SCIENCE

日本人との対話

ロバート・オッペンハイマー

「科学と人間」の会訳

Published in September 23rd 1960|Archived in January 25th, 2024

Image: “Robert Oppenheimer's mugshot from Los Alamos”, 1943.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿の底本とした『科学と人間』所収「座談会 オッペンハイマー博士を囲んで」の出席者は、(オッペンハイマーをのぞいて)石田英一郎、大江精三、岡村和子、加藤八千代、城戸幡太郎、崎川範行、篠崎かよ子、高宮篤、高木純一、玉虫文一、時実利彥、朝永振一郎、二瓶慶一、宗像巌、森本哲郎、 T.Lynch、田中愼次郎である(底本の掲載順)。
著作権が有効かつ許諾の得られずにいる質問者の質問については、ARCHIVE編集部が「質疑要約」とした。
底本では略称されていた発言者名(ex. 「O博士」など)は太字の「オッペンハイマー」などに直し、苗字のみだった日本人発言者については名前を添えて専攻および当時の所属を付した。
ARCHIVE編集部による補足を〔 〕内に入れ、用語統一を施した。
底本の行頭の一字下げは、一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ロバート・オッペンハイマー(1904 - 1967)訳者:「科学と人間」の会
題名:日本人との対話原題:座談会:オッペンハイマー博士を囲んで
初出:1960年9月23日
出典:『科学と人間 第三号』(科学と人間。1960年。1-15ページ)

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オッペンハイマー
私が今日こうしてみなさんといられるのは全く偶然なきっかけからでした。それは今から少し前、私がプリンストンにいるとき、小さな紙片のついた小冊子を受取ったことからです。その紙片には、私の感想と何か参考になるよい文献があったら教えてもらいたいと書いてありました。こうしてみなさんとお目にかかれるのを心から嬉しく思います。そして、みなさんと心おきなくお話したいと思います。
 
私たちの住む今日の世界は非常な危機に直面しています。その危機はもはや十八世紀的な手だてでは解決できません。私たちはこの現実を意識して、それに立ち向かわなければなりません。イギリスやアメリカであろうと、ドイツやフランスであろうと、またソ連であろうと、世界中すべての国々がこの問題の解決に最善の努力をはらわなければなりません。ご承知かどうか知りませんが、フランスには「セルクル・ド・ペルスペティーブ」(Cercle de Perspective)というグループがあります。日本語はおろか英語にも訳しにくい名前で、未来に臨むグループというような意味です。この会と同様、中心となっているのは私の同僚のモリス・レビです。私のところにこのグループの討論の記録がありますし、私自身も2,3の記事を書いています。彼らがどこまで討論しているか、いくらか参考になるのではないかと思います。彼らはしばしば、科学主義、あるいはすべての先験的神秘主義の否定という否定的結論に達しています。また、われわれが陥りがちな問題回避の傾向があり、フランスおよびヨーロッパ文化の問題と取組む代りに後進国援助というわれわれの誰もが陥りがちな誤りを犯しています。必ずと言っていいくらいこういう結果になるのが常です。
 
C.P.スノーの著書「二つの文化」はイギリスに非常な衝撃を与えました。スノーは子供らしいくらい平凡なことを言っています。しかし、イギリスではそういった問題があること自体がニュースでした。彼らはそのような問題があることすら知りませんでした。スノーは、科学者と文学者は互いに話合うことができないことを指摘して、後進国を助けようではないかと言っています。このような過誤をおかさないためにわれわれは自分の国内の情勢を直視する勇気と自信をもたなければなりません。そして、それとともに生きる方法を発見しようと努めなければなりません。そうすれば、後進国に技術援助を与える資格がそれだけ備わり、われわれが前世紀においてなんらかの形で犯した過誤を、彼らが再び犯さないようにすることができます。インドの社会主義指導者が取組もうとしているのもこの問題です。インド人は、マルクスがあれほどの熱意を以て説いた十八、九世紀のイギリスの真似をしたくないのです。同じことが中南米の国々についても言えます。彼らは、富裕な国に移行する途中で、従来の生活の香りを失いたくないのです。このことが日本でどの程度に感じられているかは推測する以外にありませんが、日本でも、この騒然とした、打算に陥りがちな過程とそれに伴なう苦しみをいまさらのように後悔しておられるのではないかと思います。自分の国はどうしたらよくなるのだろうかと考え続けるということは、より貧しい国の人々を裏切ることにはならず、むしろ自分たちが失敗した方法で再び誤りを犯させることこそ裏切りだということです。
 
私は今日、演説する気持など毛頭ありません。みなさんと一緒にいろいろな問題をできるだけ追究してみようと思います。
 
大江精一(科学哲学・日本大学)
質疑要約:日本が(功罪はあれど)西欧化と西欧帝国主義を経て実質的に近代化を遂げたことに触れ(日本における西欧化のような)「advice が外から与えられても果してうまく行くかどうかという問題。もう一つは社会科学があまりにイデオロギーに捉われすぎていること、もっと科学的なものでなければならない」と述べる。
 
