PHILOSOPHY

自由と存在

高橋里美

 

Published in 1935|Archived in January 10th, 2024

Image: U.S. Information Agency, "The Diviners: The Rep Circle Repertory".

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

旧字・旧仮名遣いは現代的な表現に改め、〈 〉内に補足を付し、用語統一(ex. かぎり・限り etc.)を施し、脱字と思われる箇所を補った。
傍点による強調は太字に統一した。
底本の行頭の一字下げ・見出しの三字下げ・七字下げは一字上げ・三字上げ・七字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:高橋里美(1886 - 1964)
題名:存在と自由
初出:1935年(『改造』昭和十年六月號)
出典:『体験と存在』(岩波書店。1936年。199-236ページ)

FOLLOW US|REFERENCE / INTERACTION

XINSTAGRAMLINKTREE

自由と存在
特に現実的自由の根本形態

自由ということは人間の全存在に関する重要にしてかつ困難なる問題である。ライプニッツはその『弁神論』の序文において、連続の問題とともにこれを人間理性の最も陥りやすい二つの迷宮に例えているが、ショーペンハウエルもその『自由意志論』で「自由は一つの神秘である」というモットーを掲げ、かつ自由意志の問題は、それによって深き精神と浅き精神とが区別せられる「試験石」である、またはそこから彼等の道が分かれていく「界石」である、前者は決定論を取り、後者は非決定論に与する、といっている。
 
自由を道徳的人格の自由というはっきりしたかたちで取り扱ったのは、カントであって、彼の問題提出の仕方は大体彼以後におけるこの問題の取り扱い方を決定したとみてもいいであろう。けれども自由は必ずしも狭い意味での道徳的自由に限られるのではなく、その外に宗教的自由、芸術的自由、理論的自由ないし思想的自由というごとき自由形態もある。また個人的自由の外に社会的自由、国家的自由、等々がありまた経済的自由、物質的ないし物理的自由ということも考えられる。結局自由の問題は人間生活の全体に関係をもつところの広汎なる問題である。それゆえにもし人間の何なるかは人類の歴史の全体を通してのみ十分に理解せられるという人々の主張を容れるならば、ヘーゲルが試みたように世界歴史における自由の意識の発展の諸階段と種々相とを跡付けてみることが必要になってくるであろう。かくして我々は古代ギリシャにおける、ヘレニズム・ローマ時代における、欧州中世期における、ルネッサンスや宗教改革時代における、近世の中期後期における、それぞれに特色ある自由の諸形態について、ことに世界大戦のあとをうけて一大危機に臨み、またいくらかの大転換が予想せられ否すでにそれが始まりかけている不安なる現代において可能なるないし必要なる自由の形態について論ずることができるであろう。しかしいうまでもなく世界は欧米人だけの世界ではない。日本や支那やインドなどに欧米諸国のものとは違ったそれぞれ特色ある自由の概念が発展したであろうことはけだし想像するにかたくない。そうしてかように縦には時間的歴史的に、横には空間的地理的に現顕する自由の諸形態の根底には、また当然それらに対応しかつそれらを制約する世界観の類型が予想せられるであろう。しかしまた我々各自の存在は単にある時代、ある地域またはある社会組織というごときものに解消しつくすものではなくして独自の性格を所有するものであるから、自由の問題は世界観や自由の類型学的考察のみをもってしては満足なる解決に達しうべきはずのものではなく、各人の個性の深慮にまで掘り下げてみなければならぬ問題である。そうするとき人々は、おそらく一面からみれば時勢の大波に漂う一粟粒にも等しき各自の個性が実は自由の問題の真の所有者であること、また多くの世界観の類型を独特のかたちで総合するフォーカスであることを発見するに治外ない。ここに最小と最大との奇しき続一がある。
 
右によって分かるように自由の問題は種々の視点から考察されうる問題である。すなわち道徳的、宗教的、芸術的、政治的、法律的、経済的などの見地から個人的、社会的、民族的、国家的などの見地から、またこれと連関して精神史的ないし唯物史観的見地、類型学的ないし性格的学見地等々から。しかしこの論文で私はこれらの諸見地の基礎ともなり予想ともなると思われる存在論的見地から、自由の主要形態とくに現実的自由の根本形態について考えてみたいと思う。ところで、私の見解に従えば、具体的存在は体験と離れた物ではなく、逆にまた具体的経験は存在と離れたものではない。それゆえにここに存在論的見地というのは詳しくいえば体験 - 存在論的見地を意味するのである。もっとも体験 - 存在論的立場を権利づけることはもとよりここに企てられるべき限りではない。それで私がこの論文の読者に希望するところは、観念論か実在論かというごとき論争に深くわずらわされることなく、比較的ナイーブに存在論的な見方をもってこれに臨まれることである。

主要なる存在様相および自由形態ーー自由はしばしば存在と区別せられ当為または要請と考えられているが、存在論的見地からみれば自由は存在から離れたものではない。それはむしろ存在の自由であり、また自由の存在である。アリストテレスは存在は種々の意味で語られるといったが、それぞれの意味で語られたる存在は存在の様相と呼ばるべきものである。存在の様相の多様なるに応じて自由もまた多義であらねばならぬであらう。



