PHILOSOPHY

場所

西田幾多郎

 

Published in June, 1926|Archived in January 10th, 2024

Image: Henri Matisse, “Dance”, 1909 - 1910.

CONTENTS

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原文ママ。
『西田幾多郎全集』を文庫に編入した底本において、岩波文庫編集部によって施された①旧字・旧仮名遣いの現代的な表記への変更②「むずかしい」(と当部が判断した)漢字へのルビの2点は原文ママ。ルビを振る判断基準・位置、用語統一上の表記にばらつき(ex. 於いて・おいて、充ちる・満ちる、如き・ごとき、根抵・根〈一箇所のみ。誤植の可能性もある〉、其物・そのもの、斯く・かく)もあるが、やはり原文ママ。
底本の行頭の一字下げ・八字下げは一字上げ・八字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:西田幾多郎(1875 - 1945)
題名:場所
初出:1926年6月(『哲學研究』第一二三号)
出典:『西田幾多郎哲学論集Ⅰ ー場所・私と汝 他六篇』(岩波書店。1987年。67-151ページ)

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現今の認識論において、対象、内容、作用の三つのものが区別せられ、それらの関係が論ぜられるのであるが、かかる区別の根抵には、唯時間的に移り行く認識作用とこれを超越する対象との対立のみが考えられていると思う。しかし対象と対象とが互に相関係し、一体系を成して、自己自身を維持するというには、かかる体系自身を維持するものが考えられねばならぬとともに、かかる体系をその中に成立せしめ、かかる体系がそれにおい てあるというべきものが考えられねばならぬ。有るものは何かに於てなければならぬ、しか らざれば有るということと無いということとの区別ができないのである。論理的には関係の項と関係自身とを区別することができ、関係を統一するものと関係が於てあるものとを区別することもできるはずである。作用の方について考えて見ても、純なる作用の統一として我という如きものが考えられるとともに、我は非我に対して考えられる以上、我と非我との対立を内に包み、いわゆる意識現象を内に成立せしめるものがなければならぬ。かく の如きイデヤを受取るものともいうべきものを、プラトンのティマイオスの語になろ うて場所と名づけて置く。無論プラトンの空間とか、受取る場所とかいうものと、私の場所と名づけるものとを同じいと考えるのではない。
 
極めて素朴的な考え方ではあるが、我々は物体が空間に於て存在し、空間に於て相働くと考える、従来の物理学においても く考えきた ったのである。あるいは物なくして空間はない、空間とは物体と物体との関係に過ぎない、更にロッチェの如く空間は物に於てあると考え得るでもあろう。しかし斯く考えるならば、関係するものと関係とが一つのものでなければならぬ、例えば、物理的空間の如きものとなるであろう。しかし物理的空間と物理的空間とを関係しめるものはまた物理的空間ではない、更に物理的空間が於てある場所がなければならぬ。あるいは関係に於て立つものが関係の体系に還元せられる時、唯それ自身によって成立する一つの全きものが考えられ、更にそれの成立する場所という如きものを考える要はないともいうであろう。しかし厳密にいえば、如何なる関係も関係として成立するには関係の項として与えられるものがなければならぬ、例えば知識の形式に対しては内容がなければならぬ。たとい、両者合一して一つの生きものが考えられるとしても、かく の如きものが映される場所というものがなければならぬ。あるいはそれは単に主観的概念に過ぎないというでもあろう。しかし対象が主観的作用を超越して自立すると考えるならば、客観的なる対象の成立する場所は、主観的であってはならぬ、場所 其者 そのもの が超越的でなければならぬ。我々が作用という如きものを対象化して見る時、またかかる思惟対象の場所に映して見るのである。意味其者というものすら客観的と考えられるならば、かかるものの成り立つ場所も客観的でなければならぬ。あるいはそのようなものは単なる無に過ぎないというでもあろう。しかし思惟の世界においては無もまた客観的意義を つのである。
 
我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならぬ。先ず意識の野というのをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。しか して映された意識現象と映す意識の野とは区別せられなければならぬ。意識現象の連続其者の外に、意識の野という如きものはないともいい得るであろう。しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。これによって意識現象が互に相関係し相連結するのである。あるいはそれを我という一つの点の如きものとも考え得るであろう。しかし我々が意識の内外というものを区別する時、私の意識現象は私の意識の範囲内にあるものでなければならぬ。かかる意味においての私は、私の意識現象を内に包むものでなければならぬ。右の如く意識の立場から出立して我々は意識の野というものを認めることができる。思惟作用も我々の意識作用である。思惟の内容は先ず我々の意識の野に映されたるものである。内容によって対象を指示するのである。今日の認識論者は内容と対象とを区別し、内容は内在的であるが対象は超越的と考える。対象は全然作用を超越して、それ自身によって立つものと考えられる。ここ において我々は意識の野の外に出るのである。対象には意識の野という如きものはないと考えられる。しかし意識と対象と関係するには、両者を内に包むものがなければならぬ。両者の関係する場所という如きものがなければならぬ、両者を関係せしめるものは何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が全然意識の外にあるものならば、意識の内にある我々よりして、我々の意識内容が対象を指示するという如きことを考えることもできない、対象が意識作用を超越するということすらできない。カント学派では、認識対象界に対して主観的に超越的主観即ち意識一般という如きものが考えられる。しかし認識主観において我々は意識を超越して意識の野の外に出るといい得るであろうか。それは意識の野の極限であるかも知れないが、意識の野が消滅するのではない。心理学的に考えられた意識の野というのは、既に考えられたものである、一種の対象に過ぎない。かかる意識の野を意識する意識の野はその極限においても、これを超越することはできない。また我々が現実的と考える意識の野といえども、いつでもその背後に現実を超越したものがある。いわゆる実験心理学的に限定せられる意識の野という如きものは単に計算することのできる感覚の範囲に過ぎない。しかし意識は意味を含んでいなければならぬ、昨日を想起する意識は意味においては昨日を包んでいなければならぬ。この故に意識は一般的なるものの自己限定ともいい得るのである。感覚的意識といえども、それが後の反省可能を含む限り意識現象といい得るのである。一般的なるものが、極限として達することができないというならば、個物的なるものも達することのできない極限といわねばならぬ。
 
カント学派においては認識とは形式によって質料を統一することであると考えるが、かかる考の背後には、既に主観の構成作用という如きものが仮定せられていなければならぬ、形式は主観に具せられたものと考えられているのである。然らざれば認識の意味を成さない。単に形式によって構成せられたものというのは超対立的対象に過ぎない。また客観的なる形式が客観的なる質料を構成するというならば、それは客観的作用であって認識という意味を生ずることはできない。形式と質料との対立と、主観と客観との対立とはただち に同一視することはできない。判断作用の対象を成すものは形式と質料の対立に異なった意味の対立が加わって来なければならない。判断の直接の内容を成すものは、真とか偽とかいうものでなければならぬ。形式と質料の対立を成立せしめる場所と真偽の対立を成立せしめる場所とは異なったものでなければならぬ。認識の成立する場所においては、形式と質料とが分たれるのみならず、両者の分離と結場合とが自由でなければならぬ。かかる場合、超対立的対象に対して、主観性というものが外から附加せられるものと考え得るでもあろう。ラスクの如きも根本的なる論理的形式に対して、全く非論理的なる体験の対象という如きものを根本的質料と考えている。しかし氏自身も認めている如く、知るということも体験の一つでなければならぬ。体験内容を非論理的質料というもいわゆる感覚的質料と同一ではない。体験の内容は非論理的というよりも超論理的である、超論理的というよりもむしろ包論理的といわねばならぬ。芸術や道徳の体験についても くいうことができるのである。認識の立場というのも体験が自己の中に自己を映す態度の一でなければならぬ。認識するというのは体験が自己の中に自己を形成することにほかならない。体験の場所において、形式と質料の対立関係が成立するのである。斯く自己の中に無限に自己を映し行くもの、自己自身は無にして無限の有を含むものが、真の我としてこれにおいていわゆる主客の対立が成立するのである。此者は同ということもできない、異ということもできない、有とも無ともいえない、いわゆる論理的形式によって限定することのできない、かえって論理形式をも成立せしめる場所である。形式を 何処 どこ まで押し進めて行っても、いわゆる形式以上に出ることはできない。真の形式の形式は形式の場所でなければならぬ。アリストテレスの「デ・アニマ」の中にも、アカデミケルになろ うて精神を「形相の場所」と考えている。かく の如き自己自身を照らす鏡ともいうべきものは、単に知識成立の場所たるのみならず、感情も意志もこれにおいて成立するのである。我々が体験の内容という時、多くの場合既にこれを知識化しているのである、この故に非論理的な質料とも考えられるのである。真の体験は全き無の立場でなければならぬ、知識を離れた自由の立場でなければならぬ、この場所においては情意の内容も映されるのである。知情意共に意識現象と考えられるのはこれによるのである。
 
場所というものを以上述べた如く考えるならば、作用というのは、映された対象と映す場所との間において現れ来る関係と思う。単に映されたるもののみが考えられた時、それは何らの働きなき単なる対象に過ぎない。しかしかかる対象の背後にも、これを映す鏡がなければならぬ、対象の存立する場所というものがなければならぬ。勿論、この場所が単に映す鏡であって、唯対象がこれに於てあるというのみならば、働く対象を見ることはできない。全然おのれ むなし うして、すべてのものを映す意識一般の野ともいうべきものにおいて、すべてが単なる認識対象として全然作用を超越したものと考えられるのもこれによるのである。しかし意識と対象とが全然無関係であるならば、これを映すということもいわれない、これに於てあるということすら不可能である。この故にこの間をつな ぐものとして判断作用というものが考えられるのである。一方に対象が作用を超越すると考えられるのみならず、一方に意識の野も作用を超越してこれ別を内に包むものと考えられねばならぬ。しか して意識一般の野が対象を れて無限に広がると考えられた時、対象は意識一般の野において種々なる位置を取ると考えることができる、種々なる形において映され得ると考えることができる。ここ において対象が種々に分析せられ、抽象せられいわゆる意味の世界が成立するとともに、 く対象を種々なる位置、種々なる関係において映すことが一方において判断作用と考えられるのである。而して超越的対象と意識一般の野とが相離れて、作用がそのいずれにも属するあた わざる時、作用の統一者としていわゆる認識主観という如きものが考えられるのである、常識的に物が空間に於てあると考えるならば、物と空間とが異なると考えられる以上、物は空間において種々なる関係において立つことができる、種々にその形状位置を変ずると考えることができる。ここ において、我々は物と空間との外に力という如きものを考えざるを得ない。而して力の本体として物が力を つと考えることもできれば、力を空間に属せしめて物理的空間というものを考えることもできるのである。私は知るということを意識の空間に属せしめて考えて見たいと思う。
 
従来の認識論が主客対立の考から出立し、知るとは形式によって質料を構成することであると考える代りに、私は自己の中に自己を映すという自覚の考から出立して見たいと思う。自己の中に自己を映すことが知るということの根本的意義であると思う。自分の内を知るということから、自分の外のものを知るということに及ぶのである。自己に対して与えられるというものは、先ず自己の中において与えられねばならぬ。あるいは自己を統一点の如く考え、いわゆる自己の意識内において知るものと知られるものと、即ち主と客と、形式と質料と相対立すると考えるでもあろう。しかしかく の如き統一点という如きものは知るものということはできない、既に対象化せられたもの、知られたものに過ぎない。かかる統一点を考える代りに、無限なる統一の方向を考えるにしても同じである。知るということは先ず内に包むということでなければならぬ。しかし包まれるものが包むものに対して外的なる時、物体が空間に於てあると考えられる如く、単にあるということにほかならない。包むものと包まれるものとが一と考えられる時、無限の系列という如きものが成立する。而してその一なるものが無限に自己自身の中に質料を含むと考えられる時、無限に働くもの、純なる作用という如きものが考えられる。しかしそれはなお知るものということはできない。唯、かかる自己自身に於てあるものを更に内に包むと考えらるる時、始めて知るということができる。
 
形相と質料との関係についていえば、単に形相的構成ということが知るということではなく形相と質料との対立を内に包むことが知るということでなければならぬ。質料も低次的形相と見るならば、知るものは形相の形相ともいうことができる、純なる形相、純なる作用をも超越し、これらを内に成立せしめる場所という如きものでなければならぬ。ラスクの如く、主観が客観的対象の破壊者と考えられるのもこれに るのである。物体が空間において可分的と考えられる如く、思惟の対象は思惟の場所において可分的と考え得るのである。物体が空間において種々なる意味において無限に可分的なる如く、思惟の対象は思惟の場所において可分的である。あるいは知るものを右の如く考えるならば主客対立の意義が失われ、主観に統一とか作用とかいう意味がなくなると考えるであろう、主観という意味がなくなるともいい得るでもあろう。今この問題に深入りすることはできないが、単に物が空間に於てあるという如き場合においては、空間と物とは互に外的であって、空間に主観という如き意味はないであろう。しかし物の本体性がその於てある場所の関係に移って行く時、物は力に還元せられる。しかし力には力の本体というものが考えられねばならぬ、関係には関係の項というものがなければならぬ。この本体というものを何処に求むべきであるか。これを元の物に求めるならば、何処までも力に還元することのできない物というものが残ることとなる。これを空間 其者 そのもの に帰するならば、空間的関係の項として点という如きものを考えるほかはない。しかし関係の本体となるものが単に点という如きものならば、力という如きものはなくならねばならぬ。真に力の関係を内に包むものは力の場という如きものでなければならぬ。而して力の場においては、すべての線は方向を ったものでなければならぬ。純なる作用を内に包むと考えられる認識の場所においても、すべての現象が方向を有ったものでなければならぬ。知るものを包むものと考えることによって、主客対立の意義を失うと考えるのは、含まれるものに対して外的なる場所が考えられる故である。単に空虚なる空間という如きものは、真に物理現象を内に包むものではない。真に種々なる対象を内に包むというべきものは、空間において種々なる形が成立する如き、自己の中に自己の形を映すものでなければならぬ。 くいえば「於てある」という如き意味が失われるともいい得るであろう、対象を包んで無限に広がる場所の意味がなくなるというでもあろう。唯、すべての認識対象を内に包みつつしかもこれを離れいる意識の野においては、この二つの意味が結合すると考えることができるのである。
 