オッペンハイマー
社会科学という言葉の持つ意味のあいまいさについて一言いわせてもらいたいと思います。意味をはっきりさせておかないと討論の対象となる問題の焦点がぼやけるからです。
 
あなたは、前世紀における日本にはよい advice がなかったとおっしゃいましたが、私の知っているかぎり、今日の日本にもそれが欠けているようです。原子力委員会の設置のような特殊な問題以外は全くないと言ってもよいのではないかと思います。原子力委員会の場合は、一体どういうことなのかを知るには、その知識を持つ人に相談する以外になかったのです。同様の事態がアメリカ、イギリス、その他の国々でもみられますが、日本の場合に特に顕著なのではないかと思います。しかし、アメリカやイギリスの方が日本よりましなのは、高邁な理由があるからではありません。アメリカでは、知識人全体、科学者は特に、政府の活動と密接な関係にあります。これは、一つに軍事的な理由からであり、さらには国内産業に対する政府の規定的な機能のためで、その結果、ワシントンにいる学者が必ずしも優れているとは限りませんが、常に多くの学者を抱えています。その学者が正しく用いられているかどうか、彼らの advice がそれを必要としている人々に与えられているかどうかということは、また別の問題です。しかし、少くともなんらかの形で政府の中枢と関連があります。イギリスにおいても、ある程度まで同じ傾向がみられます。しかし、イギリスの場合に忘れてはならないことは、イギリスがまだ小さな社会であり、そこには大昔からの紳士気取りの気風が残っていることです。なんらかの分野で成功した人は、貴族という狭い社会の一員として受入れられます。彼らは同じ大学へ行き、同じクラブの常となって互に往き来をし、同じ本を読み、ある程度の親しみの気配さえ感じられる人間関係があるのです。日本にはそのいずれもがありません。これが第一のコメントです。第二のコメントは、社会工学と科学の関係についてです。社会をつくり変えるということは、昔からしばしば行われたゲームです。前世紀において、オーギュスト・コントは世の中がどうあるべきかをかなり詳細に述べていますが、彼の描く世界は共産主義者が描くそれに勝るものとは言えません。また、私たちは学校でプラトンの共和国について教えられました。
 
私はかねてから、人間が必要としているものが知識の発達に関連はあっても、決定的な要素ではないという強い偏見を懐いています。つまり、何かを知る必要があると言っても、それを知る助けにはならないということです。知る助けとなるのはそれに適する道具またはそれにふさわしい概念の発見であり、それを理解したときにはじめて助けになるという気持です。
 
1945月4月にルーズベルト大統領が亡くなりました。死の前日、大統領は発表するにいたらなかった演説の草稿を書いていました。その中で、大統領は原子爆弾に対する不安の気持をますますつのらせています。大統領は人類による大自然の克服について述べてから「われわれ人類が生きのびるためには、人間関係の新しい科学が必要である」と言っています。私はかねてからこの演説が気になって仕方がありませんでした。なぜなら、大統領の言う人間関係の科学ができるのを待っていられないからです。そんなことをしたら人類はおそらく亡びてしまうでしょう。これは、心理学や人間の相互作用や人間の行為に対する知識や記述を広げようとするあらゆる努力を、私が好まないからではありません。これらの学問が発展する権利を保存しておきたいからこそ、予め想定された実用的な目的によって圧迫を加えるということが気にかかるのです。過去500年の間、人間は水銀を金にかえようと努力してきたにもかかわらず、その目的を果たすことができませんでした。今日ではそれがいたるところで行なわれているにもかかわらず、誰一人それに関心を懐くものはありません。水銀を金にしようとした古代の錬金術の夢から、今日行なわれている変質にいたるまでの努力を考えるとき、人間とその行動を理解するということの前途に横たわる困難の一端をうかがい知ることができると思います。
 
話を元にもどして、歴史を鋳なおし、制度を改革するということは避けがたい事実です。そして、知識があればあるほど、分析する手段が多ければ多いほど、それらの手段が所定の目的を達成するに役立つ可能性が多いと思います。しかし、誰もが知っているように人類の歴史には妙に皮肉な一面があります。われわれがそうありたいからというだけで、その性質が二十世紀の今日において一夜にして変わってしまうと考えるのは、あやまった希望というべきではないだろうかということ。それは希望を懐くというより、むしろ楽天主義に陥るということです。いわゆる啓蒙思想の中にはこの考え方が強調されていたのではないかと思います。コンドルセーやディドローなどはその好例で、アメリカもそのいぶきに触れ、その思想はヨーロッパにおいて頂点に達し、第一次大戦前の日本もその影響を受けたのではないかと思います。この啓蒙思想の欺瞞がもたらした変動と無慈悲が、二十世紀初頭にニヒリズムという深い爪あとを残したのです。
 
宗像巌(政治社会学・上智大学)
質疑要約:近代化の過程一般への関心から、日米間での政治組織の比較研究のなかで両国の最小公約数を発見しようとしている旨を述べ、こうした努力によって「社会学の共通の場を発見できるのではないか」と希望を述べる。
 
