PAINTING

若き日の手紙[3通]

フィンセント・ファン・ゴッホ

式場隆三郎訳

Published in June 1873, December 1878, April 1881|Archived in January 28th, 2024

Image: Vincent van Gogh, “At Eternity’s Gate”, 1890.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、式場隆三郎訳の『ゴッホの手紙』(全4巻)内のゴッホの手紙を精選して収録する連続プロジェクトの第一回である。
今回は、底本(『ゴッホの手紙 第1巻』)内の「第一部 若き日の惱み(一八七二年八月ーー一八八一年十二月)」に収録されている手紙のうち、事務的な連絡を超えた内容をもつロンドン時代以降の3通を収録した。
誤字・誤植に対するARCHIVE編集部による補足は、〔 〕内に入れた。
訳注は、式場隆三郎による。
旧字・旧仮名遣いは現代的な表記に改めたが、固有名詞の表記と用語の不統一はそのままと、書簡の日付の漢数字を英数字にした。
底本の行頭の字下げは、上げた。
キービジュアルの選定に際して、櫻井想氏よりご示唆をいただいた。この場を借りて感謝申し上げる。

BIBLIOGRAPHY

著者:フィンセント・ファン・ゴッホ(1853 - 1890)訳者:式場隆三郎
題名:若き日の手紙[3通]:『ゴッホの手紙 第一巻』原題:『ゴッホの手紙 第1巻』「第一部 若き日の惱み(一八七二年八月ーー一八八一年十二月)」内「ロンドンにて 一八七三年六月」・「ボリナージュにて 一八七八年十二月」・「エッテンにて 一八八一年四月」
初出:1873年6月、1878年12月、1881年4月翻訳初出:1956年
出典:『ゴッホの手紙 第1巻』(創芸社。1956年。1、2、23-28、71-98、109-150ページ)

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この書をヴィンセント テオドル ヨハンナの霊に献ず

式場隆三郎

僕は身体をいため、狂人じみてくればくるほど、
ますます芸術家にーー創造的な芸術家になる。

ヴィンセント

ロンドンにて(1) 1873年6月

テオよ
 
僕の新しい下宿をみせるために、君にきてもらいたくてたまらない。いつも僕が憧れていたような部屋にいる。天井は傾斜してないし、壁には緑のヘリのついた青い紙も貼ってない。ここの家族は、実に面白い。少年たちの塾をひらいている家庭だ。
 
僕はすっかり満足している。散歩も大いにやっている。付近は静かで気持ちよく、いきいきしている。実際こんなところをみつけたのは、実に幸運だった。
 
ハーグ時代に比べると、今の僕はそう忙しくはない。働くのは朝の九時から夕方の四時までだし、土曜は四時に店をしめる。いつかの土曜に二人のイギリス人と一緒にテムズ河にボート乗りに行ったが、実に美しい眺めだった。
 
ここの店はハーグほど面白味はないが、ここにいるのは僕にはいいことだと思う。ことにその中に絵画の販売がさらに重要になってくれば、僕も少しは役に立つようになるだろう。近頃、店には沢山の油絵と素描とがあり、売る方も沢山さばいたが、まだまだ十分ではない。絵はもっと永続的に堅実に売れるようにならなければ駄目だ。イギリスでは、まだ大いにやるべき仕事がある。もちろん、まず第一に必要なのはいい絵をもつことだが、これはなかなか難しいだろう。
 
僕は大いに元気よくやっている。それにロンドンやイギリス人の生活振りや、イギリス国民を研究するのは僕にとって大きな悦びなのだ。それにまた、自然と芸術と詩がある。これで不足をいった日には、罰があたる。
 
最初のうちは、イギリスの美術は大して魅力があるようには思えなかったが、慣れてくるとそうでもない。ここでは「ユグノー教徒」や「オフェリア」を描いたミレースの他にも、うまい画家がいる。ミレースの作品は、美しい。それからボートンがいる。古い家の中には三十年前に、風景画家のコンスタブルがある。素敵なものだ。彼の作品に接すると、デイアズやドービニーを想い出す。ことに美人の肖像画を描いたものに、レーノルズとゲインスボローがある。それから風景画家のターナーがある。
 
君が芸術にして強い愛をもっていることは、よくわかる。それはいいことだ。君がミレエやジャックやシェールやフランス・ハルスを愛好しているときいて嬉しい。なぜなら、モーヴのいっているように「それが本質なのだ」からね。そうだ、ミレエの「 晩鐘 アンジェラス 」こそ真実のものだ。あれが美だ。あれが詩だ。君は、どんなに賛美してもいいのだ。大抵の人は、まだ讃美し足りないのだ。
 
ファン・フローテンの美術に関する本をよんだところだが、僕には同意しかねる点もある。だが実に博学の書だった。それに比較すると、ブルゲルは単純だが、彼のいうことはすべて真実だ。去る日曜日に、店主のオバッハ氏と一緒にボックスヒルまで行った。そこはロンドンから六時間ほどかかる高い丘で、ある部分は白亜の層からなり、黄楊の樹が生えており、一方は高い樫の樹の森だった。丘全体が亭々たる樹木と灌木の茂った美しい巤園になっている。だが僕はやはりオランダーーことにハーグとブラバント(2)が忘れられない。ハーグで君と過ごした頃の愉しさを、どうして忘れられよう。あのレイスヴィク道の散歩を、よく想い出す。雨上りのあと、あそこの水車牛乳をのんだっけ。ワイッセンブルッフの描いたあの水車の絵を君におくるつもりだ。彼は一名「陽気なワイス」ともよばれている。レイスヴィクのあの道は僕にとって一番美しい想い出だろう。
 
君はセザール・ド・クックが実に好きだというが、僕も好きなんだ。彼は僕たちの懐しいブラバントを本当によく理解している、ごく少数の画家の一人だ。僕は去年、パリで彼に逢った。
 
君は絵画について立派な知識をうるように、極力努めなければならぬ。できるだけ頻繁に美術館へゆくことだ。古い画家を知っておくのも、有益だ。なお機会があったら美術に関する書物、ことに美術雑誌「ガゼット・デ・ボーザール」を読むがいい。
 
また努めて散歩して、自然を愛するように心がけるがいい。それが芸術の理解を深める正しい方法である。画家とは自然を理解し、自然を愛し、自然の見方をわれわれに教えるものなのだ。真に自然を愛する人は、いたるところに美を発見することができる。
 
僕は園芸に、多忙を極めている。ささやかな庭に、罌粟やスイートピーや木犀草の種子を播いたが、果たしてうまくゆくかどうか。近頃また素描(3)を始めたのだが、いまは中止している。早晩また始めるようになるだろう。目下さかんに読書している。君はミシュレ(4)をよく読み、よく理解したそうだが、嬉しい。ああいう本は一般の人々が想像する以上に、愛には多くのものが含まれていることをわれわれに教えてくれる。
 
ラムール 」は僕にとって福音書と同じように一つの啓示だった。「女性は老いず」というが、これは「世の中に老婆なし」という意味ではなく、女性が愛し、愛される限り、老いを知らないという意味なのだ。女は男と全く違った存在であり、またわれわれにはまだわからない。たとえわかっているにしても、全然表面的にしかわかってない存在であるということーー確かにそうだと思う。夫婦は一体になれるーーすなわち二個の半分ではなく、一個の全体になれるという見解ーーそうだ、僕はたしかにそう思う。
 
君に送った金(5)で、ぜひアルフォンス・カールの「わが庭をめぐりて」を買いたまえ。きっと買うんだよ。秋はすぐだし、秋になると自然は一番思索的に、そして一層親しくなってくるのだ。
 
僕らの画廊はすっかり準備ができて、きれいになった。ジュール・デュプレ、ミシェル、ドービニー、マリス、イスラエルスなどの素晴しい絵がある。四月には展覧会をひらくつもりだ。君はアレイ・シエッフェルの「泉のマルガレーテ」を知っているだろう。「はげしい恋をした」あの乙女より至純至愛のものがあろうか。
 
君の人生が安易すぎるといって、嘆き悲しんではいけない。僕の人生だって、むしろ安易すぎるのだ。想うに人生は相当に長いのだし、誰かが「汝をいまし め汝の欲せざる所へ導かん」時がやがてくるのだ。
 
君に送った小さな詩集の中から、僕はハイネの「海の 静寂 しじま 」を写しておいた。こないだテイス・マリスの絵をみて、それを想い出した。破風や高い上り段、灰色の屋根、白や黄色の扉、窓枠、蛇腹のある赤茶けた家々の立ちならぶ古いオランダ町。船が浮かび、大きな白い吊橋のかかっている運河。その橋の下には舵取る 舟子 かこ が一人乗っている艀舟が通っている。すべてが、はきはきしている。手押車をおす人夫、橋の欄干にもたれかかって水面をみている男、白いボンネットをかぶった黒衣の女。
 
君に小さな素描をおくる。前の日曜日にかいたものだ。丁度その朝、下の下宿の小さな娘が死んだ。絵は樫の木々と針金雀花のはえた広い草原ーーストレッタム公有地の眺めだ。ここの景色はエドモンド・ロッシュが「詩集」の題扉にスケッチしている。「詩集」の中には、莊重な、悲痛な、実にいい詩がある。君に写しておくろう。(6)
 
ねえ「どういったもんだろう。」C・M・ヴァン・ゴッホとテルステーク氏とがやってきて、去る土曜日にまたかえってしまったのだ。何の関係もないところや、水晶宮などにあまり再々来すぎるようだ。僕の住居をみにくるのは、いいさ。だが僕という人間は、みんなが現在考えているようなものでないと信じ、またそうありたいと思うのだ。
 
まだ、当分はなかなか逢えないね。
 
 
(1)グーピル商会のロンドン支店は、サザンプトン街十七番地にあった。ヴインセントの給料は十九フロリン、ロワイエというフランスの牧師補の未亡人の家へ下宿した。やがてその娘ユルシユラとの初恋が始まる。 娘は人形を売る店を経営していた。 ヴインセントの希望に輝いたロンドン生活が始まったのである。
(2)オランダ北プラバント州のグロート・ツンデルト村A区二十九番地が、ヴインセントの生地である。
(3)素描はロンドン時代から始められた。それをテオへの手紙の中にかいておくるのが、彼の画家になる芽ばえとなった。彼の死後、油絵よりも手紙が先に認められたのは読者がこの素描入りの手紙の美しさに打たれたからである。ヴインセント書簡集の比類ない価値は、一つにはその中に描かれた数百図の素晴しい素描のためでもある。
(4)Jules Michlet. ヴインセントはミシュレの詩を愛誦した。後年不遇なハーダの画家生活のとき、淪落の女シーンをモデルにして「悲哀」(Sorrow という英語の題をつけて)を描き、ミシュレの詩句「もしもこの世に望みを失った独りぼっちの女がいたら、一体どうなるだろう?」をつけた。
(5)ヴインセントが転々として職をかえ、ついにあらゆるこの世的の職業に絶望して画家になってから死ぬまで、生活費はテオが送りつづけた。 ヴインセトン〔原文ママ。おそらくヴインセント〕兄らしくテオに送金したのは、僅かにこの頃位のものである。
(6)ロンドン時代からの手紙は、ただ用件や弟への愛情を伝えるだけのものでなく、 文学的、思想的の記述に変わった。それに素描が加わるので、ヴインセントの手紙は全く彼自身の手になる挿入りの自叙伝ともよぶべき性質をもちだしたのである。

ボリナージュにて 1878年12月

ここベルギーのボリナージュ(1)には、一枚の絵もない。大ざっぱないい方をすれば、人々は絵の何ものかを解しないのだ。それにも拘らずここの田園は全く絵のようで、あらゆるものがものいいたげで、それぞれ特色がある。近頃は地面は雪で覆われてしまっている。眼に映るものことごとくが農民画家ブリュウゲルの中世紀の絵や、赤と緑と黒と白の独特な效果の巧みな表現法を知っている多数の人々のことを想わせるのだ。茨の生い茂った中凹みの道や異様な根をした瘤だらけの古木などがあって、デューラーの「死と騎士」のエッチングにある道そっくりだ。

 

数日前のこと、黄昏どきの白い雪の中を家へもどる坑夫たちの姿を見たが、実に物珍らしい情景だった。この人たちは、真黒なんだ。彼らが炭坑の暗黒から明るみの中へ出てくると、まるで煙突掃除夫そっくりだ。彼らの家は恐ろしく小さくて、小屋といった方がいい。それらは中凹みの道ばたや森の中、丘の傾斜の上にちらばっている。あちこちに、苔蒸した屋根が見える。夕暮になると、灯が小さな硝子窓ごしになごやかな光を放っている。

 

所々方々に大きな煙突が見え、炭坑の入口には所謂シャルボナージュという石炭の大きな山がある。ボスボームの「ショーフォンテーヌ」というあの大きな絵は、ここの特色をよく表現している。ただ違うのはここでは石炭だらけだが、ショーフォンテーヌでは鉄であるだけだ。

 

僕らのブラバントに樫の下生があり、オランダ各地には柳の木があるように、当地では庭園や畠や牧場の周囲には黒茨の生垣がある。この雪に対する效果は、福音書の頁のように、白紙の上の黒い文字のようだ。

 

一軒の小さな家を借りた。こんな家で自分の家庭をもちたいが、しかし今は仕事場か書斎に役立っているだけだ。僕もそう思うのだが、父は僕がデニスのところに下宿する方がいいと考えている。相変わらず壁には、版画をかけている。

 

坑夫たちの言葉はわかりにくいが、こっちのいうことは普通のフランス語を早口に流暢にいえば通じる。彼らの方言は恐ろしく早口にしゃべるのだが、こっちも早口にいうと彼らの言葉に似てくる。

 

坑夫の小屋でいつも夕方に開かれる聖書講義に類した集会ではもちろん、特に宗教的会合のために設けられた大広間で、公衆に向かってもう五六度話をした。また厩や牛小屋で宗教的奉仕の手伝いもした。実に素朴で、原始的だ。今週の集会での僕の演題の聖句は、使徒行伝第十六章第九節「パウロ夜 幻影 まぼろし を見たるに、一人のマケドニヤ人あり立ちて己を招き、マケドニヤに渉りて我らを助けよ」というのだった。福音の慰めを必要とし、切望し、また唯一の真の神を知るのにあこがれたそのマケドニヤ人がどんな人だったかを述べようとすると、坑夫たちは熱心に耳を傾けた。顔には悲しみと辛苦と疲労の皺をよせ、不滅の霊魂だけで他には何の華やかさもなく、腐ることなき食物、すなわち「神の御言葉」を求める労働者としての彼を僕らは大いに考えねばならぬ。人はキリストに倣って謙虚な心で一生を送り、高い目的を追求することなく、福音書から従順と心の潔白を学び、賤しい人々に自らを適合させるのが神の思召である。

 