知るということが自己の中に自己を映すことであり、作用というのは映されるものと映す場所との関係において見られ得るとするならば、全然作用を超越したラスクのいわゆる対立なき対象という如きものは如何なるものであろうか。かかる対象も何かに於てあらねばならぬ。我々が有るというものを認めるには、無いというものに対して認めるのである。しかし有るというものに対して認められた無いというものは、なお対立的有である。真の無はかかる有と無を包むものでなければならぬ、かかる有無の成立する場所でなければならぬ。有を否定し有に対立する無が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならぬ。例えば、赤に対して赤ならざるものもまた色である。色を つもの、色が於てあるものは色でないものでなければならぬ、赤もこれに於てあり、赤でないものもまたこれに於てあるものでなければならぬ。我々が認識対象として限定する以上、有無の関係にまでも同様の考を推し進めることができると思う。かく の如き「於てある場所」という如きものは、色の如き場合においては物と考えられる、アリストテレスの如く性質が物に於てあるといい得る。しかしそれでは場所の意義は失われて物が属性を有つということとなる。これに反し物が何処までも関係に溶かされて行くと考えられる時、有無を含んだものは一つの作用と考えられる。しかし作用の背後にはなお潜在的有が考えられねばならぬ。本体なき働き、純なる作用というのは本体的有に対していわれ得るのであるが、作用から潜在性を除去するならば、作用ではなくなる。かかる潜在的有の成立する背後に、なお場所という如きものが考えられねばならぬ。
 
物が或性質を有つと考えられる時、これに反する性質はその物に含まれることはできない。しか るに、働くものはその中に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものはその反対に変じ行くのである。この故に有無を含む場所其者がただち に作用とも考えられるであろう。しかし一つの作用というものが見られるには、その根柢に一つの類概念が限定せられねばならぬ、一つの類概念の中においてのみ相反するものが見られるのである。作用の背後にある場所は真に無なるもの、即ち単に場所という如きものではなく、或内容を った場所、あるいは限定せられた場所ともいうべきであろう。作用においては有と無と結合するが、無が有を包むとはいわれない。真の場所においては或物がその反対に移り行くのみならず、その矛盾に移り行くことが可能でなければならぬ、類概念の外に出ることが可能でなければならぬ。真の場所は単に変化の場所ではなくして生滅の場所である。類概念をも越えて生滅の場所に入る時、もはや働くということの意味もなくなる、唯見るというのほかはない。類概念を場所として見ている間は、我々は潜在的有を除去することはできない、唯働くものを見るに過ぎないが、類概念をも映す場所においては、働くものを見るのではなく、働きを内に包むものを見るのである。真に純なる作用というのは、働くものでなく、働きを内に包むものでなければならぬ。潜在有が先立つのではなく、現実有が先立たねばならぬ。ここ においては形式と質料との融合せる対立なき対象を見ることができるのである。
 
かく の如き対立なき対象というべきものは、全然意識の野を超越したものと考えられるのであるが、もし全然主観の外にあるものならば、如何にしてそれが主観の中に映じ来り、認識作用の目的とならねばならぬのであろうか。私はかかる対象といえども、場所という如き意味における意識の野の外にあるのではない、何処までも場所によって裏付けられていると思う。場所が単に有を否定した対立的無と考えられた時、対象は意識の野の外に超越すると考えざるを得ない、対象はそれ自身に存立していると考えられるのである。普通にいわゆる意識の立場というのは、さき にいった如き有に対する無の立場である。有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時、無は一つの潜在的有となる。如何なる有をも否定しはて しなき無の立場に立つ時、即ち有に対して無 其者 そのもの が独立する時、意識の立場という如きものが現れる。而して くすべての有を越えた立場において、すべての有が映され、分析せられ得ると考えられるのである。しかし真の無はかかる対立的なる無ではなく、有無を包んだものでなければならぬ。あらゆる有を否定した無といえども、それが対立的無であるかぎり、なお一種の有でなければならぬ。限定せられた類概念の外に出るといえども、それがなお考えられたものとして、一つの類概念的限定を脱することはできぬ。この故にそこに一種の潜在有の意義すら認められ、唯心論的形而上学も成立するのである。真の意識というのは右の如き意識をも映すものでなければならぬ、いわゆる意識とはなお対象化せられたものに過ぎない。
 
真の無の場所というのは如何なる意味においての有無の対立をも超越してこれを内に成立せしめるものでなければならぬ。何処までも類概念的なるものを破った所に、真の意識を見るのである。対立なき超越的対象といえども、かかる意味における意識の外に超越するとはいい得ない、かえってこの場所に映されることによって、対立なきものと見られるのである。対立なき対象というのは我々の当為的思惟の対象となるものである、いわゆる判断内容を一義的に決定する標準となるものである。もし我々がこれに反して考えた場合、我々の思惟は矛盾に陥るほかはない、思惟は思惟自身を破壊することとなる。かかる意義を離れて対立なき対象という如きものの考えようはない。かかる対象を見る時、我々は対立的内容の成立する主観的意識の野を超越して外に出ると考えられるでもあろう。しかしそれは対立的なる無の立場から真の無の立場に進むということにほかならない、単に物の影を映す場所から物がおい てある場所に進むというにほかならない。いわゆる意識の立場を てるのではない、かえってこの立場に徹底することである。真の否定は否定の否定でなければならぬ、しか らざれば意識一般の如きも無意識と択ぶ所はない、意識という意味はなくなるのである。
 
我々が く考えざるを得ない、然らざれば矛盾に陥るといい得る時、かかる意識の野はいわゆる超越的対象を内に映しているのでなければならぬ。かかる立場は否定の否定として真の無なるが故に、すべて対立的無の場所に映されるものをも否定することができるのである。意識の野は真に自己をむなし うすることによって、対象をありのままに映すことができるのである。この場合、対象が対象に自身に於てあると考えられるかも知らぬが、単に対象がそれ自身に於てあるならば、いわゆる意識内容の標準となることはできない。対象の於てある場所はいわゆる意識もまたこれに於てある場所でなければならぬ。我々が対象其者を見る時、それを直覚と考えるでもあろう、しかし直覚もまた意識でなければならぬ。いわゆる直覚も矛盾其者を見る意識の野というものを離れることはできない。普通に直覚と思惟とは全く異なれるものと考えられるが、直覚的なるものがそれ自身を維持するには、やはり「於てある場所」という如きものがなければならぬ。而してこの場所は思惟の於てある場所と同じものである。直覚的なるものがその於てある場所に映されたる時、思惟内容となるのである。いわゆる具体的思惟という如きものにおいては、直覚的なるものも含まれていなければならぬ。意識は何処までも一般概念的背景を離れることはないと思う。一般概念的なるものが何時でも映す鏡の役目を演じているのである。我々が主客合一と考えられる直覚的立場に入る時でも、意識は一般概念的なるものを離れるのではない、かえって一般概念的なるものの極致に達するのである。矛盾を意識する立場において一般概念的なるものを破って外に出るというのは、対象化せられた一般概念的なるものを意味するのである。かく の如きは既に限定せられたもの、特殊なるものに過ぎない、知るという意味をも たない。直覚的なるものを映す場所は、ただち にまた概念の矛盾を映す場所でなければならない。
 
直覚の背後に、意識の野とか、場所とかいうものを認めるというには、多くの異論があるかも知らぬが、直覚というのが単に主もなく客もないということを意味するならば、それは単なる対象に過ぎない。既に直覚といえば、知るものと知られるものとが区別せられ、しかも両者が合一するということでなければならぬ。而して知るものは単に構成するとか、働くとかいうことを意味するのではなく、知るものは知られるものを包むものでなければならぬ、否これを内に映すものでなければならぬ、主客合一とか主もなく客もないということは、唯、場所が真無となるということでなければならぬ、単に映す鏡となるということでなければならぬ。特殊なるものが客観的と考えられ、一般なるものは単に主観的と考えられているが、特殊なるものも知識内容としては、主観的であるということができ、もし特殊に対して客観的所与を認めるならば、一般的なるものに対しても客観的所与という如きものを認め得るであろう。カント哲学においてはこれが単に先験的形式と考えられるのであるが、かかる考の根抵には、主観の構成作用によって客観的所与を構成するという考が前提となっているのである。しかし構成するということは、直に知るということではない。知るということは、自己の中に自己を映すということでなければならぬ。真のアプリオリは自己の中に自己の内容を構成するものでなければならぬ。この故に構成的形式の外に、ラスクの如く領域の範疇 Gebietskategorie というものをも考え得るのであろう。我々の認識対象界において限定せられた一般概念を見るのは、かかる場所が自己を限定するによるのである。場所が場所自身を限定したもの、あるいは対象化したものがいわゆる一般概念となるのである。
 
プラトンの哲学においては、一般的なるものが客観的実在と考えられたが、真にすべてのものを包む一般的なるものは、すべてのものを成立せしめる場所でなければならぬという考には到らなかった。この故に場所という如きものはかえって非実在的と考えられ、無と考えられたのである。しかしイデヤ自身の直覚の底にもかかる場所がなければならぬ、最高のイデヤといえどもなお限定せられたもの、特殊なるものに過ぎない、善のイデヤといっても相対的たるを免れない。単に対立的なる無の場所を意識の場所として考える時、直覚においてはかかる場所が消失すると考えられ、更に直覚が於てある場所という如きものは認められないかも知らぬが、私はかかる場所は直覚の内に包み込まれるのではなく、かえって直覚 其者 そのもの をも包むものであると思う。直覚が於てあるのみならず、意志や行為もこれに於てあるのである、意志や行為も意識的と考えられるのはこれに由るのである。デカートは延長と思惟とを第二次的本体と考え、一方に運動をも延長の様態と考え、一方に意志をも思惟の様態と考えたが、かかる意味における真の延長は物理的空間の如きものでなければならぬとともに、真の思惟は右の如き場所でなければならぬ。意識するということと、知識の対象界に映すということとがすぐ一つに考えられるが、厳密なる意味において知識の対象界に情意の内容を映すことはできない。知識の対象界は何処までも限定せられた場所の意味を脱することはできない。情意の映される場所は、なお一層深く広い場所でなければならぬ。情意の内容が意識せられるということは、知識的に認識せられるということではない、知情意に共通なる意識の野はそのいずれにも属せないものでなければならぬ、いわゆる直覚をも包んで無限に広がるものでなければならぬ。最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。いわゆる直覚において既に真の無の場所に立つのであるが、情意の成立する場所は更に深く広い無の場所でなければならぬ。この故に我々の意志の根抵に何らの拘束なき無が考えられるのである。

私は今再び始の考に戻って見よう。有るものは何かに於てあると考えざるを得ない。無論、ここ に有るというのは存在の意味ではない、極めて一般的なる意味に過ぎない。例えば種々なる色は色の一般概念に於てある、色の一般概念は種々なる色の於てある場所と考えるのである。アリストテレスの如く性質は本体に於てあると考え、しか して彼の第二の本体の如きものを考えるならば、種々なる色は一般的なる色自身に於てあると考えることができる。種々なる色の関係は色自身の体系によって構成せられるのである、色の判断の真の主語となる色自体でなければならぬ。一般的なるものは単に主観的と考えられるが、いわゆる個物的なるものも考えられたものに過ぎない。かく の如き客観的一般者において特殊なるものは如何なる関係に於て立つであろうか。色自体の如きものが種々なる色を つということはできぬ、有つというにはその背後に隠れた物が考えられねばならぬ。而してその物は全く類を異にせる性質をも有ち得るものでなければならぬ。しか らば特殊なる色は色自体の作用と考え得るであろうか。色自体という如きものはいま だ働くものではない、時の関係を含むものではない。唯一般的なるものは特殊なるものを含み、後者は前者におい てあるのみである。あたかも形あるものは形なきものの影であるという如く、形なき空間 其者 そのもの の内に無限の形が成立する如き関係であろう。無論、空間においては、なお空間に特有なる種々の関係が入って来るであろうが、空間的関係の基にも一般と特殊との関係があり、これによって種々の空間的関係が構成せられるのである。
 
赤は色であるという判断において、 繋辞 けいじ は客観的には一般的なるものにおいて特殊なるものがあり、一般なるものが特殊なるものの場所となるということを意味する。真に一般的なるものは、自己自身に同一なるものであり、種差を内に包むものでなければならぬ。而して対象が意識を超越すると考えるだけならば、単に特殊なるものが一般なるものに於てあるというのほかないが、更にこの場所の意味を深くして、いわゆる意識もこれに於てあると考えるならば、真の場所は自己の中に自己の影を映すもの、自己自身を照らす鏡という如きものとなる。有が有に於てある時、後者が前者を つということができ、あらわ れた有が顕れない有に於てある時、前者は後者の顕現であり後者が働くということができるが、有が真の無に於てある時、後者が前者を映すというのほかはない。映すということは物の形をゆが めないで、そのままに成り立たしめることである、そのままに受け入れることである。映すものは物を内に成り立たしめるが、これに対して働くものではない。我々は鏡が物を映すと考えるのも、 く考えるのである。無論、鏡は一種の有であるから、真に物其者を映すことはできぬ、鏡は物を歪めて映すのである、鏡はなお働くものである。他の物の影を宿すものが有であればあるほど、映されたものは、他の肖像ではなくして、単に象徴となり、符号となる。更に或物が他に於てあるという意義を失うに至れば、両者独立して、単に相働くとか、相関係するとかいうのほかはない。一般的なるものが単に主観的ではなく、それ自身に客観性を有するとするならば、客観的一般者において特殊なるものがあるという義は、一般なるものが特殊なるものの形を歪めないで、そのままに内に成立せしめるということでなければならない。一般なるものが特殊なるものを有つのではない、特殊なるものが一般的なるものの結果というのでもない、また単に空間が物を含むとか、物が空間に於てあるとかいう意味において含むのでもない。一般と特殊とは物と空間というように相異なるのでもない。特殊なるものは一般なるものの部分であり、かつその影像である。しかし一般なるものは特殊なるものに対して、何ら有の意義を有するのではない、全然無である。
 
