HUMANITIES

言葉・無意識・性

ジグムント・フロイト

丸井淸泰訳

Published in 1917|Archived in December 1st, 2023

Image: Angelika Hoerle, "Head with Sign, Hand, Wheel, and Auto Horn", 1922.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

全体を3部に分け、旧字は現代的な表記に改め、一部の漢字は開いた。
出典元にあった誤植その他は適時対応した(一部はARCHIVE編集部による注を付した。)。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ジグムント・フロイト(1856 - 1939)訳者:丸井淸泰
題名:言葉・無意識・性原題:「序 第一部 失錯行為 第一講 序論」
初出:1917年翻訳初出:1952年(日本教文社)
出典:『フロイド選集 第1巻 精神分析入門〈上〉』(日本教文社。1952年。3-16ページ)

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Ⅰ|精神分析:言葉の医学

皆さん! あなた方のお一人お一人が本を読み、人づてに聞いて、精神分析のことをどれほど御存知であるのか私は知りません。ですが、広告(講演会開催の広告)に『精神分析の初歩的入門』という題を出しておいたのですから、私はあなた方を、精神分析については何も御存知のない、最初の手引を必要とする方々として取扱う義務があるわけであります。
 

むろん私は、あなた方が精神分析とは神経症患者を医学的に治療する一方法であることを知っておられるということまでは前提しておいてよろしい。そこで私は今すぐに、この領域においては通例医学で行われているのとは違った、しばしばむしろ逆になっていることが少くないという例を、お目にかけてもかまわないはずであります。我々は普通は患者に、その患者にとって新しい医療法を施す際には、その療法の煩わしさをなるべく感ぜしめないように患者に治療の効果を確実に約束してやるでありましょう。我々にはそうする理由があると私は考えます。そういう態度によって我々は効果の確率を高めるのでありますから。しかし、神経症患者に精神分析の治療を受けさせる場合には、我々はそれとは違ったやり方をいたします。我々は患者に対し、方法にむつかしいところが多々あること、それには時間がかかること、いろいろ努力や犠牲が要ることを言って聞かせ、かつその効果に関しては確かな約束をすることができず、それは一にかかって患者の態度、患者の理解、患者の順、患者の根気に依ると申すのであります。むろん我々には、一見はなはだつむじ曲りな態度をとる十分の動機があるのでして、あなた方は恐らく後でいつか成る程と思われることでありましょう。

 

ところで、私があなた方を、さしあたりこれらの神経症患者なみに取扱いましても、どうか気を悪くしないようにして下さい。もともと私は、あなた方が二度も私の講義を聴きに来ることはお止めになるよう忠告いたす者なのであります。そのつもりで私は、精神分析の教授にはいかなる不備が必然につきまとっているか、そしてある独自の判断を獲得するにはいかなる困難が前に立ちはだかっているかを、御覧に入れるでありましょう。私は、あなた方が今までに受けて来られた教育の方向全体とあなた方の思考のあらゆる習慣とが、どうしてあなた方を精神分析の反対者にしてしまわねばならぬことになるのか、そしてこの本能的な敵対心を制圧するためにはあなた方はどれほど多くの克服すべきものを内心にもっておられるか、ということを示すでありましょう。あなた方が私のお伝えすることから得られるであろう限りの精神分析に対する御理解のことは、もちろん前もって申し上げることはできませんが、しかし、これだけのことはお約束できます。それは、私のお伝えするところをお聞きになっても、精神分析による診察を行ったり、精神分析にもとずく治療を施したりするすべ を習得なされはしないだろうということであります。ところがあなた方のうちに、精神分析のことにざっと通じただけではもの足らず、引続き精神分析と関係をもって行きたいという方がお有りになるとすれば、私はそれはお止めになるがよいと申し上げるばかりでなく、直接その方に警告を発するでありましょう。日下の現状がそうでありますように、そんな職業を選んだところで、大学教授として成功する可能性をことごとく自ら破壊するだけですし、開業医として世に出ましても、その努力を理解せず、不信と敵意の目をもって眺め、今にも飛びかかってやろうと待ち構えているすべての悪霊を解き放ちます。ほかでもない今日ヨーロッパに荒れ狂っている戦争(第一次の欧州大戦)の附隨現象を御覧になれば、たとえそれがいかに多数ではありましょうとも、恐らくおよその見当はおつけになれるでしょう。

 