当地の人たちは、全く無学文盲だ。大部分のものは、字が読めない。それでいて彼らの難しい仕事にかけては、機敏だ。また勇敢で率直で、背丈はひくいが、四角いがっちりした肩をしており、憂鬱な落ちくぼんだ眼をしている。彼らはいろいろのことに器用で、実によく働く。また神経質だが、これは弱々しいという意味ではなく、敏感だというのだ。彼らは圧制しようとするものに対しては生まれながらに根深い憎悪をもっており、信頼しない性質がある。炭焼人と一緒のときは炭焼人の性格と気質をもって、勿体ぶった傲慢や権威をふりまわしてはならぬ。さもないと、一緒にやってゆくことも信用をうることもできない。

 

ある炭焼人の家庭に、小さな老いた母を訪問した。重病人だが、忍耐強く信仰にあつい。僕はその女と一緒に聖書を読み、家族のものとともに祈った。ここの人々はツンデルトやエッテンにいるブラバントの人々と同様に、どちらかといえば単純で人のいいところがある。ここにいると、誰でもうち寛いだ気持ちになる。ここを離れた人はホームシックになり、その反対にホームシックにかかっている人なら、故郷に帰ったような気がする。神の恵みにより永久にここで職を奉ずることになれば、自分としてはどんなに幸福だろう。

 

腸チフス患者や彼らの所謂「ソット・フィーヴル」という悪性熱病患者が多数いる。この病気にかかると、悪夢にうなされて気が変になるのだ。一家全部が病気になっても、介抱の仕手がない。だから患者が患者を介抱しなければならない。

 

坑夫の大部分が熱病に冒されて、痩せこけて血色悪く、いかにも疲れきった様子だ。年よりも老けてみえる。女は大体に凋んだようで、やつれている。炭坑の周囲には、貧しい坑夫の小屋がある。そこには煤煙のために煤けて枯れた樹木だの、茨の生垣、堆肥、灰捨場、石炭滓の山などがある。マリスなら、それを画題に美しい絵をかくところだろう。僕も早速小さなスケッチを一枚かいてみよう。

 

この間、実に面白い探険をやった。六時間ほど、坑内にはいっていたのだ。それはマルカッスといって、この付近では最も古く最も危険な炭坑の一つだ。昇降のときとか有毒な空気のためとか、ガスの爆発、地下水、古い坑道の崩潰のためなど、何かしらこうした事故で死傷者が多数あるので評判が悪い。陰気な場所で、一見したところ物凄い情景を呈している。三十三年間もそこで働いている親切で辛抱強い男が案内して、一つ一つよくわかるように説明してくれた。

 

僕たちは地下七百米のところまでおりて、地下の隠れた隅々まで探検した。入口から最も遠距離にあるマントナージュ、あるいはグルダン(坑夫の働く穴)のことを、カーシュ(隠れ場)といっている。もし誰かがマントナージュの絵をかいたら、それは前代未聞、いや前代未見のものとなるかもしれない。荒削りの材木で支えた狭い低い坑道の中の穴の列を想像してみたまえ。その一つ一つの穴の中で、粗末なリンネルの服をきて黒くよごれた坑夫が、豆ランプの蒼白い光にてらされて、一心に石灰を割っているのだ。ある穴では直立し、またある穴では、地面に這って作業している。地下の牢屋の暗い陰気な通路といった感じがする。あるいは小さな織機の列のようでもある。あるいは農家のパン焼窯の列のようでもある。ある箇所では水がもって〔原文ママ。おそらく「もれて」〕、坑夫のランプの光が奇妙な効果を出し、鐘乳洞の中のように反射している。坑夫の中にはマントナージュで働いているものもあれば、小さな車に掘りだした石炭を積んでいるものもある。これは特に男女の子供たちがやっている。地下七百米のこの坑内には厩まであり、およそ七頭の老馬がいる。

 

陸にあがった船乗りが海上の危険を忘れて海を恋しがるように、坑夫も坑内を恋しがるのだ。地上にいるより地下にいる方が、彼らにはいいのだ。ここの村の生活は地上ではなく地下で営まれているために、荒廃し死滅して、捨てられているようだ。ここに数年間住んでいても炭坑内におりていってみなければ、事の真相はわからずに終うだろう。

 

仕事に忙殺されているため考えごとをする暇もなく、本来なら僕の興味をひくようなことにも何ら興味を覚えない。

 

今夜は、雪がとけている。雪どけの山国の風情は、たまらない。雪がとけると青々とした穀物のある黒い畠がまた見えるようになる。よその国のものには、この村は全く迷路に等しい。せまい通りが無数にあり、谷には坑夫たちの小屋がある。スケベニンゲンのような村だと想えばいい。ことに裏通りが、そうだ。あるいは絵でみて、なじみになっているブルターニュの村にも似ている。

 

数日前、夜の十一時ごろ、猛烈な雷雨があった。僕らの家のすぐ傍の一箇所から眺めると、ボリナージュのほとんど大部分が遙か下の方にあって一眸のもとに見渡される。煙突や石炭の山、坑夫の小さな小屋、日中なら巣の中の蟻のようにあちらこちら駆け回る小さな黒い人影、遙か彼方には黒い松林と、その前方に影絵のように点在する小さな白い小屋、二三の教会の尖塔、さら遠方には古い水車などが見える。大抵、霞のようなものが一面にかかっている。小山の影で、面白い明暗の効果ができている。これはレムブラントか、ミシェルか、ロイスダールの絵を想わせる。

 

しかし、あや目もわかたぬ闇夜、雷鳴のとどろいている間、時おり束のまながらあらゆるものを照しだす稲妻が異様な効果を作りだしていた。稲妻でみると、近くにはマルカッスの炭坑の大きい陰気な建物が、荒野の中にただ一つぽつんと立っているのが見える。ノアの巨大な方舟が、想いだされる。恐らく豪雨と大洪水の暗黒の中では、方舟もこのように見えたことであろう。今夜の聖書講義で、その雷雨を想いつつ難破船のことを話した。

 

近頃また、アトリエにこもっている。といっても、ピーテルセン師の家だ。この人はシェルフホットやホッペンブロゥエルス風の絵をかき、美術には相当理解がある。坑夫のスケッチを一枚かくように頼まれている。何かの想い出にも、またここの風物によって知らず識らずのうちに湧きあがってきた思想を強化するためにもと思って、この頃はよく夜おそくまで絵をかいている。

 

近づいている春は、新鮮な画題をもたらしてくれるだろう。この冬イスラエルスは、何を制作していたろう。モーヴやマリスなど健在だろうか。ここには、彼らに訴えるものが沢山あると思う。白い馬にひかせた荷車が負傷者をのせて炭坑から帰ってくるのを見ると、イスラエルスの「破船」を思いだす人があるに違いない。ともかく、一瞬ごとに何か人の心を打つものがあるのだ。

 

モーヴ、イスラエルス、マリスのかいた絵は、自然そのものよりも多くのものを現わしている。「芸術とは、自然に添えた人である。」これほど芸術について巧みな定義は、ないと思う。自然と実在と真理、芸術家はこの中からある意味をもって観念と特質をとりだし、表現し、縺れをときほぐし、自由にし、明らかにするのである。

 

これは書物についても、同じことがいえる。僕は近頃「アンクル・トムズ・ケビン」をたびたび読んだ。ーーこの世には、未だに多くの奴隷制度があるのだ。ーーあの素晴しい書物の中で芸術家はものごとを新しく解明し、あの大問題が虐げられた貧しい人々に対する驚くべき熱意と関心と叡智をもって取扱われているために、人は何度もこの本を読み返しては、その度に新しい発見をするのだ。
 
 
 
君の訪問を感謝している。数刻をともに過ごしたことは、少なくとも僕たち二人がやはりこの大地にあるという安心を与えた。君に再び会って一緒に散歩したとき、人生はやはりいいものだ、貴重だ、大切にしなければならない、と久しぶりに感じたのだった。そして、かつてなく愉快でならなかった。というのは、僕にとって人生は次第に大切でも貴重でもなく、また重要でもなくなって、関心がもたれなくなってきたからだった。少なくとも、そう見えたのだった。

 

僕も人なみに親戚や友人、愛情、親しい交わりがほしい。僕だって木石ではないから、聡明な正直人同様、そうしたものがなければ深刻な必要を感ぜずにはいられないのだ。君が来てくれて、どんなによかったか知らせるつもりで、こんなことを書いているのだ。

 

今は大して帰ってみたいとは思わない。むしろ、ここにふみとどまろうという気持ちが強い。だが本当のところがわからない。というのが僕の欠点だ。だから非常に気も進まぬし、また前途に難行路を想わせるものがあるが、ともかく二三日エテッン〔原文ママ。おそらく「エッテン」〕へ行こう。

 

君の訪問を思いだしては、感謝している。もちろん僕たちのやった討論も、思いだしている。以前にも、度々あの議論はきいた。改善と喧嘩の計画、エネルギーの増大論には、君は怒るかもしれないが、賛成しかねる。今までにも時々やってみたのだが、結果はよくなかったからだ。実行不可能だとわかっているくせに、ずいぶんいろんなことを議論したものだね。

 

アムステルダムですごした時の記憶が、鮮やかに浮かんでくる。君自身もそこにいたんだから、どんな計画をたて、どんな議論をし、どんなに考慮し、智慧と最善の意図をもって、どんなに語りあったか知っているだろう。それだのに結果は何と悲惨で、全体の企画は、何と笑止千万だっただろう。それは、今までの僕の生涯で最悪の時だった。それに比べれば、この貧弱な田舎で、こんな非文化的な環境で、憂慮にとざされた苦しい日々の方がはるかに好ましく、また魅力があるのだ。最善の意図をもった賢明な忠告に従ったところで、結果は同じだろうという気がする。

 

あんな経験は、あまりに恐ろしすぎる。あの傷手、悲しみ、苦悩はあまりにも大きすぎるから、高価な代償であがなった経験によって、賢明になるまいとしてもならざるを得ないのだ。これから学ぶところがなければ、一体われわれは何から学びとるというのだ。「自分の目前にあるゴールに到達しよう」と努める。それが当時の目標だったが、実をいえば、もう二度とこんな目標はほしくない。この大望はすっかり凋んでしまって、当時では立派に思えたことも、今では別の観点から見ている。こんな意見をもっては、いけないのだが。そうだ、ジョン・アンドリー師の説教は、ローマン・カトリックの坊さんのよりもいささか福音書的だと僕が主張したのを、もっての外だと福音伝道師のフランクは考えていたが、丁度それと同じようにそんな意見をもってはいけないのだ。僕はアカデミーから葬式なんかだされるくらいなら、むしろ野たれ死にした方がましだ。僕はよくギリシャ語の教訓よりも、一人の乾草作りからもっと有益な教訓をうることがあるのだ。

 

自分の人生を一層よくするーー僕がこれを熱烈に求めていると君は思わないか。現在、自分よりもっとよかったらいいのにと思う。だがそれを欲すればこそ、改善は悪そのものより、更に悪くなるのではないかと怖れる。もし僕がいちいち君のいう通り手形や名刺の図案かきとか帳簿係とか大工の従弟になるか、あるいは、またパン屋に奉公するとかーーあるいは他の人たちが僕に忠告するこれと似たりよったりのものになっても立派にやってゆくだろうと思うなら、それは君の考え違いだ。だが、君はいうかもしれない。「いちいちその通りにやれと、忠告しているのではない。ただ、どっちかといえば君は何もしないでぶらぶら一日を過ごすのが好きではないかと思い、それではいけないと思って忠告するのだ」と。

 

この「怠惰」は普通とは違うものだ、といってもよくはないだろうか。この怠惰に負けないようにするにはかなり努力がいるが、早晩君が別の見地からそれを見てくれなければ、僕としては残念千万なのだ。たとえばパン焼きにでもなったらというような忠告に従って、怠けもの呼ばわりに対して目にものみせてやるのが、果たして正しいかどうか判断がつきかねる。パン焼きならば(まるで電光石火にパン焼きか散髪屋か図書館員になれるものだと仮定しての話だが)一番はっきりした返答だろうが、同時にそれは驢馬に乗ったためにひどく叱られて、早速驢馬からおりてそれを肩にかついで行った人(2)の行為に多少似通った愚かな返答でもあろう。

 

冗談はさておいて、僕らのお互いの関係が相互にもっと親密になればいい、とつくづく思う。僕が君や家の者の手足纏いになるとか、何の役にもたたぬとか考えねばならないとすれば、あるいは自分が邪魔者か追放人扱いをされていると感ずれば、むしろ死んでしまった方がいい。ーーもしこれが本当にそうだと思えば、苦痛の想いにおしひしがれ、絶望と闘わねばならなくなるだろう。こんなことは、考えてみるだけでも耐えられない。僕らの間に、また僕らの一家にこんな不和、悲惨、いざこざが、この僕ひとりのために醸しだされるのかと思うと、到底たえられないのだ。この想いが信じられぬほど僕を圧迫するときーーそんなとき、ずいぶん経ってからつぎのような考えが起こる。悪夢にすぎないんだ。後になれば、多分お互いにものごとに対するもっといい理解の仕方や見方を悟るだろうと。

 

だが、結局それが本当ではないだろうか。よくなるどころか、悪くなるのじゃないか。それで好転を信じるのは、馬鹿げた迷信じみた話だ、と多くの人はきっと考えるだろう。冬になって恐ろしく身を切られるように寒いと、人はこういうのだ。「どうも寒くっていけない。これでまた暑い夏があるのだから、一体どうすればいいのだ。悪は、はるかに善に勝る。」しかし、そんなことにはおかまいなしに、身を切る霜にも終わりを告げる。とある朝、風向が変わって、雪がとけだす。僕らの心境と境遇を天候にたとえればーー天候がいろいろと変わり易いようにーーやはり好転の一縷の希望を僕はもっているのだ。

 

偏見や流行心や名誉欲のないでもない家族全体の者の信用を回復するのは非常に困難で、ほとんど不可能に近いのだが、やがて徐々にではあるが確実にお互いに心から理解しなおす日もくると信じて、絶望はしない。

 

小鳥にとって羽根のぬけ変わる時期が困難なときであるように、逆境不運の時期は、人間にとって脱落期である。脱落期の中に、停滞していることはできる。そこから再び新しくなって、出てくるのも可能だ。それにしても、公然と人前でされてはたまらない。すこしも面白いことではないのだから。だから今の僕にとっては、君らと離れて相当の間隔を保ち、君らの目につかないようにするのが、最上の分別だと思うのだ。

 

僕は熱情にかられると、多少狂気じみたこともやりかねない男で、そのためあとになって、多少後悔する。辛抱して待てばよくなるものを、唐突に手をだしたり、口走ったりすることがよくある。こんな軽挙妄動は、他の人にもあると思う。といって僕は、どうすればいいのか。僕は自分を無能で、危険千万な男だ、と思わねばならないのだろうか。そうは考えない。ところが問題は、この熱情を何か役にたつ方へ善導するようにあらゆる手段をつくさねばならないのだ。たとえば僕には、書物に対して抑えきれぬほどの熱情がある。自分のパンを食べたいというのと同じように、たえず自分を教育してゆきたい。絵画や美術品にとりかこまれていた頃は、白熱的なはげしい熱情をそれに抱いたのだった。今でも絶対にそのことを悔いてはいない。その国から遠ざかった今、僕はその絵画の国にしばしばホームシックを感じるのだ。