物が個物的であればあるほど、一般的でなければならぬと考えられる時、その一般的なるものは個物的なるものを自己の中に映すものでなければならぬ。あるいは一般と特殊との間には、映す映されるという関係はないというでもあろう。しかし何かが何かに於てあるという時、既にその両者の間に何らかの関係がなければならぬ、徳は三角に於てあるなどということはできない。「於てあるもの」は自己のある場所の性質を分有するものでなければならぬ、空間に於てある物は空間的でなければならぬ。而してその性質がその物に本質的なるかぎり、即ちそれによってその物の存在が認められるかぎり、一つのものが一つのものに於てあるといい得るのである。この故に完全に一つのものが一つのものに於てあるというには、前者は後者の様相でなければならぬ。かかる場合、我々はただち に本体と様相という如きものを考えるのであるが、構成的範疇の前に反省的範疇があるとすれば、本体なき様相ともいうべき純性質的なるものが互に相区別し、互に相関係するというには互に相映し映されることによって、客観的に自己自身の体系を維持するというのほかはない。直接なる経験の背後に考えられた本体という如きものを除去する時、本体なき作用、純なる作用の世界を見る。しかしなお何らかの意味において働くものという如きものが考えられている。更に働くものをも除去する時、純なる状態の世界を見る、即ち本体なき様相の世界を見る。統一を内に見ることによって純粋作用の世界を見ることができるならば、更にこれを推し進めて純粋状態の世界という如きものを見ることができるであろう。構成的範疇の世界以前に考えられる反省的範疇の世界は、かく の如きものでなければならぬ。
 
映すといえば我々は直に一つの働きを考えるのであるが、働くということから映すということは出て来ない。かえって無限に自己の中に自己を映すということから、働くものを導き出すことができるのである。働くという考は有限なる一般者、色どられた場所の中に無限の内容を映そうとするより起るのである。すべての有を否定する無の場所においては、働くことは単に知ることとなる、知るということは映すことである。更にこの立場を越えて真の無の場所においては、我々は意志 其者 そのもの をも見るのである。意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と択ぶ所はない。意志の背後における暗黒は単なる暗黒ではなくして、ディオニシュースのいわゆる dazzling obscurity[光り輝く暗黒]でなければならぬ。かかる立場における内容が対立的無の立場に映されたる時、作用としての自由意志を見るのである。意志も意識の様相と考えられるのは此の如き考にもとづ かねばならぬ、作用としての自由の前に状態としての自由があるのである。
 
繋辞としての「ある」と存在としての「ある」とを区別すべきことはいうまでもないが、物があるということも一つの判断である以上、両者の深き根柢に相通ずるものがなければならぬ。「ある」という繋辞は、特殊なるものが一般なるものの中に包摂せられることを意味する。一般なるものの方からいえば、包摂することは自己自身を分化発展することである。判断とは一般なるものが自己自身を特殊化する過程と考えることができる。無論、特殊化の過程というも、直に時間に現れる出来事を意味するのではない、単に一般と特殊との関係を示すのみである。いわゆる具体的一般者というものが考えられるならば、判断的関係はその中に含まれると考えねばならぬ。而して真の一般なるものは、いつも具体的一般者でなければならぬ。我々が外に物があるという時、それは繋辞の「ある」ではなく、存在するということでなければならぬ。しかし此の如き存在判断が一般妥当的として成立するには、その根抵にやはり具体的一般者が認められねばならぬ。実在が判断の主語となると考えられるのは、これに るのである。非合理的なるものの合理化によって、存在判断が成立するのである、時間空間というもかかる合理化の手段に過ぎない。
 
斯く考え得るならば、存在するということは具体的一般者の立場からの繋辞を意味し、繫辞の「ある」というのは抽象的一般者からの存在を意味すると考えることもできる。自然界に於て物があるということは存在判断の妥当なるを意味し、赤は色であるということは赤は色の概念に於てあるということを意味する。いわゆる存在とは一般的繋辞の特殊なる場合と考えることができる。特殊なるものが一般なるものに於てある時、我々は単に有ると考える、有が有に於てあるのである。例えば色は自己自身に体系を成して自己自身に於てあると考えられる、いわゆる対立なき対象となるのである、自然的存在も同様の意味に於て超越的対象である。これに反し、有が更にその於てある無の場所に映される時、空間における物が種々の象面において見られる如く、いわゆる対立的対象の世界が現れて来る。対立的無の立場において、意識作用としての判断即ち判断作用というものが考えられるのである、判断作用とは対立的無の特殊化である。対立的無はなお真の無の上に映されたる有なるが故に、一種の有として作用の基体となるのである。しかし無が基体なるが故に、意識作用其者の内容は見られない、ラスクのいう如く単に当る Treffen とか当らぬ Nichttreffen とかいうに過ぎないのである。しかしかかる作用も真の無の場所においては作用の意味を失うて具体的一般者の繋辞となる。真の無の場所に於てあるということは、それが妥当するということである。対立的無の場所においてはなお作用を見るが、真の場所においては単に妥当的なるものを見るのである。カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならぬ。この場所においては、すべて「於てあるもの」は妥当するものである。ここ において、すべて存在的有は変じて繋辞的有とならねばならぬ。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない、対立的無の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を越えて 叡智 えいち 的実在の世界がある、理想即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を越えてなお形而上学が成立するのである。有るものは何かに於てなければならぬ、論理的には一般なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受取ると考えた意識は、対立的無の場所でなければならぬ、単に映す鏡でなければならぬ、かかる場所に於て感覚の世界があるのである。意識一般はかかる意味においての意識ではない、いわゆる意識作用もこれに於てある場所でなければならぬ、対立的無を含む無でなければならぬ、外を映す鏡ではなくして内を映す鏡でなければならぬ。これに於てあるものは、すべて単なる妥当となるのであるが、真の無の場所においては、かくの如く妥当するものが即ち存在でなければならぬ。
 
かく の如き真の無の場所における存在の世界は、純粋思惟の対象界にあらずして、純粋意志の対象界と考えることができる。対立なき対象がその於てある場所に映されることによって、対立的対象を生ずる如く、真の無の場所に於てある叡智的存在即ち純粋意志の対象に対して、その対立的対象の世界即ち反価値の世界が成立するのである。この世界においては広義における善のみ実在であるといい得るであろう。醜なるもの、悪なるものは物なき空間が無と考えられる如く、無と考えられる、アウグスチヌスの如く悪は無であるということができる。而してこの世界における意志作用は認識の世界における判断作用に相当するであろう。唯、真の無の場所においてのみ自由なるものを見ることができる。限定せられた有の場所において単に働くものが見られ、対立的無の場所においていわゆる意識作用が見られ、絶対的無の場所において真の自由意志を見ることができる。対立的無もなお一種の有なるが故に、意識作用には断絶がある、昨日の意識と今日の意識とはその間に断絶があると考えられる。真の無は対立的無をも越えてこれを内に包むが故に、行為的主観の立場において昨日の我と今日の我とは直に結合するのである。かく考えられる意志は原因なきのみならず、それ自身において、永遠でなければならぬ。かかる場合、意志の背後に無意識なるものが考えられるのであるが、意識の背後は絶対の無でなければならぬ、すべての有を否定するのみならず、無をも否定するものがなければならぬ、時間上に生滅する意識作用が意識するのではない。意識は永久の現在でなければならぬ、意識においては、過去は現在においての過去、現在は現在においての現在、未来は現在においての未来ということができる、いわゆる現在は現在の中に映されたる現在の影である。かかる意識の本質をあきらか にするものは、知識の体験にあらずして、むしろ意志の体験である。この故に意志の体験において我々の意識は最も 明瞭 めいりよう となると考えられるのである。而して知識も意識であるかぎり、一種の意志と考えることができるのである。

意識の根柢には一般なるものがなければならぬ。一般的なるものが、すべて有るものが於てある場所となる時、意識となるのである。一般的なるものがなお一般的なるものとして限定せられる限り、即ち真の無なる場所とならざる限り、外に本体を見、内に一般概念を見るのである。すべての実在を包含するスピノーザの本体といえども、なお無に対する有であって、すべて有るものを含むことができるとするも、否定的意識作用を含むことはできない。真に主語となって述語となることなき本体というべきものは、単に判断の対象となるのみならず、判断其者をも内に包むものでなければならぬ。有無対立の立場から真の無の立場に移る時、その回転の点において、カントのいわゆる意識一般の立場が成り立つ。この立場から見れば、すべてが認識対象となる、理論的妥当となる、すべてが認識対象界に映されたる影像に過ぎない。真実在は認識対象界の後に形を潜めて、不可知的なる物自体となる。意識一般の立場はすべての有を包む無の立場なるが故に、 何処 どこ までも意識の立場たることを失わない。しかしそれは実在としての意識ではない、働く意識ではない、意識作用というものも意識一般の立場において見られたる認識対象に過ぎない。
 
ここ において、問題となるのは判断作用である。判断作用は一方において時間上に現れる出来事たるとともに、一方において意味をにな うものでなければならぬ。全然作用を超越すると考えられる意識一般が、如何にして意識作用と結合するのであろうか。内面的意味の世界も一種の対象界とするならば、かかる対象界を見る意識一般は、単なる超越的対象を見る意識一般と同一の意義のものであろうか。真にすべてを対象化する意識一般は作用を超越するものでなく、何処までも自己の内に退いて、すべての対象を内に包むものでなければならぬ。無にして有を包むものを意識とするならば、無限に深き意識の意味がなければならぬ。いわゆる意識一般とは対立的無より真の無に転ずる門口である。対立的有の立場において不可知的なる力の作用であったものは、対立的無の立場において意識作用となり、真の無の門口たる意識一般を越ゆることによって、広義における意志作用となる。判断作用というのは丁度意識一般の立場において見られるのである、判断と意志とは一つの作用の表裏と考えることができる。
 
意識一般の立場を突き詰めれば、何らの内容ある作用を見ることはできぬ、認識対象界の窮まる所、単に抽象的なる当る、当らぬという如き作用を見るのみである、而してかく の如き作用の裏面には意志作用が考えられなければならぬ。円い四角形という如きものを意識するには、背後における意志の立場が加わらねばならぬ。構成的範疇の背後に反省的範疇があると考え得るならば、反省的範疇の制約をも破ることによって、我々は随意の世界に入るのである。抽象的思惟と抽象的意志とは一つの門口の両面である。この門口を過ぐれば、自由なる意志の対象界に入る。この世界においては、すべて有るものは妥当的実在であり、叡智的存在である。あるいは妥当的対象の背後に存在を考えるの不当なるをいうでもあろう、存在の前に当為があると考えられる。しかし何故にいわゆる自然科学的実在のみが存在と考えられねばならぬであろうか。今深く存在の問題に入り込むことはできないが、実在の根抵には非合理的なるものがなければならぬ。感覚的なるものが実在と考えられるのもこれに由るのである。しかし単に非合理的なるものが実在と考えられるのではない、理性によって到達することができないとともに、何処までも理性化せらるべきものでなければならぬ。アリストテレスが判断の主語となって述語とならないものというのは、最も くかかる意義を言い表したものであろう。空間、時間、因果の法則によって統一せられたいわゆる自然界もその一例に過ぎない。而して右の如き意味において判断の主語となるものを求めるならば、いわゆる具体的一般者というものが最もそれに適当するであろう、具体的一般者が実在ということができる。その根柢となる一般者が限定せられた有であるかぎり、本体という如きものが考えられ、それが対立的無なる時、純なる作という如きものが考えられ、それが真の無なる時、即ち単なる場所ともいうべき場合、いわゆる叡智的存在という如きものが考えられるのである。いずれも同様の意義において、存在ということができる。
 
私のいわゆる場所の意義に従って、種々の異なれる存在の意義を生ずるのである。先ず感覚的性質が於てある場所の意味が一般化せられる時、むな しき空間となる。しかし空間も一種の有である。更に空間もこれに於てある場所という如きものは、超越的なる意識の野という如きものでなければならぬ。感覚的なるものが直にこれに於てあると考えられる時、精神作用となる。いわゆる意識の野とは否定的無なるが故に、感覚的なるものの背後に考えられる基体即ちいわゆる物は消滅して、感覚の背後には唯無が見られる、感覚は無より生ずると考えられる、即ち純なる作用となる。しかし作用もその於てある場所に於ては一種の存在である。真の無の門口たる意識一般においては、作用も存在の意義を失い、一旦はすべてが当為となるであろうが、更に場所が真の無 其者 そのもの となる時それがまた一種の有と考え得るであろう。これに於てあるものは唯叡智的存在であり、当為はその影となるのである。
 
意識一般は真の無の場所に入る門口なるが故に、物自体の如きものは否定せられて、すべてが認識対象となる。しかし真の無の場所其者においては、この立場を越えて更に主語となって述語とならない基体を見ることができる。真に主語となって述語となることなき基体というべきものは、判断を超越したものではなく、判断を内に包むものでなければならぬ、単に判断の主語となるのみならず、判断の目的となるものでなければならぬ。判断の根元となりまたその目的となるものが、真に判断の主語となり得るのである。いわゆる自然的存在もこの一例として存在と考えられるのである。唯、意識一般を認識主観として、その上に ずることのできない頂点と考えた時、我々は更にこれを越えて存在を考えることはできない。叡智的存在という如きものは形而上学的として排斥するのほかはない。しかし判断は一つの意識作用ではあるが、意識の全体ではない、判断は即ち意識ではない。我々は判断の意識の外に意志の意識を っている。意志も意識現象であり、意志の背後にもこれを知るものがあると考え得るが故に、意志よりも知識が一層深きものであり、意志も判断の対象となると考えられるのであるが、意志を意識するものは単に判断するものではない。意志を意識するものは判断をも意識するものである。
 
