PAINTING

ノア・ノア[第一章]

ポール・ゴーギャン

前川堅一訳

Published in 1895-1901, 1901-1903|Archived in April 23rd, 2024

Image: Paul Gauguin, “D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?”, 1897-1898.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ゴーギャン『ノア・ノア』の「第一章」を収録したものである。
原則として原文ママ。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ポール・ゴーギャン(1848 - 1903)訳者:前川堅一
題名:ノア・ノア[第一章]
初出:1895〜1901年、1901〜1903年(翻訳底本の出版は1924年)
出典:『ノア・ノア(改版)』(岩波書店。1960年。9-27ページ)

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第一章

「……いいたまえ、何を見たまいしや?」

シャルル・ボードレール(旅)

 
 
六十三日間の変化ある航海の後、私たちは六月八日の夜、海のかなたに稲妻形に移動する奇怪な灯を認めたーーその六十三日間、私は 憧憬 どうけい の土地に対して、耐え難い待ち遠しさと、いらだたしい夢を見ていたのだが。暗い空には、のこぎり形の黒い 円錐状 えんすいじょう の山影が浮き出ている。
 
船はモレアを回り、タヒチが見えた。
 
数時間の後、夜はほのぼのと明け始めた。船は船首をヴィナスみさき の方に向けて、静かに環礁に近づきつつ、パペエテの水道に入った。そして、何の船傷もなく波止場に錨をおろした。
 
最初見たところ、この小さな島には、何のふしぎなところもなかった。例えば、リオ・デ・ジャネイロのすばらしい港に比ぶべくもない。目を皿にして、私は、比較しようなどとは考えずに、この島を見つめていた。これは、太古ノアの洪水に沈められた山の頂きで、わずかにその頂きの尖端だけが水面に出ているのだ。そこへある家族がのが れて来て(これは疑うべくもない)生活の根をおろした。 珊瑚 さんご もまた、その新しい島をとりまきおお うてはびこった。次第にその家族はふえて行った。しかし、それは、祖先からの孤独と 淘汰 とうた の性格を保っていて、海が、その偉大さを高調して鳴っている。
 
朝の十時頃、私は総督(黒人ラカスカード)を訪ねた。彼は私を重要な地位にある人間として迎えてくれた。この名誉は、私にはよくわからないが、フランス政府が私に委託した使命のためだと思った。
 
「芸術的」使命、それは本当だが、このことばは黒人にとって、 間諜 かんちょう おおやけ の同義語にすぎなかった。私は、その誤りを解くために、あらゆる努力を傾けたが、だめだった。彼の周囲の人々も、みなその誤解を共にしていた。従って私の使命が何でもないものだと言っても、だれも信じようとしなかった。
 
パペエテの生活は、すぐ私には重荷になってきた。そこは、依然としてヨーロッパであった。私が脱れてきたと信じているヨーロッパそのままなのだ。植民地風の 軽佻 けいちょう な空気、滑稽にさえ思われる幼稚にして奇怪な模倣が、今もなお次第に悪化して行く国なのだ。私がこんなに遠く、遙かにさがし求めてきたのは、こんなものではなかった。
 
それでも、ある社会上の事件が、私の興味をひいた。
 
その頃、ポマーレ国王が 瀕死 ひんし の床に就いていた。そして、毎日、人々はその臨終を案じていた。次第に町は異様な光景を呈してきた。ヨーロッパからきた人々はみな、商人、官吏、士官、兵卒等は、相変らず街々に笑ったり歌ったりしつづけている。しかし、土人たちは、重苦しい様子で、宮殿の周囲に声低くささやきあっている。 波止場 はとば では、 紺碧 こんぺき の海の上を、 数多 あまた のオレンジ色の帆船が、太陽に輝いた環礁線の間を、いつもと違ってせわ しそうにたびたび往来していた。それは、近くの島々の住民たちだった。彼らは、国王の臨終にーー国王の死と共に、彼らの領土は決定的にフランスに占領されてしまうのだーー居合わしたいと思って、毎日かけつけているのであった。既に、天の啓示が、彼らにその国王の死を告げていたのである。それは、国王の死の前には、いつも、日没頃、きまったように山々のある斜面に、暗いしるしが現われるからである。
 