私はまず存在の根本様相として可能性、現実性、必然性の三つを挙げる。この三つは古くより主要なる様相性の範疇として考えられたものであるが、その意義と順位付けとは必すしも一致せず、そうしてこの不一致の理由や動機は往々にして人々の抱懐する哲学上の根本見地の相違にかかるものである。だが、‘私は普通行われているように、可能性、現実性、必然性の順序に配置してそれらを次のごとき意味に解しようと思う。まず可能性ということは、あるものでありうるとともに他のものでもありうるごとき存在様式である。しかるにかかるものはそれ自身としてはいまだ両者のいずれでもないものと考えられる。いまだいずれでもないがゆえにこそ、それはいずれでもありうるのである。例えば、与えられた一塊の大理石からヘルメスの像を作ることもできればアポロの像を刻むこともできる。まだにそのゆえに像の素材たる大理石そのものは、それらの像のいずれでもないのである。かくいずれでもありえてしかもいずれでもない可能的存在はまた質料と呼ばれている。これを生成に関係せしめてみれば、それは生成がそこから出てくるところのもの(das Woraus)である。しかしかく考えるときにはすでにそこに他の思想が結び付くことになる。すなわち生成の端初または根源という思想がそれである。我々はさきの可能性を消極的可能性、受動的可能性さらに性格には中和的可能性と呼ぶとすれば、この生成と結合してその一端となった可能性を積極的可能性、能動的可能性ないしは生成的可能性と呼びうるであろう。前者はヘルメスの像にもアポロの像にもなりうるが、しかもいずれでもない可能存在としての大理石であり、後者は例えばヘルメスの像とならんとしつつある大理石である。この二つのものの関係は後の重要なる問題となるであろう。
 
次に現実性ということにも種々の意味があるが、ここにはドイツ語 Wirkliohkeit や英語 Actuality の示すように、wirken, act するもの、すなわちなんらかの意味で働くもの、最も一般的には生成または過程の意味に解することにする。可能存在を生成の端初または根源とすれば生成や過程そのものは目標に到り着くまでの途中であり、初と終との中間である。
 
第三の必然性の概念もまた多義である。オスカー・べッカー〈ドイツの哲学者〉はアリストテレスの必然性に次の三つの本質的な意味を区別してゐる。(一)不可欠的なもの、(二)強制力、(三)単純に必然的なもの。この最後の単純に必然的なものといふのは唯一の状態または在り方しか許さないところの存在をいうのである。アリストテレスはこの意味の必然的存在を、自ら動かずして他の一切を動かす第一能動者たる神に帰しているが、はたして彼はこの場合この必然性の概念を徹底しているかどうかは別の問題として、私の意味する必然存在は唯一つの状態しか許さない点においてこの第三の必然性の概念と一致する。これはまず生成の目標または完成という意味をもつものである。必然性はドイツ語では Notwendigkeit といい、この語は自己を脅かすところのの危険(Not)を外に振り向けて(wenden)、それがら脱する働きを意味するといわれ、この意味でこの様相を中問的な矛盾状況に配するものもあるが、私は如上の理由によってこの語を危険がすでに振り向けられしまった状態、ないしは矛盾がすでに止揚されしまった和解の状態に適用するのである。
 
以上の可能性、現実生、必然性は存在の三つの主要なる様相であるが、それらがいずれも存在の様相であるためには存在それ自身というものがなければならない。古来哲学ことに形而上学は、個々の存在者と存在そのものとを区別し、存在者の存在または存在自身の意味を探究することを自己の課題とした。そうして存在者と存在自体ないし存在自体の意味との関係は、種々に解釈せられきたったのであるが、私は一切の存在者従ってまた右に挙げた存在の三主要様相の全てを包む全体性を存在そのものと考え、これを本来の意味における体系と呼ぶことにしている。それゆえに存在自体とは体系存在としての全体存在である。ところがかような意味の体系存在は、生成の端初も中間も終極も残らず自己のなかに含むものなることはおのずから明らかであろう。ゆえにそれは生成発展の全体を含む高次の静止と考えられねばならない。そうしてかかる体系的全体は生成発展の全体を含むものなるのみならず、同時に逆生成逆発展の全体をも含むものである。存在自体は存在の諸様相を単に超越したものではなくしてある意味でそれらに内在するものであり、それらに内在するにとどまらないで、それらを包むことによってそれらを超越したものである。この包超的存在自体の説を十分開陳するのはいまの機会ではないが、それは唯一の仕方でしか存在しえざる一-在(Eins-Sein)として、厳密なる意味の必然的存在であることは明らかであろう。さきにいった生成の結果としての必然的存在は、この高次の必然的存在に対してみればなお低次の準必然的存在にすぎない。この包超的なる本来の意味での必然的体系存在は一方において生成の結果としての準必然的存在に連関するとともに、他方においては生成の端初に考えられた可能的存在に連関する。そうして可能性を体系存在に連関してみればそれは中和的可能性となり、これを生成に連関せしめてみれば、それは能動的可能性となる。
 
もし我々が存在の哲学をもって満足するならば、これ以上に考えを進める必要がないであらう。けれども我々はさらにこの存在自身をも包む無というものを考えることができる。存在の哲学の基礎に非存在の哲学が、有の形而上学の根底に無の形而上学がなければならない。この存在自体を包超する無は存在が自己の一-在的性格を極点まで発揮することによって、ついにその対を絶しかくてまた自己自身の存在をも喪失した絶対無と考うべきである。個々の存在者の立場からみればそれを包越する存在自体は、すでにある意味にて無というべきものであるが、なおそれは存在であって完全なる無ではない。存在そのものが、それのうちに影を没しつくした究極的な包越的全体性にして始めて真の絶封無の名に値すというべきである。
 
