PHILOSOPHY

種の論理

田邊元

 

Published in February, 1934|Archived in January 10th, 2024

Image: Ernst Haeckel, “Crytoidea”, 1904.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原文ママ。
底本を『田辺元全集』から文庫に編入した際に、岩波文庫編集部によって施された旧字・旧仮名遣いの現代的な表記への変更はそのまま活かしたが、編者・藤田正勝によって付された注解の全部を割愛した。
(とりいそぎ)全部で七章ある論文のうち最初の二章を収録した。
底本の行頭の一字下げ・見出しの四字下げは一字上げ・四字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:田辺元(1885 - 1969)
題名:種の論理原題:社会存在の論理──哲学的社会学試論──(内容一般・一・二)
初出:1934年2月(『哲學研究』第224号、第19巻・第11号)
出典:『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ〔全4冊〕』(岩波書店。2010年。9-43ページ)

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内容一般

一、哲学的社会学の必要ーー特殊普遍の論理に由る社会存在の理解不可能ーーコントの社会学における「種」の無視と「理性人間」の人間学。
 
二、社会存在の論理の発展ーー我と汝の交互性の論理ーー我・汝・彼の弁証法的論理ーー絶対媒介の論理としての種の論理。
 
三、ベルグソンの二種社会論ーートェンニェスの共同社会と利益社会ーー種の論理に出る社会存在の理解。
 
四、種的共同社会の構造の型としてのトテミズムーー分有の論理ーー共同社会の主体としての種的生命意志ーー個体分立の原理ーー利益社会の成立。
 
五、個の論理ーーアリストテレス論理の制限ーー個の否定的構造ーー偶然と自由ーー個の主体としての権力意志ーーニイチェの限界。
 
六、類の絶対否定性ーー絶対媒介の論理の完成としての類の論理ーー「人類」の意味ーー国家の類的媒介性ーー摂取の論理と救済意志ーー国家の宗教的契機。
 
七、契約説の意義ーー国家と法ーーヘーゲルの倫理説ーー人倫道徳と国家ーー宗教と科学との綜合としての道徳及び哲学。

希臘 ギリシア における理性的自然の発見、中世における精神としての神の発見に対し、文芸復興以後の近世は、人間の発見をなしたといわれるならば、更に十九世紀は社会の発見をなしたというべきであろう。社会の原理探究は現代哲学の中心課題をなす。単なる人間存在の存在論と人間学とは、この見地からすればすでに過去に属する。人間は社会において、人間存在は社会存在において、始めて具体的たり得る。社会存在の哲学こそ今日の哲学でなければならぬ。哲学的人間学でなくして、哲学的社会学が今日の要求であろう。
 