オッペンハイマー
ハンス・コーンが最近、政党の比較研究について本を出したと記憶しています。私のところの研究所で書かれたものですから、私の手元にあるはずです。驚くほど多くの機関や権力機構が政党の名のもとに存在しています。
 
またウォルター・ロストーの講義を本にまとめた中に、近代化の経済的発展を巨視的に記述して、一つの社会が伝統的なものから技術的な、富裕な社会に移行する段階を五つに分けています。ロストー自身が指摘しているようにあまりにも単純化されすぎてはいますが、考えをまとめる役には立つのではないかと思います。
 
宗像巌
質疑要約:基礎理論の確立のために地域研究(area study)の充実の必要性を述べ、「それを基礎にして実行可能な概念を帰納」することの重要性を述べる。
 
オッペンハイマー
あなたのおっしゃる通りです。
 
宗像巌
質疑要約:「特定の分野の学者」の相互の協力と連絡、資料交換の重要性を述べる。
 
オッペンハイマー
自然科学に必要不可欠の言葉は新しいという言葉です。意見の交換、日々の経験、落下する石や動く星座は、その昔スマやバビロンの人々が発展させた数学的記述以外のなにものももたらさないのです。しかし、われわれが洞察力と呼ぶものはこれとは性質を異にしたものであり、文学や社会学においてはまぎれもなく新しい知識が手に入れられる時にのみ科学としての出発点となり得るのではないかと固く信じています。その新しい科学は科学的意見を必要とせず、詩人や劇作家によって語られる共同の知識体系の中から出て来なければなりません。皆さんはご承知かも知れませんが、その例を二つばかりあげたいと思います。その一はマギル大学のヘップ博士とその協力者たちによる研究です。
 
朝鮮戦争のとき、カナダ政府がいわゆる洗脳の過程に関する研究をヘップ博士に依頼しました。博士はまず手始めに、何もしないことが人間にどのような結果をもたらすかを研究することにしました。しかし、その何もしないということの定義は特殊なものでした。博士は、実験の対象となる人々に何も見ることができない眼鏡をかけさせ、両手をボール紙とやわらかい毛でつつみ、さわっても感じないようにしました。博士は彼らを静かな部屋に入れ、絶えずぶんぶんうなっている音を立てて彼らが何も聞こえないようにしました。それから、きまった時間に味のない食物を与えて一人にしておきました。実験の対象となったのは医学生、一般の大学生教員たちで実験の期間は最低24時間から最高6日間まででした。実験の対象となったのは自分からすすんで申出た人たちで、委員会で忙しすぎて解決できない問題を解決できる機会ができたと喜んでいる人たちばかりでした。いままでに分っている限りにおいては、この経験によって永久的な損傷をうけた人はいません。しかし、隔離期間の長短によって程度の相違はあっても、いずれも例外なく全く予想もしなかった理性的機能の喪失とでもいうべき徴候を示したのです。視力が損われ、物が見える代りに色の固まりしか見えなくなり引算も加算もできなくなっていました。これこそ、記憶とそれを支えている本質という問題に光を投げかける新しい知識と言うべきでしょう。これよりさらに素朴な例はポーラロイド社の社長である物理学者兼実業家のエドモンド・ランドの実験です。ランドは当然の理由から、color vision に対して興味を懐いています。ニュートン以来、さらにヘルムホルツ以来は特に、人間の色に対する知覚は目の残像に広がる三原色の activation によるものと考えられてきましたが、確かにその通りです。しかし、それがすべてではありません。ランドは次のような実験をしましたーなんの意味もない赤紫黄青等の多彩な景色をナトリュームの黄色の光線で撮影し、白黒写真に焼きつけました。彼は最初の黄色の光よりも波長が5パーセント違っている光で写真をもう1枚写して黒白に焼付けしました。そして、それぞれの写真を撮影のときに用いた二つの黄色で投射してそれを組合わせました。その結果、青い光も赤い光も緑の光もないのに、人間の目には赤、黄青紫等スペクトルのすべての色が見えたのです。これはわれわれ人間の目に色が見えるもう一つの方法です。この二つの例をあげたのは、人間の最も単純な機能に対するわれわれの知識がいかに幼稚なものであり、さらに多くを知る分野がいかに広大であるかを示したかったからです。ここで、上述の二つの例よりもわれわれの社会との関連がいくらか密接で、興味深くはあっても、それほど著しい変化のない例をあげたいと思います。ランドの実験は特に理論を立てたものではないのですから、ランド理論と言うのは当っていないかもしれません。しかし、推測は誰にでもできることですから、発見には相違ありません。スワスモア大学のアッシュ博士が次のような実験をしました。明らかに誤っている理論を主張し討論するように訓練されている一団の人々の中に1人の人間を入れるとき、彼は次のような経験をします。彼がいかに独立独歩であっても、1人でいる限り、やがては、誤っているとはっきり分っている多数の意見の仲間入りをしてしまいます。しかし、もしそこに一言も物を言わず、その説得のゲームの仲間人りをしない相手が1人でもいれば、その人は決して説得されません。これは非常に小さな発見ですが、われわれが互いに毒し合うメカニズムがどのようなものであるかということに触れています。
 