存在の三主要様相、存在自体、絶到無およびそれらの間の相互関係については多くの困難なる問題があるが、いまは右の概要的な説明にとどめて次にはそれらに即する自由の諸形態について考察しようと思う。
 
自由はその最も普通なる意味に従えば「あるものからの自由」(Freiheit von etwas)である。ドイツ語の自由すなわち Freiheit は、もと Freihals(=collum liberum)から出たもので首の自由なる状態を表したのである。けだし、首に環を有することは古代ゲルマン人のあいだでは奴隷を意味するしるしであった。そうして後これを表す抽象名詞としてできたのが freithum=(freedom)または freiheit であるという(グリムによる)。これと同じようにラテン語の libertus にしてもギリシャ語の eleutheria にしても束縛からの方面を意味するのである。我々は一般にこの意味の自由を可能的自由と呼ぶことができるであろう。なんとなれば、可能存在は前述のごとくにあるものでありえかつ他のものでもありうるもの、従ってそれ自身においてはいずれでもないものすなわちいずれからも自由なるものを意味するからである。それで自由の概念は大抵の場合可能性の概念と離れないものである。
 
しかるに自由は必ずしもつねに「あるものからの自由」すなわちあるものを脱るる自由を意味せずして、往々「あるものへの自由」(Freiheit zu etwas)を意味する。例えば、ニーチェはツァラトゥストラについて次のようにいっている。
 
「何を脱るゝの自由(frei wovon)ぞ。そはツァラトゥストラに何の関するところぞ。されど汝の目は明らかに我に示さざるべからず。何をなすの自由(frei wozu)ぞ。」(生田〈長江〉氏訳『ツァラトゥストラ』の「創造する者の道」)
 
我々はこの「あるものへの自由」を現実的自由と呼びうるであろう。なんとなれば現実的存在は既説のごとくに働く存在であり、一般には生成する存在である。そうして働くものは何かに向かって働き、生成するものは何かに向かって生成するものであって、それはそのもの「への自由」をもっと考えられねばならぬからである。もと自由といえば主として「からの自由」をいみしたものであったが、生活と実践への関心が顕著に高まりつつある現代の人々のあいだには自由を主として「への自由」として理解しようとする一般的傾向がみえる。例えば、ハイデッガーの自由の概念はもとより可能性の概念と本質的に連関するが、しかし彼の意味する可能性はとくに未来への「投企」(Entwurf)としての可能性であり、従って彼の自由は主として「への自由」と解されるべきである。それゆえに自由と現実性とは、往々にして考えられるように、互いに相乖離する二つの概念ではなくして、現実的自由こそは我々にとってまさに重要なる自由概念というべきである。
 
けれども自由の主要形態は「あるものからの自由」と「あるものへの自由」との二つにつきるのではなく、なおその外に「あるものにおける自由」(Freiheit bei od, in etwas)という主要なる形態がある。私はこれをあえて必然的自由と呼ぼうと思う。元来自由と必然とは不可両立的の概念とせられ、両者の関係いかんということが自由問題の核心をなすものであった。あるものは自由を主張して非決定論者となり、他のものは必然を主張して決定論者ないしは宿命論者となり、さらに他のあるものは、カントのごとくに、二者の妥当する領域を叡智界と経験界とに区分することによって、この二律背反を解決しようと試図したのであった。しかしまた種々の意味においてまた種々の範囲において、必然と一致せる自由、すなわち必然的自由をもって真の自由とみなすものも必ずしも少しとしなかった。必然的自由とはあるものにおいて安らえる自由であって、ことに東洋ではこの意味の自由がしばしば道徳の理想として高く掲げられたのである。そうしてこの「おける自由」は到達せられた目標における自由としての場合もあり、また生成の始中終を通じて永遠に安らえる自由として考えられる場合もあり、またさらに絶対の無においてある自由として解せられる場合もあるであろう。
 
もし存在するということは、本来一として存在することであり、一として存在することはとりもなおさず自己として存在することであるとみるならば、必然的存在と自由との本質的連関は一層明瞭である。必然的存在とは自己において在る存在である。自己存在である。しかるに自己において在る存在は他によらずして自らによってある存在である。すなわち「自由」にして「自在」なるものである。それで、例えば中世紀においては、神の存在を現すのに aseitas なる語をもってした。それは「自己から」(a se = of or from itself)存在するもの、すなわち自己原因(Causa sui)を意味する。その反対概念は「他から」(ad alio)の存在である。これと異なり人間のごとき有限なる本質は「自己によって」(per se = in virtue of itself)、すなわち「自己の本質によって」(in virtue of its own essence)存在するとなした。これは「他によって」(per aliud)または「偶有性によって」(per accidens)存在することの反対である。またスピノザにおけるように無限なる実体すなわち神は「自己において」(in se)存在し、有限なる存在は「他において」(in alio)存在するといわれる場合もある。これによってみるも「自己によって」または「自己において」存在することが真に存在することであり、必然と自由とがこの意味で一致することがわかるであろう。この必然に一致した自由なる自己存在を基本としてみれば、可能的自由は無自己的ないし自己可能的存在の自由にすぎず、また現実的自由はなお自己実現的存在の自由であるにとどまり、必然的自由にして始めて完成せられたる真の自己存在の自由といわれうるであろう。