こういう不愉快なことはありましても、一箇の新しい認識となり得るものに関心を寄せる人たちだとて絶えず結構いるものであります。万一あなた方のうちにそういう方々が若干おられ、私の諌止を無観して次回にまたここへお見えになりますれば、それは大歓迎であります。皆さんにはしかし、さっきちょっと申し上げた精神分析の困難が、どんなものだか知らせよと要求する権利がお有りになるのであります。

 

まず第一、精神分析における指導や教授の困難であります。あなた方は医学の授業で、解剖用の標本や、化学反応の際の沈殿や、神経刺激の結果としての筋肉の攣縮を見慣れてこられました。あとでは、患者、病気の症候、疾病過程の 諸産物 プロドウクテ を、それどころか、多くの症例においては分離した病原菌をさえ直接見せられます。外科では、患者を救うための手術を目撃されますし、自分で手術をやってみることも許されます。精神医学においてすら患者の供覧が行われ、表情の変化・話しぶり及び態度について豊富な観察が得られるのでして、それらの観察はあなた方に深い印象を残します。そういうわけで医学の教師は、おおむね、博物館見物にしたがいて来てくれる案内人や説明者のごとき役目をするのですが、あなた方は対象との直接の関係をもたれ、自己の知を通して新しい諸事実の存在を確かめたと思われるのであります。

 

残念ながら、精神分析では万事が違っています。分析治療では、ただ被分析者と医師との間に言葉が取り交わされるだけであります。患者は話をする、過去の経験と現在の印象とを語ってなげき、自分の願望と感情の興奮とを告白する。医師はそれに耳を傾け、患者の思考の歩みを指導することを努め、思い出させ、その注意をある種の方向に向かわしめ、真相を解き明かして、患者の心に起こる了解または拒否の反応を観察するのです。私どもの患者の中で無教養な連中は、ただ目に見えるはっきりしたものばかりを、むしろ映画で見るような筋の進行を、重大に思うのですが、そういう連中はまた必ず、どうして「単に話をするだけで病気を治すことができるのか」という疑念を表わします。この考えは筋が通らないのと全く同様に浅見であります。何となれば、患者たちは自分に病気の徴候があると「単に思い込んでいる」に過ぎないものだということを、確かに承知しているのがそういう連中なのですから。言葉は元来魔術でありました、そして今日なお昔の魔力を多分に保持しております。言葉によって人は他を有頂天にさせたり、絶望に駆り立てたりすることができます。言葉によって先生は知識を生徒に伝え、言葉によって演説家は、満堂の聽衆を魅了して彼らの判断と決意とを規定します。言葉は感動を喚び起こし、人間相互の間に感化を及ぼし合う共通の手段であります。それ故に我々は、精神療法に言葉を利用することを軽視しないでありましょうし、もそ我々が分析者とその患者との間に取り交わされる言葉の傍聴者となることができれば満足でありましょう。

 

ただし、傍観者たることはできません。精神分析による治療の根幹である対話に傍聴者は禁物でありまして、実地教授はできないのです。無論、精神医学の講義で、神経衰弱患者やヒステリー患者を聴講者の前に立てることも往々あることであります。その場合、患者は自分の苦情や症候は話しますが、しかし同時にまたそれ以外のことは何ひとつ話しません。分析が必要とする報告を患者がしてくれますのは、医者との間に感情の結びつきがある場合だけでありまして、一人でも自分に無関係な人が立ち合っていると気づけばたちまち患者は口をつぐんでしまうでしょう。と言いますのは、そういった報告は、患者の心生活の最も奥深いにあるもの、すなわち自分が社会的に一人前の人間として他人の前には匿さなくてはならぬすべてのもの、更に進んでは、統一ある人格として自分自身に対してすら白状したくないすべてのものに、関係することだからなのです。

 

ですから、あなた方は精神分析による治療に立ち合うことができず、治療のことは人に聞いてみるより致し方はないので、言葉の最も厳密な意味での精神分析のことは人づてに聞いて習得するのほかないのです。かかる手引によりまして、あなた方はいわば間接に、判断を構成するための全く尋常でない条件に立たれるわけであります。明らかに大部分は、あなた方が保証人にどれほど信用をお置きになれるかということ次第によるのであります。

