PHILOSOPHY

懺悔としての哲学死より美しきものもなし

野崎廣義西田幾多郎

 

Published in 1942 Summer, April 1920, December 13th 1916, June 1917|Archived in January 10th, 2024

Image: Sir John Everett Millais, “Ophelia”, 1851 - 1852.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

旧字・旧仮名遣いは現代的な表記に改め、「。」の挿入やルビ(ex. ミミズ)などを施し、誤字などを直した(ただし、著者(野崎廣義)絶筆となった執筆途中の[改稿]については、原文ママとした)。
傍点による強調は太字に統一した。
底本の行頭の一字下げ・見出しの三、四文字下げは一字上げ・三、四文字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:野崎廣義(1889 - 1917.6)|西田幾多郎(1870 - 1945)
題名:死より美しきものもなし(西田幾多郎著)原題:序(1920年4月)
題名:懺悔としての哲学|懺悔としての哲学[改稿](野崎廣義著)
初出:1942年夏(「序」)、1920年4月(「序」)、1916年12月13日(「懺悔としての哲学」)、1917年6月(「懺悔としての哲学[改稿]」)
出典:『懺悔としての哲学』(弘文堂書房。1942年。扉、1-2ページ〈序〉、3-20ページ)

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死より美しきものもなし

 

私が京大哲学科の講壇に立つ廿年の間に、多大の期待を負いながら、業を卒えて間もなく歿去した三人の秀才があった。始めには野崎廣義、次には岡本春彦、次には三土興三である。特に野崎廣義君は四高からの関係もあって、最も私に親炙していた。同君逝いてより最早二十有余年、この度、務台、高坂両君によって同君の遺稿が再版せらるるに当たり、個人を思うの情に堪えない。真摯なるものは何時までも人の心を惹くであろう。
 
   昭和十七年夏
 

西田幾多郎   
 

野崎君が突然逝かれしも、指折り数えれば、早幾年の昔となりぬ。堪え難かりし当時の思い出も、今は澄める記憶の形像となりて、時に我が心の迷路の中をさまようのみ。されど君は我に宿世如何なる因縁かありけん。君の記憶は深く我が心の歴史の中に織込まれて、我というものより除き難くなりぬ。悲しからん時も、嬉しからん時も、君の記憶は長く我が魂の竪琴に一つのメロディーを奏づるなるべし。

 

死は悲し、されど死より清く美しきものもなし。深きもの、真なるものを求めて、狂える魂の如く、悶えに悶ゆる中に、亡せ行きし君の死は、花束をかざしして、水草清き水の上を、歌いながら、流れ行きしオフェリヤの死にも似たらずや。

 

   大正九年四月

 
西田幾多郎   

懺悔としての哲学

私にはこの四五年というものは闇を衝いて沙漠を旅ゆく生活であった。
 
光の消滅せるところにはすべての窮屈な空間的約束が破られて不可思議の世界の扉が開く。預言者が桶の水の一滴さえも漏らない間に、この世の端から端を騎り回ったのもこの時であろうが、凡夫が肉と骨とを脱ぎすてて涙の河にその命を洗い浄めるのもこの時である。しかし預言者の顕わす不可思議はまだ不可思議でない。不可思議は凡夫のうちに現われるから不可思議である。
 
不可思議は現実と空想との縫目にその姿を封じている。故に不可思議に遭わんとするものが現実のうちに没頭する限りは不可思議を字引のなかに見出し得るだけである。空想の中に沈湎する限りは不可思議は詩の行と行との間に隠れてしまう。不可思議は凡夫が何ものかの鉄腕によって現実と空想とのどん隅に押しつめられ、身を翻えさざるを得ない時に見出す実在である。下手に翻えればわが命の行方さえ解らなくなる境地である。それは黒暗々の無底坑である。そこでは涙が笑い、闇が輝く。
 