 

レムブラントやミレエ、ジュール・デュプレ、ドラクロア、ミレース、M・マリスがどんな人だか、僕はよく知っていた。ーーといって現在では、もうそんな環境にはいないのだ。だがあの人々の所謂魂だけは、僕にあるのだ。不滅で永遠無窮にたえず探り求めてゆく、といわれている魂はあるのだ。だからこのホームシックに参ってしまう代わりに、僕はこう独語する。その国なら、そんな祖国ならいたるところにあると。だから絶望に身をまかせてしまう代わりに、積極的な憂鬱の方を選んだのだった。僕は沈滞と悲しみの中で絶望する憂鬱よりも、希望し渇望し探求する憂鬱の方が好きだ。そこで聖書とかミシュレの「フランス革命」とか、また去年の冬はシェークスピアとかヴィクトル・ユーゴー、ディッケンズ、ハリエット・ビーチャー・ストウとか、また近頃ではエスキラス、その他古典とまではゆかなくとも相当の大家の書いたものなど、手に入る限片っぱしから多少ながら真剣に研究した。

 

こういうものに耽る人は、往々にして不快で他人に嫌われ、無意識の中にある種の形式や習慣、社会の慣例を多かれ少なかれ破りがちなものだ。しかし、これを悪意に解されては、甚だ残念である。たとえば僕がよく身なりに無頓着であるのは君も知っているだろうが、これは僕も認める。それが感心できないのも、知っている。だがそれも一つは、貧乏と不如意のせいなのだ。また一つには、深い失意のせいでもある。だからそういう人には、何か研究に没頭して否応なしに孤独を思い知らせるのがいいのだと思う。

 

もう五年以上もーー何年になるか、はっきりとはわからないがーー一定の職業もなく方々を放浪してきた。「あの時期から君は墮落して悪化し、今までに碌なことをやっていない」と君はいうが、事実そうだろうか。

 

時には自らパンのかけらを買うぐらいのはした金を稼ぎ、また時には、それを友人に恵んでもいもした。できるだけは、やってきたのだ。多数の人々から見放されたのは、事実だ。僕の懐具合のよくないのも、事実だ。将来の暗澹たるのも、事実だ。こうなるまでに、何とかほどこすすべ のありそうなものだった、というのも事実だ。ただパンを買う金を稼ぐためにのみ貴重な時間を費してきたのも、事実だ。僕の勉強でさえ、どちらかといえば悲しい希望のない有様にすぎぬのも、事実だ。僕の必要とするものは、僕の持っているものよりもずっと大きいのも、事実だ。だが、これが君のいう堕落だろうか。これが君のいう無為無能だろうか。恐らく君は、こういうだろう。でも君は、なぜ人々の期待通り継続しなかったのか。人々は君の大学志望を継続してもらいたいと思っていたのだ、と。これに対する僕の唯一の答えは、「経費が嵩みすぎて仕方がなかったし、それに将来の見通しが今と比べて全くなかったからだ」と。

 

芸術家にとっても伝道師にとっても、事情は同じである。忌むべき暴君的な古くさいアカデミックの一派がある。恐怖の蓄積、偏見と因習の鉄の甲冑をつけた人々がいる。そんな人間が事件を主宰すると、他人の地位まで処理する。相手をつぎつぎと変えて、自分の子分をその地位につけて、他人を排除しようとする。彼らの神とは、シェークスピア劇の酔漢フォルスタッフの神、すなわち「教会堂の内部」のようなものだ。事実、伝道師たちの中にも、精神的なものをかの酔漢式に見ているという事実がふとしたはずみでわかるのだ。(恐らくこの連中に人間なみの情意の持ち合せがあれば、この事実を知っていささか驚くだろう。)

 

僕はアカデミーの会員は尊敬するが、その中には世間で思っているほど立派な人は少ない。僕が現在失業している理由の一つは(過去数年間そうだったが)、人の頭と僕の頭が違うという点だ。彼らはいかにも聖人ぶった口で僕を非難してきたが、僕の失業は単に服装からきているのじゃない。もっと真面目な問題だと思う。

 

「宗教に関して、君はけしからぬ考えをもっている。良心に子供じみた疑いをもっている」と君はいう。思うに人間とその人間の手になるものの中で、道徳的に霊的に崇高な美しいものは、一切神から出たものである。それに反して、人間とその人間の手になるものの中で醜悪なもの正しからざるものは、一切神のものではない。また神は、それを是認されない。しかし、思うに神を知る最善の方法は、多くのものを愛するにある。友人でも妻でもその他自分の好むものを何か愛するのだ。とはいえ、高い真面目な温かい同情と、力と、叡智をもって愛してやらねばならぬ。人は常にもっと深い、もっと良い、もっと多くのものを知ろうと努めねばならぬ。そうすれば、神に通ずる。そうすれば、不動の信仰に到達する。

 

あるものはレムブラントを愛する、だが真剣にだ。ーーその人は神の存在を知り、きっと神を信ずるようになるだろう。あるものはフランス革命史を研究する。ーーその人は、信仰をもつにいたるだろう。偉大なものの中には、権力の示現しているのを知るだろう。あるものは悲惨という立派な大学で、短時日ながら自由に学び、見聞した事物に注意を払い、沈思黙考する。その人もまた、結局信ずるようになると思う。その人は、恐らく口にだしてはいえない以上のものを学んだであろう。偉大な芸術家や真摯な巨匠が、傑作の中でわれらに告げようとするものの真意を理解しようと努力すれば、自から神に通ずる。ある人はそれを書物に表現し、ある人は絵に表現した。多く考えよ。たえまなく考えよ。そうすれば、君の思想は知らず知らずの中に普通の水準以上になるのだ。僕らは、読書の方法を知っている。ーー大いに読書しようではないか。

 

昨年の夏君の来訪中、「魔法使い」とよばれている廃坑の近くを一緒に散歩したとき、君は僕ら二人があの古い掘割やレイスヴィクの水車のそばを散歩したこともあったんだと思いださせてくれた。君は「あの当時は、いろんなことに一致した意見をもっていたっけ」といってから、「でもあの当時からみれば、君はずいぶん変わったから、もう以前の君じゃないな」とつけ加えた。それは、間違いだ。変わったのは僕の生活が当時より楽になったのと、将来も少しく明るくなった点だ。心境やものの見方、ものの考え方などは、変わっていないのだ。もし変わったが少しでもあるとすれば、それは考えたり信じたり愛していたものを、今ではもっと真剣に考え、信じ、愛するようになった点だ。

 

だから万一にも君が、現在僕がレムブラントやミレエ、ドラクロア、あるいはだれに対してで以前ほど熱心でないと相変わらず信じているとすれば、それこそ間違っている。なぜなら、事実は正反対なのだから。しかし、君も知っているように、人が信じ愛さなければならぬものは、沢山あるのだ。シェークスピアの中には、何かレムブラント的なものがあり、ミシュレの中にはコレッジオ的なものがある。またヴィクトル・ユーゴーの中には、何かドラクロア的なものがある。また福音書の中には、何かレムブラント的なものがある。バンヤンの中には、ミレエ的なものがあり、ハリエット・ビーチャー・ストウの中には、アレイ・シュッフェル的なものがある。

 

もしも君がある人の徹底的絵画の研究を認めることができれば、書物を愛するのはレムプラントを愛するのと同じくらい神聖なものだ、というのも認めてもいいだろう。両々相まって完璧に達するのだ、と思う。僕はファブリチュウスの描いたある男の肖像画が、大好きだ。あのハーレムの博物館で、君と一緒に長い間佇んで眺めたあの絵だよ。そうだ、でも僕は、またディッケンズの「二都物語」の主人公シドニー・カートンも好きだ。シェークスピアは、実に美しいね。あんなに神秘的な人はいない。彼の言葉と文体は、熱と感動にふるえる美術家の画筆にも比すべきだ。しかし、人はものの見方や生き方を学ばねばならないように、読書の方法を学ばねばならぬ。

 

僕が事物を否認している、と考えてはいけない。せいいっぱいの誠意は、もっているのだ。変化はあろうが、僕のこの点は変わらない。ただ唯一の懸念は、「一体どうすれば、社会の役に立つ人間になれるだろう。一体これでも、何かの役に立つのかしら。どうすれば、もっと沢山のことが学ばれるかしら」である。これが、たえず僕の念頭から去らないのだ。それに、またある仕事から閉めだしをくって貧乏にとりつかれ、必要なものも到底えられないような気がしてならない。これが憂鬱ならざるをえない理由の一つだ。そうなると、友情や強い真面目な愛情のありそうなところに、かえって空虚が感じられる。また道徳的エネルギーを蚕食する恐ろしい意気沮喪を感じる。運命は愛の本能を阻止するように思われる。そして洪水のような嫌悪がこみあげてきて、息の根をとめる。「ああ、いつまでつづくんだ」と叫ぶ。

 

何をいおうか。僕らの内部の思想、一体そんなものが、外部に現われるのだろうか。僕らの魂の底には、火が盛んに燃えているのかもしれない。しかし、誰一人として暖まりにやってこない。通りすがりの人々は、煙突からかすかに煙の出ているのを見るだけで行ってしまう。そんなら、どうすればいいのだ。内部の火の番をしなければならないのか。自分を抑えなければならないのか。誰かがその側に坐りにくるのを、じっと長いこと我慢して待っていなければならないのだろうか。

 

いまは、万事意の如くにならないように思われる。相当長い間この調子だったのだから、当分はこのままつづいてゆくかもしれない。だが万事が不如意になりきってしまえば、多分そのうちには、意の如くなる時期もくるだろう。それをあてにしているわけではない。そんな時期は、絶対にないだろう。だが万一好転するような時でもあれば、「やはり一かどのものは、あったんだとわかったろう」と僕はいうに違いない。

 

もし君が僕の中に怠けもの以外の何かを見てくれれば、この上もなく嬉しいのだ。というのは、怠惰には全然正反対な二種類があるからだ。無精、人格の欠如、性質の低級からくる怠惰がある。僕がその一人だと思うなら、思ってもいい。もう一つの怠惰には、不本意の怠惰、自分が何かある檻の中に閉じこめられているように思えるために、心の中ではいたずらに活動を熱望していながら、結局何もしない怠惰である。正当に、あるいは不当に傷けられた名誉、貧困、宿命的な境遇、逆境ーーこれらは、人間を檻に閉じこめるものだ。またその艦は、偏見とか誤解、極端な無知、邪推、虚偽の廉恥心などと称される。僕らを幽閉し、葬り去ると思われるものが、果たして何ものであるか必ずしもいえるものではないが、ある阻止物、ある障壁だという感じはする。そういう人は、自分にどんな能力があるのか必ずしも知ってはいないが、本能によってつぎのように感じている。「そうだ、僕は何か役にたつ。僕には、何か目的がある。僕は全然人とは違うとこがあるのを知っている。僕の内部には、何かある。それは、果たして何だろうか。」

 

どうすればこの囚われの状態から脱れられるか、君は知っているか。それは、あらゆる深い真剣な愛だ。友人、兄弟、愛、これらのものが至高な力で、何か不思議な力で、艦の扉をひらく。同情の更新されるところ、生命は必ず蘇える。

 

しかし、僕はいま歩いている小径を歩みつづけねばならない。何かしているか、研究するか、あるいはこれ以上探しつづけなければ、僕は迷ってしまう。つまり、これが僕の考え方なのだ。たゆみなくつづける。これが必要なんだ。だが「君の確固たる目的は、何だ」と君は問うだろう。その目的は、これからますます確固不動なものとなってゆく。ちょうど真剣に制作し、一つの観念、逃げろうとする一つの思想が、しっかと固定するまで熟慮して、初めて大ざっぱな下絵が少しずつスケッチになり、スケッチが一枚の完成した絵画になるように。

 

だが、他のことについていおう。君という人間は、たとえば僕が下界におりてくると反対に、天へ昇ってしまうのだ。僕が同情を失うと、君は反対に、同情をえた。僕には、それが楽しいのだよ。これは、真面目にいっているのだ。これからだって、いつもそんな反対のことになるだろう。

 

万一僕のようなものでも、何か役にたつならいつでも御用をつとめよう。僕たちは互いに遠く離れている上に、意見を異にする点もある。しかし、互いに助けあう時が、いつかはくるかもしれない。

 

目下ミレエの手法をまねて、大きな素描を模写するのに大童だ。「昼間のひととき」と、「種播く人」を、かきあげてしまった。もし君がそれを見てくれたら、満更不満でもあるまいと思う。僕はもうミレエの複製を二十枚も持っているから、君からこの上いくらか送って貰えれば僕はいつでも模写したい。この巨匠を真剣に研究しようと思っているのだ。「鍬持つ男」の大きなエッチングはめったにないが、探してくれないか。そして、どのくらい出せば手に入るか知らせてほしい。いつか鉱夫の絵をかいて僅かながら儲けるから、どうかしてその複製がほしい。

 

今は「耕作」の模写に熱中している。十頁スケッチした。もっと沢山できたのだが、テルステーク氏がわざわざ送ってくれたバルグの「木炭画の練習」をまずやりたかったからだ。ほとんど二週間、朝早くから夜晩くまで制作したが、日一日と僕の鉛筆は活気を帯びてくるように思えた。

 

ミレエ、ブルトン、ブリオン、ボートンのような巨匠たちから、人物画の手法をぜひ研究しなければならない。ジュール・ブルトンの精密画の中に、紅い落日の空を背景に暗い影絵のように「落穂拾いの女たち」を描いたのがある。

 

僕は男女の坑夫たちが、茨の生垣のある小路づたいに雪をふんで朝竪坑へゆく光景ーー薄明りの中にほのかに見える影をスケッチした。背景には、鉱山の大きな建物や、石炭の燃滓の小山などが空を背にぼんやりと立っている。いずれまた、今よりもっと上手に描き直してみたい。気取った奴が坑夫の帰宅を描いているが、あまり上手なでき栄えではない。複雑な色彩をした落日を背景に、ほのかに褐色がかった影絵の効果をなしているので、非常に難しいのだ。

 

僕はバルグの「デッサン講義」を規則正しく勉強し、一通りやってから、他のものに手をつけるつもりだ。おかげで日一日と腰も心もしっかりしてくる。余暇には、テルステーク氏の送ってくれた解剖に関する書物と、遠近法に関するものを読んでいる。この研究は実に無味乾燥で、読んでいても焦々してくるが、それでも立派に研究しつくそうと思う。

 

