ART

芸術と自然

オーギュスト・ロダン

高村光太郎訳

Published in 1900 - 1908|Archived in December 1st, 2023

Image: Auguste Rodin, "Andromeda", 1886.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

表現・改行は原文のままだが、適時小見出しを付した。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:オーギュスト・ロダン(1840 - 1917)訳者:高村光太郎
題名:芸術と自然
初出:1900 - 1908年翻訳初出:1916年(阿蘭陀書房)
出典:『ロダンの言葉抄』(岩波書店。1960年。115-123ページ)

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芸術は自然の研究

自然を批評するのは本寺を批評するほどばかげている。批評するのはわれわれの冷たいけちな時代の悪い癖だ。堕落した人種の禍だ。われわれは進歩の時代、文明の時代に生きていると絶えず聞かされる。科学と機械学との見地から見たら本当かもしれない。芸術から見るとまるで嘘だ。
 

科学は幸福を与えるか。私はそんな気がしない。そして機械学と来ては、それこそ一般の叡智を低くさせる。機械学は機械の仕事をもって人間精神の仕事に代える。これは芸術の死だ。屋内生活の喜び、われわれが工芸美術と称するものーー家具製作家、絨氈織り、金工家たちの芸術ーーの美質を破壊したのはこれである。均一主義で世界を圧倒するのだ。かつては職工が創作した。今日彼らは製造する。かつては彼らは美術品を作る嬉しさに喜び勇んだ。今日職工は仕事場で仕事の厭さに「サボタージュ」を考え出したり酒飲む事をはやらせたりする。
 

近代の建築を見ると憂愁に投ぜられる。しかるに昔のものは未だ人の心を奪う。ある小さな町を訪れて汽車に乗りそこなって、次のを待たなければならなくなる。私は昔の寺院のあたりへ散歩する。気持よい寺院で、きわめて単純ではあるが、趣味をもって置かれたそのゴティック装飾は、美妙な凸凹を示して、光りの中に、私の好意ある眼に不思議な悦びを与える。平穏と思索とーー柱をかすめて静かに動く明るい影のように軟らかくて落ち付いた思索とーーに誘い込むところのその小さな外陣の中に立ち尽す。ああ私はすっかり魅せられて立ち去るのである。もし停車場で待っていたら、死ぬほど飽きあきした事だろうし、またくたびれて不満で家へ帰った事だろう。ところが事実、私は何かを得たーー立派な調節の智慧と往昔の建築の美しい魅力とを。
 

芸術のみ幸福を与える。そして私が芸術と呼ぶのは自然の研究である。解剖の精神を通しての自然との不断の親交である。
 
見る事と感ずる事とを知る者は到るところにいつでも讃嘆すべきものを見出だすだろう。見る事と感ずる事とを知る者は 倦怠 アンニュイ というあの近代社会の「 黒獣 ベートノワール 」に襲われない。深く見かつ感ずる者は自分の感情を表現する慾望、芸術家たる慾望を決して失わない。自然はいっさいの美の源ではないか。自然は唯一の創造者ではないか。自然に近よる事によってのみ芸術家は自然が彼に黙示したいっさいのものをわれわれにもたらし得るのである。
 
この事を言うと、公衆はこれを平凡な文句と言う。世人は皆その事を知っていると信じている。だが世人はただ見かけだけで知っているので、真実が世人の叡智のうわつらの殻だけを透しているのだ。真の会得には実にたくさんの程度がある! 会得は神聖なはしご のようなものだ。頂上の段にゆき着いた者のみ世界を見渡す。公衆はある者がその先入見と反対に行き、悪解されもしくは堕落した伝統の偏見と反対に行く時びっくりしたり神経をいらだたせたりする。文句は何にもならない。する事だけが役に立つ。芸術家が美を発見しまた表現するのは審美学の小冊を読む事によってではない。自然そのものにたよる事によってだ。
 