無より有を生ずる、無にして有を含むということが、意識の本質である。意識するということと、意識せないということとが区別せられ、心理学者は意識の範囲というものを定めるが、かかる区別を意識するものは何であるか。意識の範囲として限定せられたものは、意識せられたもので、意識するものではない。真に意識するものはいわゆる意識として限定せられないものをも、内に包むものでなければならぬ。意識の背後に潜在的なる何物かが考えられた時、もはや意識ではない、力の発展となる。意識の立場は或一つの限定せられた立場に対して、一層高次的な立場とも考え得るでもあろう。高次的立場は低次的立場に対して、無にしてこれを包むが故に、意識の意義を有つことができるのである。しかし何らかの意義においてその高次的立場が限定せられた時、更に於てある無の立場が認められ、意識の意義を失わなければならぬ。真の意識の立場は最後の無の立場でなければならぬ。意識の底には、これをつな ぐ他の物があってはならぬ、かかるものがあらば意識ではない。意識の流は一方から見れば、時々刻々に移り行き、一瞬の過去にも返ることができないと考えられるとともに、その根抵には永遠に移らざるものがなければならぬ。唯この永遠に移らざるものが無なるが故に、意識は繰返すことができないと考えられるのである。もし意識の根抵に何らかの意味において有が認められるならば、それによって意識は繰返すことのできるものとならねばならぬ。意識の根抵には唯、永遠の無あるのみである。我々が内部知覚において直接に対象を見ると考えるのもこれによるのであろう。対象が意識そのものとして見られた時、その背後に何物もない、我々は物そのものを見ると考えられるのである。しか して真の無の立場というのは、一つの理想に過ぎないから、内部知覚も単なる極限に過ぎないのである。
 
意識の本質を右の如く考えるならば、判断ということよりも、意志ということが、なお一層深き意味において知ることでなければならぬ。知識においては、無にして有を映すと考えられるが、意志においては、無より有を生ずるのである。意志の背後にあるものは創造的無である。生む無は映す無よりも更に深き無でなければならぬ。この故に我々は意志において、最もあきらか に自己を意識し、意識の最高強度に達すると考えるのである。無より有を作るということは、潜在的なるものも無に於てあるということでなければならぬ、潜在的なるものをも内に映すということでなければならぬ。アウグスチヌスは神は時の中において世界を創造したのではない、時も神の創造したものであるといい、作るといえば質料がなければならないが、神は無より質料をも作ったという如く、無より有を創造するものは、単に時を超越し質料を離れた形相ではなく、時もこれに於てあり、質料もこれに於てあるものでなければならぬ、即ち映すことが作ることであるものでなければならぬ。単に質料を形相化することが知るということではなく、自らむなし うして自己の中に質料を包み、自己の中に自己を形成し行くことが知るということであるとするならば、知るということもその背後に既に無より有を生ずる意志の意義がなければならぬ。唯知識においては限定せられたアプリオリ、限定せられた形相の上に立つが故に、時を含み質料を包むということはできない。知識においては対象がそれ自身の体系を有し、それ自身の方向を っている。それ自身の体系を有し、それ自身の方向を有することは限定せられた一般者の上に立つことを意味する。限定せられたものに対しては、限定せられないものが対立する、潜在的なるものは未だ真の無ではない、映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である。知識の無は極微的無である、真の無ではない。純知的なる意識一般の立場において我々は避けることのできない矛盾に陥るのは、このためである。意識一般は判断の主観でありながら、判断作用を超越したものでなければならぬ、意識一般は意識の意義を失うこととなる。この故に真の意識一般はかえってその背後に意志の意義を っていなければならぬ。カントの意識一般はフィヒテの 事行 じこう に到らねばならぬのである。
 
判断はその根抵に意志を予想することによって、意識一般は意識の意義を有することができるのである。しかも判断の立場は直に意志の立場ではない、判断は意志の一面に過ぎない。判断の立場までも限定せられた場所の意味を脱することはできない。フィヒテの事行といえども、なお真の無の場所における自由意志ではない。自己の中に無限の反省を含み無限の質料を蔵するとしても、それは定まれる無限の方向、定まれる意味の潜在たるを免れない。それよりして随意的意志は出て来ない、自由に方向を定める選択的意志の意義を明にすることはできない。真に自由なる意志は無限なる反省の方向、無限なる潜在の意義に対して自由なるものでなければならぬ、即ちこれを内に含むものでなければならぬ、 くして始めて無から有を作るということができる。質料も無から作られたものであり、無より有を作るということは、すべての作用の潜在的方向を超越して、しかもこれを内に包むということでなければならぬ、ここ においては質料も映されたる影像であるということでなければならぬ。真に自由なるものは、無限なる純粋作用を自己の属性となすものでなければならぬ。
 
包摂判断においては、特殊的なるものが主語として、一般的なる述語の中に含まれると考えられるが、主語となって述語とならない基体においては、特殊なるものにおいて一般なるものが含まれると考えられる。しかし物の判断においても、その主語となるものは単に特殊的なるものではなく、その属性に対して一般的意義を有っていなければならぬ。唯、含む一般的なるものと含まれる特殊的なるものとの間に 間隙 かんげき がある限り、物と性質との関係が成り立ち、超越的なる物という如きものが考えられるのである。しかし物が超越的であるということは、形相と質料とが相離れ、単に形相化することのできないのみならず、形相化的進行の方向を以てするも限定することのできない質料が残されるということである、いわば質料の方向が無限定であるということである。質料が形相に対して外的であり、偶然的であるかぎり、質料の独立性が認められ、超越的なる物の存在が考えられるのである。而して物の存在を認めるため、於てある場所という如きものが考えられねばならぬのである。しかし場所 其者 そのもの が内在的有即ち一種の形相と考えられ、内在的なるものの中に超越的なるものが含まれると考えられた時、力の世界が成立する。斯くしてまた種々なる力の質料性というものが認められるとともに、力の於てある場所という如きものが考えられねばならぬ。力の非合理性、力の質料性ということは、内在的なるものの超越性ということである。私がここ に力の於てある場所というのは、物理学者のいわゆる力の場という如きものではない。実在としての力の於てある場所ともいうべきものは、超越的意識の野ともいう如きものでなければならぬ。この場所に於て力学的力と経験内容とが合一して物理的力となるのである、物理的力の存在性はこの場所に於て立せられるのである。
 
空間も、時間も、力もすべて思惟の手段と考えられた時、与えられた経験其者の直に於てある客観的場所は超越的意識の野という如きものでなければならぬであろう。物が空間に於てあるという如き意味に於て意識の野においてあるというべきものは、意志の本体即ち自由なる人格でなければならぬ。いわゆる認識対象界において感覚が非合理的なる如く、意識の野において非合理的なるものは自由意志である。感覚は形式的思惟に対しては全然外的であり、非合理的であるかも知らぬが、構成的思惟によっては合理化し得ると考えることができる、即ち右にいった如く内在的なる場所の内に超越的なるものを盛ることができる。しか るに自由意志に至っては、如何なる意味においても合理化することができぬ、全然限定せられたる場所を超越したものでなければならぬ。判断において主語となって述語とならないものが述語を有するものとなる如く、何処までも場所として限定することのできない、全然非合理的なるものが意識の本体となる。而して力の実在性も要するに意志の非合理性によって維持せられるのである。主語となって述語とならないものが基体と考えられるのも、いわゆる述語的一般としては限定し得ざるものであるがしかも述語を内に包むが故にほかならない、即ち述語的有がこれに於てある場所なるが故でなければならぬ。判断は主語と述語との間に成立するのである。この場所の中に超越的なるものが見られる時、即ち潜在的なるものが考えられる時、働くものとなるが、それが単に限定せられた場所と見られる時、両者を結合するものは判断となるのである。
 
有が有に於てある時、場所は物である。有が無に於てあり、而してその無が考えられた無である時、前に場所であった物は働くものとなる。而して空虚なる場所は力を以て満たされ、物であった場所は潜在を以て満たされる。超越的なるものが内在的となるというのは、場所が無となることである、有無となることである。しかし有の場所となる無に種々の意味がある。単に先ずある 有を否定した無即ち相対的無と、すべての有を否定した無即ち絶対的無とを区別することができる。前者は空間の如きものであり、後者はいわゆる意識の野の如きものである。意識の野においては前に物であったものは意識現象となり、空虚なる場所はいわゆる精神作用をもって満たされる。場所がすべての有を否定した無なるが故に、意識の場所においては、すべての現象が直接と考えられ、内在的と考えられるのである。精神作用も無の場所との関係ではあるが、物力の如き有の意味を有することはできぬ、判断の対象として、限定することができぬ、唯いわゆる反省的判断の対象となることができるのみである。自然科学的立場からは、精神作用なるものが否定せられるのはこの故である。意識の野においては、その場所が無となるとともに、単に性質の場所となって、物という如きものは消失するのであるが、対立的無はなお有の意義を有するかぎり、前に有であった場所は潜在を以て満たされる、即ち意識の本体、意識我という如きものが考えられるのである。しかし意識的潜在は物力の潜在とは異ならねばならぬ。意識的潜在は動的意味の潜在である、物理的には無なるものの潜在である。単なる有の場所から否定的無の場所に入るに従って、種々なる合目的的世界が考えられる、いわゆる非実在的なる意味が実在性を って来るのである。この場合存在性が失われると考えられるが、唯有るものは何かに於てあるという場所の意義が変じて来るのである、存在の根抵を成す一般者が失われる訳ではない。場所が無となる時、アリストテレスの現実が潜在に先立つ、形相が質料に先立つという意味があきらか になって来る、潜在的質料と考えられるものは、かえって直接の現実的形相と見ることができる。
 
右の如く、対立的無の場所においては、いわゆる意識の野においての如くなお一種の潜在を見るのであるが、更に真の無の場所においては意識の野においての如き潜在も消え失せねばならぬ、意識一般の立場においては意識現象も対象化せられねばならぬ、いわゆる意識我もこれに於てあるものでなければならぬ。すべての意義において働くというものはなくなる、力という如きものはなくなる、判断作用 其者 そのもの すら対象化せられるのである。ここ において我々は如何なる意義においても真実在を認めることはできぬ、物自体は不可知的というのほかはない。個物的実在というも、時空の形式によって統一せられた認識対象たるに過ぎない。しかし意識一般が知識の客観性を維持するというには、その根抵に超越的なるものがなければならぬ。カントが経験内容の制約に知識の客観性を求めた如く、知識の客観性の基にはかえって非合理的なるものがなければならぬ。しかもかかる意味において超越的なるものは、いわゆる物の如きものであってはならぬ、また力の如きものであることもできない。それらはすべて認識主観によって対象化せられたものである。これを潜在ということもできぬ、何となれば潜在は既に力の範疇を予想するからである。この故にそれは如何なる意味においてもこれを対象化して知識的に限定することはできない、知識はかえってその限定によって成立するものでなければならぬ。何処までも限定することができないという意味にては無であるが、しかもすべての有はこれに於てあるものでなければならぬ。
 
認識の形式が質料を構成するというのは、時における構成作用と同様ではない。意識一般の超越性は形式も質料もこれに於てある場所の超越性である、一般的なるものが一般的なるものの底に、内在的なるものが内在的なるものの底に、場所が場所の底に超越することである、意識が意識自身の底に没入することである、無の無であり、否定の否定である。もし真に判断作用を超越し主語となって述語となることなき基体を求むるならば、これを いてほかにない、最後の非合理的なるものであって、しかもすべての合理的なるものはこれに於てあるのである。感覚的実在としての物の非合理性の根抵は要するにここ にあるのである。物が空間に於てあると考えられる時、場所が物に対して全き無と考えられるが故に、単に非合理的なるものとして、個々独立的存在の意義を有する。これに反し力に至っては、場所が有の意義を有するが故に、一旦此の如き個々独立的存在性が失われると考えられるが、更にその後に力の本体という如きものを考えざるを得ない、ここ に於て我々の思惟は矛盾に陥るのである。場所が真に無なる時、かかる矛盾は消失して、我々はまた 空間における物の如き個々独立的存在を見る。而して翻って考えて見れば、前の存在性の根抵も実はここ にあったのである、いわゆる感覚的実在の根(ARCHIVE編集部注:原文ママ)はここ から生じていたのである。何故に此に到って再び物が空間に於てある如き存在の意味を得るかというに、場所が絶対の無となるが故である、場所がこれに於て有するものを絶対的に越えているからである。この故に一方から見れば、すべての働きを超越して単に永遠なるものと考えられねばならぬとともに、一方から見れば、すべての場所を含むが故に、無限に働くものと考えられねばならぬ、即ち一言にいえば、自由を以て属性とするものである。
 
真に知る我は働く我を超越するのみならず、いわゆる知る我をも知るのである、我々の人格の根抵にはかく の如き意味における実在の意義がなければならぬ、即ち無から有を生ずるものがなければならぬ、質料をも作るというべきものがなければならぬ。対立的無の場所という如きものが全然消え失せるとともに、かかる無の場所との関係において見られる作用という如きものも消え失せねばならない。作用というものがその於てある場所を失い、その実在性を失うとともに、現実に対する潜在という如きものもなくならなければならぬ。有るものは唯純粋性質ともいうべきものである、性質の背後に物があるのではなく、物の背後に性質があるのである、性質の背後に力があるのではなく、力は一つの属性となるのである。現実の後に潜在があるのではなく、現実の 此方 こちら に潜在があるのである。構成的範疇の対象界の背後に見らるる反省的範疇の対象界とはかく の如き純粋性質の世界でなければならぬ。一般概念的なるものを場所とする考を何処までも徹底し、而してその場所が絶対的無となる時、これに於てあるものは純粋性質という如きものでなければならぬ。元来構成的範疇と反省的範疇とは離すべきものではなく、一つのものの両面ともいうべきものでなければならぬ。構成的範疇を具体的として反省的範疇その 萎縮 いしゆく せる抽象的一面と考えるならば、後者の世界は単なる抽象的思惟の世界となるが、構成的範疇の背後に反省的範疇を見、前者が後者の特殊化せるものとするならば、意志の世界となるのである。意志と判断とは構成的範疇と反省的範疇とのいずれを表としいずれを裏となすかによって異なるのである。
 