大きなセピアの素描を立派に完成する前に、テオドル・ルッソーの「野中の竈」を二回も水彩でかいた。ロイスダールの「雑木林」も、模写したくてたまらない。君も知っているように、この二つの風景画は、スタイルも情感も全く同じだ。僕はこれらの絵の大ざっぱなスケッチをやってきたのだが、大した進境をみなかったが、近頃はよくなってくるようだ。この分だと、更によくなる望みがある。殊にテルステーク氏や君から立派な手本を提供されたのだから、何の基礎もなく制作するよりも、当分は立派なものを模写した方がいいように思う。だがやはり竪坑へゆく坑夫たちの絵を、以前よりもっと大きくしてスケッチせずにはいられない。もっとも人物の位置は、少し変える。バルグの他の二つの画集を模写してしまったら、相当特色のある人物さえあれば、男女の坑夫たちを多少上手にかける。またこの種の人物なら、沢山いる。

 

ミシェルのエッチングのついた書物を君がもっているなら、もう一度あの風景画がみたい。というのは現在の僕のものの見方は、絵を始めたころとは違っているからだ。

 

目下制作に躍起になっているんだ。心配しなくていい。このままつづけてやれれば、とにかく一人前にはなれると思う。当分は目覚しい結果もえられないだろうが、時節がくれば、これらの茨にもそれ相当の白い花が咲くと思って楽しみにしている。また見たところ何の役にもたたぬ苦悶も、陣痛にほかならぬと思って楽しみにしている。まず苦しめ、然る後に悅べだ。何もしないよりか、何かしているのを見る方が、君も気持ちがいいだろうと思う。多分それが二人の間の共感を回復し、たがいに何かの役にたつ方法になると思う。

 

僕は近頃、徒歩旅行をやった。以前クーリエールを見なければならぬ、またジュール・ブルトンのアトリエ(3)を見なければならぬ、と思っていたことがあった。アトリエの外観は、案外つまらなかった。几帳面な四角な煉瓦造りで、無愛想で、冷淡な、癪にさわるような外観をしていたからだ。もし内部が見れたら、きっと外部についてもそんな考えをもたなかったかもしれない。だが、内部は見れなかった。案内を乞う勇気がでなかったからだ。クーリエールで、ジュール・ブルトンやその他の画家の足跡を探した。ただ一つ発見できたのは、写真屋にあったブルトンの写真と、古い教会のほの暗い片隅でみたチチアンの「キリストの埋葬」の模写とだった。それが果たして彼の手になったものかどうかはっきりしないが、誰の署名もなかったようだ。

 

「カフェ・デ・ボーザール」という名のカフェがある。これも例によって新しい煉瓦造りの無愛想な建物であった。有名な騎士ドン・キホーテの生涯のエピソードを描いた一種の壁画で飾ってあったが、いずれも貧弱で、大した慰安にならぬように思われた。だれの手になったものか、わからない。

 

クーリエールの周囲には、乾草堆や茶色の土や、ほとんど珈琲色の粘土などがあって、あちこちに泥灰土の白い斑点がみえる。いつも黒土ばかり見慣れていた自分たちのようなものには、これが実に珍らしい。クーリエールにも、以前鉱山があった。黄昏の中を上ってくる日勤の坑夫を見たが、ボリナージュで見たような男の服をきた女は、いなかった。しかし、どの坑夫も疲れた悲惨な顔つきで、石炭の埃をかぶって真黒になり、ぼろぼろの坑夫服を身にまとい、中には古ぼけた兵隊のマントをきているものもいた。この旅行は僕には少々過激だったとみえて、疲労しきって痛む足をひきずりながら多少憂欝になって帰ってきたが、別段この旅行を悔いているわけではない。なぜなら、いろんな興味あるものを見たからだ。悲惨そのものにも、いろいろ程度があるものだと知った。

 

手提鞄の中にしまっておいた絵を、道々あちこちでパン屑と交換した。最後には、露天で野宿しなければならなくなった。一度は放りだしてあった荷馬車の中で夜を明したが、翌朝起きてみると、霜で真白になつていた。ーーあまりいい休息所ではなかった。あるときは薪束の中で寝たこともあった。もう一度は少し上等だが、乾草堆の中でいい具合に寝床をつくったが、生憎と細雨のために気持ちよくは眠れなかった。

 

さて、こんな深い悲惨の中にあっても僕は精力の蘇生するのを感じ、自分にこういったのだった。どんなことが押しよせても、僕は再び立ちあがる。失望落胆のあまり、かつてはなげすてた画筆をとろう、と。その瞬間から一切のものが一変して、今や僕は新しい出発をしたのだった。僕の画筆はいくらか自由に動くようになり、更に日一日とそうなってゆく。何一つ手につかなくなるくらい僕を意気消沈させていたものは、久しすぎるくらい久しい間の実に悲惨な貧困からだったのだ。

 

その旅行中に見たもう一つのものは、織工の村だった。坑夫と織工とは他の労働者たちと趣き異にした点があって、僕は彼らに非常に同情する。いつか彼らの絵をかいて何も知らぬ人たちの前に公開できれば、どんなに幸福だろうと思う。(4)深淵の底から浮かび出てきた人間ーーそれが坑夫だ。夢みているような、幾分夢遊病者のように放心している人間ーーそれが織工だ。僕は二年ばかり彼らと一緒に生活していたから、彼ら殊に坑夫たちの本当の性格が、ややわかっている。いわば世間から最も蔑視された下層階級のそれらの憐れな名も知れぬ労働者、一般から盗賊か罪人の一族のように思われているこれら労働者の心のどこかに、何か人の心を動かす、いじらしいものがあるのを僕はしばしば見て知っている。

 

僕はメリオンのエッチングを少し知っている。君は珍奇なものを見たい、とは思わないか。彼の手になった正確巧妙な絆をヴィオレ=ル=デュクか、あるいは他の建築家の描いた模写と列べてみたまえ。そうすれば、メリオンの全貌がわかる。他のエッチングが彼の作品を引きたてるか、対照をなすに役立つからだ。そこに、何が見られるだろう。このメリオンは、煉瓦をかくにも花崗岩や鉄格子あるいは橋の欄干をかくにしても、僕にはわからない内奥の悲哀に打たれて、人間の魂の何かをそのエッチングの中に表現している。メリオンにはそうした愛の包容力があったので、ディッケンズのシドニー・カートンのようにそこらの石ころまで愛するといわれている。

 

ミレエの中にも、ジュール・ブルトンの中にも、ヨセフ・イスラエルスの中にも、さらに高尚な、さらに価値ある、さらに福音書的な調子で表現されたこの貴重な真珠にも比すべき人間の魂が、一層はっきりと現れているのだ。待っていてくれたまえ、僕だって芸術家だということが、いつかは君にもわかると思う。もっとも、果たして何ができるのか自分にもあらかじめわからないが、何か人間的なとこのある絵がかけるようになりたい。しかし、まずバルダを一通りやってから、多少むずかしいものにかからねばならぬ。道は狭く、門も狭い。それを見出す人も少ない。

 

パリへ出たくて、たまらない。だが一文も稼がない僕に、どうしてそれができよう。懸命に勉強しても、そんなことが考えられるようになるまでには、まだなかなかだろう。というのは、必要なだけ制作できるためには、少なくとも一カ月百フランはいる。それ以下でもやってゆけないことはあるまいが、とても苦しい。

 

ここで生活していれば、経費はかからない。だが現在いるようなちっぽけな部屋では、これ以上長くは我慢できなくなるのは、わかりきっている。小さな部屋が一つだけで、寝室が二つある。一つは子供用の寢室、一つは僕が使っている。かなりサイズの大きなバルグを描いている今では、この小さな部屋では、不便でたまらないのだ。家の道具を動かしたりして、この家の人々を仰天させたくはない。家の中のもう一つの部屋は、決して使用しないようにといわれている。婦人の洗濯室になっているからだ。

 

立派な価値ある芸術家と友情を結ぶ機会が与えられれば、僕にとってどんなにか有難いのだが、しかし唐突にパリへ行っても、クーリエールへの旅行をまたしても大袈裟に繰り返すようなものだ。芸術家の生きた見本にあいたいものだと思ってあすこへ出かけたのだが、どこにも見当らなかった。僕のすべきことは立派に描くこと、自分の鉛筆かクレイヨンか画筆の自由自在な使いかたを学ぶことだ。これさえこなせたら、どこへ行こうと立派なものが描ける。このボリナージュも、古風なヴェニスやアラビアやピカルディに劣らぬ画題になる。

 

毎日困難がやってきて、しかも新手が続々と出現してはくるが、再び画筆を手にしていい知れぬ幸福を感じている。長い間考えていたことだが、いつも自分には及ばぬものと思っていたのだった。自分の弱さ、自分が情けなくなるほど人の世話になっているのなど感じぬわけではないが、今では心の平静をとりもどし、精力も一日一日と増してゆくのだ。

 

だから何かいい手段か機会があったら、僕のことを考えてくれないか。それまでは、ここの小さな坑夫の小屋に蟄居して、できるだけ勉強しよう。

 

(1)ベルギーの南部の炭坑地域である。ヴインセントは一八七八年の冬の初めに、ル・ボリナージュへ着いた。彼は後年彫刻家ムニエが住んだ村であるパーチユラージに、落ちついた。そこは一八七五年にヴエルレーヌが数百日をすごしたモンスの獄に近く、ヴエルハーレンが最も悦ばしい隠居所を見出したビクに近い。ヴインセントのボリナージュ時代は、熱烈な信仰生活に入り、自己を犠牲にして献身的に坑夫たちのために働き、説教した。キリストの教義の実践躬行に精進し、ぼろをまとい、パンと水だけで地べたに眠るという熱烈な信仰生活をしたのであった。その余暇に彼は坑夫をモデルにしたり、風景をスケツチして数々の素描をかいた。
(2)イソップの寓話に出てくる愚人の例。
(3)彼は日頃尊敬していたブルトンが、工芸的に拙らぬ外観をもつアトリエにいるのをみて幻滅を感じて、門を叩く気がしなかったのである。
(4)この願いはやがて実行され、ヴインセントは数々の織工を描いた。しかし、彼の意図のような形では公開されなかった。それらの絵の価値が認められたのは、彼の死後である。

エッテンにて 1881年4月

当地へきてから、数日になる。戸外は、実に素晴しい景色だ。絵には恰好のものがあって、うれしくてならない。当分ここで、静かに制作ができるだろうと思う。できるだけ沢山の習作が、かきたい。というのは、後日絵をつくりだすに相違ない種子だからね。

 

雨さえ降らなければ、毎日野原ーーそれも大抵は、ヒースの生え茂っている野原に出かける。僕はどっちかというと、大規模な習作をつくる。そんなわけで、ヒースの原の田舎家やローツェンダール街道の藁葺きの納屋を描いた。この納屋のことを、土地の人は「新教徒の納屋」とよんでいる。これと丁度真向かいの牧場の水車と教会の庭の楡の木、大きな松の木の切り倒されている広い地面で、忙しくたち働いている木樵たちの習作をつくった。その他、荷馬車や鋤や馬鍬や手押車などの道具類も努めてかこう。樵夫の絵は、一番よくできた。君も気にいるだろう。

 

カッサーニュの「水彩画汎論」を買って、勉強している。たとえ仮りに僕が一枚の水彩もかかないにしても、教えられるところが多分にある。たとえば、セピアとインクに関することだ。というのは、僕はこれまでペンで、時にはあたりの太い葦のペンで活かした鉛筆画を専らかいていた。この頃かいているものは、線を多く使用しなければならぬ関係から、そんな方法が必要だったのだ。線による遠近法でも、同様だった。たとえばこの村の中の二三の仕事場や鍛冶場、大工の店、木靴作りの店などを描くには、それが必要なのだ。

 

ラッパルトは、カッサーニュの著書を全部買うといっていた。彼は、遠近法に悩んでいる。この悩みには、治療法がないのを僕は知っている。この悩みが解消すれば、少なくともこの書物に感謝しなければならない。僕はそれに書いてある理論を、実地にやっている。

 

ぜひとも必要なものが、も一つあるのだ。それは、白のアングル紙だ。しかし、光沢のない白ではなく、むしろ漂白しないリンネルの色だ。古い色調でもない。それをブラッセルからもってきてかいているが、ペン画、殊に葦のペンでかくには至極適当だ。

 

妹のヴィレミエンがいなくなって、残念だ。あのこは大変上手なポーズをしたのだが、彼女とここに滞在していたもう一人の若い女との素描を、一枚かいた。それには、ミシンもかいておいたよ。近頃ではもう紡車がなくなって画家には残念だが、それに劣らず絵画的なものも、その代わりに現れている。

 

庭園師のピエト・カウフマンが、いいモデルになると思う。鋤や犁などをもたせてモデルにすれば、更にいいだろう。それも僕の下宿でなく、庭園か彼の家か、または畠でかきたい。モデル術を人に理解させるのは、ずいぶん骨の折れる仕事だ。この点にかけては、実に頑固で、なかなモデルになってくれない。肘や膝や肩のとこが、少しもふくらみのついてない、しかも不必要な襞をつけた晴衣をきて、モデルに立ちたがるのだ。

 

リースボッシでも、一枚かいた。今では日中は暑くてやりきれないから、家の中でかく。いつか君のいたことを思いだして写真をみて肖像画を数枚かいたが、これは確かにいい勉強になる。

 

君とまた会って、いろいろ長いこと語りあえて実に愉快だった。今は、ずっと気分もよくなっている。君が帰った翌日、頭のいい実際家のファン・ゲット医師と、長いこと話しこんだ。何でもない病気だと思ったからではなく、むしろ病気であろうとなかろうと、医者と話をして自分の健全なのを知りたいためだ。健康についての健全で真実な言葉をきくと、健康について更にはっきりした考えが段々にできてくる。

 

今はあのアングル紙に、「木炭画の練習」をかいている。バルグから模写するよりも自然をかく方がもっと力がつくが、それでももう一度やり直しているのだ。もうこの仕事は、これでおしまいにしよう。写生をする際に、こまごましたことに気を配りすぎて、大きいことを見逃してはならない。最近の自分の素描が、ほとんどそれだったのに気がついた。だから、バルグの手法を再び学びたいのだ。(彼は大きな線と形と、単純で繊細な輪郭とだけをあげている。)これを仕上げてしまう時期は、秋だろう。秋は絵をかくのに、気持ちのいい時だ。

 

僕が徐々に獲得し始めているもの、すなわち短時間に苦労なしに読書して、その強い印象を保持する力、これがすべての人々にあればいいのにと思う。読書と絵画の鑑賞とは、全く同じことだ。人を疑わずに、躊躇せずに、確信をもって、美しいものを鑑賞しなければならぬ。

 

いまハーグから帰ってきたばかりだ。火曜にここをたったが、いまは金曜日の晩だ。ハーグでは、テルステーク氏とモーヴとデ・ボックにあった。テルステーク氏は非常に親切にしてくれて、僕が進境を示したと思うといってくれた。

 