存在様相の相互浸透ならびに自由の混成形態ーー前述のごとくに可能性、現実性、必然性は存在の三つの主要なる様相であるが、それは同じく存在の様相であるかぎりそれらを包超する存在自身というものがなければならぬ。それは単なる抽象的存在ではなくして、その反対に最も具体的な「全一」(hen kai pau)としての体系存在であるが、さらにその「一」が自己緊張によって「全」(全て)を包超していく極限において絶対無が考えられねばならぬ。万法は一に帰し、一はまた無に帰するのである。この理を説き明かすことは至難の業であるが、かように存在の諸様相は存在に包まれ、存在はさらにまた無に包まれるということに基づいて、それらの存在様相は相互に分離的に存在することなく、存在的に相連関する統一的全体を形成し、かつそれらのあいだの浸透という現象が成立するのである。例えば、生成を根本性格とする現実性が、純粋なる中和的可能性に浸透するときには、そこに能動的可能性が現れ、それが必然性に浸透するときにはそこに相互作用という現象が起こる。もし必然性を現実性から純粋に区別しかつこれを抽象的に考えれば、それは中和的可能性に近づくのであろう。またこの現実性それ自身は可能性と必然性との結合であることはいうまでもない。そうしてこの存在様相相互の浸透を支配する原理は連続律であり、連続的浸透のなかにおいてしかも各様相の独自性を理解せしめるものは極限の概念である。連続は程度を要求するものであるから、諸様相の浸透する仕方そのものに、多-少の差が生ずる。かくてその仕方はただ一様ではなくして多様である。例えばヘーゲルの弁証法的運動のごときものも、存在様相の浸透として導来しうるであろう。すなわち、それは運動である限りにおいては現実的でなければならぬ。しかしこの運動は円行的である限りにおいては体系的なもの、すなわち必然的なものをそのうちに含んでいなければならぬ。ゆえにそれは必然性が現実性のうちにある特殊な仕方で浸透することによって生じた混成様相であって、しかもその契機たる正反合が極限的に存在するごとき場合である。同様に天台の三諦円融とか、キリスト教の三位一体とか、アリストテレスの「思惟の思惟」とかいうごときものも、それぞれの仕方における必然性と現実性との相互浸透として示されるであろう。またライプニッツの可能の世界すなわち矛盾の原理の支配する必然的真理の世界は、我々の可能性と必然性との結合したものであり、ハイデッガーの根源時間的な可能性もまた、我々の可能性と現実性との特殊的な混合様相として理解しうるであろう。
 
しかるに自由の諸形態は存在の諸様相に対応するものであるから、後者の種々なる浸透に従って前者の種々なる浸透が考えられるべきはずである。それで例えば、「からの自由」としての可能的自由のうちに「への自由」としての現実的自由が浸透することがあり、それが「おいての自由」としての必然的自由に這入り込むこともある。また現実的自由それ自身は可能的自由と必然的自由との結合形態にほかならない。そうしてこの自由形態の浸透亜h連続と極限との概念によって規定せられること、それらの浸透の仕方が多種多様であることも、存在様相の浸透の場合と異なるところがない。試みに文化形態についていえば、科学や芸術の存在様相はそれぞれの意味での抽象的必然性であるから、従ってそれらのものの自由はそれぞれに特色ある「おいての自由」である。そうしてまたそれは同時に現実的存在「からの自由」でもある。科学や芸術におけるこの後の特色がとりわけ人々の注目するところであるが、しかしそれらのものが現実的に存在する限り現実的な「への自由」の浸透を受けていなければならぬ。かくて科学的探究としての認識作用の自由と芸術的創造の自由とが現れる。また宗教的自由の目指す「聖」なる状態は自らに安らえる必然的な「おいての自由」であるが、かかる自由形態もそれが現実的に存在する限りは、現実的な「への自由」をそのうちに加味するのが当然であって、それは宗教的な祈りや懺悔などの現象となって現れている。宗教的自由に比すれば道徳的自由は一層現実的な自由であって、理想への努力と当為的緊張とがその本質的な性格をかたちづくるのである。そうしてレッシングが賢者ナータンをして回教僧アル・ハーフィに Kein Mensch muss müssen(いかなる人間も強制されてなしてはならぬの意)といわせているように、またシラーがカントの倫理学の精神を「汝なすべきゆえに汝なしあたう」というかの有名なる詩句によって表現しているように、現実的自由が可能的自由に近づく場合もあれば、孔子が「心の欲するところに従って矩を踰(ルビ:こ)えず」といい、ルターがヴォルムスの議会において敢然として「我は他になす術を知らず」(Ich kann nicht anders)といいきったといわれているように、またヘーゲルが現実性と理性との一致を説き「現在の十字架における薔薇」について語っているように、現実的自由が色々な仕方で必然的自由を結合する場合もある。「無における自由」すらも、それが現実的実践的自由との結合によって、無から存在「への自由」、例えば無の自己限定にまで変様しゆくことができるであろう。
 
もし我々が神、人間、自然というごとき伝承的な区分を、おおざっぱな意味でそれぞれ必然的存在、現実存在、可能存在に配するならば、必然的な神的自由、現実的な人間的自由、可能的な自然的自由というごときものが考えられることになる。神の本質を主知的にみるかまたは主意的にみるかという問題は、必然的自由を可能的自由に近づけて抽象化してみるかまたはこれを現実的自由に結合してみるかということを意味し、神による世界および人間の創造ということも後者の場合であって、摂理や弁神論などの問題がこれに関係して発生する。また可能的自由から現実的自由への関係においては、人間的自由が自然の母胎から発生するにいたった過程、さらにそれが人類の歴史を通じて次第に発展しきたった経路や階段が問題となるであろう。ピコ・デラ・ミランドラは神をして人間に次のごとくいわしめている。
 