純粋性質という如きものを実在の根抵と考えるには、多くの異論があるでもあろうが、我々に真に直接なるものは、純粋性質という如きものでなければならぬ。それは心理学者のいわゆる感覚の如きものでないのはいうまでもなく、一瞬の過去にも返ることなき純粋持続という如きものでもない。純粋持続といい得るものはなお時を離れたものとはいえない、更にかかる連続をも越えたものでなければならぬ。それは永遠に現在なる世界、真の無の場所における有である。否定の立場が意識の立場であり、意識の場所が我々に最も直接なる内面的場所と考え得るならば、此の如き場所に於てあるものが真に直接なるものといわねばならぬ。我々はこの上に物の世界、力の世界を構成するのみならず、意志の世界も構成するのである。自由を属性とするカントの叡智的性格という如きものも、此の如き意味における有でなければならぬ。
 
判断の主語となるものが場所である時、性質を有する物という如きものは消失して基体なき作用となる、更に場所 其者 そのもの も無となる時、作用という如きものも消え失せて、すべてが影像となる。主語となって述語となることなき基体が無となるが故に、判断の立場からいえば本体なき影像というのほかはない。本体という如きものはもはや何処にも求めることはできない、唯自ら無にして自己の中に自己の影を映すものがあるのみである。しかし一方からいえば、真に無の立場においてはいわゆる無其者もなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならぬ。有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であるということである、即ちすべて影像であるということである。有るものを く見るということが、物を内在的に見ることであり、実在を精神と見ることである。他にこれを映す無の場所なきが故に、一々が自己が自己を映すもの即ち自覚的なものでなければならぬ。この立場においては、作用というものも影像に過ぎない。潜在というもかかる有の背後に見られるのではなく、その上に描かれたる陰影に過ぎない、有の中に含まれているのである。無から有を作るというのは映す鏡をも映すということにほかならない。質料は一つの作用の方向によって逆に限定せられ質料ではなく、質料自身も一種の形相となるのである。作用の背後にあるものを映す鏡そのものも映されることによって、潜在も現実となり、質料も働くものとなる、これを無から質料を作るというのである。作るというのは時において作るのではなく、見ることである、真の無の鏡の上に映すことである。我々の意志もかく の如き意味においては見ることである。見るとか映すとかいうのは 譬喩 ひゆ に過ぎないと考えられるかも知らぬが、包摂判断において主語述語の中にあるということが、映すとか見るとかいうことの根本的意義にほかならない。述語的なるものが映す鏡であり、見る眼である。
 
かかる判断意識の根本的性質は意識の一種たる意志の根抵にもなければならぬ、判断も意志も無の場所の様相である。現象学者は知覚の上に基礎附けられたる作用の底にも直覚があり、知識はこれに向って充実せられて行くというが、知識の基礎となる直覚とはなお意識せられた意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、即ち真の直覚は作用を基礎附け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎附けられねばならぬ。作用の基礎附けそれ自身が一種の充実的方向を っているのである。情意の客観的対象界を認めないならば、作用の基礎附けの充実という如きことは無意義であるが、知覚を基礎としてその上に自然界が建てられるという時、その根抵となる直覚は唯知覚的直覚の上に何物かが加わったものではなく新しい綜合的直覚でなければならない、直覚が直覚自身を充実し行くのである、私のいわゆる場所が場所自身を限定し行くのである。この故に意志の自覚なくして自然界のアプリオリは成立することはできない。いわゆる直覚の背後に更に意識を考えるというにはなお論ずべき点があるであろうが、私は矛盾の意識も既にいわゆる直覚を一歩越えた意識でなければならぬと思う。私のいわゆる場所が限定せられ得るかぎり、即ち一般概念が対象化せられ得る限り知識の範囲に属するが、これを越ゆれば判断はその限定作用を失って意志の世界に入る。矛盾の意識は判断の意識から意志の意識への転回点を示すものである。かく の如き判断的知識の背後の意識、即ち真の無の場所というべきものは何処までも消えるものではない。その窮極において意志をも越えて、上にいった如き純粋状態の直観に到る。この時、我々は再び矛盾の意識の超越を見る、前者は判断の矛盾の超越であり、後者は意志の矛盾の超越である。意志の矛盾を超越することによって我々は真の無の立場の極限に達するのである。
 
私がこの節において用いた純粋性質という語は種々の誤解を招くかも知れないが、それは真の無の場所に於てあるものであって、自己自身を見るものを意味するのである、純なる作用の根にあって見ることが働くことでもあるものをいうのである。これを純粋性質といった 所以 ゆえん は作用よりも深きが故に静的存在でありしかも物とか本体とかいうものではない、最も直接なる存在たるが故に過ぎない。

上に述べた所において、私は 叡智 えいち 的実在と自由意志との差別及び関係の問題に触れたが、自由を状態とする叡智的実在と自由意志とは如何なる関係において立つか。自由意志の本体という如きものが最高の本体とも考えられるであろうが、意志の自由とは行為の自由を意味し、行為の自由ということがいささ かでも作用との関係において考えられるならば、なお全然対立的有無の場所を超越したものということはできない。我々はいつでも対立的無の場所における意識作用に即して、自由意志を意識するのである。更にこの立場を越えて真の無の場所に入る時、自由意志の如きものも消滅せなければならぬ。内在的にして即超越的なる性質は物の属性、力の結果ではなくして、力や物は性質の属性でなければならぬ、物や力が性質の本体ではなく、性質が物や力の本体でなければならぬ。真の無の空間において描かれたる一点一画も生きた実在である。 くして始めて構成的範疇の世界の背後における反省的範疇の対象界を理解することができるのである。かく の如きものを叡智的実在と考えるならば、それは単に働くものではなく見るものでなければならぬ。色が色自身を見ることが色の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展でなければならぬ。叡智的性格は感覚の外にあってこれを統一するのではなく、感覚の内になければならぬ、感覚の奥にひらめ くものでなければならぬ、しか らざれば考えられた人格に過ぎない、それは感ずる理性でなければならぬ。対立的無の場所たる意識の立場から見れば、それは物の空間における如く単なる存在と見ることができ、しか して物が力を つと考えられる如く、叡智的実在は更に意志を有つと考えることができる。
 
空間における物は内在的なるものの背後に考えられた超越者である。性質的なるものを主語としてこれを合理化する時、空間は合理化の手段となる、すべて現れるものは空間に於て現れるのである、空間が内在的場所となる、空間的ということが物の一般的性質として、すべてが一般概念の中に包摂せられるのである。空間的直覚の上に立つ時、性質的なるものは非合理的なるものとして、超越的根拠を有つものでなければならぬ。元来、性質的なるものの根抵には、ベルグソンが純粋持続といった如く、無限に深きものがある。而して く性質的なるものの根抵が 何処 どこ までも深く見られるのは、真の無の場所における直接の存在は純粋性質ともいうべきものなることを意味するのである。空間という如き限定せられた場所からしては、何処までも量化することのできない超越的なるものというのほかはない。しかしかかる超越的なるものを内在化しようという要求より力の考が出て来る、我々は一層直覚を深めて行くのである。直覚を深めるというのは、真の無の場所に近づき行くことである。現象学的にいえば、作用を基礎附けて行くというのであろうが、作用は「作用の作用」の上において基礎附けられるのである、而して作用の作用の立場は真の無の場所でなければならぬ。これを非合理的なるものを合理化するといい得るであろう、主語となって述語となることなき基体が述語化せられ行くことである。
 
ここ において前に場所と考えられた空間は如何なる地位を取るであろうか。性質的なるもの、自己に超越的なるものを自己の中に取り入れようとする時、空間 其者 そのもの が性質的なものとならねばならない、空間は力の場とならなければならない、空虚なる空間は力を以て満たされることとなる。色もなく音もなき空間がすべてを含む一般者となり、色や音は空間の変化より生ずると考えられるのである。力というのは場所がこれに於てあるものを内面的に包摂しようとする過程において現れ来る一形相である。この故に判断や意志と同一の意義を っているのである。物理的空間は何処までも感覚的でなければならぬ、感覚性を離るれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる、而して力はまた数学的範式となるのほかはない。感覚の背後に考えられる超越的なる基体が、無限大にまで打ち延ばされることによって、前に単に場所と考えられた空間と合一し力の場となるのである。非合理的なるものを内に包む意志の立場からいえば、かく の如き場所は既に意志の立場といい得るであろう。この故に力の概念は意志の対象化によって生ずる物の底に意志を入れて見ることによって生ずると考えられるのである。無なる意識の場所と、これに於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる、有の場所から真の無の場所への推移において力の世界が成立するのである。有るものの場所となるものがまた限定せられ有であるかぎり、我々は力というものを見ることはできない。
 
例えば物体というものを考える場合、我々は何らかの性質的なるものを基礎として、これに他の性質的なるものを盛るのである、触覚筋覚というごときものが先ずかく の如き基礎として択ばれるのである。物体というものが考えられるには、何処まで行ってもかかる基礎となるものを除去することはできない。超越的なる物という考は、かえって内在的性質を限定してこれに他の性質を盛ろうとするより起るのである、限定せられた場所の中に、場所外のものを入れようとするより起るのである。かかる意味においては、物を考える場合でも、判断は自己の中に自己を超越するということができる。此の如き基体となる性質を何処までも押し進めて行けば、つい に最も一般的なる感覚的性質となる。物質の概念は くして成立するのである。物質は直接に知覚すべからざるものと考えられるが、それは特殊なる知覚対象ではないというに過ぎない。知覚の水平線を越えては物質というものはない。知覚とは直接に限定せられたものを意識することであると考えられる如く、限定せられた場所の意義は最後まで脱することはできない。無の場所における有の場所の限定ということが知覚ということでなければならぬ。而して限定せられた有の場所、即ち知覚の範囲に留まる間は、力の世界を見ることはできぬ。限定せられた性質の一般概念の中においては、単に相異なるもの、相反するものを見るのみである。力の世界を見るには、かかる限定せられた一般概念を破って、その外に出なければならぬ、相反の世界から矛盾の世界に出なければならぬ。この転回点は最も考うべきであると思う。
 
矛盾的統一の対象界を考えるには、その根抵には直覚がなければならぬ。数学的真理の如きものの根抵には一種の直覚のあることは、 何人 なんぴと も認めるであろうが、これを色や音の如きいわゆる感覚的直覚とは同じとは考えない。しかしすべて判断の根抵には一般的なるものがあるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚にもとづ いて成立するのである。感覚的なるものの知識の根抵における一般者と、いわゆる先験的真理の根柢における一般者とは如何に異なるか。矛盾的関係において立つ真理を見るには、我々はいわゆる一般概念の外に出てこれを見るということがなければならない。いわゆる一般的なるものが見られ得るということが、先験的知識の成立する 所以 ゆえん である。これによって我々は くなければならぬ、然らざれば知識は成立せないといい得るのである。既に一般概念の外に出ながら、如何にして更に判断の根抵となる一般的なるものを見ることができるであろうか。一般概念の外に出るというのは、一般概念がなくなることではない、かえって深くその底に徹底することである、限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ることである、有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者をただち に無と見るのである。斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである。我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない。しかしそれは先験的空間に於てあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ。無の場所に於てあるということが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於てあるということができる。これ故に一般概念の外に出るということは、かえってこれによって、真に一般的なるものを見ることである。先験的空間という如きものは、此の如き一般者をいい表したものである。
 
此の如き立場においては見るということは、単に記載することではなく、構成することである。真の直覚は無の場所に於て見るということでなければならぬ。ここ に到って直覚はその充実の極限に達し対象と合一するということができるのである。右の如き極致に達せない間は、知識は単なる記載以上に出ることはできぬ。現象学的立場といえども、意識はなお対立的無の場所を脱せないのである、考えられた一般概念の外に出ることができないのである。現象学者の作用というのは、一般概念のらち によって囲まれた作用である、対象の一範囲という如きものに過ぎない。これ故に内に対象の構成を見ることができず、外に作用と作用との関係を見ることもできない。作用 其者 そのもの の充実という如きことは現象学の立場において現れて来ないのである。アリストテレスは感覚とは 封蠟 ふうろう の如く、質料なき形相を受取るものであるといったが質料なき形相を受取るものは形相を たないものでなければならぬ。 く受取るとか、映すとかいうことが何らかの意味において働きを意味するならば、それは働くものなくして働き、映すものなくして映すということでなければならぬ。映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきであろう。これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。かかる場合、我々は直に映するのと映されるものと一と考えるのであるが、その一とは如何なるものを意味するのであろうか。
 
その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない、両者が共に内在的であって、しかも同一の場所において重り合うということでなければならぬ。あたかも種々なる音が一つの聴覚的意識の野において結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である。ブレンターノが「感官心理学」においていっているように現象的に結合するのである。唯、我々は感覚には意識の野を考えるが、思惟にはこれを認めないから、思惟の場所においてかさな り合う(ARCHIVE編集部注:ルビの位置は原文ママ)という語が一種の譬喩の如くに思われるのである。しかし我々の思惟の根抵に一つの直覚があるとするならば、感覚や知覚と同じく思惟の野という如きものが考えられねばならぬ、然らざれば現象学者の直覚的内容の充実的進行という如きものは考えられないのである。思惟の野において重り合うというのは、一般なるものを場所として、その上に特殊なるものが重り合うことである。聴覚の場合においては、個々の音の集団を基礎として、これに音調が加わると考え得るでもあろう。しかし真の具体的知覚においては、個々の音が一つの音調の要素として成立する、即ちこれに於てあると考えねばならぬ。空間においては、一つの空間において同時に二つの物が存在することはできないが、意識の場所においては、無限に重り合うことが可能である。我々は限なく一般概念によって限定せられた場所を越えて行くことができるのである。我々が個々の音を意識する時、個々の音は知覚の場所に於てある。その上に音調という如きものが意識せられる時、音調もまた同一の意識の場所に於てある。各の音が要素であって、音調はこれから構成せられているというのは、我々の思惟の結果であって、知覚其者において個々の音は音調に於てあるのである。しかし音調もまた一つの要素として、更に他の知覚に於てあることができる、音も色も一つの知覚の野に於てあるということができる。
 