Ⅱ|心身障害の共通基盤

まあひとつ、こう仮定してみて下さい。自分たちは精神医学の講義をではなく歴史の講義を聴きに来ている、そして講演者は、アレクサンダー大帝の生涯と軍功との話をしていると仮定して下さい。あなた方はどんな動機があって、講演者の報告が真実だとお信じになるのでしょうか。さしあたり事情は、精神分析の場合よりも更に不都合であるように見えます。と言いますのは、その歴史の教授はあなた方と同じくアレクサンダーの遠征に加わった人ではありませんが、精神分析家は少くとも、自分が一役演じて来た事柄についてあなた方に報告するのですから。しかし、次には、歴史家に認証を与えるものは何かという問題が順番であります。歴史家はあなた方に、その人自身同時代の人であったか、それとも問題の事件の、ともかく近くに立っていたかする昔の著作者たちの報告を、つまりディオドールやプルータルクやアルリアンらの書物を御覧なさいと言うことができますし、保存されている王の貨幣や彫像の複製をあなた方の前に置き、イッソスの戦いの、ポンペイにあるモザイクの写真を順ぐりに回して見せることができます。しかし、やかましく言いますと、これらのドキュメントはすべて、以前の世代がすでにアレクサンダーの実在とその軍功の事実とを信じて来たということを証明するに過ぎないのであって、あなた方の批判はここにあらためて起こってよろしいわけであります。そうすると、アレクサンダーに関する報告が必ずしもすべて信ずべきものとは限らぬとか、細かな点は確かめてみなければならぬとかとお感じになるでしょうが、しかしそれにもかかわらず私には、あなた方がアレクサンダー大帝の実在を疑ってこの講堂を去られるだろうとは思われません。あなた方の決定は、主として次の二つのことをとくと吟味することによって下されるでありましょう。第一は、講演者は自分でそうとは思わぬことを、あなた方の前に事実だと言いふらす、考え得べきいかなる動機も持っていないということであり、第二は、手に入れ得る限りすべての歴史書が、それらの事件をほぼ同じように敘述しているということであります。そしてそれから、一段と古い典拠の吟味に立ち入りますと、あなた方は同一の要点を、すなわち保証人たちに起こる可能性のあるいろんな動機と数々の証言相互の一致とを、顧慮せられるでありましょう。吟味の結果は、アレクサンダーの場合は大丈夫安心できるものでありましょうが、モーゼやニムロデのような人物ですと、恐らくは違った結果になるでしょう。しかしあなた方は、どんな疑惑を精神分析の報告者の信憑性に対して起こし得られるか、後に、十分明瞭に認識なさる折が幾度かあると思います。
 

ところで、あなた方には次のように問う権利がお有りでありましよう。すなわち、精神分析には客観的確証がなく、それを実地に教授する可能性がないとすれば、いったいどうして精神分析を習得することができ、精神分析の主張の真であることを納得し得るのか、という問いであります。それを習得することは事実容易ではありません。だからまた、多くの人が精神分析を正式に学ばなかったのでありますが、しかしそれにも拘らず、むろん通れる道はあるのです。精神分析はさしずめ自己の身体について、自己自身を研究することによって習得せられます。自己観察と呼ばれるものが全部なのではありませんが、仮りに自己観察と言っておいて差し支えありません。非常に頻繁に起こる周知の心的現象で、多少技法の指導を受ければ、自分自身について分析の対象にすることのできるものが沢山あります。その際、精神分析の記述する諸経過が実在するものであり、精神分析の把握の仕方が正しいものであることを、所期のごとく確信することができるのです。勿論この方法では、その進歩に一定の限界はありますが、もし老練な分析家に自分自身を分析してもらい、己れの自我に及ぼす分析の効果を体験すると共に、他人に手続き上の繊細な技法が施されるのを盗み聞きする機会を利用しませば、ずっとよくことは進捗いたします。このすぐれた方法は、当然いつもただ個々の人のみの通じ得るところでありまして、決して聴講者全部の同時に通じ得るものではありません。

 