モーヴとは午後と夕方のひとときを過ごして、彼のアトリエで美しいものを沢山見せてもらった。(1)しかし、僕自身のかいた絵の方が、モーヴにとつて遙かに興味があるようだった。彼はなるほどと思われる多くのヒントを与えてくれたからなるべく近い中にまた逢う手筈をきめたが、その折には、新しい習作ができると思う。彼は自分の沢山の習作を見せて、説明してくれた。それも油絵のための下絵ではなく、大したものではないが、本当の習作なのだ。彼はもう僕が油を始めてもいいと考えている。

 

デ・ボックに逢って、愉快だった。彼のアトリエに行ったんだ。海岸の砂丘をかいた彼の絵が、美しかった。だが彼は、人物の画法をもっと研究すべきだと思う。そうすれば、もっといい絵ができるだろう。彼には、真の画家の素質があるようだ。ミレエとコローが大好きなのだが、この二人の画家は、人物に苦心しなかっただろうか。コローの人物画は、風景画ほどよく知れわたってはいないが、人物を描いた事実は、無視できない。それにコローは、まるで人物に対すると同じような献身と愛とをもって樹木を描き、それをモデルにしたのだった。コローのかいた樹木は、デ・ボックのとはまるで違った趣きがある。デ・ボックのもので僕が見て一番いいなと思ったのは、実はコローの模写だった。

 

君に知らせたいことがある。それは僕の素描にも、技法にも、変化がおきてきたことだ。モーウの言葉をひき合いにだせば、再び生きたモデルを使って描き始めている。「木炭画の練習」を綿密に研究して、何回となくそれを模写している中に、人物画の画法について更にいい識見ができた。測定や観察の方法、主要な線の探し方を学んだ。そのおかげで従来不可能と思われていたものが、次第に可能になってきている。

 

鋤をもつ男の絵「耕す人」をいろいろ位置をかえて五回以上も描き、また種播く人を二回、箒をもつ少女を二回かいた。それから馬鈴薯の皮をむいている白い帽子をかぶった女と杖によりかかっている羊飼いと、両膝に肘をついて両手で頭をかかえこんでいる病める農夫なども、かいた。もちろん、これだけでやめるのではない。二三匹の羊が橋をわたれば、全体の羊の群があとについてわたるようなものだ。男女いずれにしろ、坑夫、種播く人、耕す人ーーこれらの人々を、僕はたえずかかなければならない。多くの人人がこれまでやってきたことでもあり、また現在もやっているのだから、僕も田園生活に属するあらゆるものを観察して描かねばならぬ。

 

今後は以前のように自然の前にたって、なす術なく、ぼんやり眺めていることはない。自然は常に芸術家に抵抗することから始まる。だがその抵抗を真剣に受ける人は、そのために必ず正しい方向にむかって進んでゆく。またそれこそ、勝利を目指して闘うための刺激となる。根底において、自然と真の芸術家とは、一致する。とはいえ、自然は確かに「把み難い」ものだ。それでも、把握しなければならない。しかも強力な手で。僕が現在までにその境地に達しているというのではない。誰だって僕に劣らぬほど考えてはいるが、ともかく僕は、歩一歩よくなりつつあるのだ。

 

人物の描き方は、間接にではあるが、風景を描く場合に多大の影響力のあるものだ、とますま深く感じている。一本の柳をかくにしても、それに生命があるようにかけば、結局それは生きるのだ。その木に注意力を全部傾注して、その木に生命を吹きこむまでやめなければ、四囲の事物は当然それに応じてくる。僕がデ・ボックにいったように、彼と僕とがまる一年人物を描くことばかりに熱中すれば、ついには互いに今とは全く面目一新したものになるだろう。その反対に熱中もせず、新しい研究もしないでいると、現状にとどまるどころか後退してしまう。僕らが人物もかかず、また人物をかく気で樹木をかかなければ、それこそ骨なしの人間だ。彼もこの意見には、同意しなければならなかった。

 

もちろん僕は、モデル代を払わねばならない。大した額ではないが、毎日繰り返すのだから立派な画家にならなければ、その費用はかさんでゆくばかりだ。人物が全く失敗に終わるなどということはめったにないから、モデル代ぐらいはすぐに払えるようになるだろう。今日では人物画のかけだしの者でも上手にかきさえすれば、どんな者にだって、需要があるからね。

 

偶然にボスボームが僕の習作をみて、それについてヒントを与えてくれた。こういうヒントの得られる機会が、もっとあればいいと思っている。ボスボームは自分の知っていることを他人に頒ち、ものごとをはっきりさせる才能のある男だ。

 

ハーグから鉛筆のようなクレイヨンを買って帰り、目下そればかり使っている。また別にセピアと墨を使って、時には色も使って、画筆と擦筆でかくのもやっている。近頃僕の描いている絵は、以前のとはやや趣きがちがっている。

 

さてモーヴは、これを許して「工場は目下盛んに活動中」と、いった。

 

ハーグ行の顛末は以上の通りだが、モーヴやその他の人々との交渉は、その緒についたとみるべきだ。




実は、思い悩んでいることがある。

 

この夏従姉のK(2)を深く愛するようになり、抑えきれない気持ちをあのひとに打ち明けたのだが、「自分は、一生独身で暮らす」というつれない返事だった。

 

それ以来、どうしたらいいかと思い悩んだ。「いいえ、絶対にだめです」という彼女の言葉をそのままうけいれようか、それとも、もしやという一縷の望みもあることだから、あきらめずに希望をつないでいようか。僕は、後者を選んだ。この決心を、悔いてはいない。もちろん、その時以来「人生の人知れぬ悩み」にいろいろ遭ったが、この愛の苦しみにも、価値があるのだ。人にはまるで奈落の底におちたような絶望を感じる時もあるが、その中にも、立派なものがあるのだ。

 

いまの僕の立場は、明らかにされたのだ。この問題については、どうせ老人たちと一悶着起こるだろうと思う。というのは、彼らはこの問題は落着したものとだと思っているし、いずれ僕に断念を強いるだろう。がさしあたりは、うまいことをいって十二月にある伯父の銀婚式までひっぱり、それからさっぱりと、思い切らせようという手段をとるだろうと思っている。

 

K自身は、決して心変わりしない考えでいるし、老人たちは僕にむかってあの女が考え直すなどということはあり得ないといっているのだが、内心ではやはり女の心変わりを怖れているのだ。この問題について老人連中が考えなおす時は、Kの心境の変化ではなくて、僕が少なくとも年に一千フランは稼げる人間になったときだよ。大ざっぱないい方を許してくれ。僕が猪突的な男だと誰かが取沙汰しているのを多分君もきいて知ってるだろうが、恋愛に無理は禁物だぐらいのことを知らないものがあろうか。無理をする意志は、全くない。だがKと僕とが互いにもっとよく知りあうために、会ったり、話したり、手紙をやりとりして、二人がよく合っているかどうかを知る方法を望むのは、決して無理な、また不当な要求ではない。

 

僕が一生懸命に勉強して相当に成功すれば、その機会もあるとお節介にもこっそりといってくれたのは、全く意外にもヴィンセント伯父だった。伯父はKの「いいえ、絶対にだめです」といった言葉に対する僕の態度が気にいったのだが、それも真面目にとったのではなく、冗談半分にである。それはさておき、僕としてはとにかく一生懸命に勉強して、自分の希望を遂げようと思っている。Kにあってから、仕事がぐんぐん捗るようになった。

 

僕を彼女に一そう近づけてくれるものなら、どんなことでも片端からやってゆきたい。

 

   彼女を愛し、愛しぬく
   ついに彼女が、僕を愛すまで。

 

これが僕の心情だ。反対する者が多くて悲しいが、へこたれはしない。むしろ、勇気百倍だ。

 

こんなことを書くと、君にはすこし奇妙に聞こえるかもしれないが、だからといって僕は驚かないよ。だがこれがために、少しでも全体の空気がわかってもらえたら、結構だ。絵の場合でも、長い真っ直な木炭で均斉と計画をあらわそうと努力し、必要な補助線を描いてしまえば、あとはハンカチか羽毛で木炭を消して、もっと緊密な輪郭を描き始めるものだ。

 

多くの人から「断じていけない」といわれても、冷めないだけの真剣な熱情的な愛があるといったら、君が驚くかどうか、まず何よりそれがききたい。君は驚くどころか、それこそ当然すぎるほど当然だと思ってくれると信じている。愛は積極的で、強烈で、真実なものだから、命をとるから断念しろといわれても、決して断念できるものではない。

 

僕にそんな傾向があろうとは、実際のところ考えられない。人生は僕にとって、ますます価値あるものになってきた。愛すということは、悦ばしいことだと考える。僕の人生と、僕の愛とは、一つのものだ。当分の間「絶対に、だめです」という言葉は、氷の塊のようなもので、僕の熱い心臓に押しつけておけば溶けてしまうと思っている。氷の冷たさと僕の心臓の温かさと、果たしてどっちが勝つだろうか。それはむずかしい質問だ。「氷は溶けまい」とか、「ばかばかしい」などというぐらいのことしかいえない人は、この問題については、とやかくいってもらいたくない。心臓の熱ぐらいで氷は溶けぬと物理学では教えるが、僕には疑問である。

 

Kには、別に愛人がある。そのために、新しい愛情の可能性を考えるだけでも胸がいたむのであろう。あの女はいつも過去を考え、その思い出の中に自ら沈潜しているらしかった。(3)僕は考えた。あの女の深い悲しみは尊敬するが、またその気持ちはわからぬでもないが、その中には幾分宿命論めいたものがあると思う。だから僕は、気を弱くしなくてもいいのだ。僕は「何か新しいもの」を喚起するように、努力する。その所謂「何か新しいもの」とは、古い愛の代わりとなるものではなく、それ独自の地位を主張する権利のあるものなのだ。

 

そこで、僕は切りだした。ーー最初は無骨でおずおずしたものだったが、それでもしっかりとやったのだった。

 

「Kさん、僕はあなたを僕自身のように愛しているのです。」
と最後にいうと、彼女は
「いいえ、絶対にだめですわ。」
と答えたのだ。

 

この夏こんなことがあったとき、最初は死刑の宣告でもされたように恐ろしいショックを受けて、しばらくは地上にたたきのめされた気がした。それから何ともいい難い心の苦悶の中に、一つの考えが暗夜の一條の光のように浮かんできた。諦められるものは、諦めるがいい。信念の持てるものは、もつがいい、と。そこで僕は、立ちあがった。無論諦めないで、信念をもったのだ。たとえ最初はあの女に不快な想いをさせても断じてあきらめぬと固く決意したとき、「彼女以外には、ないのだ」という想いでいっぱいになったとき、ある強いものが湧きあがってくるのを感じた。すると、一切が僕には新しくみえた。力が加わった。

 

「彼女以外には、ないのだ」と思ったことのない男には、愛とは何かわからないであろう。そ人々がいうと、僕は僕の全身全霊をもつて「彼女以外には、ないのだ」と感じるのだった。「お前が『彼女以外には、ないのだ』などと臆面もなく口にするのは、とりも直さず弱さと世間知らずを暴露している証拠だ。人間到るところ青山ありだ」という人があるかもしれない。ばかなことを! この弱さが僕の身上なのだ。僕は、あの女にだけたよる。どんなことがあっても、僕は彼女から離れようとは思わない。

 

こういう経過をたどって、今は気も落ちつき、確信もできた。それが絵の仕事に影響して、必ず成功すると確信させ、懸命にやっている。僕が何か非凡のものになるというのではない。平凡なものになる、といっているんだ。僕のいう平凡なものとは、僕の作品が健全で、理性的で存在の権利をもつこと、何か役にたつということなどをいっているのだ。真の愛ほど、生命の実在をわれわれに知覚させるものはない。生命の実在を本当に意識した人で、間違った道をあゆむ人があるだろうか。ないと思う。でもあの不思議な感情を、あの愛の不思議な発見を、何にたとえよう。君が誰かを発見して、「ええ、御意のままに」でなく、「いいえ、絶対にだめです」という返事にぶつかったときこそ、非常な驚きだ。恐るべきことなのだ。あの女にもっと富裕な婚約者ができたとか、僕が「同胞」の関係以上に進むと、あの女は積極的に僕を嫌うとか、他にもあるもっといい機会を逸して気の毒だ、などということをいつかは僕が耳にしなければならぬと家族のものがほのめかすのは、一体思いやりある仕草だろうか。

 

ついこの夏、君は人生の困難は口にせず、じつと胸に秘めておく方がいいと思う、といったね。実のところ君の言葉には同感できないし、また人なつかしさにしばしば人に接していって、いつも力づけられずに、かえって意気沮喪させられるのはよく知っているのだが、やはり君の言葉には同意できないのだ。父も母も心根はいいのだが、僕の心の底の感情については、あまり理解がない。両親とも心から僕を愛していられる。僕もまた君に劣らず父母を愛しているのだが、多くの場合、具体的な忠舌は与えてくれないのだ。それは僕の誤りでもなければ、父母の罪でもない。ただ年齢と意見と境遇の相違からくるのだ。たとえどんなことがあろうとも、僕らの家庭は僕らの安息所であり、僕らはその有難味を知らねばならず、また僕らの方からは家庭を尊敬しなければならぬということは、僕も全く同感だ。恐らく君は僕がこんなことをいうとは予期しなかったろうと思う。しかし、どんなによく、どんなに必要で、どんなに重要であろうとも、両親のいる今の家庭よりももっとよく、もっと必要で、もっと重要な安息所があるのだ。それは、僕ら自身の炉端と家庭である。

 

実業家諸君よ、諸君にも恋物語があるだろう。君はそれを極めて退屈で、極めて感傷的だと考えるだろうか。

 

僕が真剣に愛するようになってから、僕の絵は、更に真実性をもってきた。こうして君に手紙を書いているこの小さな部屋の中にあって、ハイケの男や女や子供たちのコレクションにとりまかれている。このごろ「僕には、製図家の手のある」ことがわかりだした。僕にそんな技術のあるのは、うれしい。たとえそれが、大した働きをしないにしても。

 

君から両親にもっと楽観するよう、もっと勇気と人情とをもっていただきたい、とすすめてほしい。今まで父や母のことを少し不平がましくいってきたが、結局は父も母もあのことについては全く無理解で、この夏に僕のした行為を「早まった無作法」とよばれた以外は、以前にもまして親切でよくして下さっているのだ。だが欲をいえば、僕の意見や思想をもう少し理解してもらいたいのだ。忍従というのが両親のやり方だが、僕には承服できない。この夏も母から、ただ一言でもいいから優しい言葉をかけてもらえば、露骨にはいえないことも一部始終告白する機会はあったのだが、母は優しい言葉はおろか、一切の機会を断ちきってしまったのだ。

 

母は僕に気の毒そうな顔をして、慰めの言葉をかけてくれた。そしてきっと諦めの力が与えられるように美しい祈りをされたと思う。しかし今になっても、その祈りは、きかれなかったのだ。いやその反対に、僕は実行力を与えられた。

 