かかる境地はこの世の真中に住むものには夢にも見えないところである。しかし半ば断崖から脚をはずしているものが生きて行くには、とてもなくてかなわぬところである。天才と動物にはどうか知らないが、凡夫の浄土は確かにここにある。私の沙漠旅行はどうやら遂にこの不可思議境に足を入れたものらしい。私はこれを今までやった学問の習慣に従って、便宜上真理と名付ける。
 
私は生活の明るい時代にも考えぬではなかったが、それが暗くなった時にはなおさら考えざるを得なかった。それでも現在から過去をふりかえると、その時考えられたことはただ呼吸していたに過ぎないとも思われる。現在の私はこの無底坑の暗中からひたすらすべてを見つめたいと思う。何となれば私はこの中から這いでればまたこの中に飛び込まなければならない身分であるのだ。私はもはや現実からも空想からも見離されている。そこには私の住むべき空間がない。だから私にはこの坑をほかにして現実も空想もないのである。おかしいことには巨大なる世界であったかの現実と空想とは、今になって見ると、この坑の入口にかかっている蜘蛛の巣であったのだ。思想上これにひっかかることを言葉と論理に囚われるともいう。真理の戸外に立って恐るゝこれを窺うものは、常にこの蜘蛛の巣で顔をまっ黒につつまれる。
 
斯くいうもののこの真理の中において見んとするものーー真に考えんとするものは決して論理を無視したり言葉を断絶したりなどすることはない。単なる言葉の断絶、論理の無視は、さらにまた蜘蛛の巣にかかることである。必然を抽象した自由は、自由を抽象した必然と共に、蜘蛛の巣の役を務めるだけのものである。絶対自由は絶対必然と一つである。これを思想において体認するには自らの生命を論理の中に投げ入れ、わが魂を言葉の中に織りこまねばならない。これは一見大なる矛盾のようである。何となればかようになっては蜘蛛の巣にひっかかるどころか、蜘蛛の巣自身になっているからである。これがさきの現実と空想とを脱却したものの状態であるとは、どうしても受けとれないようである。しかし現実と空想とに真実呑み尽されたものが却って現実と空想とを真実呑み尽しているものであるということが認められるならば、これが受けとれないとはいわれまい。もっとも後の事実が一層奇体に見えるかも知れないが、今のところは奇体は奇体のままで許して置いてもらいたい。思弁に奇体はつきものである。
 
上のような考えには論理自身が飯を喰うことになりもしよう。否それどころか、論理自身が喜怒哀楽そのものにならなければ、思索に身を委ねるものに何の真実、何の力があろう。如何に思想の大体系を持っていようとも、如何に多くの言葉を知っていようとも、要するにお目出度い面々であるというのほかない。かようなものには、涙も笑わず、暗も輝かない。
 
無底坑の真理は論証されるものでもなく、論証すべからざるものである。しかし妥協の論理はつねにこの最後の事実を認めることができない。あるものは真理は論証せらるべきものとして中心点に一向近づかぬ木馬のように、ただその周囲を回転する。あるものは論証すべからざるものとして赤道に立って極光を思うように、光るものはわが見ると見ざるとにかかわらず光るという。死せる概念の塁壁を築き上げることによって満足のできるものにはそれで結構であろうが、絶望の淵に臨んでひしゝと恋い慕うところの真理は、かかる外面的な論理でその姿を見せてくれない。
 
真理のためには学者は自己の最愛なる学問をさえ塵芥の如くすてねばならないこともある。ドストエフスキーの「罪と罰」におけるラスコルニコフは、それがためには殺人もあえてしたほど執着せる外面的論理を脱落した時に、彼の真実なる生活の幕があいたのである。かくて真にソニヤを愛することができるようになった。否むしろ彼がソニヤを真に愛することができた時、初めて外面的論理を脱落したともいわれる。ソニヤとは彼の最後に求むべき真理を象徴せる可憐の少女である。この究極真理との内面的交通とともに、ラスコルリュフのVita novaーー新生が輝きいでたのである。私はこの新生こそ、哲学的思索のうちに住むものにとっては、真実の論理であると信ずる。
 