国王は死んだ。そしてその宮殿に、りっぱな将官服を着せて、だれにでも見られるように安置された。
 
私は、そこに皇后マーローがいるのを見た。彼女の名はそういった。彼女は国王の部屋を花や織物で飾っていた。建設省の長官が、私に、葬式の装飾を芸術的にしたいといって相談にきた。私は返答の代りに、彼に皇后を指さした。彼女は、マオリ族のりっぱな本能から、その周囲に雅味をふりまき、その身に触れるすべてのものを、芸術的にしているのだ。
 
しかし、その頃私は、まだこの種族を不十分にしか理解していなかった。私は自分のあこがれてきたものとはあまりにも異った人間や事物に裏切られ、ヨーロッパ風の野卑な空気に嫌悪を感じるばかりで、その上、ヨーロッパから輸入される人工と不親切なつぎはぎだらけのもとにあって、この被征服種族が国民性として固執している真実や美などを見分けるためには、あまりにまだ上陸して間もないのだった。ある程度まで私は盲目であった。
 
従って私は、この既に年老いた皇后のうちにも、名残りの色香をもった、平凡な、あかぬけしない女しか感じなかった。あるいは、その日は、彼女の血の中に流れているユダヤ系の部分が、悲しみのあまり、すっかり無くなっていたのかも知れない。その後彼女を見た時、私は、彼女にマオリー人特有の魅力を感じた。タヒチ人の血色が、またその力をもりかえしていた。この女性にも、その祖先の 大酋長 だいしゅうちょう タチの名残りが、その兄弟や家族たちと同じように、偉大な、真に威厳のある性格を与えていた。彼女はその祖先から伝わる豊かな、同時に優美なすばらしい彫刻的な体格をもっていた。その腕は、寺院の二本の円柱のように、単純でまっすぐだった。そして上にひろがって鋭く終っている。ーーそれは思わず「三位一体」の偉大なる三角形を想起させる程、形体的な構造であった。その眼は、急に輝き、やがては周囲の生物を焼き尽くしてしまう情熱の漠然とした予感が輝いていた。それは、この「島」自身がかつて大洋の中から浮かび上り、そこに植物が太陽の最初の輝きに花開いたと同じようであった。
 
あらゆるタヒチ人は、黒い喪服を身につけ、二日間続けて、死の歌、喪の 聖歌 イメネス をうたった。私は、まるでソナタ・パテティクを聴くような気がした。
 
埋葬の日は来た。朝の六時、葬列は「宮殿」を出た。それは軍隊と、黒服に白いかぶと をかぶった高官たちと、彼ら特有の葬服を身にまとった土人たちとであった。各区の土人たちは、みな順序正しく進んで、各区の 酋長 しゅうちょう は、フランスの旗を持っていた。これらの人々が、まっ黒の深刻な集団をなしていた。それは、やがてアルエ区で止まった。そこには、周囲の雰囲気と植物の装飾に対して痛ましい対照をなしている、名状すべからざる記念碑が立っている。それは、セメントでつながれた珊瑚石の異形な塚である。黒人ラカスカードは、よく知れわたった紋切り型の演説をし、それを通訳がマオリー人の参列者に翻訳して聞かせた。それから新教の牧師が説教をした。最後に皇后の兄弟タチが答辞を述べた。式はこれだけだった。人々は散会した。役人たちは、馬車にすし詰めになった……それは、何か競馬からの帰りを思わせた。
 
数日来深い悲しみに沈んでいた民衆は、道に散っている無頓着なフランス人たちを見ならって、また笑い始めた。パヒーヌ はそのターヌ の腕をとり、尻を軽く振り、大きなはだしの足で道のちり をひどくまき上げて、ファタナ川のほとりにみな散って行った。そして女たちは、あちらこちらの 珊瑚礁 さんごしょう に隠れて、そのスカートを腰まで上げ、行列や暑さに疲れた足や腰を冷やした。こんな風に身を清めると、彼女たちは胸をはり出して、パペエテの道を帰り始めた。モスリンの着物の下には、健康な若い動物のような柔軟性と艶やかさを持った乳房が盛り上り、そこには、二つの貝がつけられていた。そして、彼女たちから、動物性と同時に植物性の混じり合った香りが、あたりに散っていた。それは彼女らの血の香であり、髪に挿しているくちなしの花の香であった。ーーTeine merahi noanoa(今は、一番香が好い)、そう彼女たちはいっていた。
 
こんなにして、すべてはまた常態に帰った。もう少なくとも国王はなくなった。国王と共に、古代の習慣や偉大さの最後の名残りは消えてしまった。国王と共に、マオリーの伝統はほろびてしまった。何事もすべて終ってしまった。文明が、そうだ! 烏合の兵、貿易、 繁文縟礼 はんぶんじょくれい が、勝利を占めることになったのである。
 
