おそらく、苦痛は芸術家をして自分自身をはっきりと表現せしむる力を与えるものであろう。

J・F・ミレー

パリ、1849年4月30日

閣下、あなたが本当にご親切にも命じてくださった絵[「干草狩り」]を書き上げました。私はできるだけの注意と良心とをもってそれを製作しました。私はそれを展覧会に送ろうと思っております。そこでそれは適当な評価をうけることと存じます。何卒とのお約束の残額1,100フランをお払いくださるようにお願いいたします。いま、非常にお金の必要に迫られておりますため、できるだけ早く手にできるよう、余儀なくお願いいたす次第です。私の深い尊敬の確証をうけてください。

J・F・ミレー
リュ・デュ・デルタ八番地

 
〔共和国政府の内務大臣・ルドリュ=ロランに送った手紙。当時まだパリにいて、すでに「 をふるう人」などでサロンの好評を得ていたミレーは、前年の二月革命後に樹立した政府の要人から、たびたび制作を依頼されていた〕

バルビゾン、1849年6月28日

我が親愛なるサンシエーー

 

大変すまないお願いだが、この封入した手紙を読んだらば、これをリュ・ディ・デルタ八番地へ届けてくれたまえ。僕の家主ーー画家サルモンのしゅうと ーーは、朝九時から九時半、でなければ晩の六時には大抵家にいると思うから。

 

〔シャルル・〕ジャックと僕は、しばらくここに足を留めることに決めた。だから、お互いに室を取った。その値段は、パリのに比較すれば非常に安い。もし必要とあらば、町に出ることもわけはない。そして田舎は素敵な美しさだから、我々はここで、静かに一層仕事をしたいと思っている。そして多分前よりもより良きものを作るだろう。実際我々は、ここでしばらく暮らすつもりだ。だから、君がこの封入した手紙を、来月の一日にならないうちに、あの家主に渡してくれて、未払いをいつかはどうにかこうにか払えるようになるとしても、今払うのは非常に困難なのだということを(あまりにも真実すぎることを)彼に了解させてくれたら非常にありがたいのだ。では、心底からたくさんの抱擁をもって、さようなら。ジャックは君に心からよろしくと、そして明日君の手紙に返事を書くと言っている。

J・F・ミレー
 

〔ミレーがバルビゾンに到着した直後、友人で支援者のアルフレッド・サンシエに送った手紙。のちに「バルビゾン派」と呼ばれる画家たちは、当時流行したコレラ禍などを理由として、このころにパリからバルビゾンに移住しつつあった。〕

〔1849年の冬〕バルビゾン 土曜日

親愛なるサンシエ、君の知らせてくれた絵の競売は何日あるか、そのちょうどよい時を知らせてくれたまえ、そうすれば僕はできた絵を持って行くから。そしてできかけのはパリで仕上げようと思う。どうしても僕は、もう二週間のうちにパリへ行かねばなるまい。この五枚だけ仕上げさえすれば僕も大分楽になるだろう。僕はその他にまだ三枚書きかけがあるが、ド・サン・ピエール氏に頼まれた「洗濯女」〔実際の完成は1855年ごろ〕はだいぶできあがった。僕は奴隷のように働いている。そのゆえか日々はまるで五分で過ぎてでも行くようだ! 冬の景色を描きたいという希望はしっかりした決心となった。それからまた羊の絵を描く計画もしているし、その外にもまだまだいろいろなものを考えてもいる。ただひと目でいいから、森がどんなに美しいかを君が見ることさえできたら! タ方仕事が終わった時など、できさえすればいつでも僕はそこへ駆け出すのだ。そして行くたびにすっかり参らされて帰って来るのだ。静けさと荘厳さの物凄いことといったら、自分が本当に恐怖しているのにたびたび気がついたほどだ。木が互いに何を話し合っているか分からないが、確かに何か話している。ただそれが人間には分からないのだ。なぜって我々は、彼らの言葉は使わないもの、というよりほかはない。けれど、きっとこれだけは確かだーー彼らは洒落なんかは言わない。