ああ! われわれは見る事感ずる事に用意されていない。われわれのあわれな教育は、われわれに 感激 アンツージャスム に対する感情を培うどころか、われわれの青年時代にわれわれを小さな 似非而 えせ 学者にしてしまう。自分たち自身を何にもならず押しつぶし他の人たちを虚飾で圧倒する衒学者にしてしまう。この恐ろしい馬鹿な事から、長い努力で、とんだ時分に抜け出る者たちは、やっと到着する頃もうその教育が彼らの力を根こそげ吸い尽して神がその楽園の表象として彼らの中に植えつけて置いた感激の花をめちゃめちゃにしてしまっている。感激のない人々は彼らの旗を彼らの頭の上に高々と挙げるかわりに地面に向けてぶらさげている人間のようだ。
 
絶えず私は聞く。「何という醜悪な時代だ。あの女はつまらない。あの犬はぶざまだ」と。醜悪なのは時代でも女でも犬でもない。諸君の眼だ。眼がわからないのだ。人は一般に自分の会得以上のものを悪く言う。悪口は無知の子供である。その事を発見するや否や、諸君は喜びの圏内に入る。

虚空は最大の風景

人間、動物、最小の虫けらに至るまで、無限小のものに至るまで、大地、水、森、空ーーいっさいがすばらしい。虚空は最大の風景である。最も深く、最も魅力あり、その変化、その色と光との効果は、眼を喜ばせ、精神をゆすぶり、心を征服する。それに芸術家たちがーー芸術家だと自分で思っている人たちがーーそれを研究せず、それを判読せず、それを感じもせずに、ただ簡単に見えるだけのものとしていっさいを再現しようと企てるとは何事だ。私は彼らを憐れむ。彼らは馬鹿げた事の囚人、奴隷である。
 

私も邪道に陥っていた若い頃の初期には彼らのようであった。が私は自分を救った。私は本当の研究のすじ道によって自分の愛する事物に近寄る自由を取り返した。私と道を同じくする人があるか。書物の中の彫刻や図案の研究からこれを学び得る人があるか。諸君はあの樹の立派さを見た。宏大な柱幹が秋のために葉の繁った頭を裸かにせられ、しかもその肢体の裸かになったのでおそらくは一層美しいあの巨漢を見た。諸君はその枝や小枝の構造を嘆賞した。空へ無限の形態を描刻して、まるであの寺院の窓のレース細工(訳者ーーゴティック寺院の窓の細かい骨の事。)のようなのを嘆賞した。もし諸君がこの樹を単に一塊まりのものとしてせずに、その骨格の無数の細部にわたってスケッチしたら、諸君はあの美を遙かに一層よく会得しはしないか。諸君の喜が遙かに一層完全でありはせぬか。しかるに学校で画家や彫刻家の学生に 主題 サブジェクト を探す事をすすめているとは何事だ! 主題! 主題などというものはあのーー-諸君が、誰も彼も、同じ逸話、同じ型にはまった姿勢をつつき廻してやっとこしらえ上げる哀れなけちな構図の中には存在しない。人間の想像は狭い。そして諸君は諸君の眼の前に積みかさなっている千万の芸術の 画因 モチーヴ を見ない。私は自分の全生涯を庭の中で過してもそこを歩き廻れば画因に尽きまい。

研究と創造の一致

主題は到るところにある。自然のあらわれはことごとく主題である。芸術家よ。ここに立て! これらの花をスケッチしたまえ。文学者よ。それを私に書き示せ。いつでもやっているような、一塊まりとしてでなく、その機官の驚くべき綿密さを、動物や人間のと同様に変化多いその特性をである。同時に芸術家であり植物学者である事、研究すると同時に画きまた塑造する事の美しさよ! あの偉大な写実家、日本人は、これが解っている。そして植物の知識と栽培とを彼らの教育の基礎の一つとしている。
 