「我は汝を世界の真中に置いた。それは汝があらゆる方面を見回して汝の好むところを窺い知ることができるためである。天上的でもなくまた地上的でもなく、可死的でもなくまた不可死的でもなく、我は汝を創造した。なんとなれば汝は自ら汝の意志に従いかつ汝の名誉にふさわしく、汝自身の製作者および造形者となり、汝に与えられた素材から汝を形成すべきであるから。それで動物界の最低段階まで沈下することも汝には自由である。しかしまた汝は神性の最高域まで汝を高めることも可能である」(クローネル著『精神の自己実現』から)
 
かように人間の現実的自由を中心として考えるときは、ある意味で人間は神「への自由」と自然的な動物「への自由」をも享有しているのではあるが、また同時に自然「からの自由」(例えば宗教的、道徳的自由)と神「からの自由」(堕罪、原罪など)をも主張しうるのである。そうしてかく現実的な人間が比較的独立な見地とせられるに従って、自由の問題はとくに人間的自由の問題として一層の切実さを加えきたるであろう。まさにこのゆえに本来の意味での自由の問題は、二元的対立において成立するといっても大なる過言ではない。そこには分裂と対極がなければならぬ。弁証法的緊張がなければならぬ。しかしこの原書そのものを可能ならしめるものは存在様相相互の浸透にともなう自由形態相互の混成にほかならない。すなわち人間的自由は、必然存在の自由と可能存在の自由との双方からの、現実存在の自由への高度の浸透によって成立するのである。「二つの霊魂我が胸に住む」というファウストの語はかかる高度の浸透のもたらす激しき内面的葛藤であり、もし現実存在が微力にしてこれに堪えきれぬときには不自由なる「破れたる意識」となり、強力にしてこれに堪えうるときはプロメテウス的な反逆や、カント的な自律道徳の要求や、ニーチェ的超人主義の主張が生まれるのである。
 
私はいま存在様相の浸透という見地から人間存在に独特なる自由形態について一言した。たしかにこの深刻な自由形態は一般に自由の問題が発生する母胎とも称すべきものであるが、しかしそれだからといってそれは人間的自由の形態の一切をつくすものでもなく、まして私のいわゆる現実的自由の全部と相蔽うものではない。私の現実的自由というのは、それよりは一層広汎なるもので、人間的自由は単にその一部を形成するにすぎないのである。私は次にこの現実的自由の根本形態とその範囲とについて考察してみようと思う。これは人間的自由そのものの正当なる理解のためにも必要なことである。

現実的自由の根本形態ーー現実的存在は唯一の存在様相でもなくその最具体的な存在様相でもない。同様にまた現実的自由は自由の唯一のまたはその最高の形態ではない。けれどもそれは有限なる人間存在にとっては、最も強き関心をひきかつ最も広き範囲にわたる自由形態といわねばならぬ。しからばその根本形式はいかなるものであろうか。
 
我々はさきに現実的自由は、あるもの「への自由」であるといった。けれどもこれは現実的自由をその主なる特色に従って規定したものであって、あるもの「への自由」はその他面においてやはりあるもの「からの自由」でなければならない。「から」と「へ」は相関概念であって、あるもの「から」あるもの「へ」ということが現実的自由の一層具体的な規定である。ただその全体の方向を考慮に入れてこれを「への自由」として特色づけるのである。かく「への自由」としての現実的自由は同時に「からの自由」であるがゆえに、それは可能存在の自由を内含しかつ予想するものである。しかるに一切の「からの自由」の根本形態として純粋可能性なるものがなければならぬ。純粋可能性とはある特定なる限定から自由なるのみならず、全ての限定から自由なるものである。純粋可能性はかく全ての限定から自由なる結果として、それがそこから自由なるべき特定の対象を失い、ただひたすらに自由なるものとなる。ライプニッツは論理的矛盾を含まざるものは全て可能であるとなし、かくて現実の世界の外に無数の叶世界を考えたが、彼の可能存在は現実の世界からは自由であるにしても純粋に一切の制限から自由なるものではなくして、なお矛盾の原理の支配に従うものであった。否、そのゆえにこそ可能の世界は現実の世界が偶然的なると異なり、永遠なる理性の真理よりなる世界とみなされた。それはこの意味で完全に無規定なる世界ではなくして、抽象的にではあるがかえって必然的に規定せられた世界でなければならなかった。しかるに我々のいう純粋可能性の領域は、矛盾の原理による規定をも排除したところの純粋に無規定的な、そうして普通の意味では矛盾に満ちた領域である。矛盾の原理は確実性の意味において限定の極大であるが、同時にその抽象性のゆえに限定の極小ということができる。しかるに我々の純粋可能性はかかる限定極小をも限定過剰として排除するのである。ただしそれが矛盾の原理をも否定するというのは積極的に矛盾を措定する意味にてこれを否定するのではなくて、矛盾の積極的措定をも否定するのである。ゆえにそれはある意味にて絶対否定であり無であるが、絶対否定の積極的作用ではない。否定作用がその積極性を滅却したところのいわば否定ならざる否定としての純粋なる無規定性である。全ての「からの自由」の根底にはかような中和的純粋可能性が横たわっていなければならぬ。
 