もちろん古代哲学においても国家は政治哲学の中心問題であり、中世においては教会が地上における神の国の実現として普遍的社会の意味をもち、近世においては自然法の立場から国家の理性的原理が求められた。しかしこれらを通じて国家ないし教会という如き社会集団は、現に自然法の概念が暗示する如く一の自然的存在と認められ、特殊の個人に対する普遍者という意味を有するにとど まった。教会がいわゆる普遍的教会である如く、国家も自然法的には普遍的国家であって、原理上人類の全体を包括することができるはず のものである。現実の国家が多数の特殊国家に分れるのは、単なる消極的制限に止まり、本質的には全体的なる人類国家を形成するものと考えられる。個人が国家社会の支配を受けるのは、論理的に普遍が特殊に先だち前者の限定に由って後者が成立するに因る。かくて国家の主権は人民の全体に属し、人民の総意が統治の主体であるというのが、自然法の考方である。人民主権の思想から国家契約説に至るまで、自然法の論理は普遍と特殊との関係に基く。けだし、個体は特殊の特殊化の極限であり、普遍に対する限定が特殊を経てその極個体に至ると思惟せられると同時に、個体から観れば、特殊も一の普遍であり、その普遍化の窮極が人類全体に外ならない。従って全体と個体との対立は普遍と特殊との関係に相対化せられ、普遍と特殊との相対的関係が、極限におい両極端の絶対的定立に達すると思惟せられて、それにより全体と個体との対立が普遍と特殊との対立に帰せしめられるのである。その結果一方では万民法に由る人類全体の統一と、他方では個人の随意契約とが同時に思惟せられることが可能となり、全体と個体とが対立しながら、かえって特殊の相対的なる媒介により一様化せられる。しかもかえってその結果、全体に対しても個体に対しても、真に具体的なる媒介の役目を果すものとしての「特殊」の、固有なる機能は見失われざるを得ない。アリストテレスの論理において、類と個とに対し、種が単に類よりは特殊的にして個よりは普遍的なる中間者たるに止まる関係は、自然法と教会の神学とに共通なる、社会集団の論理であったといわれるであろう。人類の全体を統一する普遍が、個体の多数を集団化するに際し制約せられる所の特殊の制限が、部分的統一として種なる現実の特殊国家、ないし特殊社会を形成すると思惟せられる。あたかも生物の類と種と個との形造る系統と、それを規定する特殊普遍の論理的関係とが、人類と特殊社会と個人との関係に外ならない。実にこの関係はただ近世の自然法を支配したばかりに止まらないのであって、十九世紀社会学の祖と認められるコントさえ、社会を以て人類と同視し、デュルケムのいわゆる社会的種 les espèces sociales (Durkheim, Les règles de la méthode sociologique, p. 96)を無視して、それぞれ性質を異にし結合の原理を固有する特殊の種を認めなかったのである。あるいはこれはイデオロギー論的にいえば、近世市民社会に固有なる原子論的思想に外ならないといわれるでもあろう。しかし論理は単にイデオロギーに止まるものではない。歴史的なる制約と共に超歴史的なる意味を有するが故に論理たるのである。右の論理もいわゆる理性人間 Horo sapiens に通ずる普遍の理法である。ただこの理法たるや、人間の本質が、単に普遍を実現する特殊として考えられ、人間は共通の本質に由って統一せられ人類の集合を形造るものと思惟せられるかぎり においてのみ、妥当する。かかる考方に従えば、類的全体と成員たる個体とは単に普遍と特殊との関係を保ち、その間に自己否定的矛盾的なる関係を容れる余地は無い。従って両者を媒介する特殊としての種は、全くそれ自身に固有なる原理を有せざる中間者ないし混合物に過ぎざるものとなる。実例を以ていえば現に、内包的に社会を有機体と なす観方は、有機体の類・種・個の系統を以て社会の外延的関係を理解し得るとなす。もと単に無機的なる自然存在においては、普遍と特殊との対立は全く相対的なる方向の対立に帰するのであって、類的全体と個体とが特別の意味を有することは無い。全体と個体とはそれぞれ不可分者でなければならないが、無機的存在には原理上不可分なる全体も無ければ個体もあり得ない。すでに何らか不可分なるものは、単に機械的構造以上の原理によって成立するのでなければならぬ。機械的なる無機物は全と個という意味を有するものでない。それ故類的全体と個体とは実は生物に固有なるものと考えられ、類・種・個の系統は有機体において始めて意味を有するのである。ところで生物の分類において、種が単に類と個との中間というよりも以上の意味を有することは、実験的進化論の理論において始めて認められる所であって、単に観察分類記述の立場に立つ限り種はただ相対的意味を有するに止まるであろう。これが有機体を存在の範型とする存在論とそれの論理との限界である。しかしてこの論理を以て社会存在を理解しようとする場合に、社会は単に特殊としての個人に対立する普遍として、先行的基礎的と認められ、それの制限限定によって特殊の部分社会を成立せしめ、更にその限定を進めてその極個人に至ると解せられるのは当然の事でなければならぬ。特殊の国家も人類社会の制限であり、国家内の諸団体は国家の部分的制限である。しかして個人はかかる制限を 推進 おしすす めた極限において、すべての集団性を奪われ、全く集団性無き不可分的なる要素的存在として成立するものとせられる。この系統を貫く論理は、普遍と特殊との関係規定であって、特殊は常に普遍の制限限定として成立すると考えられる。従って特殊は普遍に依属し、これに対抗する積極的原理を有するものでない。個体というも特殊化の極限に外ならないから、それは普遍としての全体の限定以外の何ものでもない。しかしてかく全体と個体との関係を普遍と特殊との関係に帰し、個体を普遍としての全体の限定特殊化の極限と考える論理は、逆に全体を個体の拡充として理解せんとする。従って全体としての社会は個人を要素とする集団として、特に個人に対立しそれと対抗する如き原理を含まない。ただそれの限定特殊化が個体を極限として成立せしめる如き普遍たるに止まる。約言すれば全体も個体も特殊を中間者として連続的につな がる両極に過ぎないのである。自然法において、人類社会に対する平等的普遍観と、個人主義的原子観とが、互に表裏をなすのも、この論理の結果に外ならない。もちろんこの特殊普遍の連続的相対論においても、全体と個体とがそれぞれ不可分的なる存在として成立するためには、それらに固有なる質的原理が必要であると考えられ、全体は単に要素の集積総和以上の統一原理を有すると思惟せられると同時に、個体もまた不可分者として更に限定をゆる さざる統一性を保持するものと認められるのが常である。しかしかかる統一原理の質的固有性も、中間的特殊の連続的推移の両方向が極限にまで徹底せられた結果として現れるものと思惟せられ、あたかも有限に対する無限が、一方からいえば有限に見出されない、質的に新なるものを有すると考えられると同時に、他方においては依然として有限の連続的推移の極限に外ならないのと同様であると考えられる。 斯様 かよう に極限の概念が質的対立を量的連続に媒介すると思惟するのが右の論理の要求であって、この要請により特殊普遍の論理は、人類社会と個人とを両方向の極限とする中間的特殊の集団の、形成過程を理解せしめ得ると考えられたのである。自然法の社会観からコントの社会学に至るまで、このアリストテレス的類・種の論理に基き、単に普遍と特殊との分析的関係に由って社会存在の論理が成立すると信じたものと思われる。しかしながら個人としての人間が単なる特殊の存在として、普遍の存在たる人類の限定に止まると思惟せられる限りは、実は個人も人類も単に観念的構成の産物たるに過ぎない。それは実在性を有する存在として思惟せられることはできぬ。何となれば、普遍と特殊とは共に相対的なるものであって、端的に普遍なるものも端的に特殊なるものもない、全体としての人類と不可分的要素としての個人とを、普遍と特殊との両方向の極限として定立することは、実はすでに右の論理を超脱する立場において始めて可能なのだからである。