われわれは愛と肉慾的快楽とを同じ部類に入れている。疑いもなくこれは自然そのものがわれわれの存続本能によってこの点われわれを迷わしているのだ。若い時この本能は満ち溢れる河のようだ。何もかも押し流してしまう。けれども快楽はわれわれの身辺到るところにある。私はそれを天空に宏大な建築を建てるあの雲の形から取る。自分の子供を自分の腕に抱くこの女の夢中な喜びから取る。神々しい姿。実にあまり美しいので、福音書の詩人はこれを神格に入れた。これが聖母の姿だ。私はそれを今も私を浸し、またいつまでも私をめぐって、平和、休息、及び健康を持って来てくれるこの雰囲気から取る。

対称の法則

なぜといえば風景において美なるゆえんのものが建築において美なるゆえんのものーー即ち空気、空間であるからである。現今その深みを 実感 リアライズ している者がない。精神をその行こうと思うところへ行かしめるのはこの深みの特質である。よく組み立てられた建築においてわれわれの心を奪うものはその深みの術法である。寺院の中の群集は彼らの感情を神秘主義に帰し、神に向う精神の狂喜に起因するとしている。彼らは彼らの感情の由って来るところが昔の建築家の持っていた大きなプラン の精確な知識にあるのだという事に気づかない。最も無知な観覧者にさえもこの面はこの事を否応なしに感ぜしめる。人はすでに所有するものを無視して、何か別のものを欲しがる。彼は敏速を欲する。鳥のように翼ある事を欲する。彼はすでに空間を飛び廻るこの快楽を享有しているのを知らない。人間はその魂においてこれをたのしんでいるのだ。魂に翼が生えて行きたいところへどこへでも行く。天空へも、海上へも、森林の奥深くへも。いっさいのここ下界の不幸は会得のない事から起る。われわれは自分たちの限りある知識を、狭い系統に分類する。まるで事務所のカード式だ。そしてこのあわれな仕来りをわれわれは後生大事にする。われわれに連絡のない事物を教える。そしてそれをわれわれは連絡のないままにして置く。少し辛抱強い者たちがこのばらばらな事実を一つに集める。しかしそういう辛抱強い者は稀有だ。そして何がたまらないといって、自分が持っていないところから、真実の識性を持っている者の事を悪く言う人間ほど厭な者はない。正確に見る事はよい図案の秘訣である。物が互いに飛びつき、結合し、光を投げ合い、わけが解り合う。それが生命である。驚くばかりの美がいっさいのものを衣服のように、甲のように包んでいる。
 
神は対称釣合いの大法則を作った。善と悪とは兄弟である。がわれわれは自分たちを喜ばすところの善を欲して、われわれに誤りと思われるところの悪を欲しある距離をて事物を考える時、悪が折々善と見え、善が悪と見える事はないか。それはただしかるべき考察をもって判断しなかったからに過ぎない。ちょうど素描に白と黒とが必要なように、善と悪とは人生に必要である。悲みは棄て去るべきでない。生きている限りそれは輝き渡る喜びと同じほど力強い生活の一部である。それがなければわれわれはきわめて無訓練なものとなるだろう。
 
自然を会得するに肝要なのはわれわれが決して自分たちを自然の代用としない事である。人が自分自身に加える匡正は大きな間違いだ。虎は爪と牙とを持っていてそれを巧みに使う。人間は時として下等に見える。叡智を持っているので、彼はそれに頼ろうと努力するのがつねだ。動物は物を一々尊敬して何物にも触れない。犬はその主人を愛して、彼を批評しようなどと思わない。通常の人間は自分の娘の美しくある事に無頓着だ。彼は自分の頭の中にある態度としつ けとの考えを持っていて、自分の娘の美しさなどは作ったプログラムの中にない。しかし娘自身は自然からの影響を感じる。そして彼女のつつましやかでしかも勝ち誇った動作をする。これはこの盲目の人には見えない。けれども芸術家をば強く引く。
 