斯くして知覚の野を何処までも深めて行けば、アリストテレスのいわゆる共通感覚 sensus communus の如きものに到達せなければならぬ、それは単に特殊なる感覚的内容を分別するものである。分別するといえば、直に判断作用が考えられるのであるが、判断作用の如く感覚を離れたものではない、感覚に附着してこれを識別するのである。此の如きものを私は場所としての一般概念と考えるのである。何となれば、いわゆる一般概念とは此の如き場所が更に無限に深い無の場所に映されたる影像なるが故である。知覚が充実して行くというのは、此の如き場所としての一般者が自己自身を充実し行くことである。その行先が無限であって、無限に自己を充実して行くが故に作用と考えられる、而してその限なき行先は志向的対象としてこれに含まれると考えられるのである。しかしその実はこれに含まれるのではなく、此の如き無限に深い場所に於てあるということを意味するのである。直覚というのも、かかる場所が無限に深い無であることを意味するにほかならない。斯くその底が無限に深い無なるが故に、意識においては、要素と考えられるものをそのままにして、更に全体が成立するのである。
 
現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなければならない。この場所に於ては作用は既に意志の性質を含んでいるのである、作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於て見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない。意志もなお一般概念を離れることはできない、限定せられた場所を脱することはできない。直覚は意志の場所をも越えて深く無の根抵に達している。一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志であり、この両方向の統一が直観である。特殊の中に一般を包摂するというのは背理のようであるが、主語となって述語となることなき基体という如きものが考えられる時、既にこの意味が含まれていなければならぬ。現象学において知覚が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである。この方向においては基礎附ける作用も、基礎附けられる作用も、一つの直覚の圏内に入って行く、即ち共に無の場所に於てあるのである。直覚に分限線はない、知覚という作用を限る時、既に一般概念によって直覚の場所を限定しているのである。現象学者が知覚作用に生きるという時、既に範疇的直覚も含まれていなければならぬ、我の全体がそこにあるのである、私はこれを無の場所に於てあるといいたい。この故に知覚的経験を主語として、いわゆる経験界が成立するのである。
 
知覚作用として限定せられた直覚は、既に思惟によって限定せられた直覚である。我々が知覚に生きるという時、知覚は思惟の上に重り合うのである、知覚的なるものがその底の場所に映ったものが、その一般概念となる。我々が知覚的直覚という如きものを限定して見ることのできるのは、一つの意識作用が或一点から出立し、また元にかえ ることが可能と考えられるが故である。一つの平面においては、ある 或(ARCHIVE編集部注:ルビの位置は原文ママ)一の点から無限の果を廻っても、また元の点に還ることが可能でなければならぬ。或はこれを一つの意識面がそれ自身の内に中心を つともいい得るであろう。無限なる次元の空間とも考え得べき真の無の場所において、かく の如き一平面を限定するものは一つの一般概念でなければならぬ。知覚の意識面を限定する境界線をなすものは、知覚一般の概念でなければならぬ。知覚的直覚というのは くして限定せられた場所である。我々が知覚的直覚に於てあると考える時、我々は一般概念によって限定せられた直覚に於てあるのである、限定せられた場所に於てあるのである。一般概念は斯く意識面の境界線をなすが故に、一方において限定せられた場所の意義を有するとともに、一方においては自己自身を限定する場所の意義を っているのである。私が前に一般概念の外に出るといったのは、一般概念を離れるのではない、またこれによって一般概念が消え失せるのでもない、限定せられた場所から限定する場所に行くことである、対立的無の場所、即ち単に映す鏡から、真の無の場所、即ち自ら照らす鏡に到ることである。かく の如き鏡は外から持ちきた ったのではない、元来その底にあったのである。我々が真に知覚作用に生きるという時、我々は真の無の場所に於てあるのである、鏡と鏡とが限なく重り合うのである。この故に我々はいわゆる知覚の奥に芸術的内容をも見ることもできるのである。
 
元来知覚の意識と判断の意識とが離れているのではない。判断の意識を特殊なるものが一般的なるものに於てあるとするならば、知覚的意識面とは特殊なるものの場所に過ぎない、而して特殊なるものは小語的概念によって限定せられているのである。知覚的意識面というのは、色とか音とかいう如きいわゆる感覚の内容によって定められるのではなく、一般的なるものに対する特殊性によって定められるのである。物の大小形状は概念的に考えることもできるが、知覚的に見ることもできる。これに反し概念的なるものであっても、それが判断の主語として与えられる時、知覚性を つということができる。あるいは知覚の底には概念的分析を れない無限に深いものがあるというでもあろう。私もそれを認めるのであるが、かかるものの背後に概念を入れて見るかぎり、知覚といい得るのである。直覚を概念の反射鏡に照らして見るかぎり、それが知覚となる。真に概念を越えたものは最早知識ではない、知覚を芸術的直観の如きものと区別して、これを知識と考え得るかぎり、それは直覚 其者 そのもの ではない。我々は数学者のいわゆる連続の如きものを見ることはできぬ、しかも知覚の背後に概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ、ベルグソンのいう如く唯これとともに生きることによって知り得る内容である。知覚は概念面を以て直観を切った所に成立するのである。フッサールのいう如く知覚の水平面は何処までも遠く広がるであろう。しかしそれは概念的思惟と平行して広がるのである、これを越えて広がるのではない、何処までもこれによって囲まれているのである。無は何処までも有を裏打している、述語は主語を包んでいる、その窮まる所に到って主語面は述語面の中に没入するのである、有は無の中に没し去るのである。この転回の所に範疇的直覚が成立する、カントの意識一般もかかる意味における無の場所である。かかる転回を私は一般概念によって限定せられた場所の外に出るというのである、小語か大語に移り行くのである。ここ において述語的なるものが基体となると考えることができる。これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入するが故に、特殊なるものの中に一般なるものを包摂するという意志の意味をも含んで来るのである。
 
一般概念とは如何なるものであるか。一般概念とは特殊概念に対立して考えられるのであるが、特殊と一般との関係には、判断意識というものを考えねばならぬ。判断とは一般の中に特殊を包摂することである。しかし特殊概念は更に特殊なるものに対して、一般概念とならねばならぬ。推論式において媒語がかかる位置を取るものである。論理的知識とは、此の如き無限の過程と考えられるが、何処かに一般概念というものが限定せられ得るかぎり、論理的知識が成立するのである。然らばかかる一般概念を限定するものは何であるか。最高の一般概念は何処までも一般的なるものでなければならぬ、如何なる意味においても特殊なる内容を越えたものでなければならぬ。而して此の如くすべての特殊なる内容を越えたものは無に等しき有でなければならぬ。真に一般的なるものは有無を超越ししかもこれを内に包むもの、即ち自己自身の中に矛盾を含むものでなければならぬ。推論式においての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味においては既にこの地位にあるものでなければならぬ。単に知識の立場からいえば、それは考うべからざるものでもあろう。然らば、矛盾の意識は何によって成立するであろうか。論理的には、それは唯矛盾によって展開し行くヘーゲルのいわゆる概念の如きものを考えるほかないであろう。しかし論理的矛盾其者を映すものは何であるか。それはまた論理的なものであることはできない。一度論理的なるものを越えるという時、矛盾其者を見るものがなければならぬ、無限なる矛盾を内容とするものがなければならぬ。私はこういう立場を意志の立場と考えるのである。論理的矛盾を超越してしかもこれを内に包むものが、我々の意志の意識である。
 
推論式についていえば、媒語が一般者となるのである。推論式においても、媒語が主要の位置を取っている。媒語が単に大語の中に含まれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない。いやしく も推論式が判断以上の具体的真理を表すものと考えるならば、媒語が統一的原理の意義を含み、大語も小語もこれに於てあるのである、両者はその両端と考うべきである。媒語はこの場合、私のいわゆる意識の場所の意義を って来る、推論式において我々は既に判断の立場から意志の立場への推移を見るのである。判断においては我々は一般より特殊に行くが、意志においては我々は特殊から一般に行く、帰納法において既に意志の立場が加わっているのである。事実的判断においては、特殊なるものが判断の主語となる、特殊なるものによって客観的真理が立せられる、特殊なるものの中に判断の根抵となる一般的なるものが含まれていなければならぬ。かかる一般者は単に包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならぬ。事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得ると考えられる如く、その根抵にはいわゆる論理的一般者を越えて自由なるものがなければならぬ。私がここ に意志の立場の加入を考える 所以 ゆえん である。
 
意志は単に偶然的作用ではなく、意志の根抵には作用自身を見るものがなければならぬ、作用 其者 そのもの の方向を映すものがなければならぬ、いわゆる一般概念的限定を越えた場所に意志の意識があるのである。作用に対して自由と考えられるのは、作用とは一般概念によって限定せられたものなるが故である。判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くことである。有と無と相対立すると考える時、両者を対立的関係に置くものは何であるか。主観的作用から見れば、我々は有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得るでもあろう。しかし客観的対象から見れば、有が無に於てあるということである、思惟の対象界において限定せられたものが有であり、然らざるものが無と考えることができる。思惟の対象界がそれ自身において一体系を成すと考えるならば、無は有よりも一層高次的と考えることができる。無も思惟対象である、これに何らかの限定を加えることによって有となる、種が類に含まれるという意味において有は無に於てある。無論、無と考えることは既に一つの限定せられた有と考えることであって、その以前に更に無限定のものがなければならぬといい得るであろう、しか してこれにおいて有と無とが対立的関係に於てあると考えることもできるであろう。しかし無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、いわゆる有も無もこれに於てある作用の作用の立場でなければならぬ。判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象と否定的対象とは排他的となるが、転化の上に立つ時、作用其者の両方向を同様に眺めることができる。しかし措定せられた対象界から見れば、赤の表象自体は色の表象自体に於てある如く、有は無に於てある、物は空間を排するのではなく、物は空間に於てあるのである。働くものといえども、それが働くものとして考えられる以上、それが於てある場所が考えられねばならぬ、一般概念によって統一せられ得るかぎり作用というものが考えられるのである。作用自身を直に対象として見ることはできない、一般の中に無限に特殊を含みしかも一般が単に於てある場所と考えられる時、純粋作用という如きものが見られるのである。 く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線とが一点において相接する如く相接するのではなく、一般的なるものと一般的なるものと、場所と場所とが無限に重り合っているのである、限なく円が円に於てあるのである。限定せられた有の場所が限定する無の場所に映された時、即ち一般なるものが限なく一般的なるものに包摂せられた時、意志が成立する。
 
限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何処までもこの場所を超越したものであり、無限に働くものとも見られるであろう。しかし意識するということは無の場所に映すことであり、この場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない。限定せられた有の意義を脱しない 希臘 ギリシヤ 哲学の形相より出立すれば、何処までも質料を形相化しつい に純なる形相に到達するも、なお質料が真に無となったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料はなお動くものとして残っている。真の無の場所においては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。ここ において我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したといい得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる。トーマスの如く善を知れば必ずこれを意志するという時、我々はなお真の自由意志を知ることはできない、真の意志はかかる必然をも越えたものでなければならぬ。ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛せられない、至善に対しても意志はなお自由を有すると考えられねばならぬ。思惟の矛盾は思惟としてはその根抵に達することであり、ヘーゲルの哲学においての如くこれ以上のものを見ることはできないであろうが、我々の心の底には矛盾をも見るもの、矛盾をも映すものがなければならぬ。ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのはこれに るのである。右の如く場所が場所に於てあり、真の無の場所からこれに於てある有の場所が見られた時、意志作用が成立すると考えられるならば、一般概念とは無の場所において限定せられた有の場所の境界線と考えることができる。平面における円の点が内部に属すると見ることができるとともに、外部に属すると見ることができる如く、一つのものが感覚に即して限定せられた有の場所と見られるとともに、無の場所に即して一般概念と考えられるのである。限定せられた場所が無の場所において遊離せられていわゆる抽象的一般概念となる。一般概念の構成作用、いわゆる抽象作用には意志の立場が加わらねばならぬ。ここにラスクのいう如き主観の破壊が入って来るのである。
 
前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於てあると考えるのである。無限に広がる知覚的直覚面を囲むものは、一種の一般概念でなければならぬ。知覚的直覚というものが考えられる時、知覚作用というものが考えられねばならぬ。作用というものが考えられるには私のいわゆる「作用の作用」の立場から作用自身が反省せられねばならぬ。作用其者をただち に見るということはできぬ、一つの作用が他の作用と区別して見られるには、一つの一般概念によって限定せられた場所がなければならぬ、述語的なるものが主語の位置に立つことによって働くものが見られるのである。知覚の水平面は無限に遠く広がると思われるが、それは無限に深き無の場所において限定せられた一般概念の圏外に でない。一般概念というのは有の場所が無の場所に映れるものに過ぎない、有の場所と無の場所と触れ合う所に概念の世界が成立するのである。しかし単に有を超越し有がこれに於てあると考えられる否定的無はなお真の無ではない。真の無においては、かかる対立的無もこれに於てあるのである。限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである。すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現れるのである、種々なる作用の区別や推移が意志の立場において見られ得ると考えられるのはこの故である。
 
