PAINTING

セザンヌの資料[詩・落書き・手紙・配色]

ポール・セザンヌ|アンブロワーズ・ヴォラール

近藤孝太郎訳|ARCHIVE編集部編

Published in circa 1890 - 1894, September 1861 - 1862, April 19th, 1866, January 9th, 1903, Late Years|Archived in April 27th, 2024

Image: Paul Cézanne, “Baigneurs”, 1870.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ARCHIVE編集部が、『セザンヌ伝』(アンブロワーズ・ヴォラール著、近藤孝太郎訳)から、セザンヌ自身による詩および落書き、手紙2通、晩年のセザンヌが使用していたパレットの配色(エミール・ベルナール談)の5点の資料を抜粋・収録したものである。
各資料には、解説としてヴォラールによる文章を添えた。
旧字・旧仮名遣い・旧語・文語・人名は現代的な表記に改めた。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ポール・セザンヌ(1839 - 1906)著者:アンブロワーズ・ヴォラール(1866 - 1939)訳者:近藤孝太郎編者:ARCHIVE編集部
題名:セザンヌの資料[詩・落書き・手紙・配色]原題:『セザンヌ伝』
初出:1890〜1894年ごろ、1861年9月〜1862年、1866年4月19日、1903年1月9日、晩年
出典:『セザンヌ伝』(改造社。1941年。9-12、24-25、34-37、184-186、132-133ページ)

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《ドラクロワの昇天》のスケッチの裏に書いた詩(1890〜1894年か)
 
見よ、ししむら太きこの若き女を!
柔軟なる肉体は麗しき花、
緑なす草原に咲き輝く!
なよやかなる四肢は野の蛇に似る。
されば太陽も喜び充ちてさんさんと、
この麗しき肉の上に千百の光箭を降り注ぐ。
 
Voici la jeune femme aux fesses rebondies!
Comme elle étale bien au milieu des prairies;
Son corps souple, splendide épanouissement!
La couleuvre n'a pas de souplesse plus grande,
Et le soleil qui lui darde complaisamment
Quelques rayons dorés sur cette belle viande.
 
ヴォラールによる解説:
「ポール・セザンヌは十歳の時に、聖ヨセフの家庭学校へ入った。……〔エミール・〕ゾラと知り合いになったのもこの学校で、ゾラは彼の下のくみであった。二人はすぐ仲良しになった。……ゾラの一番愛誦したの〔アルフレッド・ド・〕ミュッセの詩で、この若い文豪が真似をしてつくった最初の詩の手本もこのミュッセのものであった。彼の熱はやがて友人にも伝染し、セザンヌもまた詩に手を出すようになった。惜しいことに当時のセザンヌの詩はすっかり散逸していまは一行も残っていないが、種々な点から考えてみて、大体、後年彼が「ドラクロワの昇天」〔《Apothéose de Delacroix》(1890〜1894年)か〕のスケッチの裏に走り書きをした詩のようなものであったらしい。」

銀行員時代、帳簿の端に書いた落書き(1861年9月〜1862年)
 
事務の机を前にして、あわれ銀行員セザンヌよ
恐れを胸に潜ませて、あわれ未来の画家の夢よ、
 
Cezanne, le banquier, ne voit pas sans frémir
Derrière son conptoir naltre un peintre à venir
 
ヴォラールによる解説:
〔青年期に〕「パリにすっかり弱らされたセザンヌが、どうしても郷土エクスの土に接することが必要になってエクスに帰ってきた……しかし、そこに彼を待っているものは、ただ彼の驚きのみであった。父は以前にもまして、画に信頼をもたない人になっていた。父は頑として息子の再上京を許さず、すぐに自分の銀行に入れてしまった。「いいか、ポールよ、画などが何の役に立つか? 自然は神様が立派につくってくださったものじゃ。それを人間が描いてみたところで、どうしてそれより立派なものができるはずがあろう。絵なんてまったく意味のない仕事だ。バカげ切ったことなのだ!」父に対して、いつも服従する癖になっていたセザンヌは、今度もまた何とかして帳面付けに興味をもとうとした。彼は課せられたこの仕事の単調を紛らせようとして、帳簿の端へまたもや詩や画を描くのだった。そのときの落書きが現在唯一残っている。」

サロン落選時に美術総監ニューウェルケルクに宛てた手紙(1866年4月19日)
 

1866年4月19日   

小生は先般、審査員のために落選させられた自分の作品2点に関する件で、先日閣下のもとへ一書を捧呈した者である。
 
しかるにいまだ貴下よりなんらのご返簡にも接しないので、かさねて右の件につき、どうしても貴意を得ようと決意した次第である。すでに小生の前の手紙がたしかにお手元に届いている以上、同書のなかに申し述べた理論を、また一度ここに繰り返す必要はないと信じます。しかしどうしても小生が主張してやまぬことは、展覧会出品ということは、大衆に向かって自分の画の毀誉を問わんとしたものであって、それにもかかわらず大衆以外の人々によってそれが拒否されたということは、いかにしても小生として甘受する理由のなきことと考えます。よって小生はかさねて再簡を呈し、あくまで前回の要求を強調する次第であります。あえていう、私が自分の作品を問わんとするのは、社会の大衆である。展覧会出品は決して審査員諸氏に見せんがための出品ではない。私はこの考えを当然のことであり間違っていないと思う。貴下がもし私とおなじ立場にある画家連に尋ねられたなら、おそらくは彼らの全部が、小生同様、審査員などを目当に出品している者でないことを発見されるでしょう。そして彼らが全力を挙げて希望するところは、すべての真面目なる作者に対して義務的に、全部陳列を許すところの展覧会へ陳列することであります。
 