一般に無限という意味を内含する極限は、有限をただ推進めるということに由って成立するものでなく、かえって逆に有限の推移を可能ならしめる超越的原理を自己に象徴するものである。無限は有限の制限を除去することに由って生ずるのでなく、かえって有限に先だちそれの根源として存在するものが、制限の除去に由って始めて顕れ出るのである。それ故有限相対の範囲において動く普遍と特殊との対立を、それぞれの方向に極限化して全体と個体とを定立せんとするのは、あらかじ め存する全と個とを顕にして、これを予想しそれを根源として成立する特殊普遍を、それの根源から理解することでなければならぬ。極限の思惟は実は方向の逆転を意味する。従ってそれは単に有限相対の領域を固有地盤とする特殊普遍の論理に由って行われるのではない。かえってこの論理を可能ならしめる根源の顕現が極限を思惟せしめるのである。しかるに普遍と特殊との両方向の極限として定立せられた全と個とは、一方から観れば共に不可分者として無限の統一を意味しながら、他方から観ればそれぞれ普遍と特殊との相反対する方向の根源たるものとして正反対なるものでなければならぬ。全は個を統制しつつこれを生かし、個は全に対立する自発性独立性を有しながら全を成立せしめる要素たるのでなければならない。単に普遍として全を制限限定したものに止まるならば、個は全に対立する自発性を有せず、独立の存在たる意味を失う。同時に個が単なる特殊に止まるならば、その制限を除いた全は抽象的普遍に止まり、自立的なる存在たることができない。全と個とは互に相否定する対立性を有しながら、かえって 相俟 あいま って具体的なる統一を形造るものでなければならぬ。これは単なる特殊普遍の関係にはないことである。この単に分析論理的なる関係においては、否定的なる対立は含まれない。社会存在の論理としてはそれはあくまで融合調和の構造を表わすに止まり、争闘対抗を容れる余地が無い。自然法の国家論からコントの社会学に至るまで、個人の自由平等と社会の調和融合とがその理論の目的となって居たことは周知の事実である。「理性人間」の形成する社会がかくの如きものと思惟せられるのは当然である。それに対し特殊普遍の類・種的論理がその役目を果たすことができたのも怪しむに足りない。しかし十九世紀において社会が特に新しき理論的問題となったのは、かかる調和融合の見地から観ることを容さざる社会存在が現れたからに外ならない。シェーラーが力説した如く、すべて存在は生命の衝動に対抗するそれ自ら衝動的なるものであるとするならば、従って社会存在も存在として我々に現れる限り力的対抗の関係に入込むものでなければならないであろう。(Scheler, Idealismus-Realismus, Philosophischer Anzeiger, II. Jahrgang, S. 286)。ホルネッフヮーという学者もその近著に、「共同社会の圧力」なるものを強調して居る(Horneffer, Die Entstehung des Staates, S. 115)。しかして更に意志的存在と考えられるものは、かかる力的対抗を契機として含みながら、その対立を交互否定的に媒介して、これを止揚組織するものでなければならぬ。単に特殊としての我々を包む普遍としての社会なるものは、意志的主体としての我々に対して存在することができない。本来意志行為の主体としての我々と対抗の関係に立ち、相互に否定し合うことができるものが、かえって調和的共存の関係において我々を包む場合に、その調和の一面のみを抽象すればその限り特殊普遍の論理にこれを表わすことができるとしても、それは単に抽象的一面たるに止まり具体的構造を表わすものではあり得ない。真に具体的なる社会存在は、それと対抗しそれを否定して自己の独立自主性を主張せんとする個と対して、一方個を否定し個を殺すと共に他方個を包み個を生かす全たる性格を有するのでなければならぬ。コント以後の社会学が、彼の対象とした人類の全体よりも部分的特殊社会をその対象とし、彼の如く秩序と協和とに関心を集中するのでなく、少くとも反抗と敵対とに同程度の関心をもち、同時に他方階級社会の理論が闘争の理論として発達したことは、社会存在の原理的探求を現代哲学の中心課題たらしめた 因由 いんゆ である。これに対して特殊普遍の論理がほとん ど無力に近きことは当然でなければならぬ。個体存在の底にある非合理的衝動的なるものを認めず、単に普遍的なるものの特殊化の極限として、常に普遍的なるものに従属し、それの秩序に従って相協和するもの、という見地のみから個人を考える「理性人間」の人間学が、今日の社会存在を理解する能力無きものと思惟せられるのはやむを得ないことである。相互に敵対し同時に全体の秩序に反抗することある個人の集団と、かかる個人の共通なる特殊の結合原理に由って形成せる特殊社会が、相対立し闘争する関係とは、単に特殊普遍の論理のとうてい理解し得る所ではない。この論理を限定の無限過程に流動化し、極限の思想を以て有限無限の間を媒介するとしても、それはとうてい直接敵対抗争の力的関係ないし媒介止揚の意志関係を含むことはできない。特殊普遍の相対的関係に媒介の原理を見出す分析論理は、社会存在の原理探求に重要なる役前を演ずることができぬものといわなければならぬ。類・種・個の系統は生物の分類を表わすに足るとしても、社会の構造は分類の外面的組織に由って理解せられるべくもない。単に相対的無内容の中間的存在を意味するに止まる所の種は、何らの積極的なる媒介力を有するものでない。一般に「論理的」という概念は推論的ということを意味すること、アリストテレスからヘーゲルに至るまでかわ ることなき規定であろう。論理の本質は広く推論的ということに認められなければならぬと思う。ヘーゲルが、すべての理性的なるものは推論である、といったのは正しい。単なる表現の解釈は言語の意味においてロゴス的ではあっても、論理の意味においてロゴス的ではない。論理は単に解釈的でなく推論的でなければならない。従って推論の依ってもって行われる所の媒介たるものが、論理の枢軸を成す。論理と媒介性とは離すことができない。ヘーゲルが媒介を重んじたのも、直観の直接態に対し学の論理性をそれに認めたためである。約言すれば論理は絶対媒介である。絶対媒介とは、一を立するに他を媒介とせざることなきをいう。しかるに一と他とは互に否定し合うものであるから、絶対媒介は、如何なる肯定も否定を媒介とすることなくして行われざるを意味する。いわゆる否定即肯定として、肯定は必ず否定を媒介とする肯定なることが絶対媒介の要求である。従ってそれはすべての直接態を排する。いわゆる絶対といえども、これを否定する相対を媒介とすることなくして直接に立せられることは許されない。かかる絶対媒介としての論理においては、媒介者たる種は否定を容れるものでなければならぬ。しかるに分析論理の媒介者たる種は、それ自身の固有なる内容を有せず、従って否定を容れざる単なる観念的中間者に過ぎない。それは単に中間者たる形式に由って観念上媒介の任務を果たすに止まる。従って一方から観ると、全と個とをもその相対的推移の両方向における極限として定立するに止まる所の、論理の中心たる位置を種が占めるにかかわらず、他方から観ると、種は全く自己固有の内容無き相対的中間者たる形式を有するに過ぎない。それ故特殊普遍の論理も論理である限り媒介者たる種に依って立つでありながら、しかもそれは種の論理たる意味を有せざるものである。今日の社会存在の論理は一層具体的なる種の論理でなければならぬ。国家といい民族といい階級といい、いずれも人類の全と個人の個とに対し、種の位置に立つものであり、あるいはこれを媒介契機として含むものである。社会存在の論理は具体的なる意味において種の論理たることを要求する。種を無視ないし軽視する論理は、社会存在の論たることができない。具体的なる種の論理こそ、社会の原理探求を任務とする現代哲学の中心課題であるといわねばなるまい。