自己のこれまで辿った生活を新生の光に照らして見るならば、すべてが罪悪であり、虚偽である。新生は罪悪の自覚と共に始まる。それは氷の中に焰の燃えた時、暗の中に暗が光った時である。罪悪は罪悪の自覚において生れる。新生は罪悪を滅ぼすものではなく、むしろそれを認めるもの、生むものである。思想上認めるものはすなわち生むものである。故に新生の始まらない前には罪悪というものがない。新生の発展は罪悪の発展である。しかして新生に入ることはいうまでもなくかの無底坑に降り立つことである。現実と空想とはここから見つめられて初めて生まれる。二つのものは罪悪という名において初めて神の世のものとなる。罪悪ならざる現実と空想とは浄土にとりては用のないものである。
 
たえず真理において考えるということはすくなくともその中に身を投げ入れたものには新生の発展である。従って神自身ならば知らぬこと、現実と空想の中から翻って来たものには、それはたえず自己の罪を悔ゆる過程である。懺悔がないならば哲学がない。故に真に考えるものは皆罪人でなければならない。考えざるを得ないような境遇と性格とをもってこの世に現れたものは、只肉と血に包まれた骸骨として観るならば、決して楽しい生を享けたものではない。かかるものは聖なる恩寵に照らされなければ、決して生きていくに値しないものである。聖なる恩寵とは真理によって自己の罪悪の遂に許されざるを知ることを許されたる無上の権利である。この権利は聖像の前の啜り泣きか、手を組んで深く胸に首垂れることに依って実行すべきものである。ヴェルレーヌは彼の胸に懺悔の念が強くこみ上げて来た時、もし彼がノートル、ダムの聖母像の前に跪かなったとするならば、彼は深きゝ瞑想に耽ったであろう。この場合にはどうしたって歌うことができない。最も貴い哲学は許されざるに透徹するところに成り立つ。
 
私の生活に哲学というものが意味深いものであるとするならば、それは懺悔の哲学であるべきだ。何となれば真に考えるということは懺悔であるからである。思想の発展とは懺悔の純粋になりゆくことである。かようにして一時私は、懺悔は真理の前においてすべきである、外界に自己の取るにも足らない思想を発表するのは無意義なものであるとさえ思った。しかしよく考えて見ると自己と真理との内面的関係を観るところに異に考えるということすなわち懺悔があるものだとするならば、わが思想、わが懺悔なるものは、私一個の思想、懺悔として胸中に閉じこめて置くべきではなく、万人の前にさらけ出すべきである。しかし懺悔としての思想の告白は世を教えんが為めでもなく、又自己の論理の鋭さを衒わんがためでもない。懺悔が真に懺悔であるがために万人の石に打たれんである。ソニヤがラスコルニコフにいったではないか、『街に立って通行人の前にあなたの人殺しであることを叫びなさい』。真理を熱愛し真理に従順なるものは常にこの声に耳を傾くべきである。真理は常に自己の前においてのみならず、すべてのものの前において懺悔を要求するソニヤである。真理は決して許すものではない。この決して許さないところに真理の大慈大悲がある。これに依って凡夫が超人となる。真理自身が若し優柔であるならば、人間は遂に蚯蚓(ルビ:ミミズ)になり下がってしまうに違いない。
 
哲学者はできるだけ論理的に厳密ならんとしている。これは哲学史を繙くならば何人にもすぐ気のつく事柄である。現代の哲学者もまたますますこの方面に努力してる。しかしこれは何のための努力であるか。私のいわゆる懺悔としての哲学においてもこの論理的厳密が要求せられるであろうか。しかり哲学は懺悔であるがためにますます論理的に厳密ならざるを得ない。のみならずこれがために、厳密であることが何のための努力であるかが明瞭になるのである。
 
思想の厳密とは許されざるに透徹して懺悔の念に根拠を有しなければ強き要求として現れ得るものではない。単なる厳密のための厳密は言葉の遊戯である。もちろん懺悔としての哲学から見れば人世のことすべてが遊戯である。哲学自身さえ遊戯である。しかし懺悔の一念に徹しているところからは、すべてが厳粛である。厳粛とは真実なる要求から流れ出でたる厳密を指す。
 