 

明日の日曜はバルビゾンのお祭りだ。ありとあらゆる窯と、ストーブと煙突と、それからすべての壺と、すべての鍋と、その急がしさといったら、ガマシュ〔フランス北部の一地域〕の婚礼の前夜じゃないかと思うほどだ。どんな古い鉄まぐわ でも使われないものとてはない。あれほど達者でいたのに、その七面鳥や 鵞鳥 ガチョウ や、鴨や鶏どもも残らず火焙りにされて焼けたり、煮えたりしている。そして手押し車の輪ほども大きなパイがお料理の真っ最中だ! 実際バルビゾンは、いまや一つの大きな台所と化してしまった。臭気は確かに一マイル 四方の空気を満たしているに違いない。

 

競売の様子を知らせてくれたまえ。それからまた、絵を送ってもいいかどうかもお願いする。すまないけれど、同封の注文書きを君の知っている額縁屋に渡してくれたまえ。また序があったらそこでできる額縁があんまりひどくないかどうか見てくれたまえ。金の塗り方はそれほどかまわないが、大事なのは型だ。とはいうもの、もちろん額縁屋のできる丈はやってくれなければこまる。それからどうか以下の絵具をできるだけ早く送ってくれたまえ。バーント・シェンナ三本、ロー・シェンナ二本、ネーブルス・イエロー三本、ベネチアンレッド一本、イエローオークル二本、バーント・アンバー二本、それから油一本、それだけ。ディアスによろしく。君には心からの抱擁をもって。

J・F・ミレー

〔1850年2月〕

親愛なるサンシエーー

 

さく 、金曜日に僕は君の送ってくれた絵具、油、キャンバスなど受け取った。それからあの絵のスケッチをも一緒に。以下の題は例の競売に出すことにした三点の絵につけた名だ。

 

一、「亜麻を打っている女」
二、「畑へ仕事に行く百姓とその妻」
三、「森に薪木を集める人」

 

この集め手という言葉は、活字にして出せるものかどうか、いま僕には分からない。でなければ、この絵は「薪を集めている百姓」とでも、なんとでも君の好きな通りの名にしておいてくれたまえ。この絵の主題は薪木を束ねている一人の男と、それから枝を切っている女と、もう一人薪木の荷を運んでいる女、その三人きりだ。

 

この画題で分かるだろうが、彼らのなかには、裸体の女もなければ、神話からの題材もない。僕はもっぱら他の題材を描く心算でいる。もちろん、こういうものはやって悪いものだと思うからではないが、嫌でも自分はそういうものを描かねばならないのだと思いたくないからだ。しかし実を言えば、百姓の題材は最も僕の性質に適している。なぜなら、僕は万一君に社会主義者だととられてもしかたがないが、芸術において最も僕に触れるものは、人間の世界だということ、もしも自分の好きなことをすることさえできたなら、否、すくなくとも、それをやってみようとさえ思ったなら、僕は風景においても、人物においても、自然から直接うけた印象の結果でないものは何一つ描かないであろうということを、白状しなければならない。華かな方の面は、僕には決して姿を現さない。僕はそれがあるのかどうかしらない。ただ僕は決してそれを見たことがないというだけなのだ。僕の知っている最も喜ばしきことというのは、耕された畑ーーその土地が耕作に良い悪いはとにかくとして、耕された畑や森の静けさ、あの微妙な沈黙だ。

 

それはいつも非常に夢のような感じを与える。そしてその夢は、非常に快いことが多いとは言え、 りそれは悲しいものだということを、君も白状するだろう。

 

この生活のなかに見出しえるすべての慰謝と、安静とを楽しみながら、木の下に坐っているその時に、不意に狭い 小徑 こみち をこっちへ登って来る、重い薪木の荷を着けた哀れな人間が眼に入る。この姿が君の眼の前に現れるその不意の、しかも必ず心を打つその現われ方は、直ちに人類の悲しい運命ーー疲労を思わせる。その印象はラ・フォンテーヌ〔17世紀の詩人〕が、その「樵夫」の寓話中に表わしている感じに似ている。