自然法の理論は、個人の自由を前提しながらこれを平等と両立せしむるために国家契約を立する。それは種としての民族国家の必然性を眼中に置かず、原理的には人類の全体に及ぶ全と、それの特殊なる成員としての個との、平等一様化の上に立つ個人主義の理論に外ならない。しかしこれはイデオロギー的に近世ブルジョアジーの社会観として歴史的必然性を有するのみならず「理性人間」の形成する人類社会の範型を示すものとして超歴史的意義を有すること前節に説いた如くである。ただその最も著しき弱点というべきものは、契約の論理的根拠が欠如する所にあるというべきであろう。単に自由なる主体の平等を保障し正義の維持せられんがために、主体の自由に由って立てられた契約国家が、その自由契約の由来にもかかわらず個人に対して全体としての主権を有し得るとするのは、特殊に対する普遍の優越先在に由る外無い。しかし斯様に普遍の優先を認める「理性人間」であったならば、果して契約により自由を統制することが必要であろうか。「理性人間」の自由とは非合理的衝動性を止揚した正義平等の意志に外なるまい。かかる自由意志は実践理性の別名であろう。カントにおいてもヘーゲルにおいても結局はかく解せられたのではないか。もし果してかくの如くであるとするならば、自由契約が国家を成立せしめ得る限り、成員は「理性人間」であって契約を必要とするものでなく、もしまた契約を必要とするならば、かかる非合理的成員を統制すべき国家は、単に自由契約に由って成立することはできない、それ以上の根拠を以て統制を行うのでなければならないであろう。かくて自然法の国家契約説は、その採る所の特殊普遍の論理が、その理論を確立する能力の無いことを示す。単にこの論理を唯一の論理とする限り、自然法の理論は前提と帰結との間に矛盾を蔵することを免れない。仮に契約が民主国家の理念に妥当する意義を保持するとしても、その統制力は単に普遍と特殊との一様的なる関係に基くものであることはできない。一層具体的なる論理が全体の主権的統制力を理解せしめることができるのでなければならぬ。個人主義の自然法理論はその採用する論理の抽象性にるい せられて、その理論の内面的矛盾を暴露することを免れない。ギーヤケに拠れば、ルソーが契約説から統治契約を除き去ったのは、真に革命的な業績であったといわれるけれども(Gierke, Johannes Althusius, S. 91)、しかもその個人主義的出発点と目標とにかかわらず、かえって各時の多数意志に現れる主権の絶対専制の帰結を免れ、天賦人権の不可侵性を救うには、ただ不整合と詭弁とに頼る外無かったのである(S.117)。自然法の立場たる個人主義は、かえってその論理に由って個人の自発自由を否定せられて、その根拠を失う。しかして個を否定する論理は同時に全をも否定する。相対的特殊普遍の論理は全と個とを立する力を本来有しないこと、前節に我々の見た如くなのである。特殊普遍の対立は概念の包摂における相対的関係の反省的規定に係わり、反省主観と独立なる存在の構成的原理に属するものでないと考えられる。それは思惟せられた観念的規定であって、思惟と独立なる実在の構造自体を表すものでない、すなわち単に形式的 斯有 しう  Sosein に過ぎない、ともいわれる。存在するものは不可分的なる個であると同時に、それは自由自発性を有するものとして自己の内に自己ならぬ他を含む全体でなければならぬ。個はこの意味において常に全体の代表である。全体性の原理なくして個は成立しない。全体性の構造として、他者による分化発展を通じて自己の同一性に反省還帰する統一が、その直接即自態において現れたものすなわち個に外ならない。従って個はそれぞれ他に対する自の関係を含む自として成立する外無い。個は本質上対立的であって孤立的でない。いわゆる我と汝との相関がその本質的構造に属するといわれる 所以 ゆえん である。かくて自他相関交互性の論理が特殊普遍の論理にかわ ることに由って、始めて個と全とが成立するといわれる如くに見える。
 