高宮篤(植物学・東京大学)
質疑要約:大学教授は多忙のあまり「大切なこと」を忘却してしまうが、「われわれの大部分はそういうことから逃れようとしている」と述べ、「ものごとの是非に対する発言」の充実と「目に見えない勇気の活動」の表面化の必要性を提起。国際分野では、各国間で「パンフレットの交換」や「誰でもが論文のようなものではなく手記を載せることができたら大変いいと思」うと述べる。
 
オッペンハイマー
あなたが最後に言われたことに対しては、多くの読者や寄稿者に感謝されることでしょうという答えに止めておきます。あなたが最初に言われたことは、われわれの住む時代と生活との適格な描写です。プリンストンの研究所は、まさにおっしゃる通りの余暇と共同意識、お互いに研究分野を理解し合えない学者同志が認め合うのが目的です。あなたの発言は、科学と人間の会の英文会誌第1号の教育学と教育の頃に述べられていますし、ほんの拾い読みですが、大江先生に頂いたばかりの論文の中にも述べられています。この問題は、一方では相互関係およびコミュニケーション、他方では専門化の問題に関連があります。ここにご出席の皆さんは、われわれの時代の知識と権力が専門化に負うところが多く、それを捨て去ることは、おそらく不可能でしょうが、科学の本質そのものを捨てることを意味するということをすでに十分ご承知のはずです。たとえ捨て去ったとしても、専門化はますます進むことでしょうから、事態はさらに悪化することになります。心理学が幾つにも分れ、お互いに理解し合うことの困難さは現在と少しも変らず、生化学者と原子物理学者が話合うくらい楽しいことと思います。このような状態に対して、私は最近あまり楽観的な考えを持たないようになりました。それは、専門化の苦しみから逃がれる道はないということです。私たちはその苦しみを受入れ、教え、愛さなければなりません。それを克服するためには、組織的ではなく臣視的な特別な努力が必要です。文化全体の結合力というものは、あなたが巧みに描写された個人の精神やお互い同士の思いやり以上のものの上になければならないと私は確信しています。このことは、教育の上に、われわれの人生を規定する上において、さらには私が理解できないために予想すらできないことの上に、極めて重要な意味合いを持つものです。このことについて、私はしばしば話もしましたし、書いたりもしていますが、あなたが陥っている苦境に心を動かされて、お話せずにはいられませんでした。
 
もう一つつけ加えたいことがあります。お互い同士のコミュニケーションを円滑にするためには、あらゆる段階にある人が含まれなければなりません。非常に幅の広い分野、たとえば歴史哲学またはアジアの政治史を教える先生が必要です。また、手がつけられないほど広沢なあまり、誰一人それについて答えることができない多くの出来事を良心的に論じなければならない新聞記者や編集者が必要です。さらには、自分に理解できないことであっても、決定をうながされる行動の人が必要です。しかし、私はあらゆる人が専門家でなければならないと言っているのではありません。私は、われわれの住む世界を完全に理解できる人はいないということが言いたいのです。と同時に、教育途上のどこかで何か一つ専門分野を身につけた人でなければ安全な道案内となれないことを言いたいのです。
 
城戸幡太郎(心理学・中央大学)
質疑要約:(西欧の植民地から独立国家を目指す)アジア・アフリカが掲げる国家主義に対する違和感を述べ、先進諸国は、これら後進国に対する経済的・科学的な援助目的をどう立てればいいのか、援助の際に協力することになる先進諸国の「科学者や技術者には政治的権力がないから、今はただ、政治家の道具にすぎないのではないか。そういうときの彼らはどのような態度をとったらいいのか」と問う。
 
オッペンハイマー
ご質問に対して決定的な答はないと思います。というのは、そのような問題はすべて、そのときどきの度合の問題ですから。たとえば、私たちのうちの1人が、今盛んに問題になっているコンゴーの問題に寄与するなんらかの知識をたずさえて出かけて行ったとしましょう。その場合には、本当の意味での援助になるのだと思います。私たちの努力が政府の宣伝に使われたり、政府に邪魔をされることもあるでしょう。そして、あるところまで来ると、必ずと言っていいくらい良心の問題が出て来ます。しかし、世俗的な権力が理想的でないという理由からだけで、自分たちにできる援助をさしひかえるということは不幸だと思います。これは同時にもう一つの問題点を明らかにします。それは、害毒を及ぼす政府をどのように改革すべきかという問題です。ここで私は、まず最初に自分の国の政府から手をつけるべきだと言いたいのです。共産主義世界の人たちは非常に困った問題を抱えています。共産主義諸国の科学者たちはそのことに気づいているようです。われわれが良い手本を示せば、彼らも改めるでしょう。というのは、良い手本と競争しなければならないからです。また、われわれはいたずらにロシアの宣伝にのせられてはならないと思います。宣伝に頼らずに立派にやってゆけることを示してやるべきです。このことは、自分の国の政治的指導者を、近代的な問題に対しては人間らしい、近代的な手段を取るような人たちに変えることを意味します。
 