しからばこの純粋可能性から現実性への結合と推移とは何によって行われるであろうか。それは一つの根本的な決定作用によってでなければならぬ。純粋なる可能性は、これでもなく、またそれでもないものとして、これを論理的には純粋なる neither ーー nor(無かつ無)をもって表現するとすれば、純粋なる必然性は「これでもありまたそれでもある」ものとして、純粋なる as wellーー as(有かつ有)をもって表現することができる。そうしてこの純粋なる可能性と必然性との触接点に立つものは、これであるかまたはそれであるかを選択し決定する純粋なる行為としての either ーー or(有もしくは無)である。純粋可能性から現実性への水位は根本的にかかる純粋なる either ーー or をもって開始せられるのである。ゲーテが「太初に行ありき」といっているように、この原始的行為はなんら他のものを原因とするところなき根本的な「恣意」であり、まさにかかるものとしてそれはまた根本的な「偶然性」である。偶然性は一の「堕落」(Zufall)である。ゆえに現実的世界は純粋可能的世界からの根本的堕落によって始まるのである。この根本的堕落は「突如」として時熟する。それはなんら他の瞬間によって先立たれることなき「根本瞬間」であって時間そのものの根源を形成するものである。現実世界は、かく根本瞬間において根本的恣意をもって根本偶然的に始まると解せられるがゆえに、それは本質的に時間的でありかつ偶然的である。現実的自由ということもこれに基づいて考えられるのである。純粋可能性と「根本偶然性」との開係については、なお多くの若察すべき点が残っているが、ここにはそれを省略して現実性一般がかかる根本偶然性によっていかなる什方で始められるかを考察しよう。
 
根本偶然性としての「有もしくは無」が、純粋可能性としての「無かつ無」を必然性としての「有かつ有」に媒介するときに現れるものは、まさに「無から有へ」としての「成」である。これを論理的には純粋なる it ーー then「もしーーしからば」をもって表しうるであろう。そうしてこの成が純粋可能性に結合する始源にあるものが、かの積極的な能動的可能性なのである。それで純粋可能性と結果としての必然性との中間様相としての現実性の根本様相は、根本偶然性に媒介せられ、能動的な可能性を通して時熟する成であるというべきである。あるいはこれを最広義における歴史と読んでもいいであろう。かく成は無規定的なるものとしての無から規定的なものとしての有への運動であるから、それは純粋なる無規定性としての無でもなく完全なる規定性としての有でもなく、まさにその中間としての有無の混和、換言すれば可能性と必然性との合成であるといわねばならぬ。ヘーゲルをはじめ多くの人は、この有無の混合を有無の弁証法的統一となし、この可能性と必然性との合成を必然性そのものと同一視しようとするが、彼等はこの企てにおいて一つの根本的な誤謬に陥れるものといわざるをえない。成は有無の完全なる同格的対立的統一ーーそれは私のいわゆる体系であるーーではなくて無から有への推移的統一である。成はその過程性に基づいてつねに連続的であり、多 - 少的、程度的である。我々はこの点を特に注意せねばならぬ。人々が成を有無の統一であるというのは正しいとしても、我々は進んでそれがいかなる形式の統一であるかを問う必要がある。それは両者の完全なる絶対的統一ではなくして、単に部分的、多 - 少的、相対的統一にすぎず、従ってそれは決して必然的ではなくして偶然的なものと考えられねばならない。成の予想としての根本的偶然性が、そのなかに深くあまねく、ただし多 - 少的、相対的に浸透しているのである。それゆえに歴史には完全なる必然性はありえない。人々が歴史の必然性を主張するのは、成に本質的なるこの偶然性を洞察せざるのいたすところであり、さらにまたそれは偶然的な成を必然的な体系の面に引き直して考えようとする、ほとんど無意識的ともいうべき思惟の習慣に起因するのである。ヘーゲルの現実的即理性的なる定式はその典型的な実例であるが、唯物史観のごときもこの誤謬を共にするものというべきであろう。また可能性が消極的無決定的なるに反して、現実性が積極的決定的であるということから、実践こそが必然的であると論ずるものもあるが、これは部分的決定性を全部的決定性と不注意にもすりかえたものにほかならない。また最初の行は全然偶然的であるが、一度それがなされるやいなや、これにつづく全ての行は因果的必然的に生起するとなすものは、根本偶然性が現実的生成のうちに普遍的に浸透してその構成契機となっていることに考え及ばないものである。またその反対に成または実践においてこそ初めて完全なる自由があるとみるものは、他の誤謬を犯すものである。なんとなれば、成の根源たる根本偶然性そのものといえども純粋可能性のごとくに完全に自由なるものではなくして、すでにそのうちに一の方向決定を含むものである。ましてそれ以後の現実的決定には決して完全なる自由が許されてあるはずなく、つねに多 - 少的の度をもって規定的でなければならぬ。このことは絶対無からの決定というごときものが考えられている場合においても同様である。
 
右のごとき種々の誤解は成の本質を十分に理解せざるに基因し、そうしてこの無理解は成そのものに身を置いて成をみることを努めるかわりに、現実的な成を必然性の面あるいは可能性の面に引き直して考察することから起こるのである。我々はこれに反して現実的な成を現実的な成としてその立場からみることを学ばねばならぬ。そうするとき我々は成の多 - 少性、相対性、連続性を初めてよく理解するにいたるであろう。かくしてまた可能性と必然性との中間状態としての現実性にも自由が許されてあること、そうしてこの現実的な「あるものへの自由」はつねに多 - 少的、相対的であることをさとるにいたるであろう。最も肝心なことは現実的存在および現実的自由のもつこの程度性と相対性とを示された額面のままに素直に受納することである。正反合の弁証法的絶対必然的(あるいは絶対自由的)発展というがごときものは、人間存在の上部構造においてわずかにその抽象的な類似物を発見しうるにとどまり、これを担うその下部構造を形成するものは相対的に自由なる、ただし相対的にのみ自由なる連続的生成である。
 