深い悲哀が私を捉えた。こんなに遠くきながら、こんなものを、自分の逃げ出してきたと同じものを、またここに見出そうとは! 私をタヒチにひきつけた私の夢は、現実によって、残酷に裏切られてしまった。私の愛していたのは昔のタヒチだ。しかし私は、それがすっかり亡びてしまったと思い、この見事な民族が、いかなる点でも古い輝きを保存していないなどと思いあきらめることはできなかった。といって、はるかに遠い神秘な過去の跡がまだ残っているとすれば、ただ独り、何の手引きも、何の根拠もなしに、どうしてそれらを発見すればいいだろうか? 消えた火を再びかきおこし、すっかり灰になった中から、もう一度火を燃やすのだ……
 
どんなに強くうちのめされたとしても、私は、万事をやってみなければ、また不可能な事も試みなければ、勝負をやめるというような癖はもっていない。やがて私の決心はついた。
 
パペエテを去って、ヨーロッパの中心から遠ざかることにしよう。私は、未開墾地に、現地人と共に、全く彼らと同じような生活をして、それを忍耐づよくつづければ、彼らの不信を打ち破ることもできるだろう。また、きっとそれは「できる」のだと考えた。
 
一人の憲兵士官が、あいそよくその馬車と馬を貸してくれた。ある朝、私は、私の小屋を探しに出かけた。
 
私の女は、私についてきた。ーーその名をチチという。半ば以上英国人で、少しはフランス語も話せた。その日彼女は、彼女一番の晴着を着ていた。そして、マオリーの習慣に従って、耳に花をつけ、自分で編んだ藤の帽子をかぶって、麦わら製の花リボンの上には、オレンジ色の貝殻の飾りをつけていた。その肩には、まっ黒な髪の毛がたれ下っている。彼女は馬車にのることを得意がり、きれいな自分の服装を得意がっていた。そして、彼女が金持の高官であると信じている男のパヒーヌ であるということを、ひどく威張っているようであった。こんな風に、彼女は心から喜んでいた。しかも、こうした尊大な様子は、この種族の顔に現われる荘厳な様子を少しも滑稽にはしていなかった。その顔は、封建制度の古い歴史と、偉大なる酋長たちの古い名残りとから、消すことのできない自尊心のひだをもっていた。
 
私は、彼女の利害の念にさと い恋愛は、純粋のヨーロッパ人には、金銭ずくの売笑婦の親切と同じように、おしつけがましいものだということを知っていた。しかし私は、そこにまた別のものを感じた。それは、この目や口は、決してうそ をつくことができないということだ。あらゆるタヒチの女たちにあっては、恋愛は損得如何にかかわらず、常に「恋愛」である程、生命的であり、本質的である。
 
さて、道はかなり早く過ぎて行った。とりとめもない雑談が続き、外には単調な、また豊かな景色が展開された。右手はずっと海で、珊瑚礁がつづき、 渺々 びょうびょう たる水面は、時には、波がはげし岩に砕けて大きな水煙となって上っていた。
 
正午頃、私たちは、四十五キロきて、マタイウ区についた。
 
私はその辺を歩きまわった。そして、かなりきれいな小屋をみつけた。その持主は、その小屋を賃貸しにしてくれることになった。彼は、そのつい近くに、自分の住む家を建てることになっていた。
 
翌日の夕方、パペモテに帰ってくると、チチは、自分も一緒につれて行ってくれる気でいるかどうかと いた。
 
「もっとしてからだ。ーー四、五日して、俺が落ち着いてからだ」私は、この半白人の女は、あらゆるヨーロッパ人との接触のために、ほとんど自分の種族を忘れ、その白人との差を忘れてしまって、私の知りたいと思っていることを何も教えてくれず、私の望んでいた特殊な幸福を与えることができないと思っていた。だから私は考えた。もっと内部に入って、 田舎 いなか の方へ行けば、自分の求めている人間を見つけられるだろう。それにはただ選び出しさえすればいいんだ。 田舎 いなか は都会じゃないんだから……
 
数日前から私は、少し病気にかかっていた。その冬パリで感染した気管支炎がいまだに回復していなかったのだ。しかも私は、たった一人でパペエテにいる。そうだ! 辛抱しよう。間もなくあの四十五キロのところへゆけるのだ。
 