一例をあげると、イスラエルは小国ながらレホバになかなか優れた科学研究所を持っています。この研究所の所長イブン氏は元大使で、科学知識がなく、それを解説しようとするあらゆる努力に抵抗しています。この夏、イブン氏は科学と新興国についての会議を開催しました。イスラエルという国は貧しいながら、アジア・アフリカ諸国政府の要請で小規模ながら多くの有能な使節団を送っています。これはなかなか良い仕事でした。しかし、これをイスラエルおよびワイツマン研究所の宣伝の具としたのは全く誤った態度でした。だから私はその会議に出席しませんでした。仕事をするのは「イエス」、それを歪めるのは「ノー」というのを限界点にすべきではないかと思います。
 
篠崎かよ子(NHK科学教育課)
質疑要約:「電子顕微鏡ができてどういう新しい世界が開けたかとか、人工衛星がどうして飛ぶかなどということを解説をする」という自身の仕事について述べたうえで、そうした仕事が「科学の愛好家や科学に縁がないと思っている人たち」に有意味であるにはどうしたらよいかを問う。
 
オッペンハイマー
あなたの質問は、前に述べたことに直接関係があるようです。広汎な領域にわたる教育は必要です。しかし、技術的発展の叙述を科学的研究と混同してはなりません。しかし、それは世の中の人々に新しい情報を知らせ、彼らを結びつける活動として必要です。問題は、そのことをなんらごまかすことなく正直に行なうことです。困難な問題をやさしく見せたり、実際はなんらの関連もない事柄を便宜上関連させるようなことがあってはなりません。あなたはそのことを十分承知していらっしゃることでしょうから、あなたが取組んでいらっしゃる困難な仕事に対して心から同します。
 
森本哲郎(朝日新聞学芸部)
質疑要約:前述のC.P.スノー著「二つの文化」に触れ、二つの文化というが、西欧では「キリスト教がただ一つの宗教であ」って、「価値判断が統一した体系になってい」ない日本のケースには当てまらないのではないかと違和感を表明。そのうえで、戦後日本では旧来の価値判断が失われ、「私たちはお互い同士話合うことができ」なくなっていると指摘。日本の「ような場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか? どこまでも広がってしまった私たちの知識を統一することができるなら、それはどのような価値判断またはどのような科学でしょうか?」と問う。
 
オッペンハイマー
あなたの質問には多くの問題が含まれています。イギリスについてのスノーの意見は間違っていると思います。イギリスの文化も多様です。形態としてのイギリス教会、キリスト教的感覚は残っています。これらはいずれも統一の要素ですが、1万マイルの遠くから見るときその統一はとかく誇大に見られがちです。特定の例をあげると、今日のイギリスの哲学者は科学、政治、芸術、文学、歴史等となんのつながりもないのです。ただお互い同士の関連があるだけです。このような状態はあらゆる分野に見られるところです。私は、日本が当面している問題がイギリスよりもましであると言っているのではありません。むしろ日本の方がイギリスよりもひどいと思っています。しかし、健全な文化という断定に対して常に疑惑の目を向けるべきです。第2の点は、形の上での知識の統一は不可能であり、不適切です。第1に、一方で統一している間に、他方ではますます増加の一途をたどってしまうからです。というのは、科学の各分野の関係は topical であり、しばしば極めて形式的だからです。コミュニケーション理論と熱エンジンとの相関関係はしばしば取上げられる問題です。この場合、問題は数理的 analogy です。この場合、熱エンジンと言語が全く同じであるという意味ではありません。価値を反映する統一というものは、批判的な発言や意識的行動から現われ出るのではないかと思います。プラトーの対話篇は前者の極めて好適な例です。釈迦の教えもそうです。これらはいずれも非常に古い例ですが、本質的に目ざしているところは、誰もが共感を感じている点や意見が、完全に一致していない点を明らかにし、何よりも重視している点は相異点の黒い反面をいくらかでも明かるくするということです。以上言語について言いました。次に意識的行動について一言したいと思います。今日、われわれの周囲で行なわれている人類の運命を左右する事柄には、うやむやにされているものが多すぎるのではないかと思います。われわれは無言でいるか、うしろめたい言訳で表面をつくろっているかのどちらかです。ドゴールがフランスの政権を握ったということはヨーロッパにとって非常に大きな経験でした。それは、彼の政策が賢明であるからではなく、彼の言わんとすることが理解できるからです。彼は自分の言葉に対して責任をとり、その行動と言葉をある程度まで協調させているからです。われわれにはそれが非常に欠けています。ルーズベルトの死後、アメリカには自分の考えを説明できる政治家がいません。これは価値を破壊することです。現に日本もそのことで非常に苦しんでいるのではないかと思います。そして、われわれのような専門分野にたずさわっている人間がよい手本を示して政治権力の行使者になんらかの影響を与えるのが一つの解決方法ではないかと思います。しかし、それを実行する前に、少なくともわれわれ自身が共通な事柄について話合えるようになっていなければなりません。それは技術的な問題ではなく、われわれがしてはならないと信じているそのことなのです。われわれは、美しいと思うこと、不安に思っていることを行動に移さなければなりません。今日の日本に勇気が徳であるということに反対する人はまずいないと思います。これはほんの小さな出発点です。そして、そこには確かに一致点があるのです。
 