 

「この世に生まれ出てよりいかなる楽を得し。なしとてこの世にいかばかり貧しかるべき」

 

ときどき、耕された土地においてはーー不毛な土地においてもまたーー土を掘ったり、草を刈ったりしているのを見る。時一時と一人が身を起こし、その背を伸ばして、「汝の額に汗して汝のパンを喰らうべし」と、ある人々の言うごとく、その手の甲で額の汗を拭く。〔「汝の額に……」は、「創世記」に端を発するキリスト教圏の労働倫理。のちにニーチェが『愉快な学問』で典型的に批判する〕

 

ある人々が我々に信ぜしめんとした、楽しい愉快な仕事というのはこれなのか。にもかかわらず僕にとっては、それは真の人道であり、偉大な詩でもあるのだ。

 

僕はもう止めなければならない。でなければ、僕は君を疲らせしまうだろうから。君は僕をゆるしてくれなければいけない。僕はまったく一人ぼっちで、自分の印象を分かつその人とては一人もないのだから。僕は自分が何を言っていたか思いもせずに、つい書いてしまう。僕はきっともうこの問題は言い出さないだろう。

 

ああ忘れないうちに言っておくが、ときどき君の立派な手紙をくれたまえ。大臣の赤いロウ 封緘 ふうかん と、なるべくすべての装飾を施した手紙を! そういう手紙を郵便屋が渡す様子を見せたいものだ! 手に帽子をとって、(ここでは稀なことだ!)最も恭々しい様子をして、「これは大臣様からでございます」と言いながら差し出すじゃないか。それは確かに、僕に一種の顕著な地位を与え、僕の信用を高める。なぜって彼らの眼には、大臣の封緘をした手紙は、直接大臣から来ると見えるのだから、そういう封筒は大きな財産だ!〔サンシエは内務省に勤務していたから、特製の封筒で送っていたのだろう〕……何か注文がありそうかどうか知らせてくれたまえ。ジャックの景気はどんな風か知っていますか。さようなら。

J・F・ミレー

 

〔テオドール・〕ルソーの絵はなにか大きな反響を起こしていますか。絵はみんな大成功ですか。

 

〔カートライトは、この手紙を、「芸術についての彼の全哲学を含んでもいるし、彼の未来の仕事の方向を明らかにした正式の宣言書でもあ」ると重視している(底本159ページ)。ちなみに、末尾の追伸は、ミレーがパリにいたころに見たことがある、盟友のテオドール・ルソーの数点の絵ーー手紙の執筆時には展示か競売にかけられていたようだーーの反響について気遣った一節〕

〔1851年3月23日。サンシエ宛〕

〔テオフィル・〕ゴーティエの評論は非常に良い。僕は前よりももっと満足を感じはじめた。僕の鈍重な色についての彼の評もまたずいぶん当たっている。自分は表現形式にはまるでかまわずに、ただどうかして狙うところを遂げようと全力を尽くすが、そうかといって、批評家たる者もまた僕の絵を見たり、許したりする時、僕が絵を描く場合には別に決まった予定形式に導かれて描いているのではないという事実を、なにも必ず知っていなければならぬ義務もあるまい。まして自分はなぜ一体こんな方法で仕事するのか、しかもその方法に欠点も多いのにーーというこの「なぜ」を、一般公衆は知っていなければならないなんてこともなかろう。
 

 

哀れなランゲ〔ミレーとサンシエの共通の友人〕の死を聞いて、驚きのあまりいまもなお僕は呆然としている。非常に苦しい。なぜって彼の死はただ不意だったーーつい先ごろ彼はラパイユの家へ僕に会いに来て、いつものように健康に見えたーーというばかりでなく、僕は彼を非常に貴い人だと思っていたから。我々のこの身体というものは、なんという脆い機械だろう!