我は汝を認めることに由って我であり、汝は我に対することに由って汝であるという交互関係は、個人が孤立するものでなく本来社会的にのみ存在するものなることを示す限り、単に普遍に対する特殊の限定の極限として個が定立せられるとする論理よりも、一段具体的なる論理を成立せしめることあきらか である。単に特殊普遍の論理においては個は孤立的に思惟せられるだけで、他に対する関係を含蓄するという意味を表わさない。これは自発的なる自由の主体としての個人の存在を具体的に理解せしめることはできぬ。単に普遍を特殊化した限定の極限において思惟せられる極限的特殊としての個は、何らの意味においても自発性を発揮しない。それは自由なる我という意味における個人ではあり得ない。単なる個物という意味を有するに過ぎない。しかしさきにも言った如く、単なる物には実は個という規定は意味をもたないのである。物は不可分的なる全体、自己の内に他を含み、他の媒介において自己の統一を実現するという意味の全体、の構造を即自的にもつものとはいわれない。それは自他の対立なき一様的抽象物であって、何らの自発性を有せざるものなのである。自由とか自発とかいう規定は、例えば、他であり得るとか他を否定するとか、いう如く、一般に自と他との関係の上に成立するものであって、かかる相関対立なき所に自由自発というもそれは空語に過ぎないであろう。自由自発性は同様に自由自発的なる他に対して始めて自に属するものとなる。従って個は自他の対立相関の上に成立する社会的規定であって、単に孤立する個というものはないといわなければならぬ。自然法の個人主義は自由と平等とを同時に要求するものであったが、平等は単に一様水平的という意味においてでなく、他の自由を承認尊重する交互性相関性の意味において、かえって自由の半面をなすものとなり、単に抽象的に外から自由に対して加えられた制限ではなくなることが必要である。かくて自他相関の論理は、自然法の要求を具体化する能力を示すと一見思惟せられる。カントやフィヒテの自然法論は自由の哲学に基くものとして正にこの程度の具体性を示す。その論理は自由主体の自他相関を原理とすると考えられる。
 