二瓶慶一(市場調査・新三菱重工業自動車部調査室)
質疑要約:自身が科学者でなく「皆さんの研究の成果を利用する立場にある企業体の一員」であって、問題提起の資格がないと述べる。
 
オッペンハイマー
あなたの仕事の分野で働いているアメリカの人たちの話をして答にかえたいと思います。彼らの及ぼす影響は非常に大きいのです。彼らの仕事は大衆を説得して物を買わせることです。その結果、ラジオ、新聞、雑誌テレビはもちろん、大気そのものまでをあきれるほど下品な虚偽で充満させる一方、真に優れたものを逼塞させる背景をつくり出しています。あなたもあなたの国もこの害毒からまぬがれることを祈っています。
 
加藤八千代(科学社会学・日本精米製油KK研究室)
質疑要約:「現代の複雑な科学的知識や技術が、人間社会に及ぼしている影響」について知る必要性を述べる(この座談会から8年後に「カネミ油症事件」を内部告発することになる加藤であるから、おそらく負の影響について懸念しているか)。
 
オッペンハイマー
科学時代に住む一つの方法は、科学者の仕事の美しさと人間的な特質を認識することです。これは、その気持を分ち合い、科学者を観察して想像することによってのみ可能です。さらに一つの方法は、科学に全身全霊を捧げている科学者でも、その仕事は彼の一部分にすぎず、伊勢えびの巨大なはさみのように、非常に発達してはいても、彼の一部にすぎないのです。また、伝統主義の時代と比較するとき、われわれの時代は栄養過多で異常に発達した知能の時代であり、それが人間生活の一部となってしまい、われわれの大部分をあとに残して独走してしまった感があります。それはわれわれにとって楽しいことではありませんが、事実には違いありません。伝統主義の時代は、みなさんと私の場合、それぞれ異ってはいますが、いずれの場合も例外なく、感情、行動、思索、研究、祈りの間に調和があり、それぞれに均衡のとれた役割がありました。今日、知能的な分野にたずさわる人々の間では、この均衡は破れていますが、人間の他の要素を破壊し去ってしまうまでにいたらず、比重が変っているにすぎません。従って、それを無視したり、忘れ去ったり、変更したりする容易な方法はないと思います。


高木純一(電気工学・早稲田大学)
質疑要約:「人間には考える人とつくる人との2種のタイプがあ」り、両者が相反することを述べる。そのうえで、教師として学生に「1.作ることと考えることとの間に、アンバランスのあることを考えること。2.つくるときには必ずつくるものの意味を考えること」の2点を強調している旨を述べ、意見を求める。
 
オッペンハイマー
あなたに心からご同情申上げます。一度カリフォルニア工科大学にお出でになるといいと思います。大学院は非常にうまくいっていますから、大学院の学生ではなく、一般学生をご覧になるといいと思います。一般学生の場合、その90パーセントが engineer になるわけですが、戦前には90パーセントが engineering を本当の意味で勉強に専心していたのに反し、今ではそういう仕方で engineering を勉強している学生は10パーセントにすぎません。というのは、engineering とは何かをつくることです、考えることではないと教えられているからです。近代科学の存在理由は、1人の人間であろうと、多くの人間であろうと考えることと、行なうこととの協力が完全であるということではないでしょうか。そして、極端な例をあげると、行動のみの人と思素のみの人がいます。しかし、社会が健全ならば、こういう人たちは多くの絆で結ばれるのです。ダビンチやファラデーは行動し思索した人の好例です。また、今日の物理学の世界ではフェルミがそのよい例です。
 
田中愼次郎(ジャーナリズム・朝日新聞)
質疑要約:社会的事象の解釈には主観が入る旨を述べ、この際に頼りになるのは社会科学だが、社会科学にしても「自然科学とはちがって、どうしても主観がはい」る、「それでいて、科学といえるのはどういう訳なのか。また、私たちがそうした物を判断する場合、何らかの価値基準が必要」ではないか、と問う。
 