 

彼は結婚したのだと思う。しかし、僕は彼の妻を知らなかった。彼は幾人子供を残していったか。二三日前にジャックから聞いたところによると、例の役の任命は全然失敗に終わったそうだ。しかし、人々は2,000フラン位の義援金は集めるだろうが、集まればそれはなにかになるばかりでなく、もし自分が期待していた額の半分だけにでもなったら、非常に適当な贈り物だがと、ジャックは言っていた。

〔1851年12月初旬〕

〔テオドール・〕ルソーはここへ来るだろうかしら。来ないとすれば、僕はここで、一人で冬を過ごす。一方において、僕は残念に思わないだろう。自分の孤独を感ずる時もあろう。けれど、僕はほんとうに退屈だとは思わないだろう。僕はそれにはあまりによく「 蟾蛙 ヒキガエル の穴」を愛している。僕が毎日自分の周囲の自然界から受ける印象は、この堪えがたい淋しさを感ずることから僕を防いでくれるだろう。

〔1853年早春〕

親愛なる〔テオドール・〕ルソーーー

 

僕が封入した二枚のスケッチがなにか君の役に立つかどうかは分からないが、僕は君の絵の人物を、自分ならばどこに置きたいかということを、君に見せたいに過ぎない。それだけだ。どうすれば一番良いかということ、また君のしたいと思うことは、君は僕より以上によく知っている。

 

ここ二三日は美しい霜景色だった。それを僕は描いてみようとはしない。描いたって、てんではじまらないことだ! 僕はただ一人、神のみがこんな神秘的なフェアリーのような景色をいつも見ることができるのだと言って満足しよう。僕は君がここへ、その景色を見に来られればと願っているのみだ。君の絵はできあがったか。なにしろ君は「森」を仕上げるのにもう一ヶ月しかないのだから。そしてその絵がサロンに出るというのは、ほんとに大事なことだ。実際それは 絶対的に出さなければならない。

 

僕も間に合うように終わるつもりでやっている。僕は着々と働けば、やってのけられるだろうと思っている。僕の絵は全体としてよく見えるようになってきた。しかし、僕は妨害を恐れている。人間がなしうることといったら、ただ奴隷のように働くことだけだ! さようなら、親愛なるルソー、そしてなにもかも善くあれかしと願う僕の心からの願いを納めてくれたまえ。

〔1851-1853年ごろ。母からミレー宛〕

私の親愛なる子供よ、お前は非常に私達に会いたがっているという。そしてじき私たちに長い訪問をしにここへ来ようとしているという。私もまた非常にお前に会いたいが、お前は来るお金がないのではないか。お前はどうして生きていますか。私のかわいそうな子供よ、私はこのことを思うとまったくあじきなくなる。おお私はお前が来てくれることを、しかも私たちがすこしもお前を待っていない時に、不意に私たちをびっくりさせてくれることを望んでいます。私は安んじて生きることも死ぬこともできないほど、非常にお前に会いたくてならない。ここはせち辛くて、生活は我々にとってはまったく悲しいものです。風は地びたをからからにしてしまつた。私たちは家畜をどうしていいか分からない。彼らは餓死しようとしている。穀物は悪く、小麦の値段は一ブッシェル(約二斗ーー訳者)が七フランという有様なのです。それでも、税は払わなければならず、その上すべて家内中の費用をも払わなければならない。

 

私は大変久しく書かずに怠っていたが、それはお前が夏の終わらぬうちに来るだろうと思っていたからでした。しかし、夏はもうほとんど過ぎた。私たちはお前に非常に会いたく思っています。

 