あるいはこれに対して懺悔としての哲学は理論的ではない、実践的である、故にそれによって得られたるは実践的厳密であって理論的厳密ではない、前者によって後者が得られるとするのは実践と理論とを混同した者であるといわれるかも知れない。かような疑問は普通誰にでも起こりやすいところである。ことに哲学者は思索と名付くる水晶の高塔に世俗を超越して、先天の夢に耽るべきものであると考えるものは、懺悔の哲学はお説教に堕落したものであるとするであろう。しかしながら理論と実践との限界は如何なる約束によって成り立つものであろうか。哲学と説教と手を別つところは、何によって定められるのであろうか。哲学において自己の懺悔を見るものはすべての約束と予見に幻惑されないことを努めるだけである。ひたすら根本的ならんことを熱望するだけである。自己全体を無底坑の中に投げ込むだけである。しかして深く強く自己の罪悪を悔い思う。ただし罪悪というとあまりに狭い意味にとられやすいのであるが、私のいう罪悪は人類の先が智慧の実を喰った時に始まった人性の活動一般を指すのである。かようなものは人間各自の内に潜んでいる。これをあらわに自覚せる者には懺悔が始まる。理論と実践哲学と説教との対立を超越したる至深至高の哲学が始まる。
 
かかる哲学は聖なる恩寵の中に生ける論理であって、一切に超越しながら一切に同情を感ずる世界苦痛の自覚である。真の哲学者は自己苦痛、自己罪悪を、世界苦痛、世界罪悪として自覚するものである。ここにもう一度ラスコルニコフにふりかえる。彼がソニヤを愛することが出来た時、彼が今まで嫌い且つ嫌われつつあった同じ獄屋に繋がれていた囚人と、心から溶け合うことができるようになった。かくの如く彼が他の罪人に同情ができるようになったのは、彼が真理に向って真実自己を懺悔したからである。今はドストエフスキーの小説に現れたるラスコルニコフが果たして哲学者であるや否やは、私にはどうでもよろしい。ただ私が真実と信ずる哲学は、彼において見られるような内面的過程を経て生るべきものだということを示さんとするばかりである。
 
現代の哲学者の多くは文明批評、文化支持をもって、自己の誇るべき天職であると考えているであろうが、その意気やすこぶる壯とすべきである。しかし彼等はこの職に任ずるといふことは、極めて大なる十字架を負うことであることを決して忘るべきではない。彼等は果たして自己において世界苦痛、世界罪悪を真実に自覚して懺悔の念に徹しているであろうか。もししからずんばメフィストから笑われるのみか、神からも笑われるであろう。
 
もっとも今まで私が述べた告白と要求とは、明るい世界には通用しない闇から闇への言葉であるかも知れない。(大正五年十二月十三日)

懺悔としての哲学[改稿]