有が無に於てあるが故に、作用の根抵にはいつでも一般概念なるもの、述語的なるものが含まれている。しかしそれは単に対立的無に映されているのでなく、直に真の無に於てあるが故に、遊離せる抽象的概念ではなくして、内在的対象となる。内在的対象とは真の無の場所に固定せられた一般概念である。作用は必ず内在的対象を含まねばならぬと考えられるが、かえって内在的対象に於て作用があるのである、内在的対象として限定せられた場所によって作用が見られるのである。真の無の場所は有と無とが重り合った場所なるが故に、作用の対象は何処までも対立的でなければならぬ。対立的ならざる対象を含むと考えられるもの、例えば知覚の如きものは、厳密なる意味で作用ではない、なお一般概念を以て囲まれたる有の場所たるに過ぎない、いま だ場所が直に無に於てあるとはいわれない。唯判断作用の如きに至っては明にかかる対象の対立性が現れる。判断のすぐ後に意志がある、判断意識は有が直に無に於てあることによって現れるのである。アリストテレスの共通感覚を押し進めてカントの意識一般に至るには、有から無への転換がなければならぬ。無論、知覚といえどもそれが意識と考えられる以上、対立を含んでいるであろう。対立によって意識は成立するのである。意識の野において対象が重り合うと考えられるのも、実はこれによるのである。
 
有の場所が直に真の無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る、普通に意識の世界と考えられるものはかく の如き世界を意味している。しかし此の如き世界は、なお内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない。内在的対象と考えられるものは無を以て縁附けられた有の場所である、あるいは対立的無によって限定せられた真の無の場所である。真の無の場所はなおこれより深きものでなければならぬ、なおこれを越えて広がるものでなければならぬ、かかる場所もこれに於てあるものでなければならぬ。ここ において我々は初めて意志の世界を見るのである。知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語との合一に至って意識はその極限に到達する。しかしかかる合一を意識する時、かかる合一が於てある知識の場所がなければならぬ。有るものは何かに於てあるという時、同一なるものも於てある場所がなければならぬ。同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含むというのは此の如き場所に於てでなければならぬ。有と無と合一して転化となると考えられる時、転化を見るもの、転化が於てある場所がなければならぬ。然らざれば転化は転化したもの、即ち物としてそこに留まり、更に矛盾的発展をなすことはできぬ。矛盾の発展には矛盾の記憶という如きものがなければならぬ。単に論理的判断の立場から見れば、それは唯矛盾から矛盾に移り行くことであろう、その統一として単に自己自身において無限に矛盾を含むものを考えるほかはない。しかし く考えることはなお判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるものが主語となることではない、限定せられた場所として意識の野を見ているのである。ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むものではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならぬ、最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ、その底には何物もない、無限に広がる平面でなければならぬ、形なくして形あるものを映す空間の如きものでなければならぬ。
 
自己同一なるもの自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすらこれに於てある場所が私のいわゆる真の無の場所である。あるいは前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないというでもあろう。しかし前者は判断の主語の方向に押し詰めたものであり、後者はその述語の方向に押し詰めたものである。内在的ということが述語的ということであり、主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば、後者から出立せなければならぬ、後者が最も深いもの、最も根本的なるものといい得るであろう。従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない。判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるのほかはない、即ち包摂的一般者の方向に求めるのほかはない。形式によって質料を構成するといい、ロゴスの発展というも、これより意識するということを導き出すことはできぬ。我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ。いやしく も意識するものというものを考えた時、それは既に意識せられたもので意識するものではない。
 
アリストテレスは変ずるものはその根抵に一般的なるものがなければならぬといったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ、それが極微である限り純粋作用というものが見られるのであるが、唯全然無となった時、単に映す意識の鏡という如きものが、見られねばならぬ。一より一を いた真の零というものが考えられる限り、単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ。純なる作用の根抵をなすもの、 希臘 ギリシヤ 人のいわゆる純粋なる形相という如きものも、一層深き無の鏡においては、遊離されたる抽象的一般概念ともなるのである。我々は常に主客対立の立場から考えるから、一般概念は単に主観的と考えられるのであるが、抽象的一般概念を映す意識の鏡はいわゆる客観的対象を映すものをも包んでなおかつ深く大なるものでなければならぬ。而してそれは真に無なるが故に、我々に直接であり、内面的である。判断の述語的方向をその極致にまで押し進めて行くことによって、即ち述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ、これにおいて無限なる可能の世界、意味の世界も映されるのである。限定せられた有の場所が無の場所に接した時、主客合一と考えられ、更に一歩を進めれば純粋作用という如きものが成立する。判断作用の如きもその一であって、一々の内容が対立をなし、いわゆる対立的対象の世界が見られるのであるが、更にまたかかる立場をも越えた時、単に映された意味の世界が見られるのである。我々の自由意志はかかる場所から純なる作用を見たものである。この故に意志とは判断を裏返しにしたものである、述語を主語とした判断である。単に映す鏡の上に成り立つ意味はいずれも意志の主体となることができる、意志が自由と考えられる 所以 ゆえん である。意志において特殊なるものが主体となると考えられる、意志の主体となる特殊なるものとは無の鏡に映されたものでなければならぬ、限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊ではなく、かかる有の場所を破って現れる一種の散乱である。
 
以上述べた所は一般概念によって 囲繞 いじよう せられた有の場所を破って、単に映す鏡ともいうべき無の場所があり、意志はかかる場所から有の場所への関係において見られ得ることを述べたが、まだ単にこれに於てあるものに論及することができなかった。意志は真の無の場所において見られるのであるが、意志はなお無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定せられた有の場所が見られるかぎり、我々は意志を見るのである。真の無の場所においては意志 其者 そのもの も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなるとともに意志も映されたものとなるのである。動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影でなければならない。
 
この節の終の方において述べた所は説明の不十分なる所が多い、次の「左右田博士に答う」の終及び特に「知るもの」を参考せられんことを望む。

知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたるとともに、相互に関係を有し、その根抵にこれらを統一する何物かがなければならぬ。かかるものをつか むことによって、これらのものの相互の区別及び関係があきらか にせられるのである。意識作用としては、これらの外になお記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるであろうが、今は右の四つのものに止めて置く。知識の立場から見て最も直接にして内在的なるものは判断であろう、判断として最も根本的なるものは包摂判断である。包摂判断とは一般なるものの中に特殊なるものを包摂することである。包摂するというのは、特殊なるものを主語として、一般なるものをこれについて述語するということである。包摂するといえば、すぐ作用という如きものが考えられるのであるが、かかる概念を交えないで、概念の一般と特殊ということが、すぐに包摂的関係に於てあるということである。関係といえば、対立せる二つのものが考えられるのであるが、二つのものが対立的に考えられるには、二つのものが共同の一般者に於てなければならぬ。この意味において包摂的関係というものが関係としてもまた最も根本的といい得るであろう。判断作用というものから時間的意義を除去すれば、その根抵に残るものは唯かかる包摂的関係のみである。あるいは何らかの意味において時間的関係を入れることなくして、作用というものを考え得ないというでもあろう。しかし判断作用というのは、かかる包摂的関係を基として考え得るのである。かかる包摂的関係から直に変ずるとか、働くとかいうことの出て来ないのはいうまでもない。しかしかかる包摂的関係の時間上における完成として、判断作用というものが理解せられるのである。
 
特殊なるものを主語として、これについて一般なるものを述語するとは、如何なることを意味するか。我々は く考える時、いつも主観客観の対立を前提としている、主語となるものは客観界に属し、述語的なるものは主観界に属すると考えている。しかしかかる対立を考える前に、主語となるものと述語となるものとの直接の関係がなければならぬ、概念自身の独立なる体系がなければならぬ、判断の客観的妥当はこれによって立せられるのである。概念の体系は如何にして自己自身を維持するか。一般的なるものが基となって特殊なるものを包む、特殊なるものが一般的なるものに於てあると考えることもできれば、特殊なるものが基となって一般的なるものを つとも考えることができる。しかし概念自身の体系としてむしろ前者を取らねばならぬ。後者においてはもはや複雑なる関係が含まれている、既に主客両界の対立というものが考えられ、主語となるものが外に射影せられているということができる、然らざれば一が多を有することはできぬ。無論、一般的なるものが特殊なるものを含むと考えるにも、一般的なるものが自己自身を超越すると考えなければならぬであろう。しかしかく考えるのは、概念を考えられたものの如く見る故である、概念と意識とを離して考える故である。直接には一般特殊とは無限に重り合っている、斯く重り合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものは特殊なるものではなく、かえって一般的なるものである。全然述語的なるものの外にあるものは判断の主語となることはできない、非合理的なるものもそれが何らかの意味において一般概念化せられ得る限り、判断の主語となるのである。斯く考えれば、判断とは一般なるものの自己限定ということとなる、一般なるものはすべて具体的一般者でなければならぬ、厳密には抽象的一般なるものはない。無論私がここに判断というのはいわゆる判断作用の如きものをいうのではない、単にその根抵となるものを意味するのである。 希臘 ギリシヤ 人の如く形相を能動的と考えるのは、真に直接なる意識の場所においてのみ可能である。
 
右の如く特殊と一般との包摂的関係から出立し、何らの仮定なき直接の状態においては、一般は直に特殊を含み、一般より特殊への傾向において判断の基礎が置かれるとするならば、一般と特殊と包摂的関係から種々なる作用の形を考え得ると思う。我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊との間に 間隙 かんげき のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊との間隙がなくなる時、特殊は互に矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する。是において一般は単に特殊を包むのみならず、構成的意義を って来る。一般が自己自身に同一なるものとなる、一般と特殊とが合一し自己同一となるということは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、唯無限に相接近して行くのである、斯くしてその極限に達するのである。ここ において包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かく の如きものでなければならぬ。
 
無論、右の如き意味における純粋作用は未だ働くもの、動くものではない、唯述語的なるものが主語となって述語とならない基体となるということである、判断が内に超越することである内に主語を有つことである。主客合一を単なる一と考えるならば、包摂的判断関係は消滅し、更に述語が基体となるという如きことは無意義と考えられるであろう。しかし包摂的関係から押し進めて行けば、何処までもこの両者の対立がなくなるはずはない。直観というのは述語的なるものが主語となることである。私はすべて作用と考えられるものの根抵をここ に求めたいと思う。矛盾的対立の対象において初めて働くものが考えられるのである。意識が純粋作用と考えられるにも、意識の根抵にかかる直観がなければならぬ。普通には作用の時間的性質のみが注意せられ、単なる物理的作用と意識作用との区別が十分に注意せられていないが、意識作用においては時間的変化の背後に非時間的なものがなければならぬ。無論、物理的作用の根抵にも物とか力とかいう如く非時間的なるものが考えられねばならぬであろうが、両種の作用の異なる所は、意識作用においてはその根抵となるものが、判断の立場からいえば述語的なるものでなければならぬ。論理的進行と時間的変化とを直に同一視すべからざることはいうまでもない。しかし時間的変化という如きものの成立する前に、論理的なるものがなければならぬ。時の根抵に矛盾せるものに移り行くことの可能、矛盾せるものの統一が置かれねばならぬ。意識作用が純粋作用と考えられるのも我々の意識と考えられるものがかかる矛盾の統一の場所なるが故である。無論、数理の如きものにおいても、述語的なるものが主語となるといい得るであろう。数理の統一は矛盾的統一である、しかし数理が数理自身を意識するとはいわれない」論理的矛盾から意識作用は出て来ないといい得るであろう。しかし数理の根抵となる一般者はなお限定せられた一般者である、限定せられた場所である。唯、包摂的関係においての一般的方向、判断においての述語的方向を何処までも押し進めて行けば、私のいわゆる真の無の場所というものに到達せなければならない。無論、限定せられた一般を越えるという時、判断は判断自身を失わねばならぬであろう。しかし具体的一般者というものをその極限にまで押し進めて行けば、ここ に到達せざるを得ない。
 
アリストテレスは物理学第三篇において、無限定なるものがすべてを含むというパルメニデスの考に対して、無限定なるものは全体と類似するが故に く考えられるのであるが、無限定なるものは量の完成の質料として潜在的に全体であるが、顕現的に全体ではない、それは包むものではなく、包まれるものである、不可知的なもの、無限定なものが包むとか、限定するとかいうことはできないといっている。判断の対象としては、斯くいうのほかないであろう。しかし形相として限定せられたものが意識せられた時、それがエンテレケーヤであるとしても、なお於てある場所がなければならぬ、イデヤの場合はまたイデヤたることはできない。量の分割作用によって潜在と顕現と分たれるならば、かかる作用自身を見るものがなければならぬ。潜在として有に包まれた無は、真の無ではなく、真の無は有を包むものでなければならぬ、顕現ということは真の無に於てあるということである。主知主義の 希臘 ギリシヤ 人はプロチンの一者においてですら、真の無の意義に徹底することができなかった。
 
限定せられた一般者を越ゆるといえば、全然知識の立場において論ずることができないと考えられるであろう、しかしそれは知識成立に欠くべからざる約束である。単に一般と特殊との包摂的関係においても、既にこの両者を包むものがなければならぬ、真の一般者とはかかるものをいうのである、判断的知識の極致と考えられる矛盾的関係においては、あきらか にこれを見ることができるのである。矛盾的関係においては、少くも知るものと知られるものとが相接触していなければならない、主語の面と述語の面とが或範囲において合同していなければならない、この故にかかる知識はアプリオリと考えられるのである。矛盾的統一の知識の対象も、対象 其者 そのもの として矛盾を含んでいるのではない、むしろ厳密に統一せられたもの、 毫末 ごうまつ も異他性を れないものといい得るであろう、最勝義において客観的といわねばならぬ。矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間においていい得るのである。いわゆる主語面においては、是か非かの対立性を成すのである。矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他とを更に包含する一般者を見ることはできない。しかしかかる対象といえども、述語可能性を脱することはできぬ。然らざれば、判断の対象となることはできないのである。ここ において我々は単なる述語面、純なる主観性というものに 撞着 どうちやく せざるを得ない。始から主客の対立を仮定して何処までもこれを固執すればとにかく、然らざればいわゆる客観界を包んだ純なる主観界、体験の場所というものに達することができる。かかる場所において繋辞の有は存在の有と一致するのである。客観的対象の主観と考えられる意識一般も意識であるとすれば、意識せられた対象と異なったものとして考えられねばならぬ、而して判断の立場からいえばそれは対象が於てあるもの、述語的なるものといわざるを得ない、これによって判断意識が成立するのである。
 