忠告と反対のことをやってみるのは、しばしば非常に実際的なことで、人に満足を与える。だから人に忠舌をしてもらうのは、多くの場合有益なのだ。しかし、ありのままの状態で用いられる、つまり裏返してみる必要のない忠がある。この忠告はすこぶる稀で、しかもすこぶる望ましいものだ。なぜなら、それにはある特別な性質があるからだ。前者のような忠告は、いたるところ何千となく発見できる。

 

この恋愛の最初から、僕は何の束縛も受けず、全力をあげて没頭するのでなければ、機会は永久にこないと思っていた。またたとえそうであっても、僕の機会は僅かなのだ。だが僕の機会が沢山あろうがなかろうが、それが何だろう。恋をするとき、こんなことを考えなければならないのか。いや、計算する必要はない。愛するから、愛するのだ。そうなれば頭は冴え、心は曇らない。感情もかくさなければ、火と光を消すこともない。ただ一言「有難い、僕は恋をしているのだ」という。

 

恋のための魂の闘争もやらないで、くり返していえば荒海の中で、大雷雨の中で、生死の境を彷徨しないうちに「あの女は、俺のものだ」と早合点するものは、真の女心の何たるかを知らず、極めて変わった方法で真の女から責められるだろう。まだ若いころ、僕は空想と現実の相半した気持ちで恋をしたことがあった。(4)その結果は、ながい慚愧の年月を送ることになった。だがこの慚愧の想いを、そのまま無駄にはしたくない。僕はこのつらい経験と厳しい教訓のため「失意の男」として語るのである。

 

テオよ、君も同じように恋をしてみたら、自分の中に全く違ったものを発見するだろう。君や僕のようにいつも人と接している人間はーーもっとも君は、僕よりその範囲は広いがーーとにかく、僕らは頭で仕事をする傾きがある。つまりある種の外交術と、ある種の鋭い計算とで仕事をやるものだ。だが一度恋愛すると、自分も意識しない力が自分を駆って行動に赴かせるのを感じる。それが心臓なのだ。

 

僕らは往々にしてそれをばかにする傾向があるが、人は恋をするときまってこういうのだ。僕は自分の行うべきことを頭に相談しないで、心臓に相談すると。今の僕の場合がそうなのだが、父や母の態度が積極的でも消極的でもないとき、つまり公然と賛否を表明してくれないような場合、殊にそうなのだ。両親がどうしてこんな態度をとっていられるのか、僕には一向わからない。冷たいのでもなければ、温かいのでもない。いつでも、やりきれない想いをするよ。

 

この夏僕が父にその話をした折、父は極端に過食した男と、極端に減食した男の寓話をして、話の腰を折ってしまった。どうもそれが場外れで、しかも頭も尻尾もない寓話なのだ。一体父は、何を考え違いしているのだろうと思った。恐らく、気を回しすぎたのであろう。彼女と僕とが何日間も何週間も一緒につれだって散歩したり、話したりしたのを、見たからなのだろう。こんな気持ちで見ている眼で、はっきりしたことがわかるだろうか。恐らく、わからないだろう。僕がある二人の心に躊躇し疑うとすれば、その二人の態度に信をおく。だが現在では、事情が全く違う。僕のこの恋愛は、僕を大胆にした。僕は自分の中にエネルギーを、新しい健全なエネルギーを感じる。これは誰でも恋をすれば、感じるだろう。そこで僕のいいたいことは、人は「彼女以外には、ない」と思われる女にあって、初めて奥底深くにかくれていた大きな力に、気がつくものだというのだ。

 

僕が二十歳のときに知った恋は、どんなものだったろう。はっきりいうのは、難しい。肉体的な熱情は、その当時は淡かった。これは恐らく数年来の貧困と、苦労に原因していたのかもしれない。だが僕の知的な熱情は、強かった。というのは、つまり報酬を求めずただひたすら与える一方で、貰う方は求めなかったのだ。今から思えば愚で、誇張的で高慢で、しかも間違いだらけだった。なぜなら、恋愛にあっては与えるばかりでなく、貰わなければならないからだ。それを逆にしていえば、とるばかりでなく、与えもしなければならないのだ。「汝自らの如く、汝の隣人を愛せよ」とある。右か左にかたよることはできるが、それはいずれもいけないのだ。一物も与えないで取る一方だったら、社会の人間は誰もかれも泥棒か無頼漢になってしまうだろう。そうかといって、与える一方で何一つとらなければ、ジェズイットか、パリサイ人みた〔原文ママ。おそらく「の」の誤植〕ようなものになってしまうからね。あまり右か左にかたよると、その人は倒れてしまう。それをささえるものがないからだ。僕もそれで倒れたのだが、不思議に起きあがった。その他、僕の平静をとり戻すのに役立ったものは、肉体的な病気や道徳的な疾病に関する実際的な書物を読むことだった。僕は僕自身の心を、また他人の心を、深く洞察するにいたった。やがて同胞を、また自己を愛し始めた。それと同時に、一時はあらゆる惨めさのために涸渇していた心が蘇がえった。そして、現実に心を向けて人々と接すればするほど、新しい生命が僕の中に蘇がえるのを感じた。彼女にあったのは、それから後だった。

 

もし人間と生まれて野心がありすぎたり、恋愛より金銭を愛するようなら、その人はどうかしているのじゃないかと思う。野心と貪欲とは、僕らの中にあっては恋愛に敵対する仲間同士だ。これら二つの力の萌芽は、生来だれの中にもある。それが後になって不均衡な発達をとげ、一方は愛となり、一方は野心と貪欲となる。僕の考えでは愛が十分に達すると、反対の熱情すなわち野心と貪欲よりも立派な性格を作りだす。愛だけがあって金銭の儲け方を知らなければ、その人にもどこか間違ったとこがあるのだ。

 

あの女に別に愛人があるというのがわかれば、僕はいさぎよく遠くへ離れるだろう。また万一彼女が金銭のために愛してもいない男と一緒になるようなことがあれば、僕は自分の不明を謝そう。そうだとすれば、僕はブロッカルトの絵をジュール・グービルのかいた絵と間違えたわけだ。俗っぽい複製をボートンやミレースやティッソの絵と間違えたといわなければならぬ。僕は、それほど見る眼がないだろうか。だが、僕の眼は訓練ができていて、狂いはない筈だ。

 

「いいえ、絶対にだめです」という言葉は、今まで経験したこともないものを教えてくれた。まず第一に、僕の甚だしい無知、第二に、女性には女性だけの世界のあることがわかった。「有罪ナリトノ立証アルニ非ザレバ、何人モ刑セラルルナシ」と憲法に規定されているように、何らかの生存の手段をもっているという人があれば、思いやりのある人だと思う。彼らはこういうかもしれない。「この男は、存在しているーー目の前にいる。ものをいっている。彼が存在している証拠には、あることに、興味をもっている。彼の存在は自分にとって明瞭で、歴然としている。彼はある目的に到達する手段を目あてに生きているのだ、ということもわかる。だから自分は、生存の手段なき彼の存在に疑いを抱かない。」ところが世間の人は、こんな風には考えない。むしろ人の存在を信じるために、その手段を見たがる。

 

君に数枚の素描を送る。これをみれば、ブラバントの様子が何か思いだされるだろう。ところで、なぜ僕の絵は売れないのだろうか。どうすれば、売れるようになるだろう。実は「いいえ、「絶対にだめです」という言葉が、果たしてどこまで真実か確かめにゆくために、汽車の切符を買いたいと思っているので、少し金がほしいのだ。

 

このことはJ・P・S師(5)には、だまっていてくれないか。というのは、不意に行くとあの人は恐らくこの事件に関してはだまって目をつむっている以外、何もできないだろうかね。J・P・S師のような人は、自分の娘に恋人があると知ったら最後、がらりと一変する質なのだ。威丈高になり、この人がと思うような調子で、「問題の事件」に一体お前はどんな生存の手段があるのかと訊ねる。あるいは、そんなものは全然絵かきにはありっこなしと考えているから、訊ねてみもしないだろう。(あの人は、美術の方面には無知だからね。)こういうわけだから、当分「画工の腕」を見せてやるだけにしておこう。それで威かすというつもりは、全然ないのだ。また、攻撃するつもりもない。しかし僕らは、できるだけ上手に「画工の腕」を使わねばならぬ。

 

だからといって、その人の娘を愛すればこそ、その人に近づくのが恐ろしいのではなく、近づかないのが恐ろしいのだという事実に変わりはない。娘の父親は、みな玄関の鍵ともいうべきものを持っている。ペテロやパウロが天国の門をあけるように、玄関を開けたり閉めたりできる恐ろしい武器だ。この道具は、立派な娘の心に適うだろうか。適わないと思う。女性の心を開け閉めできるのは、神と愛だけだ。

 

愛する人は、生きる。生きる人は働く。働く人は、パンをもつ。あの人が女の手で、僕は「画工の腕」で悦んで働くとき、われわれの日用の糧には、こと欠かないのだ。彼女の子供の糧にも。

 

テオよ、僕はぜひもう一度彼女にあって、言葉をかけたい。アムステルダムへ行くには、金がいる。それさえあれば、行く。父と母は二人の迷惑になるようなことさえ僕がしなければ、この問題については逆らわないと約束した。弟よ、もし君がそれを送ってくれるなら、君のためにハイケから絵を沢山かいてやるつもりだ。「いいえ、絶対にだめです」が氷解し始めれば、その絵は悪くはなってゆかないだろう。

 

時おり感情の安全弁をあけないと、釜は爆発すると思う。君も知るように、父母と僕とは互いに相対峙して「いいえ、絶対にだめです」に関して、しなければならぬこと、してはならぬことについて、意見が一致しない。「下品で、しかも時宜をえてない」という強い言葉(君が恋愛をして、人からお前の恋愛は下品だ、といわれたと想ってみたまえ。)をいってしまうと、今度は言分をかえて「お前は、家庭の結束を破るものだ」と両親はいうのだ。僕が手紙をだしたというのが、不満の原因なのだ。「家庭の結束を破るもの」というような情ない言葉を無頓着に執拗に使うものだから、僕は数日ものもいわず、まるでとりあわなかった。

 

もちろん両親は、僕の態度に驚いて事情をたずねたから、
「お互いの間に愛情の絆がなかったら、一体どんなことになるとお思いです。幸いに愛情の絆はありますし、またそれは、そう易々とは断ちきれるものではないでしょう。でも後生ですから『家庭の結束を破るもの』というような情けないお言葉は、二度と使わないで下さい。」
と答えた。すると父は立腹して、「出てゆけ」といった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。父は憤慨するときまってこの言葉を吐くが、あの時だけは怒りたいままにさしておこうと、どこにでも行こうと決心した。しかし、もともと憤慨のあまりいったのだから、僕は大して意に介してない。

 

当地にはモデルもあれば、アトリエも持っている。よそなら生活費もかさみ、僕の仕事もしにくくなる。それにモデルも、高くつく。父母が本気で「出てゆけ」というのなら、もちろん出てゆく。人には我慢しきれぬこともあるのだ。

 

昨日、また絵をかいた。農夫の少年が、早朝に薬缶をかけて炉の火をおこしている絵だ。ほかに一枚、炉に薪をくべている老人をかいた。僕のかいたものには、どこか硬いとこがある。彼女はそれを軟らげてくれるにちがいないと思う。周囲の壁を見回すと、「ブラバントもの」の習作でいっぱいだ。これは、最近に始めた仕事だ。がもしも突然これらの環境から追い出されたら、また別なものを初めからやり直さなければならないし、今やっているものは、中途半端に終わってしまう。五月以来、この制作をつづけているのだ。今では僕のモデルもわかり、制作も進んでいるが、ここまでつづけてくるには、相当な苦労だった。

 

それは、あまりに悪すぎるということはないか。そのために、折角手をつけてやっと成功しかけたものをぶっつりやめてしまうのは、ばかげているか。いやいや、そんなことがあってなるものか。

 

父母は相当老境にはいっているから、偏見もあり頑固でもある。父は僕がミシュレやヴィクトル・ユーゴーの書いたフランスの書物をもっているのを見ると、泥棒や人殺しや「不倫のこと」を連想するらしいが、実にばからしい。僕はしばしば父にいったものだ。「それじゃ、まあちょっと読んでごらんなさい。二三頁読んだだけで、感銘される点がありますよ」と。だが父は、頑固だから読もうともしない。どちらか一方に従わなければいけないというのであれば、「こんな風なら、お父さんの忠告よりミシュレの忠告の方がずっと立派ですよ」と僕は、率直にいった。

 

どんなことがあっても、ミシュレだけは手放したくない。もちろん聖書は、永遠のものに相違ない。だがミシュレは、こんなに忙しい熱にうかされたような現代生活をしている僕らに、直接役にたつ実際的で明瞭な示唆を与え、落伍者にならぬよう導いてくれる。ミシュレやハリエット・ビーチャー・ストウは、今の世にはもはや福音書は価値がないと説くのではなく、われらの時代、われらの現代生活には、福音書をいかに適用すべきかを教えるのだ。ミシュレは、福音書が萌芽を僕らにひそやかな声でささやくにすぎないものを、具体的に、しかも声を大にして表明しているのである。

 

近ごろのことだったが、父は僕にこういった。「両方にお前たちは結婚しろと強いるのは、わしの良心の許さないことだった。」ところが僕の良心は、全くその反対なのだ。幸いにミシュレはこんな良心上の疑問は、全く持ち合せなかったようだ。そうでなければ、書物なんか著しはしなかっただろう。ミシュレへの感謝から、もっと先になって芸術家たちと更につきあうようになったら、彼らに結婚は必要なのだとわからせるため、できるだけ骨を折ろう。彼らは往々回りくどいことをやるものだからね。「家庭をもつ」と経費がかさむというのを怖れている画商の利益のために、妻のある美術家は、かえって金がかからず、情人をもった未婚者より製産的だと附言しておこう。情人よりも、妻の方が金がいるだろうか。画商の諸君よ、情婦に金を大いにつぎこみたまえだ。情婦たちは、かげで舌をだしているから。

 

しかし両親たちは、今度はフランス思想にかぶれて、飲酒を始めた大伯父の話をもちだして、僕がその二の舞をするのだろうと、ほのめかすのだ。

 

現代文明の先端をきっていると思われる男女、たとえばミシュレ、ハリエット・ビーチャー・ストウ、カーライル、ジョージ・エリオットのような人々は、こう呼びかける。

 

「君が誰であろうと、真心のある人間なら真実で永遠のものを建設するわれわれを援助してくれる。一つの職に従事せよ、ただ一人の女性を愛せ。君の職業を現代的のものにせよ。君の妻の中に、闊達な現代的な魂を創造しなければならぬ。」

 

僕らは、今や成人している。僕らの時代の隊伍に列している。今の時代は、父母やストリッケル伯父の時代とは違うのだ。現代に対して、もっと忠実でなければならぬ。いたずらに回顧的であるのは、かえって身を滅ぼすものだ。年長者の人々にはそれが理解できぬとしても、そのために僕らの節操を曲げるべきではない。たとえ彼らの意に反することであっても、僕らは自己の進むべき途を進まねばならぬ。そうすれば、後になって「そうだ、結局お前のやり方が正しかったのだ」と彼らはいうだろう。