我々はいま現実性を可能性としての無と必然性としての有との相互浸透によって成立する中間的な混合様相となし、その根本的な形態を「無より有への成」において見出した。同様にまた現実的自由を可能的な「からの自由」と必然的な「おいての自由」との合成によって生ずる「への自由」と考え、その根本形態を無から有への成の自由として理解した。ベルクソンは成に徹することによって自由を捉えようとしたものであるが、その結果全く性質的な純粋持続のごtきものに到達して、成における分量的対象的側面を見失ってしまった。否、むしろこれを知性の作為的産物として排斥するに努めた。これがために彼の哲学のいわば自然主義的、敬虔主義的、特に生物学的な着手にもかかわらず、それは著しく精神的なまたある意味では超経験的な形而上学への傾向をとるにいたったのである。しかし彼の純粋持続の概念には、その経験的自然的な起源を偲ばしめる面影が以前として残存している。しかるにカントの自由は、その自発的な点においてはベルクソンの持続にも比すべきものではあるが、しかし両者のあいだには見逃すべからざる重大なる区別がある。それはカントの自由の概念はベルクソンのそれとは異なり、先験哲学の根本予想たる価値論の見地から把握されているということである。かくして彼は自然主義的ないし経験主義的な見方に反対して、道徳的自由を経験的現象界を超越した叡智的な「物自体」として実践理性に基づくものとしたのである。しかるにカントが自由を彼岸的な形而上学的実体としての実践理性に帰しているのに反して、同じく先験的価値論の立場をとりながら、自由を彼岸的、前 - 世界的ないわゆるプロフィジークの領域に見出そうとしたのはリッケルトである。いま私はこれについて詳論する余裕をもたないが、彼のプロフィジークの領域というのは、広い意味での経験的対象的な世界、すなわち精神的ないし物理的世界と、打倒する価値の世界とに先行する彼岸の世界であって、これらの対象的な世界をはさんでその彼岸い想定せられる価値 - 実在の形而上学的世界と対立するところのものである。そうしてこの世界を内容的にみれば、一方には精神物理的対象界に対する感性的な質料と、価値対象界に対する叡智的な質料とが流動の姿において存在し、他方には価値に対して態度を決定する自由なる自我があると考えられている。それゆえにリッケルトにおいては自由の主体は経験的対象界の彼岸にある形而上学的後 - 世界からその彼岸なる前 - 世界に移され、これによってそれはベルクソン的持続の世界に近づけられたとみられるけれども、しかしそこには価値論的な動機と二元論的な動機とがなお依然として保存せられているのであって、その結果価値に対して態度を決定する自由なる不可対象化的主体としての自我は対象化以前の根本的な質料と折り合うことなく非在し、またこの質料もなおいまいえるごとく二元的に考えられているのである。しかし我々はさらに一歩を進めてこの自由なる態度決定をなす作用主体と流動的質料とを一層密接に連関せしめ、カント的な見地とベルクソン的な見地とを一層統一的な見地にもたらすことはできぬであろうか。我々の述べきたった存在の諸様相と自由の諸形態との存在論的相即と包超的な存在それ自体および無によっての諸存在様相の相互浸透、ならびにそれに対応する諸自由形態の混成とは、右の二つの見地の統一を可能ならしめるのみならず、さらにこれを必然ならしめるであろう。私はそこに開かれる現実的存在および現実的自由の輪郭を瞥見し、それに基づいてその根本形態を少しく内容的に考えてみようと思う。
 