判断の立場から意識を定義するならば、何処までも述語となって主語とならないものということができる。意識の範疇は述語性にあるのである。述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる、反省的範疇の根抵はここ にあるのである。従来のいわゆる範疇は一般者の求心的方向にのみ見られたものであるが、これを逆の方向即ち遠心的方向においても見ることができるのであろう。判断は主語と述語との関係から成る、いやしく も判断的知識として成立する以上、その背後に広がれる述語面がなければならぬ、何処までも主語は述語に於てなければならぬ、判断作用という如きものは第二次的に考えられるのである。いわゆる経験的知識といえども、それが判断的知識であるかぎり、その根抵に述語的一般者がなければならぬ。
 
すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴わねばならぬ、自覚が経験的判断の述語面となるのである。普通には我という如きものも物と同じく、種々なる性質を つ主語的統一と考えるが、我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ。我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである。それでは、数学的判断の根抵となる一般者と経験科学的判断の根抵となる一般者とは如何に異なるかというでもあろう。前者においては、上にいった如く特殊の面と一般の面とが単に合同するのであるが、後者においては、特殊を含む一般の面がこれを包んでなおあまり あるのである。元来判断においては、述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広いのである。主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場からいえば、それは単に抽象的一般概念と考えられるであろう。しかし我々の経験的知識の基礎はかく の如き述語的なるもの、いわば性質的なるものの客観性に置かれねばならぬ。性質的なるものが主語となって述語とならない意義を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのである。直覚の形式としての空間の如きものであっても、含むと含まれるとの関係に立つ前に、すべてが空間でなければならぬ、数学的知識の根抵に直観があると考えられる 所以 ゆえん である。直観というのは主語面が述語面の中に没入することにほかならない。斯く直観と考えられるものの背後においても消え失せない、対立なき対象をも含んでなお余ある述語面が我々の意識界と考えられるものである。私に意識せられるということはかかる述語面に於てあるということを意味する、思惟の対象もこれに於てあり、知覚の対象もこれに於てあるのである。思惟の意識と知覚の意識とは異なると考えられるが、かかる区別はその対象に即して考えられる故である、知覚する私はまた思惟する私でなければならぬ。意識を作用と考えることすら、既に対象との関係において考えられるのである、作用 其者 そのもの すら意識せられたものである。意識せられた作用としてすべての作用が同一の意識面に於てある、これによって思惟と感覚とが結合するのである。
 
意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面であって、斯く包み込まれた主語面が対立なき対象となり、その余地が意味の世界となる。この故に感覚的なるものすらいつも意味の 縁暈 かく を以て 囲繞 いじよう せられ、思惟的なるものの中心にはいつでも直覚的なるものがある。普通には始から主客を対立的に考え、知るということは主観が客観に働くことと考えるが故に、対立なき対象というものが主観の外に考えられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、いわゆる一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪廓であり、意味とはこれによって起されるその意識面の種々なる変化である、あたかも力の場の如きものである。意識においては意味が内在するのみならず、対象も内在するのである。志向的関係というのは意識外のものを志向するのではなく、意識面に於てあるものの力線である。我々は普通に自同律において表される直覚面を意識面から除去して、剰余面だけを意識面と考えている、私が前にいった如く有に対する対立的無の場所をのみ意識面と考えている。この故に直覚的なるものの背後には意識以外のものがあると考えられる。しかし直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれていなければならない。
 
一般と特殊との包摂的関係を何処までも押し進めて行って、自己自身に同一なるものの背後にも、なおこれを越えて広がれる述語面が真の意識面である、直覚も直にこれに於てあり、思惟も直にこれに於てある。対立的対象がこれに於てあるのみならず、無対立の対象もこれに於てあるのである。すべての主語面を越えてこれを内に包むが故に、すべての対象はこれに於て同様に直接でなければならぬ。種々なる対象の区別はこれに於てあるものの関係から生ずるのである。主語面を越えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越するといわねばならぬ。主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる、主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる、かく の如き述語面において意志の意識が成立するのである。判断の立場のみ固執する人には、かく の如き述語面を認めることはできないであろう。しかし意志は判断の対象となることはできぬが、我々が意志の自覚を有する以上、意志を映す意識がなければならぬ。判断自身すら判断の対象となることはできないが、我々は判断を意識する以上、判断以上の意識がなければならぬ、而して此の如き意識面はこれを述語的方向に求めるのほかはない。述語面が主語面を越えて深く広くなればなるほど、意志は自由となる。しかし何処までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義において述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである。判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する、かかる自己同一なるものの輪廓線を越ゆる時、それが意志となる。それで意志の中心には、いつでも自己同一なるものが含まれている。上にいった如く自己同一なるものの周囲は意味を以て囲繞せられている、対立なき対象の周囲は対立的対象を以て囲繞せられている。述語面が自己同一なるものを含んで更にそれ自身の領域を有する時、述語面は主語面に対して無なるが故に、それが深くなればなるほど、自己同一なるものの中に意味が含まれるようになる、無対立の対象の中に対立的対象が含まれるようになる、即ち自己同一なるものは意志の形を取って来るのである。
 
自己同一とは主語面と述語面とが単に一となることではない、何処までも両面が重り合っているのである。自己同一なるものがその背後に述語面に移された時、自己同一の主語面を囲繞していた意味は、述語面における自己同一の中に吸収せられるのである。述語面における自己同一が即ち我々の意志我の自己同一である。自己同一の外にあった意味が自己同一の中に含まれるが故に、意志においては特殊の中に一般を含むと考えられる。無論それはもはや特殊というべきものではなくして個体でなければならない、判断的意識の面からその背後における意志面における自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである。判断的意識面においては対象と意味とは区別せられるであろう、無対立の対象と対立的対象とも区別せられるであろう。しかし自己同一の極限を越えて単なる述語面に出た時、これらの区別は消滅して同等となると考えることができる。単なる意識我の立場においては、直覚的なるものも、思惟的なるものも同位的に意識せられると考えざるを得ない。作用の意識においては、感覚作用も思惟作用も同様に意識せられる。ここに随意的意識の世界が開かれるとともに意味と対象との直接なる結合も可能となるのである。
 
斯く一旦述語面に於て意味と対象とがふたつ ながら直接となった後、述語面に於て対立的対象と無対立的対象とは如何なる関係に於て立つか、述語面に於ての統一とは何を意味するか、述語面に移されたる自己同一とは如何なるものであろうか。単に知識的にいえば、既に主客合一であって、更にそれ以上のものを考えることはできないであろう。しかしいわゆる主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一というものがなければならぬ。前者は単なる同一であって、真の自己同一はかえって後者にあるのである。直観とは一つの場所の面がそれが於てある場所の面に合一することであるが、斯く二つの面が合一するということは単に主語面と述語面とが合一するということではなく、主語面が深く述語面の底に落ち込んで行くことである、述語面が何処までも自己自身の中に於て主語面を有することである、述語面自身が主語面となることである。述語面自身が主語面となるということは述語面が自己自身を無にすることである、単なる場所となることである。包摂的関係において、特殊が何処までも特殊となって行くということは一般が何処までも一般となって行くということでなければならぬ、一般の極致は一般が特殊化すべからざるものとなるのである、すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである。主語と述語との判断的関係からいえば、これを単に主客合一の直観というのである。これ故に無対立なる対象の意識は意識が意識自身を超越するのではなく、意識が深く意識自身の中に入るのである。これを超越するというのは、対象的関係のみを見て意識自身の本質を考えないからである。意識の本質を主語面を包んで広がる述語面に求めるならば、この方向に進むことが純な意識に到達することである。その極致において、述語面が無となるとともに対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身において働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられるのである。この故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くということができる。主語の方向において無限に達することのできない本体が見られる如く、述語の方向において無限に達することのできない意志が見られるのである。而してその極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる。
 
斯く述語をも超越するということは無論知識を超越するということでなければならぬ。しかし述語が主語を超越するということが意識するということであり、この方向に進むことが意識の深底に達することであるとすれば、知識の立場において我々に最も遠いと考えられるものが、意志の立場においては最も近いものとなる、対立的対象と無対立的対象との関係は逆となると考えることができる。「或者がある」「或者がない」という二つの対立的判断において、その主語となるものが全然無限定として無となれば、ヘーゲルの考えた如く有と無とが一となると考えることができる、而して我々はその綜合として転化を見る。かかる場合、我々は知的対象として主語的なるものを求むれば唯転化するものを見るのみであるが、その背後には肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面という如きものがなければならぬ。無限なる弁証法的発展を照らすものはかく の如き述語面でなければならない。
 
包摂的関係を何処までも述語の方向に押し進めて、その極限において意識面に到達する、主語面を越えてこれを内に包むものが意識面である。感覚的なるものといえども、それが知的対象として考えられるかぎり、その背後に一般的なるもの、即ち述語的なるものがなければならぬ。かかる述語的なるものが主語となる時、広い意味において働くものが考えられるのである、而してかかる意味において働くものは我々の意識に最も直接なるものといい得るのである。この故に一般概念の限定なくして働くものを考えることはできない、我々は判断の方向を逆にすることによって働くものを考え得るのである。我々の経験内容が種々に分類せられ、概念的に統一せられるに従って、種々なる作用が区別せられる、而して種々なる一般概念が更にその上にも一般概念的に統一せられるに従って、作用の統一というものが考えられる。かかる一般概念的統一の方向を何処までも押し進めて行けば、つい にすべての経験内容の統一的一般概念に到達するであろう、此の如きものが物理的性質でなければならぬ、共通感覚の内容ともいうべきものであろう。フッサールの知覚的直覚というのは此の如き意味において一般概念によって限定せられる直観に過ぎない。更にかかる限定を越えて述語的方向を押し進めれば、知覚的なるものを越えて思惟の場所に入る。この場合においても意識は知覚的なるものを離れるのではない、知覚的なるものは直観的なるものとしてこれに於てあるのである。唯その剰余面において単なる思惟の対象という如きものが見られるのである。いわゆる自覚的意識とは、此の如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接にこれに於てある場所である。自覚的意識面とはあたかも対立的無の場所に当るであろう、我々が普通に意識面と考えているものはこれである。
 
しかし我々はなお一層深く広く、有も無もこれに於てある真の無の場所というものを考えることができる、真の直観はいわゆる意識の場所を破ってただち にかかる場所に於てあるのである。対立的無の場所は限定せられた場所として、なお主語的意味を脱することができないから、すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越えたものでなければならぬ。いわゆる感覚的なるものも直観的なるものとして、その根抵はいわゆる意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならぬ。場所が無となるに従って対立的対象は無対立的対象の中に吸収せられて、対象は意味に ちたものとなる。かく の如き直ちに直観の場所即ち真の無の場所に於てあるものがいわゆる意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、それが無限に働くものとなる。而して直観の場所はいわゆる意識の場所よりも一層深く広い意識の場所であり、意識の極致であるから、内に超越的なるものを見ると考えられるのである。しかし逆に直観の場所からこれを見れば、これに於てあるものが対立的無の場所へ投げた自己の影像に過ぎない。此の如く直観の場所から見た時、働くものとはこれに於てあるものの自己限定として意志作用である。而して直観的なるものの於てある場所、直観の述語面に於てあるものを知識面から見れば無より有を生ずる無限の作用と見られ、無もこれに於てある直観面から見ればそれが意志である。直観面は知識面を越えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのである。
 
判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変ずるものは相反するものに移り行く。変ずるものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられていなければならない。かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ。唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊なるものの場所となった時、働くものが見られるのである。対象面が意識面に附着するということは対象が判断するものとなり、意識が変ずるものとなることである。しかし対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば、働くものもなく、判断するものもない。かかるものが見られ得るかぎり、述語面が主語面を包むものでなければならぬ、而して判断意識の性質よりして何処までも く考うべきである。変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何かがあり、これによって述語となるものが限定せられるとともに、その物はまたすべてについて述語となることを意味する。主語的にいえばそれは個体というべきものであり、述語的にいえばそれは最後の種というべきものであろう。述語が主語を包むという考からいえば、主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、述語面からいえば、述語面が自己自身を限定することであり、即判断することである。
 
これ故に述語面が限定せられるかぎり働くものが考えられる、判断の矛盾を意識する述語面においてのみ、真に働くものが考えられるのである、矛盾的統一の述語面においてはじめて述語面が独立となるのである。単に限定せられた述語面は判断の根抵とはなるが、働くものとなることはできない。働くというのは主語面が述語面に近づくと考えられる如く、また述語面が主語面に近づくことである、述語面が主語面を包んで余地あるかぎり働くものとなる。働くとは主語面を包んで余ある述語面が自己の中に主語面を限定することである、包摂的関係を述語面から見ることである。この故に一つの包摂的関係はその主語面を包んで余ある述語面からは意志であり、その主語面に合する範囲においては判断であり、述語面の中に含まれた主語面においては働くものとなるのである。しかし述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となることであり、意志が意志自身を滅することであり、すべてこれに於てあるものが直観となることである。述語面が無限大となるとともに場所 其者 そのもの が真の無となり、これに於てあるものは単に自己自身を直観するものとなる。一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。
 
以上論じた所は多くの繰り返しの後、遂に十分思う所を言い表すことのできなかったのを遺憾とする、特になお直観の問題には入ることができなかった。唯、私は知るということを従来の如く知るものと、知られるものの対立から出立する代りに、一層深く判断の包摂的関係から出立して見たいと思うのである。