あなた方と精神分析との関係についての第二の困難に対しましては、私はもはや精神分析にその責を負わせることはできません。皆さん、私はあなた方御自身にそれを負わせなくてはならないのです、少くともあなた方が今まで医学の勉強をして来られたという限りにおいて。あなた方の今までの素養はあなた方の思考活動に、精神分析から遙か遠のく(ARCHIVE編集部注:遠くの)ある特定の方向を与えたというべきであります。あなた方は有機体の諸機能とその障害を解剖学的に基礎づけ、化学的及び物理学的に説明し、生物学的に理解する、というの訓練を受けて来られたのでありますが、あなた方の心は、この驚くべく複雑な有機体の営みの絶頂である心の生活には少しも向けられなかったのであります。従って、あなた方には心理学的な考え方は疎遠になっているのでして、あなた方はかような考え方を不信の眼で眺め、それに科学性を否認し、それを 素人 しろうと ・詩人・自然哲学者及び神秘家に任せる習慣を養って来られました。この制限は、確かにあなた方の医師活動にとって損害であります。何となれば、病人はあなた方に、それがあらゆる人間関係において常例でありますように、まず心の間口をひろげて見せるのですから。あなた方は罰として、自ら得ようと努めておられる治療上の熱望を一部分やむなく、御自分の軽蔑なさる素人医者・自然療法家及び神秘家の手に委ねることになりはしないかと、私は心配いたします。

 

あなた方の受けて来られた教育のこの欠陥に対してどんな弁明が承認されねばならないかを、私は見損ないはいたしません。欠けているのは、あなた方の医療上の目的に役立て得るような哲学的補助学です。思弁哲学も、学校で教えらるるがごとき叙述心理学ーーないしは感官生理学に結びつくいわゆる実験心理学ーーも、身体的なものと心的なものとの間の関係に関して役立つようなことは教えてくれませんし、心的機能の起こり得べき障害を理解する鍵を渡してもくれません。医学の内部において、なるほど精神医学は観察された精神障害を記述し、これを総括して臨床的症候像にまとめることをやってはいますが、十分時がたてば精神医学者自身が、自分らの純叙述的に作成して提出するものが科学の名に値するかどうかを疑問に思うようになるのです。これらの症候像を構成する諸症候も、その起源・メカニズム及びその相互関係は分かってはいません。それらの症候には、心の解剖学的機官の、それと指摘できる変化が対応しているわけでもなければ、そういう変化からそれらの症候を説明することもできないのです。これらの精神障害は、それがある他の有機的疾患の副次的結果と認められ得る際においてのみ、治療の効果が現われやすいというだけの話であります。

 

ここに、精神分析が補填せんと努めてまいりました穴があります。精神分析は精神医学に、見失われていた心理学的基礎を与えんとするものであり、身体的障害と精神的障害との併発を理解し得る共通の地盤をあらわ にして見せようとするのです。この目的のために精神分析は、解剖学・化学あるいは生理の、精神分析には縁遠いあらゆる前提から離れ、徹頭徹尾、純粹心理学的な補助概念を用いて仕事をせねばなりませんので、私は心配するのですが、精神分析はあなた方にはさしあたり 奇異 おかし なものに見えるでしよう。

Ⅲ|無意識と性の発見

第三の困難については、あなた方にも、つまりあなた方の受けて来られた教育、またはあなた方のものの見方にも、責任があるとは申しません。精神分析は数々のその主張のうち、二つの主張によって世間全体の感情を害しまして、世人の 嫌厭 けんお を買っていますが、その一つは知的先入見に反し、もう一つは美的=道徳的先入見にさから うのです。これらの先入見のことをあまり軽くお考えにならないで下さい。それは強大なものであり、人類の有用な、それどころか必然の発展が残した沈殿物なのであります。それは感情の力によって固執せられ、それに対する戦いは困難な戦いであります。

 

これらの好しからぬ精神分析の主張の第一は、心的経過はそれ自体としては無意識的であり、意識的経過は心生活全体の単に個別的な活動部分に過ぎぬと言うことであります。それどころか、むしろ我々には、精神的なものと意識的なものとを同一視する習慣がついていることを思い出して下さい。意識は我々には全く精神的なるものの本質的性格と看做され、心理学は意識の内容についての学問と看做されています。それどころか、この同一視は我々には自明のことと思われていますので、我々はそれに反するのは露骨な非常識だと感ずると思いますが、しかも精神分析はこの反対論を提起せざるを得ないのであります。精神分析は、意識的なものと精神的なものとの同一性を仮定することはできません。あなた方の定義は、精神的なものとは感情・思考・意欲の過程であるというのでしょうが、精神分析は無意識的思考及び無意識的意欲は存在すると主張しないわけにいかないのです。しかし、そのために精神分析は、初めから、冷徹なすべての科学主義者の同情を失い、闇中にきず き濁水にすなど りたがる奇怪な秘教だという嫌疑をこうむったのであります。しかし皆さん、あなた方は私がいかなる權利をもって、「精神的なものは意識的なものである」というような抽象的命題を先入見だと言い触らさなくてはならぬのか当然まだ御了解にはならぬでしょうし、また、万一無意識的なものが存在するとすれば、どういう説明の結果それが否認されるに至ったのか、そしてそれを否認してどんな利益が生じたのであろうか、言いあてることはお出来にならぬでしょう。精神的なものを意識的なものと合致せしむべきか、それとも意識的なものを越えて伸び広がっているとなすべきかということは、空虚な言葉の上の争いのように聞えますが、しかも私はあなた方に、無意識的精神経過の仮定をもって世界の科学のために決然と新見地に立つの道を拓いたと確言し得るのであります。