オッペンハイマー
その記録の性質、研究者の才能や性格にもよりますが、歴史の分野に参考になるものがあるのではないかと思います。歴史の研究には必ず科学的な傾向があります。というのは、歴史はそこで行なわれたこと、言われたこと、人々が主張し、意図したことを記録に残すことだからです。インドの場合にはそれができません。インドには記録がないからです。しかし、他の多くの世界の国々ではそれが可能です。この問題は、現代の歴史を書くこととあまり違っていません。ただ、新聞記者にはそれをする時間がないだけのことです。しかし、事件を報道するということには科学的な面もあるのです。証拠の収拾、誤りの発見と訂正、意見の一致等がそれです。共産主義国の歴史家の場合、遠い過去におけるそれは可能ですが、現在のことについては不可能です。そして、その境界領域は非常に明確です。何が起ったかということを物語るだけで満足する歴史家はいません。彼は主要人物の性格や目的を明らかにしようとします。ここで彼は、ほんの僅かではありますが、証拠を超越しなければなりません。過去の紛争の原因となった価値判断や可能性の相異点を明らかにするのは彼の才能次第です。優れた歴史の本について考えれば、これがその特徴であることが分ると思います。世界共通の完全な価値判断というものはあり得ないことです。様々な様式の芸術のことを考えれば、このようなことがいかに無味乾燥であるかが分ると思います。しかしただ一つだけ世界共通であることが望ましい価値があります。オリバー・クロムウェルの言葉がそれを巧みに言い表わしています。「兄弟よ、キリストの憐みにかけて汝らに乞う、汝といえども誤りを犯すことあり」これは、一般的な考え方で、いかなる問題と取組む場合にも、誤りを犯すことがいかに容易であるかを念頭に入れ、自分の誤りをただすことがいかに必要であるか、人の言葉に耳を傾け、心を広く持ち、自分にとって大切な偏見や意見を改めることを常に忘れてはならないということです。
 
また技術的な点が一つあります。先程あなたは経済学と社会学が客観性にほど遠いとおっしゃいましたが、事実を基礎とした経済の研究が立派に存在し、その研究成果を意義あらしめるテクニックが改良されつつあり、今後も改良され続けられるでしょう。そして、この種の研究分野の一部でロシアが指導的な立場にあります。また、政治機関に関する詳細な記述が現に存在し、真実を伝えるのが困難であっても、不可能ではない歴史の分野に属しているのではないかと思います。何が善で価値があり、何が危険であるかという判断を下す領域においては、科学の役割にあまり期待できません。このような価値判断は、たとえば日本の生活水準の上昇は中国のそれより速いというようなことによって明らかにすることができるかも知れませんが、それだけで、解決することはできません。われわれの住む世界の危険性、ジャーナリストが当面する最も困難な問題は、あらゆる出来事に含まれている事実と価値判断の重り合いであり、宣伝的な事実が強調されがちであるところか些細な周囲の刺戟でさえも真実の客観的報道を極めて困難なものにするのです。
 
時実利彥(生理学・東京大学)
質疑要約:「社会、経済の領域における主観(taste)の相違は、洗脳や説得の如何によって起されている」ため、精神科学を充実する必要性を訴えたうえで、「プリンストンの高等研究所でも是非この方面の開発にも力を尽して頂きたい」と述べる。
 
オッペンハイマー
ごく一般的なことについて二つ言わせて下さい。その一は、政治の問題が科学の問題と類似しているという観念は誤りに導きやすいと私は信じているということです。その二は、科学におけるのと同様な意味で政治にも進歩があるという観念は全く間違っているというと、倫理の向上は人間にとって必然的なものであるなどあり得ないということです。それは実現するかも知れないし、そうでないかも知れないのです。その一方、科学は追求されている限り進歩が避け難い性質のものです。従って、私はあなたのお話のごく初めのところであなたと道が別れてしまうのです。あなたの問題提起はあまり有益でないような気がします。生物学および心理学の将来における発展が極めて重要であろうというご意見には賛成です。前述したように、私たちが必要としているのは研究機関ではなく、2,3の優れたアイディアであり、幾つかの優れたテクニックです。プリンストンの研究所に就任して以来、私はいつも必ず2、3人の独創的な心理学者、またはそれに関連のある分野の学者を招いています。その理由は、たとえ研究があまり進んでいなくても、才能のある人を励ましてやるべきであるという考えからです。物理学、天文学、なかんずく生物学の分野をすでに知りつくしているというご意見には賛成しかねます。現に、私はそれらの分野に限界があるかどうかさえあやぶんでいる次第です。
 
崎川範行(応用化学・東京工業大学)
質疑要約:物質の分析を通じてその本質を知るたびに「物質のすばらしさに驚」く、この驚きは「人間の尊重を呼び起」すと述べたうえで、そこにともなう「この尊敬すべき人間を大切に守るという気持」に「今日の危機を救う一つの道があるのではないか」と述べる。
 
オッペンハイマー
有意義なお話を有難うございました。
 
玉虫文一(物理化学・東京女子大学)
質疑要約:「1946年にアメリカの教育使節団が日本へ来たとき」、日本の高等教育は過度な専門化が進んでいて、人間的な側面を無視していると批判をされた旨を紹介。「科学者たる者は、特に科学教育に自分なりの貢献をすべきである」と強調する一方で、技術進展と経済発展に比較して教育の成果は実りが遅すぎて、教育は必要だが「一般教育に対するわれわれの努力が果たして効果があるものかどうか疑問」だと投げかける。
 