ついては、 落選画展覧会 ・・・・・・ の制度を、いま一度復活していただきたい。なお私だけの気持ちをいえば、審査員諸氏のほうも、「私とは関係したくない」とお考えのようであるが、私のほうも「こんな審査員諸氏とはなんら関係したくない」と考えているということを社会の大衆に公示したく思っている。閣下よ、どうか黙っていないで返事をしてください。この種の手紙はお返事をいただけるのが、世上の慣例になっていると私は信じます。
 
なお願わくば小生の最上の尊敬を払いつつあることをお受け入れください。

ポートレイ街22番地     
ポール・セザンヌ    
 

ヴォラールによる解説:
「1866年、セザンヌは決心して、勇敢に官設サロンにぶつかることにした。そこで《ナポリの午後》と《蚤取りの女》の2点を選んだ。彼の判断によると、この2点なら審査に立つ「ブルジョアどもでも」理解できるだろうと考えたのである。ところがこの日あいにく、セザンヌは一文無しで、とても運送屋を頼むことなどできなかった。そこで彼は、自分自身で牛の角をつかみながら、キャンバスを小さい車に積み込んで、親切な友人たちに助けられ、パレイダンダストリイに向かって出発したのである。一行がサロン前に到着するや、若い画家連中はたちまち彼らを取り囲み、大センセーションを巻き起こした。かくて一行は、意気揚々と搬入し終わったのであった。ところが、いうまでもないことだが、不幸にして審査員は誰一人この作品には目もくれなかった。そして2点とも見事に、落選したのである。」
 
〔上記の手紙には、ニューウェルケルクから〕「返事がきた。セザンヌの手紙の端の余白に、「ご希望不可能なり。落選点なるものが、尊厳なる芸術よりいかに劣等なるものかは、幾多の過去の実例が示すところにして、とうてい復活すべきものに非ざることを実証せり」と書いてあった。これで明らかに見えることは、セザンヌは最初の一歩からして、なにものをもってしても消しがたき憎悪を、官辺から向けられることになった、という事実である。」

アンブロワーズ・ヴォラールへの手紙(1903年1月9日)
 
親愛なるヴォラール君
 
私はいま猛烈に勉強している。そしてときどき、希望の国の輝きがチラチラ見えはじめたような気がしてきました。ああ私は本当に、あの偉大なるヘブライ人の指導者〔モーセ〕のように、本当にあの希望の国へ辿り着くことができるだろうか!
 
もしこの画が二月の終わりまでに間に合ったならば、早速貴方のもとまでお送りしますから、どうかこれへ額縁をはめて、そして何卒、良き友情ある安息所へまで送り届けてください。
 
私は貴方のご注文の花の画を、しばらく休ませておかねばならない。どうも自分の気に入らぬのです。私は田舎に大きな画室を作りました。町中よりもずっとよく勉強ができます。
 
私は自分が、少しは巧くなったような気がします。だが一体私は、なんと遅いことだろう。そしてなんと苦しみが多いのであろう。ねえ君、芸術というものは一つの、宗教的修業なのでしょうか。その信仰のためには肉体も精神も打ち込まねばならぬらしい。私は君と遠く離れていることが非常に残念だ。君が良心的に力づけてくれたらどんなに良かろうといつも考へている。わしは一人で暮らしている。ーーの連中もーーの連中も私には我慢ができない。あの連中の知ったかぶりときたら、ああまったくやり切れない。もし僕にまだ命があってもう一度君に逢うことができたら、そのとき私はなにもかも君に話そう。
 

限りなく君の親切を感謝しつつ
ポール・セザンヌ  

晩年のパレット配色(エミール・ベルナール談)
 
黄色
ジョーヌ・プリアン
ジョーヌ・ド・ナープル
ジョーヌ・ド・クローヌ
オークル・ジョーヌ
テール・ド・シャンヌ・ナチュレール
 
青色
ブリュー・ド・コバルト
ブリュー・ド・ウルトルメール
ブリュー・ド・プリュス
ノアール・ド・ベージュ(黒)
 
赤色
ヴェルミヨン
オール・ルージュ
テール・ド・シアンヌ・ブルーレ
ラック・ド・ガランス
ラック・カルミネ・フィーヌ
ラック・ブルーレ
 
緑色
ヴェール・ヴェロネーズ
ヴェール・エムロード
テール・べルト
 
ヴォラールによる解説:
〔セザンヌ〕「のことに好んだ色は、ヴェルミヨンとプルウであった。エミール・ヴェルナールの話によると、彼の晩年のパレットの配色は次のようなものであったという。」