しかしながらよく視ると、このような交互相関の論理が社会構造の論理として充分である如く考えるのは極めて抽象的な見解であるといわなければならぬ。何となれば、他において自己を見出すという交互性だけでは、自と他とをその限定として含む全体は単に自他の相関に予想せられるだけであって、ただその根柢に即自的に含蓄せられるに止まり、全体としての存在を対自的に顕わすことが無いからである。遠近法的透視関係の交互性に我と汝の対話性を組織しようと欲したリット(Litt, Individuum und Gemeinschaft, S. 106-116)に対し、ホルネッファーが、単にかかる交互性に由って全体の統一の達し得られざることを指摘したのは正当であるといわなければならぬ(Hornetfer, Op. cit., S. 108- 112)。自と他との交互態、あるいは我と汝との相関性は、社会性の最も抽象的なる形態ではあっても、それが直ちに社会の具体的構造を形成するとはとうてい認めることができぬ。かかる相関性は社会的であるとはいわれるけれども、社会そのものはこの関係において具体的に顕わにはならぬ。それは単に即自的にこの関係の根として含蓄せられるに止まり、それを観るのは哲学者であって、我ではない。すなわちいま だ対自的に社会はこの関係において成立することがないのである。しかるに「理性人間」の論理が個人主義に立つことを非難する立場が、往々にしてこの自他相関の論理を以て集団主義を立し得る如く妄想し、「我と汝」の標語を掲げるだけで社会と人倫の事直ちに理解せらるる如き態度を示すのは、その安易むしろ驚くべきものがある。「我と汝」の交互相関の論理は、社会存在の論理としてなお甚だ不充分なる、最も抽象的の形態であるといわなければならぬ。それは特殊普遍の論理が単に生物の類・種・個の系統的分類を固有地盤とするに対し、ともかくも人間関係を固有地盤とするものなる限り、たしかに社会的であるといわれる。しかしそれは社会性の最も抽象的なる形態を顕わすに止まり、存在としての社会を対自的に思惟するに未だ及ばざること甚だ遠い。それにおいては自と他とはただ交互的相関的対立の自覚者というだけで、それ以上何ら具体的の内容を有しない。「我と汝」というも、かかる交互性相関性の自覚が自由の意識と結び附いたものに過ぎない。それは自然法の要求たる自由と平等との両立を根拠附けることはできるとしても、自然法の根柢に伏在する矛盾を未だ完全に超克することはできないと思われる。何となれば自由の主体たる我を、汝と対し汝を認めることに由って始めて我たるものと思惟し、しかして我の自由は本質的にこの社会的関係に制約せられたものとして、同時に汝と平等にのみ成立するであると考えるならば、その結果自然法の要求する原始契約は必要がないものとならなければならぬからである。国家成立の根源と思惟せられる原始契約の必要は、個人の自由が本来非合理的にして自己矛盾的であり、相互に反対抗争してかえって自己を否定する傾向を有すると考えられるのに由来する。しかるに自由が本質上社会的平等にして正義にかな うものであるとしたならば、原始契約の必要は無くなる筈ではないか。これ自然法の契約説における矛盾は自他相関の論理に由って除くことができぬという理由である。この論理も自然法の論理として、かえって自然法の抽象性をそれ自身脱却しないのである。他において自を観、他を媒介にして自己への還帰を成就する反省的統一が、この論理に由って表わされるとしても、その「他」はただ「自」の論理的否定に止まり力的ないし意志的に対立するものを意味しない。自と他とは互に排撃して対者を倒さんとする敵、すなわち相両立せざるもの、という意味を有するのでなくして、ただ 相倚 あいよ り相俟ち、相互に予想して、始めて共に立つことができるものをいうに過ぎない。個人は孤立するものでなく自他の社会的関係においてのみ存在するものであるという主張は、半面に個人が、自他相争い対者を倒して自己のみ存在せんとする排他孤立の傾向を有することを認めざるものである。すなわちかえって、自然法の代表者が前提した如き、万人が万人と相争い、人は人に対し狼である、ような傾向を無視して、協和融合を自然とするのが、自他相関の論理の内容である。これは実は多少具体化せられた意味においてではあるが、依然として「理性人間」の論理に外ならないではないか。それが自然法の矛盾を免れず、その抽象性を脱することができないのも当然の事でなければならぬ。しかも一方において抽象的なる論理を唯一の論理とするが故に、かえって他方において何らの合理性をも容れない絶対の非合理性を以て存在の根拠とし、しかして単に存在するが故に合理的であるという如き超合理性を合理性のかわり に置換えて、無力の論理に魔術性を賦与せんとする。「我と汝」の相関の論理を以て自然的なる共同社会の和衷協同を論理化し得る如く説く説論は、この欺瞞の産物に外ならない。絶対の非合理性を、あたかも論理化する能わざるものの如くに語るのは、未だ具体的なる論理に徹せざる証跡である。非合理性を非合理性として語ることが、すでに非合理性と対する合理性を超え、合理と非合理とを包む絶対合理性の立場に立つことを意味する。この絶対合理性が真の超合理性に外ならない。それ故超合理性は非合理性を単に否定する合理性でなく、かえってこれを止揚契機として認めるものであると同時に、如何なる非合理性をも超越的意味において合理化するものであるから、決して単に直接的なる非合理性ではあり得ない。一般に哲学において単なる非合理性なるものを語ることはできない。単なる非合理性は哲学の限界 Schranke をなす筈のものであり、しかも絶対的全体の学としての哲学に Grenze ならぬ Schranke としての限界があることは不可能であるから、絶対の非合理性を認めることは哲学の否定に外ならない。絶対媒介の論理は、非合理を否定として合理の肯定に対する媒介たらしめなければやまぬ。哲学の立場に立つ限り、非合理性も絶対合理性の契機として観られるのでなければならない。非合理性は絶対合理性の契機として観られ、単なる合理性の否定たるそれの性格が被媒介的間接的に規定せられることが必要である。ただ非合理性と極印するだけで、合理性との媒介においてその非合理たる所以の意味構造を明にすることなく、しかも哲学の立場を棄てずしてそれに超合理性を置換えるのは悪しき非合理主義に外ならない。それが合理と非合理との対立を明にして、その上でこれを超えるのでなく、非合理を合理と直接に同一視する結果、半面に、非合理的なる存在を単に存在するが故に合理的であるとする、悪しき合理主義をも随伴するに至る。非合理的なるものは合理的なるものとの対立において、ただ絶対合理的者の契機としてのみ合理性に媒介せられることができる。論理はこの絶対合理的者の媒介組織に達しなければ充分具体的であるとはいわれない。「我と汝」の交互相関の論理はこれと 相距 あいへだた ることなお遠い。
 