オッペンハイマー
私は日本の教育の慣例については何も知りませんが、アメリカのそれについて心配しています。現状について言うと、一般学生の教育は極めて一般的で、極少数の優れた男女学生だけが何か一つの専門分野についてなんらかを学び取ることができるにすぎません。アメリカの大学の大学院における自然科学の教育は高度に専門化されていて非常に優れています。しかし、専門分野を専攻しない学生の教育は一向に解決されていません。私はこのことを心配するあまり、そのことについてしばしば警告しています。自然科学はもちろんその他の分野における一般教育計画は本来の目的から完全に離れています。
 
すでに述べたと思いますが、教育の恩恵に浴したものは誰でも、どうしたら困難なことを学び取ることができるかについてなんらかの経験を持っており、その経験は掛替のないものです。数学と古代言語学のいずれが有意義かという論争は、私にとっていささか無意味なことに思えてなりません。立派な学問として研究の対象となり、学び取ることができ、困難なものであれば、取組む価値のあるものと思います。さらに必要なことは、どこにどのようなものがあり、どのような学問があり、それについてどのようなことが研究されているかを知らせるごく常識的な知識の地図のようなものが可能なら、それを若い人たちに与えてやるべきです。これは高度のジャーナリズムの一種で、大学の一般学課のどこかに属すべきです。しかし、それを教育と混同するようなことがあってはなりません。それは発展することもなければ、後退することもないからです。これは非常な改革ですが、早急に実現することはまずないと思います。これは私個人の考えですが、今日の教育的努力によって世界を破滅や圧政や無政府状態から救うことができると考えるのは、自己瞞着も同然です。そしてこの世代の人たちを教育するについては、私たちのもつ遺産への愛情と世の中がこのまま続いてゆくであろうという希望と彼らがその恩恵に浴する機会に恵まれるであろうということ、そして私たちは、自分たちが次の世代の人々に与えるものを愛しているという理由で青年を教育すべきです。そうすれば人生に対する希望がいつまでも続いてゆき、青年はそれによって利益を得る機会に恵まれるでありましょう。これを言い換えると、実際的な教育はあくまでも実際であり、理想を追うべきではないということです。理想を追う教育は、われわれ年長の者が、自分たちの愛するものの片鱗をのぞかせてやるときに最も効果的です。私は、青年が一般的なことしか理解できないという改革論者の意見には賛成できません。
 
玉虫文一
質疑要約:アメリカにおいて、科学者と政治家のコミュニケーションにどれほど努力がなされているかを問う。
 
オッペンハイマー
アメリカ政府は軍備に年間500億ドルを費やしていますから、科学者との接触は不可避です。連邦政府は、善きにつけ悪しきにつけ科学を支持していますから、科学者と接触を保たなければなりません。連邦政府にはまた、農業の改善、大気の制御、汚染の防止、食料および薬品の清浄等の計画があるので、必然的に科学者と接触しなければなりません。最近、私の同僚たちのたゆまぬ努力と、予想しなかったソビエトのスプートニックの成功の結果として、大統領直属の諮問委員会をつくることができました。この委員会は、適切な防衛体制(そんな馬鹿げた問題は存在していないのですが)、軍備縮少の問題、文化交流の問題、後進国における科学者の役割の問題のような主要問題について、大統領に忌憚のない意見を具申することができます。この制度は比較的新しいもので、法律によって制定されているわけではないので、次の大統領がそれを中止したり変更することはできます。しかし、少なくとも大統領に言いたいことが言える力を持っています。そして、どこそこの機会でどの部分を改良しろと命令されるようなことはありません。しかし、科学者と政治家の間のコミュニケーションは、このような様々な命令系統を通じて非常な量になっています。それにしても、コミュニケーションはまだまだ不十分です。あまりその人の名誉にならないことですが、すでに故人となった人について一言したいと思います。国際原子力会議の席上で、国務長官〔ジョン・フォスター・ダレス〕がインドの物理学者のバーバに会ったときのことです。バーバ博士は、自分が見たところではソ連の科学はかなり進んでいる印象を受けたと言いました。するとダレス氏が答えました「それは驚くに足らないことです。とにかく、彼らの文化は物質的で無神論的ですし、われわれは宗教的で精神的ですから」世界の運命の一部がその手中にある指導的な政治家がこのような寝言を言うようでは、われわれ科学者と政治家の間が密接に結びついているとは言えません。
 
朝永振一郎(理論物理・東京教育大学)
質疑要約:座談会のタイムキーパーであろう松本金寿(心理学・東北大学)から手渡されたメモの内容(「オッペンハイマー博士が「科学と人間」というむつかしい問題を論じる義務から解放されたことを非常に喜んで「いる」)を読み上げる。
 
オッペンハイマー
皆さんと一緒に非常に興味深い午後をすごすことができて、心から喜んでいます。皆さんが出された問題は、私たちが当面する非常な危機の状態が世界共通のものであり、私たちがその危機感を懐いて生きることを学ばねばならないことをしみじみと感じさせます。

(以上)