 

同様にあなた方は、精神分析のこの第一の敢為な主張と、これから言及する第二のそれとの間にいかに密接な連関があるか、予想されないかもしれません。つまり、精神分析が成果の一つとして宣布するこの第二の命題は、広い意味でも狭い意味でも 性的 セクシュアル と称するより致し方のない衝動が、神経症及び精神病を惹き起こす上に、並々ならず大きな、従来は十分に評価せられなかった役割を演じているという主張なのであります。いや、そればかりか、同一の性的衝動が人間精神の最高の文化的・芸術的及び社会的創造にも関与して、侮りがたい貢献をなして来たと主張するのであります。

 

私の経験によりますと、精神分析研究のこの成果に対する嫌厭は、それの突きあたった抵抗の最も重大な根元であります。あなた方は、我々がそれをどう説明するか知りたいとお思いになりますか? 文化は生活の必要に駆られ衝動の満足を犠牲にして創造せられたものであって、その大部分は、新たに人間共同体の中にはいって来る個人が全体のために衝動の満足を犠牲にすることによって、繰返し繰返し新たに造り出されるのだと我々は思います。このように他に転ぜられた衝動力のうち、性のそれは重大な役割を演じておりまして、その際それは昇華せられるのであります。言い換えますと、本来の性的目標から らされて、社会的に一段と高い、もはや性的でない目標に向けられるのです。この建築はしかし不安定であり、性の衝動は制御しにくいものでありまして、文化活動に従うべき各個人に、性の衝動がこの犠牲を拒む危険は無くなっていないのです。社会は、性の衝動が解放されてそれ本来の目標に還ることにより生ずる文化の脅威ほど恐ろしい脅威はないと信じています。つまり社会は、社会の基礎をなしているとのデリケートな事情を思い出すことを好みませず、性の衝動の強さが承認せられ個々の人に対する性生活の意義が闡明せられることに全然開心をもたぬのでして、むしろ教育的見地より注意をこの領域全体から逸らせる道をとったのであります。ですから、社会は精神分析の上述の研究成果を解せず、むしろなるべくなら、それを美的にいと わしく道徳的に悪いーーあるいは危険なーーものだという烙印をおしたがるのであります。しかしそんな文句をつけたところで、科学的労作のいわゆる客観的な結果をいかんともすることはできません。反対論を公のものにしようと思えば、それは知の領域に移されなくてはなりません。ところで好まぬことを正しくないと思いたがるのは人間の本性でありまして、その場合反対の論拠を見出すことは容易であります。それゆえに社会は、好ましからぬものを正しくないものとし、精神分析の真理に論理的及び事実的論拠を挙げて抗弁しますが、しかし元は感情からのことでして、あらゆる論破の試みを嫌う偏見に過ぎないとの異議を、社会は固執しているのであります。

 

我々はしかし、皆さん、抗議をこうむった右の命題を提起するに際し世の風潮に従わなかったと断言してもよろしいのです。我々は、辛苦研究の結果認識したと信じた一事実に表現を与えようとしたに過ぎません。我々は今でも、かかる実際上の顧慮から科学的労作に不当な干渉を加えることを断乎として排撃する権利を要求するものであります。たとえ我々に実際上の顧慮を命ぜんとする心遣いが、正当なものであるか否かを検討してしまわない前でありましても。

 

さて以上は、あなた方が精神分析に携わられるのを妨害する難関の、ほんの二三だといっても差し支えありませんが、恐らくまず最初のところはこれで十分以上でありましょう。もしあなた方が、これは面倒だという印象を克服し得られますなら、我々は続けて先へ進もうと存じます。