次に、我と汝の交互性が、未だ我と汝とを対立的に統一する全体を顕わすことができぬ所から、これを一段具体化したものが、我と汝との外に第三の「彼」を加え、我と汝との相互予想的一体性の半面たる両者の対立性、隔在性、を表わすという考である。さきに触れた所のリットは、我と汝の交互性だけでは閉じた統一ができぬと考えて、両者に共通の関係をもつ「第三者」を考え、これを以て、媒介の中心として交互性の根柢にある統一を円環的に顕わならしめる「現象」とするのであるが(Litt, Op.cit., S. 236 f)、今述べるのは、それと反対に、「第三者」「彼」を隔離の媒介とする見解である。けだし単に我と汝というのみでは、相関的連帯的でそれぞれが分立して個となることができぬけれども、全く特殊の共同関係無き無差別的個人たる「彼」の媒介により、我と汝とが絶対の他として隔てられ、しかしてかく絶対に他として対立するものがそれにもかかわらずかえって相互相俟つという関係が社会性の原理であると思惟するのである。約言すれば同一なる媒介者の正反対に対立する極限的分化の統一の自覚が社会を成立せしめるというのである。しかして「彼」は無差別的第三者として中間的媒介を代表するに止まるから、それは無限の分化を容れて無限なる個の集団たる全を成すと考えるのであろう。たしかにこのように「彼」を以て我と汝との直接的融合を引離し、個の正反対なる対立分離を媒介することは、単なる「我と汝」の相関の論理よりもはるか に具体的なる思想たること否定できない。これに由って我と汝とは「彼」の無差別的個別化原理により一様化せられるから、平等にして交互的となり、互に位置を交換して、我は「汝の汝」であるといわれるようになり、我と汝とをその上に成立せしむる一般的なるものが反省せられるといわれる。しかしかく「彼」に由って我と汝とを互に他なるものとして隔てたならば、如何にして我と汝との相互依存は保障せられるであろうか。全く他として無差別化せられたならば、我と汝とは水平化せられて単なる個となり、他を認めることによって自が自となるという意味を失うではなかろうか。我と汝とに対し外面的なる個別化原理がそれに加わってこれを水平化無差別化するならば、ただすべてが彼の集合に帰し、自他相関の交互関係は見失われざるを得ない。これは、我と汝との対立が、外面的なる水平化により互に他として分離せられ、他人たる彼として相互に反撥すると考えられるのでなく、我と汝との対立そのものに内在的に、孤立反撥の原理が含蓄せられると考えることの、必要を示す。単に「彼」の象徴する観念的に正反対なる対立に由って外から相互反撥の原理が加えられるのでなしに、我と汝と対立することが、すでにいわゆる「人が人に対して狼である」如き、相互排他の関係を含み、互に他人なる「彼」としての個たる以上に、相互反撥敵視する傾向を含蓄することを明にするのでなければならぬ。単に「彼」として無差別化水平化せられたる個は、他人として観念上反対に対立せしめられるけれども、それは考えられ反省せられた対立たるに止まり、「我と汝」の存在自身に含まれる構造上の実在的対立を意味しない。それ故にそれが外から加えられるのである。しからずして存在自身の構造に含まれる契機として、相互排他の実在的対立を自覚する論理が必要である。これを欠く限りは、「彼」の媒介に由る個別化と「我と汝」の交互性とは具体的に弁証法的統一をなさず、ただ哲学者の反省構成において観念的に結合せられるに止まるものとなるであろう。
 