我々は現実的な存在の根本様式を成とみ、現実的自由を成としての自由と考えた。かくしてそれは自然にカント的な見方とベルクソン的な見方との存在論的統一になっているのである。しかし成が現実的存在の根本形態であるということは、必ずしもそれが単に現実的存在の基底に、他のものから隔絶して孤立的に横たわるということを意味するのではない。それは現実的存在の根本形態であるとともにその普遍的形態でもあり、かくて連続律と極限の概念に基づいて現実的存在の全領域に浸透しているのである。従来普通に行われている見解に従えば、自然界ことに物理的自然界は必然的な因果律によって支配せられ、そこには自由を容れる寸分の余地もないと考えられている。カントのごときもこの前提のもとに自由と自然的因果とを二律背反の関係に置き、この困難を二世界説によって解決せんとしたのである。しかし我々の見地からすれば、自然現象といえどもそれが過程であり、成である限りは、成としての偶然性と自由とを有するものと考えられねばならない。現今、量子力学などにおいても偶然性や不確定原理がさかんに論議せられているようであるが、これは物理学者の立場からは数学と実験とに基づいて科学的に立証もせられないしは推測もせらるべきものであって、門外漢のみだりに口をはさむべき問題ではないが、我々は哲学の立場から、現実的成の理念に照らしてみても、当然そうあるべきはずであることを推察するにかたくないのである。そうしてこの哲学的理念は、この問題についての物理的研究の結果が今後いかように変化するにしても、必ずしもそのために動揺するものではない。哲学底洞察は、特殊科学的探究の正しき成果から有益なる示唆を受けることはもちろんあるが、つねにその後から追随跋行すべきものではなく、むしろ炬火をとってそれに先駆すべきである。人々は不確定原理によって因果律が脅かされることを恐れるを要しないとともに、それと矛盾せぬように因果律や必然性の概念を改造するために苦心する必要もない。けだし、因果関係そのものがすでに一つの現実的生成過程として、偶然性をともなうものと考えられねばならない。そうしてこの因果的過程の論理的表現たる因果律なるものは、人々が現実的な因果関係を一層必然的な理論的平面に投射することによって成立する抽象的産物にすぎないのである。しかのみならず、もし我々が徹底を欲するならば、数学的操作や論理的推理というがごときものすらも、それが一つの過程性としてすなわち成として考えられる限りにおいては、一般に信ぜられているごとくに絶対的な必然性を有するものではなく、そこにも計算や推論の誤謬が可能であり、かくてまたいくらかの偶然性の忍び込む余地を残すといわねばならない。もし我々が十分に具体的に論理や数学の存在論的性格、詳しくは経験 - 存在論的性格を問題としようとすれば、一見単に主観的なこれらの誤謬の現象といえども考慮の外に置かるべきではない。かくして我々は現実的存在としてみられる限りの自然的存在の全領域のみならず、広く数学的存在や論理的存在にまでわたって、いかに偶然性がその支配の手を延ばすかをみるのであるが(プートルーの偶然論参照)、これらの偶然性のアプリオリな根源はさきに述べた根本偶然性にほかならない。しかるに他方自然現象の基礎に考えられる物質とか自然認識の予想する感覚的所与性というごときものはどうであるかというに、それらもまた現実的生成たる資格においては、やはりいくらかの偶然性をともなうものであり、従ってある程度まで現実的に自由であるといわねばならない。ここには煩を避けて詳述しないが、古くはアリストテレスやプロティノスなどによって、また現代ではリッケルトやラスクなどによって考えられた叡智的資料や、それに対応する形相、形式、価値などに関してもこのことは同様であって、それらも現実的存在である限り、全て生成過程においてあり、かくて時間的でありかつ広い意味で歴史的である。時間的歴史的である限り、またいくらかの程度において偶然的でありかつ自由である。個人的生活や社会的歴史が絶対的に必然的でありえないことはいうまでもないであろう。
 
ただここに我々の忘れてはならないことは成は現実的存在の普遍的様相ではあるが、単に普遍的であるのではなくして同時に根本的な様相であるということである。それゆえに現実存在そのものが対応的程度的なるごとく、成もまた一様的ではなくして多様的であり、多 - 少の程度において成である。そうして成は現実的存在の基底に近づくに従ってますます純粋なる成となるが、その極限に達した場合の成を私は特に現実的存在の根本様相と呼ぶのである。現実的存在の根本様相としての成は根本質料的ないし第一質料的成と考えられねばならぬ(根本質料または第一質量は元来純粋可能的な質料の意味をもつものであるが、ここにはそれが現実的成としての流動的な姿をとった場合を考える)。ただしこの根本質料的成は一切の現実的存在の根底であって、単にベルクソンの純粋持続のごとくに純性質的なものではなく、そこには空間的物体の質料も諸種の叡智的形相や価値や人格的自由そのものの質料というごときものさえも見出されるであろう。ただし、それらの諸々の質量は相互に微分的連続において相浸透し相通徹して一つの統一的な宇宙的流動として存在する。かような第一質量的根本流動としての成は、それ自身一つの偶然であり、従ってある程度において自由なるものである。しかし全ての意味においてそうであるのではなく、その偶然性と自由とはむしろ必然性に近き程度にまで制限されているのである。それで我々はこれを宇宙的な「運命」と呼び、その根本的形式を「運命時間」と称することができるであろう。全ての現実的存在は、それは自然現象であっても人類歴史の出来事であっても、その根底においてはこの運命的な根本質料的成に従って漂うほかないのである。しかしまたそれらが存在それ自体のなかにあり、また存在自体をも包超する絶対無のなかにあるものである限り、この根本質料的成としての自由の外に、なお他の種々の方向への自由も、相対的な意味では、それらに許されてあるはずである。ことに人間存在においては、現実的存在と必然的存在との高度の浸透によって、自由の範囲はきわめて増大し、かくてこの存在に特有なる種々の自由形態が発展してくるのである。けれども所詮有限なる人間存在は、道徳的な意味でも宗教的な意味でも、決して絶対に自由なるものではありえない。同様に、またそれは経済的な意味においても物理的な意味においてすらも、絶対に必然的にして不自由なるものでもありえない。それは種々の程度の自由と必然とを同時に楽しみかつ苦しむところの中間存在にほかならない。
 
根本質料的成としての運命存在から人間存在にいたる途中に、我々は神話の世界というものを考え、またこの世界が、あるいは知的反省的に、あるいは美的空想的に偏向したものとして、浪漫的世界や童話の世界というごときものを存在論的に位置付けることができると思うが、これらのことについては他日またあらためて論ずる機会もあるであろう。
 
(註)私は後出「根源可能性と体系可能性」においては、純粋可能性を体系可能性と同義に解したが、ここにいう純粋可能性は体系可能性の抽象的なただし同本質的な部分ともいうべきものである。この論文にて具体的な体系可能性について述べることをしなかったのは、その主題と直接関係なき事柄についての立ち入った論述を避けようとしたためである。
 

(『改造』昭和十年六月號)