 

父と母は僕を、僕を養う点、万事なにくれとなく親切にされている。もちろん僕はそれに対しては深く感謝しているが、人間はただ飲んだり、食ったり、眠ったりさせておけばいいものではなく、何かもっと高いものーーそれがなくては、生きてゆけないものーーにあこがれているのだ。

 

僕にとって、それなくしてはやってゆけないという感情は、Kへの愛だ。彼女とその両親に手紙をだすのを断念するくらいなら、いっそ始めたばかりの仕事も家族も快楽も、一切を放棄してしまった方がいい。僕の仕事については、君も大いに関係がある。というのは、僕の成功を助けるために、既に多額の金をだしてくれたのだから。僕は、進歩しつつある。曙光が、見えだした。だが、これが僕を脅かすのだ。僕の一番願っているのは、静かに仕事をすることだ。しかし、父僕を家から出したいらしい。少なくとも、そんな意味のことを今朝いった。

 

制作をするには、また一人前の芸術家になるには、愛が必要だ。少なくとも自分の仕事に情緒を求める者は、まず自分自身それを感じ、真心をもって生きなければならぬ。僕は泥棒でも罪人でもなく、その反対に内心は見かけによらぬ感受性の強い内気な男だ、と彼女にはわかりかけていると思うのだ。最初のうちは、僕を理解せずーー僕については、あまりいい印象をうけていなかったようだが、今ではどういうわけか、口論や悪口で空模様は険悪となっているのに、彼女の側から光明がさしてきている。

 

だが、父も母も彼らの所謂「生存の手段」の問題にかけては、石よりも堅い。もし今すぐに結婚するのがいけないというなら、同意してもいい。これはまた、全然別のことだ。真心の問題になってくる。だからこそ、僕は彼女と互いにあったり手紙をやりとりしたり、話もしなければいけないと思うのだ。これは白日のように明白で、単純で、合理的なことだ。

 

何とか今度だけは、両親の方から譲ってもらいたいものだ。若い者が老人の偏見のために自分のエネルギーを犠牲にするなんて、ばかげた話だ。両親は、この点で偏見をもっている。

 

刻苦勉励しなかった芸術家が、一人でもあったろうか。地歩を占めようとして、苦心しないですむ方法があるか。画工は、いつから生活の資を得る機会を失ったのか。

 

畠で馬鈴薯掘りに忙しい農夫を、また描き始めた。背景をも少し多くとりいれた。後方に灌木をとりいれ、一部には空もいれた。畠の美しさは、素晴らしいものだ。少し金ができてもっとモデルが使えるようになれば、更に趣きの変わった絵がきっと描ける。モデルには、弱っている。僕の使っているモデルは、本職のモデルじゃないのだから、尚更やっかいだ。本職のモデルだったら、一層好都合だろうと思う。

 

僕の絵に関する君の意見は、過分にほめすぎている。今後も引きつづき作品について、意見をきかせてもらいたい。そのために僕がどんなに思っても、気にかけないでくれ。そういう批評は、阿諛よりも遙かに同情に富んだ証拠なのだ。君は、実際的なことをいってくれる。実際家になる方法を、君から学ばなければならぬ。だから、大いに説教をきかせてくれたまえ。今では僕は、改宗もいとわない。むしろ、改宗したくてたまらないのだ。

 

僕の作品に興味をもつ人に偶然君がぶつかったら、かなり確信をもって僕のことが話せるようになると思う。しかしもっといい仕事をするには、もっとモデルに金を惜しまずにやらなければいけないだろう。今は一日に二十セントか二十五セント、あるいは三十セントばかり使っているが、毎日やっているわけにはゆかない。実をいうと、それでは十分ではないのだ。もう少しその方に使える金があれば、もっとぐんぐん上達するのだろうと思うのだが。

 

僕が殊さら何か事を構えて両親を悲しませるような人間でないのは、君にもわかっているだろう。父母の意志に反して何かをしなければならず、そのために父母をわけもなく悲しませるのは、僕自身、実に悲しいのだ。だが先ごろの悲しむべき場面は、憤怒のあまりの出来事だったとばかり思ってもらっては困る。ああ、以前アムステルダムで勉強をつづけてゆかないと公言した時にも、またその後ボリナージュでそこの牧師に依頼された務めを断った時にも、父は僕に同様のことをいった。だから父と僕との間には、とけきれない誤解があるのだ。それは、決して清算しきれぬものだと思う。しかし、時には全く意見の一致しない場合もあるとはいえ、多くのことでは一致しているのだから互いに尊敬はできる。

 

父が僕の真意を理解してくれれば、何か父の役にたつこともできるし、説教の方でも、手伝いができるだろう。僕は時には全く違った面から聖句をみることがあるからだ。しかし、父は頭から僕の意見が間違っているとか、でたらめだとかいって承知しない。

 

汽車賃にでもといつて、君から十ギルダー貰った時ほど有難いと思ったことはない。ぜひ行きたくても行けないと思うと、たまらないからね。S伯父(6)が気がつかないままでいるのではないかと思われる二三の点を注意するために、伯父に書留郵便をだした。世の中に牧師とその妻くらい疑い深くて、無情で俗っぽい代物は、まずあるまい。(もちろん、例外はあるが。)しかし牧師でも、時には見かけは怖くても情にもろい人もいる。

 

「貪欲」は醜い言葉だが、この悪魔は相手かまわず道連れにしてしまう。君や僕がその誘惑にまだ一度もかからなかったといえば、不思議なくらいだ。こうなると「地獄の沙汰も金次第」と思わずいいたくなる。君と僕が実際堕天使に屈服して、それに仕えているというのではないが、彼は僕たち二人をひどくいじめる。長いこと僕を貧乏でいじめ、君を高給でいじめる。これら二つのものは、金の権力に屈服させる誘惑をもっている。堕天使は金儲けは罪悪だ、なんて君に考えさせるような悪戯はやらないかもしれぬ。また僕の貧乏にもそれ相当の功績はある、とはいわないだろうと思う。いや実際、僕のように金儲けにはすこぶるうといものには、功績などあるまい。できるなら、この欠点を直したい。だから多くの有盆な示唆をしてくれたまえ。

 

僕が自分の欠点を片端から改めようとしている点は、君も十分わかってくれるだろう。ともかく財政的によくなる最善の方法は、懸命に働くことだ。しかし、それだけでは不十分だ。他にもやらなければならないことがある。いわば「地下」で長いあいだ生活してきたというのは、悪いことではあるまい。今さら、あの深淵に帰る必要はない。一切の憂鬱を吹きとばして、人生をもっと広く愉快にみるのが正しいのだと思う。またいろんな人々ともっと交際し、できるだけ古い親戚とも旧交を温めようと思う。僕はあちらでも、こちらでも、剣もほろろの挨拶を受けるかもしれないが、それを押し通して表面に浮びあがるように努力したい。

 

僕はモーヴに、畠で馬鈴薯を掘る男の素描を送った。僕の生活の何らかのしるしを、彼に⚪️⚪️〔底本の印字が消えて判読不能。〕たかったのだ。

 

当地での活動範囲や、ブラバントものの制作を自分の真の仕事といつも考えていながら、しばらくハーグへ行く方が身のためではなかろうかと思うことがよくある。そうは思うものの、これをしっかりつかんでいなければならない。またそれに慣れ親しんだ今となっては、今後数年分の画題を当地でみつけることができるのだ。しかし、ブラバントものをやっているからといって、どこか他に新しい関係を探したり、一時別の土地ですごしてならぬというわけはあるまい。芸術家か画家たちの、誰でもやっていることだ。

 

ハーグから手紙をだす。今モーヴの家の近くの小さな宿にいる。僕はモーヴにこういった。
「モーヴさん、あなたはエッテンにきてパレットの神秘を僕に教えて下さるおつもりでしたが、これは二三日でやれることでないと思ったので、僕の方からやって参りました。あなたのご同意があれば、四週間なり六週間なり、当地に滞在します。そうすれば、絵画のまず最初の細々しいことを征服できます。それから、ハイケへ戻ります。あなたに多くをお願いするのは厚かましい話ですが、御承知のように僕はどこどこまでもやる性分なのですからね。」

 

すると、モーヴがいった。
「何かもってきましたか。」
「ええ、ここに習作が二三枚あります。」
僕は、答えた。すると彼は、それをむやみやたらとほめた。批評もしたが、ほんの僅かしかしなかった。

 

モーヴは、いった。
「僕はいつも君を鈍物と思っていたが、考え違いだったとわかったよ。」



この簡単なモーヴの言葉は、心にもないお世辞をふりまかれるより嬉しかった。そこで彼は、早速僕を古い木靴やその他の静物の前に腰をおろさせて、
「パレットは、こういう風に持つんだ。」
と教えにかかった。夕方、また彼のところへ絵をかきに行く。

 

この頃は、モーヴもジェットも実に親切にしてくれるんだ。モーヴは、いろいろ教えてくれた。もちろん僕には今すぐその通りにはやれないが、次第に実行に移すつもりだ。それにしても、一生懸命しなければならない。

 

勉強の合間に、アムステルダムまで行ってきた。S伯父は、「お前なんか、くたばってしまえ」とまではさすがにいわなかったが、それでも相当怒っていたらしかった。今となっては、何ができるだろうか。行く時も帰る時も愛情には変わりはなかったが、それも彼女が僕を力づけてくれたためではない。反対に一時は、いや二十四時間というもの、彼女は僕を実にみじめな目にあわせたのだった。

 

テルステーク氏にも、会いにいった。画家の中では、あの陽気なワイッセンブルッフや、ジュール・バクヒューゼンと、デ・ボックとに会った。

 

油絵の習作を五枚と水彩を二枚、それにスケッチを二三枚かいた。油絵の習作は、静物だ。水彩はスケベニンゲンの少女をモデルにしてかいたものだ。

 

しかし、僕がここへやってきてから、もう一月近くになる。ずいぶん費用がかさんだ。モーヴ品物を少しはくれたし、絵具などもくれたが、大部分は自分で支弁しなければならなかった。モデル代も数日分自弁だったし、それに靴を買ったりしたものだから。こんなわけで、制限の二百フランを越えた。この旅行には、九十ギルダーをすっかりつかってしまった。九十ギルダー使ったのを、父は多すぎると思ったのだ。しかし、これは不合理じゃない。諸物価が、すべて高いのだからね。しかし、僕は使った金を細かく一々父に報告しなければならぬのが、いやでたまらない。誇張して、誰彼となしにいいふらすのだから、一層たまらない。

 

実をいえば、このスケベニンゲンにもう二、三カ月も滞在し部屋でも借りたいのだが、今の様子では、エッテンへ帰った方がよさそうだ。

 

とにかくモーヴのおかげで、パレットと水彩画の秘法が幾分わかった。これで、旅行につかった九十ギルダーも役にたつわけだ。

 

モーヴは、太陽は僕のために昇りつつあるが、まだ雲の後にかくれているといった。僕は別にそれに反対しない。比較的近い将来に売れるようなものをかける望みができた。この二枚の絵も、まさかの場合に買い手があると思う。殊にモーヴが少し筆を入れた方は、売れると思う。だが後日の参考のために、これは当分とっておこう。

 

水彩の素晴しい点は、雰囲気や距離を表現するにある。だから人物が大気につつまれ、その中で本当に息づいている。色彩と画筆の使い方を実地について学んだから、今後はさらに進境を示すだろう。

 

ハーグへの旅行を思えば、感慨深いものがある。モーヴのところへ行った時には、さすがに胸がどきどきした。彼もやはり口先だけであしらうのではないか、それともあるいは違った取扱がしてもらえるだろうか、と自問した。ところが彼は言葉の上ばかりでなく、実際に親切に指導してくれた。だが僕のいうことなすこと、すべて認められなかったのだ。しかし、「これはいかん、あれはいかん」という場合でも、同時に「こうやってみたまえ」と教えるのだった。これは批評のための批評とは、全く違う。

 

こんなわけで、彼のもとを辞した時には、油絵の習作が数枚と水彩画が数枚あった。もちろん傑作というほどのものではないが、少なくとも以前のものと比較すれば、どことなしに健全で真実なとこがあると信じる。これこそ僕が、真剣なものを始める端緒になると思う。それに今では、これまで使ったことのない筆と絵具を手にいれたから、仕事はしやすくなる。

 

しかしーー何よりもまず実行に移らねばならぬ。モーヴは、僕の習作をみるなり「君は、モデルに接近しすぎている」といった。そのために多くの場合均衡がとれなかったのだから、これは第一に注意しなければならない。どこかに、大きな部屋をぜひ借りたいのだ。納屋でも、かまわない。その他もっと上等な絵具と紙とが必要だ。習作やスケッチには、アングル紙が一番いい。既製のスケッチブックを買うよりも、寸法を変えて自分で作った方が、ずっと安上りだ。

 

テオよ、色調と絵具とは、実に大事なものなのだ。これに対する感覚を持とうとしない人は、真の現実からはるか遠方にあるのだ。モーヴは、僕の知らなかったいろんなものを教えてくれた。モーヴが金儲けの方法を教えてくれたのを思うと、僕は救われたような想いがする。

 

一種の虚偽の位置にあって、幾年ももがきぬいてきた僕の姿を思い浮かべてくれたまえ。今こそ、真の光明の曙がきたのだ。僕が持ち帰った二枚の水彩画を、君に見せたい。その中には沢山の不完全な点があるかもしれないが、それでも以前の作品とは違った点があるのだ。以前よりは明るく、清らかになっている。将来は更に明るく、清らかになれるだろう。しかし、そう急には所期の目的が達せられるものではない。だんだんになるのだ。

 

モーヴはもう数ヵ月も大いに奮発して、三月ごろにまた自分のとこへくれば、買い手のつくような絵がかけるだろうというが、現在の僕は、実に困難な時期にあるのだ。モデルやアトリエ、絵具代など金がいる一方なのに、一文も儲からないのだ。

 

必要な金については、くよくよ心配するなと父はいってくれるし、モーヴから僕の話をきいたり、持ち帰った絵を見たりして気をよくしているが、僕にしてみれば、父に金をだしてもらうのはみじめな気持ちがする。なぜなら、僕がここへ帰ってきてから、父は僕のためにとくをしたことは一度もないからだ。たとえば、父は一度ならず僕のために上衣とズボンを買った。ところが、その上衣もズボンも僕の身体に合わないために、あまり役にたたない。こんなのなら、初めから買って貰わない方がよかった。でもいることは、いるのだ。父も今はなかなか苦しいだろうと思う。が、これも人生のちょっとした悲惨事の一つだ。

 