お前の叔父さんたちはしばしばお前からの便りのことをお尋ねになる。お前は叔父さんたちと 別懇 べっこん を保つように、手紙をあげなければいけません。叔父さんたちは、お前のお気の毒なお祖母さんのお葬式にいらした時に、お前の姉さんのエミリーと一緒に、会いに来いと私におっしゃった。けれど、いまは夏も過ぎ、そして私の哀れな健康は、それほど遠くへ行くことを許さないでしょう。私はなにもかもすべてのものを失ってしまい、苦しむことと、死ぬことよりほかに、私にはもはやなんにも残されてはいない。私の哀れな小供よ、お前は冬にならないうちに来ることはできないのですか。私は死ぬ前にもう一度お前に会いたくてなりません。私はお前が想像するよりも、もっとちょいちょいお前のことを思います。私は苦しみで心身ともに非常に疲れている。そしてすべてお前の未来がどうなるだろうということや、いまお前は残すべき財産などは何にも持っていないことやを思うと、私は眠ることも休むこともできません。お前はお祖母さんのお年を知りたいってね。お祖母さんは八十一でした。この手紙を受け取ったらすぐに返事をおくれ。私は全心をもってお前を抱いて筆を きます、すべてできるだけの愛を持って。お前の変わらざる母。

寡婦ミレー

1853年4月26日、月曜日、夕

親愛なるサンシエーー
僕の哀れな母は死んでしまったのだ。僕の憫れな状態はとても言葉には描き現わせない。仕事をしようとしてみるが、どうしたって苦痛を忘れることはできはしない。それは僕にとってもいまだ家にいる妹達にとっても恐ろしい打撃だ。妹たちがこれからどうして生きていくか、僕にはほとんど分からない。僕は悲しみと、心配との最も恐ろしい状態にいる。君の手をしかと握って。

J・F・ミレー

バルビゾン、1856年1月1日

親愛なるサンシエーーいま、僕は実に困り抜いている。これから二十四時間以内にM・Xーー(洋服屋)に払う607フラン60サンテーム(一フランの百分の一、三厘八毛位ーー訳者)を払うべきを受け取ったところだ。この男は吸血児のようなことをする。彼は三月まで待つ約束をしていたのだ。同時にGーー(パン屋)はパンの供給を拒絶した。そしてひどく無礼だ。それはこういうことに帰するのだーー全執達吏や債権者たちが列をなして、この家を練り回すだろうということに。至極面白い図だ、まったく!

 

僕はいま、全執達吏に会って、無智にも、負債とは合意の上だということを言ってやったばかりだ。ぜんたい法律はこういう調停を認めないのかしら。この方式でいけば、商人は一年間信用貸しをすると言っておきながら、六月の末に書付を持ってきて、強制的に払わせることによって 係蹄 ていけい 〔罠の意〕をかけることができるのだ! 法律はこうしたことはちっとも認めてはいないようだ。借りた金は返さなければならない! このことはなんぼ実際的なことにうと い僕のような者でも、いかにもその通りだと思う。なぜって僕の見えるところでは、弁護士の策略とは騙すことの一名に過ぎないのだから、それを悟ろうとするならば、正直な推理と、善良な感覚とをすべて捨ててかからなくてはならないから。法律とはこんな風に僕の首を締める権利なのだから、この次はどんなことになるか分からない。どうかすぐに僕に聞かせてくれ。僕が支払いを拒絶するなら格別、さもなくば僕は法律の権利を、無法なことをするに許すことはできないから。僕は法律の目的なるものは、ものを調停するにあるのだと思っていた。極度の苛酷さをもって所置しようと思っている人々、そして自分たちの行動によって、決して良心の悩ませられることのない人々ーー彼らはこの上も酷い態度に出るとなったら、どんな態度に出うるのか、そのきり を教えてくれたまえ。僕の頭は鈍っているから、君はもちろん、法律が令行しえるところのものを思うと、身震いさせられるだろう。そして「そりゃ悪いことだ、実際憎むべきことだ」と言うかもしれない。しかし、僕はその正邪をではなく、法律の名においてならどんなことでもなされうるものかどうかを教えてもらたいのだ。〔テオドール・〕ルソーに、僕は執達吏の言ったことを繰り返したのでーーは怒った! すぐに返事をくれたまえ。