更にしばら く右の点を観過し、充分明確に具体的構成を示す能わざる「彼」の個別化原理を、それにもかかわらず、単に外面的反省の結果が観念的に結合せられた構成の産物であると解釈せずに、むしろ「我と汝」の交互関係そのものが具体的に含む所の弁証法的契機を象徴するものであると解しても、なお次の重大なる困難を免れることができない。「彼」の個別性はそれの無差別的他者性の故にかぎり 無く多くの個人の一様なる存在を導き、多数の無差別的個人の集合を成立せしめる。我と汝というのはかかる集合の要素の任意の一対に成立する交互関係に外ならない。斯様に無差別的なる相互に他人というべき多数の個人が、その集合の成立上完結無き無限の集まりを成立せしめ、それらの個人が単に自他相関の理に従って相互の自由を尊重する平等の人類社会を形成し、それにおいては自他いずれも目的自体として取扱わるることにより、人格の世界、目的の国、を実現し、更に神の愛を象徴する隣人愛を以て個人相互が協和融合するというのが、想うに、右の如き論理を以て社会の構造を理解する立場の見解であろう。それがかえって実質的には自然法の契約国家や、更に宗教的なる人道主義を指導精神とするコントの人類社会に、如何に近きものであるかは容易に観取せられると思う。しかるにこのような社会は、我と汝との固有なる限定を棄捨して単に「彼」として一様化せられた相互に他なる個人の集合に外ならないから、人間である限り如何なる個人もこれに属するのであって、その成す所の人類社会なるものには何らの限界がないといわなければならぬ。人類社会はあり得べき人間社会の唯一の全体社会であって、それに対立する社会はない。それは国と国とに分れ、民族と民族と相対立し、階級と階級と相闘争する如き、有限特殊の社会でなくして、無限に開放せられた社会である。それにおいては人間が人間である限り成員となるのであるから、その外に個人が追放せられるということはなく、人間として存在する限り必然にそれに属する。従ってかかるものとして人類社会と個人との対立を語ることは無意味でなければならぬ。それはさきにシェーラーに関説して述べた如き、力的対抗の関係における衝動的存在、という意味において存在ということができないものであろう。すなわちかかる生命の中心としての存在、という意味では存在することなき、単に無の存在ともいうべきものに帰する外無い。しかるに自然法が原始契約に由って成立すると考えた国家はもちろん、コントの人道的人類社会といえども、個人を統制し秩序附くる全体として、単に無の存在ということのできぬ、個人に対立する積極的存在であった。これに反し個人がその内に昇華せられて、その存在を実在的に意識することなき、前述の人類社会なるものは、実は社会が人間に発見せられ、社会存在が哲学の問題となる、というときに意味せられる社会ではないであろう。従って右の如き論理に由って仮にかかる人類社会が理解せられるとしても、しかもそれは今日我々の関心の焦点たる社会存在とは別のものでなければならぬ。もちろんかかる人類社会も人間の社会存在の最も一般的なるものとして重要なる意味を有しないというのではない。人間存在の最後の段階として一切摂取不捨の宗教的立場なるものは、かかる社会を固有の場面とすること後に説く如くである。しかしかかる社会に特殊対立的なる社会を解消するのは、全く具体的なる社会存在を無視するものであって、それは社会存在に対する問題を解くことの代りに消すことに外ならない。一切を直ちに宗教の絶対肯定に委ねることが、如何に人類の進歩を 阻碍 そがい し、人間の良心を麻痺せしめるかは、歴史の証明する所である。絶対否定の媒介を無視し軽視する直接肯定の絶対的立場が、宗教を美的陶酔に顕落せしめ、人間を社会と歴史とから疎外することは、事実の示す如くである。しかして有限相対的なる特殊社会を絶対化せんと欲する立場に論理を供給するに至って、直接的絶対主義の抽象は直接的相対主義の虚偽に結附く。かかる論理の抽象性を批判することは哲学の避くるを得ざる義務である。そもそも宗教は単に直接的なる絶対肯定に成立するものでなく、絶対否定の転換に媒介せられた絶対肯定において始めて成立するものである。その絶対否定の媒介においては、特殊有限なるものの相互対立抗争して否定絶滅せられる死苦が、正に体験せられなければならぬ。ゆる罪悪深重の有限性が、道徳的悪の根源たる我性の自覚において痛感せられるのでなければならぬ。同様に、無限全体的なる人類社会の絶対的開放性は、まず有限相対的なる特殊社会の相互的ならび に対個人的対立性の自覚を媒介とし、その絶対否定的転換において始めて被媒介的に成立するものでなければならない。この有限相対的なる特殊社会の対立性を具体的に組織する論理にして始めて全体社会を媒介態において捉えることができる。これは個と全とを具体的に媒介する種の論理に外ならない。種の論理にまで具体化せられない論理は、たとい自他交互相関の論理といえども、未だ媒介の中心的任務を果す能わざるものである。それに「彼」の個別化原理を加えても、依然として単に開放的なる人類社会を思惟し得るに止まる。しかも特殊のもつ有限性の実在的対立抗争の痛苦を全く無視して、ただ外から無記なる他者性を加える限り、かえって前述の如き矛盾に導くことを免れない。しかして他方において無媒介的に存在の非合理性を強調し、個体の底に潜む絶対の非合理的根を高唱するも、それは一方の抽象的なる直接的絶対主義と媒介せられることができない。いわゆる神秘主義の無媒介的両面をなす所の、かかる無媒介的非合理的主義と無媒介的絶対主義とは、いわゆる論理の絶対媒介と相容れない。現実の悪を直視して、この悪の有限性の悲痛なる自覚の底に、絶対否定的に転換媒介せられる絶対肯定を以てその立場とする哲学にとっては、社会的存在がまず有限相対の特殊社会として問題となり、その対立性否定性においてそれの構造が観られ、かくて始めて絶対否定的に全体の人類社会へ媒介せられることが必然となる。この媒介こそ種の論理に外ならない。我々はまず人類の類的社会と特殊の種的社会とを明確に区別することを要する。この区別の無視が前述の如過誤を導くのである。その結果がただに理論の範囲に止まらないことはすでに 纏説 るせつ を要しないであろう。しかして個体の底に潜むいわゆる非合理的なるものといえども、実はこの種的特殊社会を認めることに由って、これを媒介として始めて具体的に思惟せられるのである。しからざれば、非合理的というもその意味は空虚であって掲ぐる所は空語に過ぎない。従ってその対立する合理的なるものとの媒介を欠き、いわゆる絶対非合理的者として合理化の媒介を 杜絶 とぜつ するに至る。個は種を予想し、種の生命をその根源と種の直接なる限定をその母胎としながら、かえってその直接の母胎であり発生の根源である種に対立し、後者の限定を奪って自己に独占し、自己の根源たるものを 簒奪 さんだつ して排他的に根源から分立しようとする、この背反分立の自由にいわゆる個体存在の非合理性が成立するのである。個は必然に種における個であって、種を離れた単なる個なるものは無い。しかして類の絶対統一は、このような個の自由を否定的契機とし、それを媒介にして種の原始的統一を絶対否定態にまで止揚することに由って、絶対否定的絶対媒介として実現せられたのである。これに由り、類も種の即自的統一に媒介せられそれに即して現れるのであるから、その存在としての現象的形態よりいえば種と同一なる如くに見え、種の外に類なく、ただ種をその普遍的なる側面から見て、それの特殊的なる側面を特に種と呼ぶに対し、類と称するに止まるかの如く思われるのである。類の原語 Genos が、「生まれる」の意を有する語から出て、血族を意味し、一般に血縁氏族としての種と同義であるのも、何ら怪しむに足らない。しかしながら、もしただかくの如きものに止まるならば、類は本質的には何ら種と区別せらるべき理由をもたない。斯様な類と種とは全く相対的なる相違を有するに止まらなければならぬ。真に本質上類として種と対立せられるものは、かかるものではなくして、今述べた如き、種の直接的統一を、それと対立し、それから分立する個と媒介する絶対否定的統一でなければならぬ。これに由って始めて類が種と本質的に区別せられる。その区別の媒介たるは個の分立に外ならない。しかし個はかえって種を予想し、これと対立しこれを否定しながらしかもこれを媒介とするのである。それ故類の論理は必然に種の論理と個の論理との綜合となるのであって、無媒介に類の統一を思惟することは、すなわち類の種化に外ならない。それは論理の否定である。この混同を免れるためには、まず種の論理が個の論理と類の論理とに先だちこれを媒介することを要する。もとより弁証法的媒介の論理においては、単に直接的なるものはなく、すべてが互に媒介し合う絶対媒介であるから、種が個の対立を半面に予想しなければ種たる意味を失い、また個を媒介にして類において止揚せられることを含意しなければ、種とはいわれないこと明である。しかしそれにもかかわらず、このような絶対媒介の論理はまず種の論理として発展することが、種の本質上必然なのである。論理はその絶対媒介たる本質に由って、まず媒介の中間者たる種の論理たることを必要とする。種の論理を欠くとき論理は論理たる実を失う。これをヘーゲルの論理学に対照すれば、種の論理は存在の論理に、個の論理は本質の論理に、類の論理は概念の論理に相当する。ヘーゲルにおいて存在の論理は、述語一般の論理であり、しかして述語は直接に種的普遍(すなわち古典哲学における形相)を意味するから、その論理は種の論理に相応すること疑を容れまい。これに対し、本質の論理はすなわち実体の本質を規定するものとして主語の論理である。しかるに実体は勝義において個物であるから、本質の論理は個の論理でなければならぬ。しかしてこの両者に対し綜合の位置に立つ概念の論理は当然繫辞の論理であり、あるいは具体的には推論の枢軸たる媒語の論理である。それが絶対否定的構造の上から類の論理に対応することは明であろう。ところがへーゲルは論理学に対する精神現象学の関係をいずれかといえば外面的に考え、後者を単に前者の予備的前提、ないし開路的序説とするだけで、一度論理学の絶対知が到達せられれば、もはや現象学は不用となる如き感を人に懐かしめ、かえって後者が前者と内面的不可離に対立の統一をなすことを明示せず、相互媒介の関係をもって論理の展開が現象の媒介においてのみ行われることを十分具体的に示して居らない。その結果、論理は現実から離れて自己自身の展開をなす如き外観を呈し、常にそれが自己の否定として非合理的なる現実を媒介とすることが、十分明になって居ない。従って論理学の絶対知は本来、他なる偶然者として見出されたる、その意味において非合理的なるものを媒介として、如何なる非合理をも合理化するが故に絶対知である筈であるのに、そうでなくて、合理的なるものが必然に現実の規定を発出するが故に絶対知であるかの如くに解せられる傾向を免れない。そのために、絶対知は常にそれの否定としての相対知を媒介とする絶対媒介たる本質を失って、かえって無媒介的直接知となる危険を伴う。これヘーゲルの合理主義として非難せられる点であろう。そのために論理学の内部においても、主語と述語の対立が十分具体的に示されず、両者の対立の統一としての繁辞の弁証法的構造が明にせられない。しかしてそれと関連して、概念における普遍と特殊と個別との関係がその否定的媒介性を十分具体的に発揮することなく、特殊が中間者として普遍と個別との対立的統一の媒介たる意味を失って、単に連続的に相対的限定の中間帯にまで抽象化せられて居る。しかるにこの特殊こそ種に相当するのであって、これが弁証法の枢軸たるものである。ヘーゲルの合理主義は種の論理を十分具体的ならしめなかった。我々はこの点を一層具体的に考え直すことが必要である。それにはヘーゲルの精神現象学が単に意識の型の展開であるに対し、社会存在の型の展開を我々の論理の媒介とせねばならぬ。その意味において精神現象学を社会現象学にまで具体化することが必要ではないであろうか。もとよりヘーゲルの精神現象学も、その精神の概念が人類の歴史に実現せられた普遍的絶対精神であって、それが普遍的客観であると共に個別的主観であるから、一方に個人意識の形態として現れると同時に他方において歴史的時代意識の型る意味を有するのである。その限りすでに精神現象学がそれ自身実は社会現象学たる意味を有するのであるともいわれる。しかしヘーゲルにおいては絶対精神に対する客観精神の関係が、あたかも右に述べた論理学に対する精神現象学におけると同様に、十分具体的なる相互媒介にまで高められて居ない。すなわち前の一般的関係におけると同様に、一方が他方の外面的なる予備段階たるに止まり、一度最後の段階が達せられるならば無用に帰するものなるかの如くに取扱われる傾向を免れないのである。その結果ヘーゲルにおいては絶対精神が客観精神の媒介を離れて直接に存在するかの如くに思惟せられ、従って直接的なる主観精神との否定的媒介が見失われてこれと同一に帰する傾向を伴う。これは、直接に意識せられず否定的対立において自意識と隔絶する種としての社会存在が、客観精神の基体として十分に重要視せられない結果である。客観精神はかえって主観的精神の直接意識を否定するが故に客観精神たるのである。ここにこそ物質的自然の精神に対する否定的制約としての疎外外化が具体的に伏在するのではないか。主観精神の個人意識に対する自然の制約も、この種的制約の抽象に外なるまい。前者に相当する身体的限定は、後者の種的生命の限定の一部分に止まる。かくて客観精神には種的共同社会の経済的生産過程が重要なる制約となる所以も理解せられるであろう。社会現象学はかかる種的共同社会の客観精神的了解解釈を中心とし、個人意識もこの解釈と媒介せられたものとして具体化せられることを要する。しかしてかくすることに由って、絶対精神も客観精神の媒介を明にし、それと主観精神との区別を紛れなきものたらしめる。これは単なる精神現象学を超ゆる社会現象学の具体性に外ならない。精神現象学は即自的意味においてそれ自身社会現象学であるとしても、決してかかる対自的意味において社会現象学であるとはいわれない。これさきに精神現象学が社会現象学にまで具体化せられなければならぬと言った所以である。しかしてこれと共に、現象学は単に論理学の序説たるに止まるものでなく、常に論理学の媒介の行われる素地となるものであり、現象学の解釈は論理学の媒介を原理とするという交互関係を顕すであろう。ヘーゲルの時代は我々の考える如き種的社会の論理と現象学とに対する通路を供しなかったのであるから、我々はいたずらにヘーゲルの欠陥を攻撃することはできぬ。しかし今日の実証的研究はこれに対する十分の手懸かりと、その現象学的解釈並びに論理学的理解に対する課題的要求とを、提出するのである。その意味において種の論理が具体的なる社会存在の論理として、論理学の中心とならなければならぬというのが、我々の主張に外ならない。