この他、全然自由でないのが気に喰わぬ。父に対しては、君やモーヴに対すると同じような気特ちにはなれない。父は僕に、同情や理解がもてないのだ。どうも父のやり方には、同意できない。ーーいつも圧迫されているようでーー息がつまりそうだ。僕も時おり聖書を読むが、どうも父とは見方が違う。聖書以外の本も、僅かだが読んでいる。ーーそれらは、ものの見方が僕よりも広くて穏やかで、愛すべきところがある。人生が僕よりも深くわかっている。大いに書物からは、学ぶべき点がある。だが是非善悪に関する下らない批判の如きは、大して意にとめない。なぜならば、善なるもの、悪なるもの、道徳的なるもの、不道徳なるものは、僕らにはわからないからだ。道徳的であろうとなかろうと、いやでも応でも、僕はKに帰ってゆく。

 

ある夕方、カイザースグラフトのあたりをKの家を探して歩きまわり、やっと見つけた。呼鈴を鳴らすと、中へ招じ入れられた。みな家にいたが、Kはいなかった。(7)S伯父は、牧師兼父親として話をきりだした。丁度僕に手紙を出そうとしていたところだったので、それを読もうといったが、「Kはどこにいるのですか。」と僕は、訊ねた。(町にいるのは、知っていたからだ。)するとS伯父は、「Kは君の来訪をきくと出ていったよ。」と答えた。Kの気質は、僕もいくらかわかっている。だが彼女の冷淡と無作法は、果たして良いしるしであったかどうかは、その時はわからなかったし、今でもはっきりとわからないでいるのだ。彼女が僕にだけは冷淡で、ぞんざいで、無作法なのだということだけは、わかるが。

 

「そのお手紙なら、わざわざ読んでいただかなくて結構です。」と僕は、いった。

 

手紙はすこぶる尊大ぶったもので、要するに僕に交通を断念せよというのと、あのことは忘れてくれという意味の強い勧告にすぎなかった。何のことはない、教会内を得意然として歩きまわり「アーメン」と唱える牧師の声をきいたような気がした。まるで平凡な説教を聞いたときの冷靜な気持ちが残っていただけだ。そこで、できるだけ平静に、そして丁寧に、
「そうです、前にはそんな御意見をうかがったこともありましたが、今後はどうなのですか。」というと、S伯父は僕の顔を見あげた。そして、僕が彼の意見に信服していないのを見て、驚愕しきっていた。彼の考えでは、「今後」なるものはありようがなかったのだ。僕は幾分興奮し、不機嫌になった。S伯父も、牧師としての品位を落さぬ程度に、腹をたてた。

 

しかし、僕がどんな風に父とS伯父とを愛しているかは、君も知っているだろう。そこで僕は、少しばかり譲歩したのだ。その晩、最後に僕にさえその気なら泊まっていってもいいといってくれたが、
「大変有難いお言葉ですが、僕と入れ代わりにKが出ていったのでしたら、一晩だってここに泊らして頂く場合じゃないと思います。」と、返答した。

 

彼らが「じゃ、どこに泊まるのか」ときくから、「まだどこで泊まるとも、きまってません」というと、伯父夫妻は安くて、しかもいいところへ案内してやろうといってきかなかった。驚いたことには、あの老人夫婦が、寒い霧の深い泥だらけの夜道を至極安くて、しからよい宿屋へ案内してくれたのだった。

 

その親切な行為に胸打たれて、僕は気がくじけた。S伯父とはその他にもいろいろと話したのだが、ついにKは一度も姿を現わさなかった。あなた方は、この問題はこれで落着したものと僕に思わせたいでしょうが、自分としては、そんなことのできないのは十分承知していて貰いたい、と僕はいった。すると彼らは、きっぱりこう返事したのだ。
「後で、よく考えてみなさい。」

 

生きるために最善をつくしている僕らは、なぜもっと生きないのか。アムステルダムに滞在中のこの三日間、寂しくてならなかった。全くみじめな気持ちだった。伯父伯母の親切や議論などを思うと、暗い気持ちにならざるをえない。とうとう意気消沈してしまった。お前は、また憂鬱になってしまったな、と独話した。そこである日の朝、伯父のもとへ暇乞いにいって、
「伯父さん、きいて下さい。Kが天使なら僕にとっては、高すぎます。天使と恋愛できる自分とは、思いません。また、もし悪魔なら、そんな女に用はありません。現在僕の見ているKは本当に女らしい女です。だから僕は、Kを愛しています。これは、真実です。僕は、それを悅んでいるのです。」
といった。伯父はこれにして多くを語らなかったが、女の熱情については何か口の中でぶつぶついっていたようだった。が、それから教会へ行ってしまった。

 

冷たくて硬い教会の白壁に、あまりに向かっていすぎたかのように、身内がぞっとした。そんな気特ちに苦しめられたくはなかった。テオよ、現実主義者であるのは幾分危険があるが、君は僕の現実主義を我慢してくれるだろうね。ある人々にとっては、僕の秘密は秘密ではない、といつか君がいったと記憶する。僕は今、その言葉をむし返すわけではないが、君は僕のことをどういう風に考えてもいい。僕のしたことを是認してくれようが、くれまいが、問題じゃないのだ。

 

そこで、僕は考えた。女に逢ってみたい。愛がなくては、女性の愛情がなくては、生きられない。何か無限なもの、深遠なもの、真実なものがなければ、人生に価値はない。だが、僕はいった。お前はいったじゃないか、「あの女でなければならぬ」と。そのくせ今となって、他の女へ移って行く気か。そんな不合理なことがあろうか。まるで理屈に合ってないじゃないか。僕は、答えた。主人は一体どっちだ。理屈か、それとも俺自身か。一体論理なんてものは、俺自身のために存在するのじゃないか。それとも俺は、論理のために存在しているのか。俺の不合理と非常識の中にも、合理性と常識があるのではあるまいか。

 

僕も、もう三十に手がとどきかけている。恋愛の必要を感じたことがないとでも君は思っているか。Kは、僕より年上だ。あの女にも恋愛の経験が満更ないでもない。だから僕は、一層彼女を愛す。もし彼女が古い恋愛に生きて、新しい恋愛を拒否するならば、するがいい。もし彼女が古い恋愛をつづけて僕を避けるなら、僕は彼女のために自分の精力と精神力とを抑えることはできない。そんなことは、できるものか。僕は彼女を愛するが、といって自分自身を凍死させたり、去勢させたりはしない。刺激、僕らの欲する火花、それが愛であって、所謂精神的の愛ではない。僕は決して神様ではないし、欲望をもった平凡な人間にすぎない。僕は女のもとへ行きたい。でなければ僕は氷化するか、化石になるか、昏倒するかしてしまう。あのいまいましい壁は、僕にとって冷たすぎる。今の僕の心の中では、激しい闘いが行われている。しかもその闘いでは、肉体的なものが勝利を占めているのだ。人間は女性なくしては、安らかに生きられない。神だとか、いと高きものとか、大自然などといっている連中は、理屈のわからぬ、情のない奴らだと思うのだ。

 

僕は探すのに、大した苦労をしなかった。若くも美しくもない一人の女を見つけた。(8)背の高い、体格のがっちりした女だ。Kのように貴婦人らしい手の持ち主ではないが、よく働く人の手だ。粗野でも平凡でもなく、どことなしに、実に女らしいとこがある。その女を見ると、シャルダンかフレールか、あるいはヤン・ステーンの描いた風変わりな人物を想いだした。彼女には、一見して心配ごとのあるのがわかった。生活に苦労しぬいたのだ。人目に立つ女でも、非凡な特徴のある女でもない。

 

テオよ、僕はこの人生の盛りをすぎた女に、不思議に愛着を覚える。僕は以前から聖壇の牧師が罪深い女としてさげすむ女性に、愛着を覚えるのを抑えることができなかった。

 

あの女は、僕を騙したことがなかった。ーー女をすべて嘘つきだというものは、何という間違った考えであろう。女を理解してないのだ。あの女は、僕に善良で親切だった。

 

彼女の住んでいる部屋は、地味な質素な、小さい部屋だった。無地の壁紙は静かな暗い色調で、しかもシャルダンの網のように温かだった。マット一枚の緋色の敷物をしいた木の床、普通の台所用のストーブ、箪笥が一つ、大きな粗末な寝室が一つ。要するに、本当に働く女の部屋だ。その翌日、女は洗濯をしなければならなかった。僕らは、いろんなことを語りあった。女の生い立ちや心配ごと、悲惨な境遇や健康を語った。あの女と話していると、先生臭い従姉と話しているよりずっと面白かった。

 

ところで、君につぎのことを理解してもらいたい。僕は幾分感傷的ではあるが、愚かしい感傷をもちたくはない。また働くために活力を保ち、心を清らかに、体を健康にしてゆきたいのだ。

 

牧師たちは、われわれは生まれながらに罪深いものだという。馬鹿な! 何という無意味な考えだろう。愛し、愛を求め、愛なしでは生きられないのが、罪であろうか。愛のない生活こそ、罪深い不道徳な状態だと思う。もし僕に後悔することがあれば、神秘的な神学的な考えに捉われて、まるで世捨て人の生活を送った方がいいと誘われた時のことだ。次第に僕は、賢明になった。あさ目醒めて、自分が独りではなく、自分の側に伴侶のいるのを見れば、世の中がそれだけ懐しく見えてくる。

 

以前独りぼっちでポケットには一文の金もなく、半ば病み疲れて通りをさまよった頃、妻と連れだった男を見返して、つくづく羨ましく思った。境遇的にも経験からも、貧しい少女たちが、まるで妹であるかのように感じられたものだ。これは、根深い感情だ。すでに少年の頃から底知れぬ同情と尊敬をもって、半ば朽ちてた女を眺めたものだった。その顔には、本当の意味の人生の印がきざみこまれているかのような表情がうかんでいた。

 

牧師の神は、僕にとっては戸に打ちつけた釘のように、死んでいる。だからといって、僕は無神論者だろうか。牧師は、そう思っているのだ。ーーそう思うものには、思わせておくがいい。しかし僕は、愛す。もし生きていなければ、どうして愛が感じられよう。もし他人が生きていないでわれわれが生きているとすれば、そこに何か神秘なものがあるわけだ。それが神だ。それは現実に存在し、誠に真実なものではあるが、僕には組織的に説明はできない。神を信じるというのは、僕にとっては神を感じることだ。死んだ神でも、剥製の神でもなく、「ますます愛する」方へ僕らをおしやる生きた神である。

 

力強い温かみが欲しいために、僕は前述のような行為をしてきたのだ。もはやこれまでのように、ふさぎこんで考えてばかりはいない。油絵や水彩画、またアトリエを探すことで、頭がいっぱいなんだ。

 

早く三ヶ月がたって、またモーヴのとこへ行けるようになればいい、と時どき思う。しかし、この三ヵ月にも、それぞれのいいことがあるだろう。モーヴは絵具や画筆、パレット、パレットナイフ、テレピン油などの入った絵具箱を送ってくれた。いよいよ油彩を始めるのだ。ここまでこぎつけたのが、嬉しい。

 

近頃は、よく素描をやる。殊に人物の習作をやっている。いま君が見れば、僕がどんな方向に向かっているかわかると思う。もちろんモーヴがこれを見て、何と批評するか知りたい。先日も子供を描いたが、大いに自分の気にいった。

 

この頃の自然は、実に美しい。油絵にも少し進歩すれば、いつかはこの美を僅かでも表現できるだろう。だがわれわれは、現在の仕事を辛抱強くつづけて行かねばならない。人物の素描に手をつけたばかりだから、もっとつづけよう。戸外で描く場合は、樹木の習作をやろう。それを実際に人物と見なして、かこう。ことに輪郭、均衡、構成などの点において、人物をやるつもりでかこう。美術家の心得るべき点は、ここなのだ。モデル、色彩、周囲のことなどは、それからの話だ。モーヴに教えを乞いたいのは、この点だ。

 

だがテオよ、絵具箱のあるのがとても嬉しいんだ。一年近くも素猫ばかりしてきた後で今これを手にいれたのは、すぐに油彩にかかるよりも、よかったと思う。

 

オランダにいると、さすがに気がゆったりする。僕は再び、デッサンや油彩のスタイルはもちろん、その特徴も完全なオランダ人になるだろう。

 

三月には、またハーグとアムステルダムへ行く。

 

テオよ、僕の本当の生涯は、油絵をかくことから始まるのだ。そういう考え方は、誤りではあるまいね。

 

(1)Anthon Mauve ヴインセントより十五も年上で、その妻の Arriette はヴインセントの従姉である。つまりモーヴはヴインセントにとって義理の兄にあたる。モーザも牧師の家から出たが、農家として当時イスラエルス、マリスなどとともにすでに大家の地位にあった。
(2)Kとはストリツケル伯父の娘で、ヴインセントより年上のカーチヤ Katja を指す。ロンドン時代の初恋のユルシユラの次の愛人である。この第二の恋愛も、不幸に終わった。初恋の破綻は彼を画商から離脱させ、人生彷徨に立たせたが、第二の失恋事件は、彼の性格を歪めた。
(3)カーチヤは愛する夫と死別し、まだ亡夫のありし日の姿を胸に抱いていたという。ヴインセントがカーチヤには別に愛人があるといっているのは、果たして新しい愛人を指すのか、亡夫への愛慕なのか判明しない。
(4)ロンドン時代の初めに下宿したロワイエ未亡人のところにいたとき、娘のユルシユラに恋したことを指す。ユルシユラは、育児園の婦母をしていた。彼女は少しもヴインセントに関心をもっていなかったし、婚約者があった。しかしヴインセントは、二人の愛情が熟しつつあるように思い、求婚して拒絶されたのである。
(5)ヤン・ピーター・ストリツケル師。
(6)ストリツケル伯父は、ヴインセントが転々と職をかえて安住せず、絵をかいているが、その将来を案じていた。娘のカーチヤと結婚させても、生計が立つまいと思っていた。ヴインセントの父も血族結婚を理由に、二人の結婚には反対を表明していたのだった。
(7)ヴインセントはカーチヤに逢わせてくれと頼んだが、拒絶された。彼は怒って「僕がこうして手を火の中へ入れていられる位の時間だけでもいいから、逢わせて下さい」といって、いきなり燃えるランプの焔の中へ手をつっこんだ。「馬鹿!」と伯父は叫んで、ランプを吹き消した。
(8)ヴインセントは、ある日教会で Christine という女に逢った。あばたの妊婦であった。これが初めてヴインセントが同棲した愛人となった。淪落のモデル女シーンとか、ジーンとかよばれ、ヴインセントを悩ました女である。しかし、彼はクリスチーネを愛し、そのつれ児や剛欲な母の世話もした。彼はまたクリスチーネをモデルにして、「悲哀」その他数々の絵を描いた。しかし、この悩ました同棲生活も、テオの忠告によって打ちきらねばならなくなった。‘Great Lady’という英語の画題をつけた素描は、ヴインセントの手紙の中にあるようにクリスチーネをモデルにしたもので、背の高い、がっちりした女である。