J・F・ミレー

パリ、1856年12月3日、水曜日

親愛なるサンシエーー僕はプニエへの心算で描いた二点のドローイングをここへ持ってきた。それは多少価値のあるものだ。ことに一つの方は。けれども、いけないことにはその値を前もって彼と決めておかなかったのだ。僕は彼に一枚60フラン宛を請求したところが、彼はそれは出せないと言うのだ。僕の方ではまた、それより少なしでは受け取れなかった。それで僕は自分のドローイングを引き取ってしまったが、それをレオン・ルゴーは商人のアジェ氏に見せた。氏がもしカンブルドンの売り立てにして手を控えていなかったなら、喜んでその二点を買ったのだろうが。だもんだから、当てにしていくばくかの金になって入ってくることを期待していたドローイングは、いまだに僕の手に残っているのだ。僕はこの金を食料品屋に早速払うことをしかと約束しておいたので、彼は来る度ごとに勘定を払ってくれとしつこく催促する。でもいま、僕は一文無しだ。そして前よりも一層惨めな状態だ。僕は借金を返すにも、僕らの生活を保つにも、どこへ助けを求めに行ったらいいのか分からない。しかたがないから、ただ10フランを懐にしてバルビゾンへ帰ろう。僕は君自身がちょうどいま、金に欠乏していることを知っているので、こんなことを君に話すのは非常に心苦しい。が、どうにかして君が100フランか150フラン貸してくれることができれば、僕はほんとにどんなに感謝だか分からない。僕はまったく非常に困っている。そしてこの先、僕はどうしたらいいのか想像もつかない。いつになったらこれよりよき日が明けてくれるだろうか。が、僕はあえてそんな希望はしないつもりだ。その反対に僕は失望落胆の不意にくることを自覚している。けれど同時にまた、僕は負けてはおられない、また負けるはずはないと思っている。なぜって、それは僕自身をより深い、より絶望状態に沈めることになるだろうから。僕の言ったそのドローイングというのは、パリの〔テオドール・〕ルソーの家の、長椅子の上の 紙挟 かみばさみ のなかにある。

J・F・ミレー

 
〔手紙を受け取ったサンシエは、その後ドローイングと引き換えに100フランを送っている〕

〔1856-1857年〕

僕はどんなに大変な厄介を君にかけていることだろう。気の毒な〔テオドール・〕ルソー! 君は「親切な人は他人の犠牲になるように運命づけられている」という生きた例だ。どっちでも同じことだが君は僕が君に、限りない心配をかけていることを、知らずにいるとは思わないだろうけれど、そうあってほしい。だが、僕は君の親切を煩わさずにはいられない。僕はまるで魔術にかかっているようだ。なんてことだ! もう止めよう。このことに関して、僕はなにを考えているのだか言うこともできなければ、またあえて言いもしない。

 

僕は「落穂拾い」を間に合うように仕上げたいと思って、奴隷のように働いている。僕は自分の全努力の結果がどうなるのかまったく知らない。この不幸な絵があたかもなんの意味もなかったかのごとく感じる日がある。それにしても僕はこの絵のために、静かな一ヶ月の勉強を捧げるつもりである。それがあまり恥ずかしいものにならないだけにでも!……頭痛が激烈に、大きく小さく先月中ずっと僕を襲っていたので、ほとんど一気に十五分間ずつでも働くことができなかったほどだ。僕は、精神的にも肉体的にも衰弱状態にある。君の言う通り「人生は非常に悲しいものだ。」すこしも逃げ場がない。そしてついに人々は、光と平和の休養場を恋しがる人々のことが分かるのだ。そしてまた人々は、なぜダンテが人々の地上で過ごした日のことを、彼の使った人物のある者をして「我が負債の時」と言わしめているか理解するのだ。ああそうだ! 我々はできるかぎり持ちこたえようではないか。