私にはこの四五年というものは、闇を衝いて沙漠を旅行く生活であった。私の心の内となく外となく、生きんとする意志の行くてには、はてしもない運命が、恐しい暗黒を渦巻いた。今は共一駒々々を想いめぐらすだに、えも云われぬ戦慄を感ずる。ローマンチストは、暗夜をこの世にまたとない自由の境として歌ったが、私の閲歴した暗黒は、プラトーンがエルの神話をかりて述べてみるように、ありし世の残逆なる帝王が、永えにのろわれてから暗から暗にさ迷うあの姿であった。実際、私は人生というものを、まだ陰影に於て見なかった時代には、夏の光を受けて、孔雀が羽根を広げてあるくようなほこりと自由とを感じた。自己の誇りと自由の感は、自己の輪郭の鮮さである。何ものにも自己の要求、すなわち生活の論理を強い得る自負である。私はその時分には、常に真理と云うものが、自己の掌中にあるものだと信じた。しかし、それは我儘勝手な真理であったことは、あたかも暴君の剣のようなものであった。私はその剣でもって、向うところすべてを薙ぎ倒し得ると信じ、凡てに向って猪突した。私は、ゴルヂアの結目と云うもののあるのを知らなかった。また、よしかようなものに遭ったところで、それは解くべきものにあらず、断つべきものだと思った。私は眼に見えるすべての問題に於て、不可思議を見ることができなかったのである。問題に於て、不可思議を見ないというのは、問題の尊さを知らないことである。すべての問題をお茶にするということである。すべての問題を無造作に屠ってしまうことである。私はその時分パスカルの、人間は考える葦の葉のであるということを、余りに安易に受容れていた。而して余りに葦の葉の身分でもあって、剣の暴威を逞うした。しかし相手を切ったと思っていたのは、却ってみんな私自身が切られているのであった。私の誇りと自由とは燥狂の夢みるたわいもない幻であったのである。結局私は繋縛のどん底に陥っていたのである。若し私が生きて行かなければならないように神が定めたものとするならば、私はこれまでの生活というものを、逆に導かなければならないのであった。何となれば、生きてゆくということは、ほんとうに自由であるということだ。繋縛を逆に解いてゆくということだ、ーーしかしこれはただのちっぼけな人間としてできることであろうか。自己のうちに、真夏の光、孔雀の羽の輝きを仰ぐ人にできることであろうか。Idola specusをながめ見あかないものには、真理の世界は暗黒の世界と見えるものであるということであるが、かく自己を光だ、輝だと信ずるものが、暗の夜に讃歌をささげるほどの雅懐をどうしても得るであろうか。
 
そこで、私が現在生きてると云う事実は、私以外のある大いなる力を予想しなければならないことになるであろう。その恐ろしい力が、私のあの生活を逆転せしめて生活の本流に導いたものと考えなければならない。それは即ち運命である。自己の因襲的生活に随順する何ものに於ても、運命の姿は意識されないものである。すべて自己の脈搏のひびきにけおとされてしまう。運命の意識はつねに自己の因襲的生活に逆行するときにはじめて意識される。だから運命は昔から、おそろしいもの、真くらなもの、厭ふべきものとして考えられている。肉体的生命の否定である死が、運命のもっともあざやかな象徴であるとされるのも、偶然ではないのであろう。とにかく私自身に姿を現わした運命は、山の中からでもすべりでて来たような冷酷なものであった。その魂に突き当る鋭さには、あの花やかな光も輝もすっかり消えてしまった。私の魂は、何かな暖いものを、何かな光ったものを、盲滅法にあたりを撫で回わし、狂ひ回ったが、やはり、はてしもない暗みと冷さがあるばかりであった。私はかようにして、初めて不可思議の世界の扉に手を掛けたのである。兎に角私の面と面を接したものは、その姿の明確であると云う点から云ったなら、むしろ深刻であると云った方が適切である。何となれば、暗やみそのもの(も)冷かさそのもの(も)観念や表象の鏡に写った反映ではなく、力そのものであったからである。ところが、これまで自己の対象となり、問題となったところのものを握りしめなければ承知のできなかった私は、この明確過ぎる程明確な問題の前を、絶えず逃げ去ろうとあせっていたのであるが、あせればあせる程、運命はその姿を明確にして、即、暗黒と冷さはいよゝはげしくなって来たのである。私はここに、未だかつて自覚しなかったディレンマにはまったのである。私は初めて、明確な認識必ずしも自己の受用するものではなく、自己の受用しないところのものが却って自己を追及して止まないことがあるということを悟った。但し、ことがあるという言葉は特称的表現であるけれども、生活のその時その場合にあたっては、それは全称的の力でもって現れるものである。力として現われて来た斯様なディレンマの前には、只不可思議、それも死ぬるばかりの不可思議を感ずるだけである。それは現実と云うには余りに矛盾し過ぎている、妄想と名付けるには余りにゆきづまっている。(之れ以下を缺く大正六年六月)
 
ARCHIVE編集部注:同年同月著者急死のため、改稿はここで終わる。