自分の理想について語る芸術家はこの通常人のやっていると同じ間違いをやっているのだ。彼の理想とは虚偽である。この理想の名で彼はそのモデルを訂正したつもりでいる。讃嘆すべく組み合わされた法則が調節している深い有機体に手をつける。彼のいわゆる匡正で彼は全体をめちゃめちゃにする。彼は芸術品を作る代りにモザイクを組み立てる。モデルの間違いなどはありはしない。それは単に自然が提供したものの場所へわれわれが何かある物を提供するに過ぎない。われわれが間違いと呼ぶところのものを正すとして、われわれは釣合いを破る。訂正した部分はいつでも全部の調和に必要なものなのである。ここに何の詭弁もない。全能なる法則が対称の調和をちゃんと持っているからである。これが生命の法則だ。何もかも、それ故、よい。しかしわれわれがこれを発見するのはわれわれの思想が力を得るに至った時の事である。即ち、思想が自然と離れられないほど結びつくに至った時の事である。そうなればそれは一つの大きな全体の部分、統一された複雑な力の一部となるからである。さもない時にはそれは哀れなものだ。無数の単位から成り立っている一全体と競争する下落した、切り放された部分に過ぎない。

自然の大製作

自然は、それ故、是非とも従わねばならない唯一の案内者である。彼女はわれわれに印象の真を与える。なぜといえば彼女はわれわれにその形の真を与え、そしてもしわれわれがこれを誠実に写せば、彼女はこれらの形を統一しまたそれを表現する方法を指示してくれるからである。
 
誠実、良心ーーこれらは芸術家の仕事における思想の真の土台である。が芸術家は表現のある巧みさを得るに至ると、熟練をもって良心に代えようとする習慣であるのが普通だ。熟練の君臨は芸術の破産である。それは組織立てられた虚偽である。誠実は一つの過ち、むしろたくさんの過ちを持っていても、なおその純真さを保留している。過ちを持っていないと信じている巧みさは過ちだらけだ。原始人は遠近法を知らないけれども、それにもかかわらず偉大な芸術品を創造したのは彼らがそれに絶対の誠実を注いでいたからである。このペルシアの 細画 ミニャチュア を見よ。見た通りに一生懸命に描きあらわしたこの草木や動物の形や、またこれらの人物の姿勢に対するこの彩色家の讃嘆すべき敬虔の心。何と熱心にこれを画いた事だろう。それを愛しきったこの男は! 諸君は彼が遠近法を知らなかったから彼の製作は悪いと言うか。それから偉大なフランス初期の作家及びロマン式の建築家と彫刻家! 彼らの様風は野蛮な様風だと繰り返し言われていたではないか。あべこべに、それは恐るべき美を持っている。自然自身の大製作に印象されたものの神聖な畏敬を息づいている。これらの人々が生命の要素となりまたその神秘の一部分となるを得た事の最も有力な証拠をわれわれに提供しているのだ。
 
生命を表現するにはそれを表現しようと欲する事が必要だ。彫刻芸術は良心と、精確と、及び意志とで成立する。もし私に何でもかでもやり遂げようという心がなかったら、私は自分の仕事を製作していなかった事だろう。もし私が探求する事を止めていたら、自然の書物は私にとって死んだ文字であっただろう。少くとも私にその意味を解らせなかっただろう。今こそ、反対に、それは絶えず新らしい書物である。そして私は自分がほんのある頁をどうかこうか読んだに過ぎない事をよく承知して、それに向って行く。芸術においては会得したものだけを認めていると無能に到達する。自然はいつでも知られぬ力に満ちている。
 
私の事を言えば、私は確かに自分の時代の過ちである年月を損した。私はこんなのろさと廻り路とで掴んだよりもっとたくさん学び得たに違いなかったのだ。けれども私はあの損失の最高の形、即ち仕事を通して、幸福を味う事少いのではなかったに違いない。そして時が来たら、私は自然の中に永住して何にも悔みはすまい。

訳注

(※)「 黒獣 ベートノワール 」ーーBête noire フランス語では、将来なにをするかわからない未知数の不敵な存在を言うに使われる慣用句。