「La orana Gauguin. ごめんなさい、ゴーガン」
 
こういって私の部屋を訪ねてきたのは王女であった。私は腰にただパレオを巻いたきりで床の上に横になっていた。こうした身分のある婦人を迎えるには、全くよくない格好であった。
 
「ご病気ですの」と彼女はいった。「お目にかかりにきました」
 
「お名前は?」私は彼女にいった。
 
「ヴァイチュア」
 
ヴァイチュアは、まことの王女であった。ヨーロッパ人がこの国のすべてを彼らの水準にまでひき下げてからも、なお存在しているものとすればである。しかし、ここへきている彼女はやはりはだしだ。そして、耳には花をつけ、黒い服を着ている。彼女はこの間死んだ叔父ポマーレ王の喪に服しているのだ。その父タマトアは、ヨーロッパ人との接触や、将官のレセプションがあるにもかかわらず、怒った時には巨人のように人をなぐり、宴席ではおそろしいミノタウロス(牛頭人身の怪物ーー大食漢)となる、マオリーの一王族よりほかのものにはなりたがらなかった。
 
ヴァイチュアは、その父によく似ているといううわさであった。
 
私は、白帽をかぶってこの島に上陸するあらゆるヨーロッパ人のように、疑惑をもった唇の上に微笑を浮かべながら、この昔の権勢を失った王女を見つめた。しかし、礼儀正しくしたいと思った。そして、
 
「よくきてくれました。いっしょにアブサンでもお飲みになりませんか」といって、つい最近お客用に買ってきた瓶を指した。
 
彼女は冷淡に、しかしひどく素直に指した方へ歩いて行った。そして、身をかがめて瓶を取った。彼女の軽い透明の着物は、地球をも支え得る程がっしりした腰の上に張りきっていた。しかも彼女は、何の疑いもなく、たしかに王女であった。ーーその祖先は? 勇猛にして偉大なる巨人たちであった。彼女の頑丈な肩の上には、頭が厳然としてくっついている。一瞬私は、その食人のあご、いまにも食い荒らそうとしている歯、動物的なずるさをもった捉えどころのない目、そんなものしか見ないような気がした。だから私には、彼女が非常にきれいな、しかも高貴な額をしているにもかかわらず、ひどく醜く思われた。ことに、もしも彼女が、この私の床の上にすわりにでもこようものなら、たちまちこの軽い細工品は、われわれ二人を支え得ないに違いない。ところが、まさしく彼女はそれをやったのだ。ベッドは、これに逆らって、メリメリと音をたてた。私たちは酒を飲みながら話し合った。しかし、お互いの話はそうはずまなかった。沈黙は私を困らせた。私は彼女を観察した。彼女は私をじっと見つめた。しかし、酒だけは汲み交わした。……ヴァイチュアはしっかり飲んだ。太陽は早く傾いていった。ヴァイチュアは、タヒチのたばをふかしながら、床の上に寝そべった。その二本のはだしの爪先は、まるで勇猛な虎の舌が頭蓋骨をなめるように、ベッドの端の木を でまわしていた。彼女の顔は、ふしぎに柔らいで生き生きしてきた。私は、恐ろしい欲情に思いふけっている猫の呻き声を聞くような気がした。男という者は、気の変りやすいもんだ! この時私は、彼女を美しいと思ったのである、すばらしく美しいと思った。そして、彼女が、ひきつけるような声で、「お前はきれいだ」といった時、ひどい悩ましさが私を襲ってきた。たしかに、たしかに……王女は気持のいい女だった。
 
やがて彼女は、ひどく低く、しかもよくひびく声で、ラ・フォンテーヌの童話「せみ あり 」を全部 暗誦 あんしょう した。
 
(それは、彼女を教育した「修道院」での少女時代の楽しい思い出である)
 
たばこは、すっかり煙になってしまった。彼女は立ち上った。そして、
 
「ね、ゴーガン」といった。「私は、お前の国のラ・フォンテーヌはすきではない」
 
「どうして! われわれは、善良なラ・フォンテーヌと呼んでいる」
 
「善人かも知れない。でもあの人のいやな道徳は虫がすかない。
あり ! (彼女の口元に嫌悪の情が現われた)
せみ ! どんなに私は蟬が好きだろう。それは、たいへんきれいで、ほんとに 上手 じょうず に歌う。
常に歌う。
常に与う……常に」
 
そして彼女は、ほこらしげにつけ加えた、
 
「私たちの国は、どんなに美しい国だったことか、人も土地も同じようにその恵みを受けていた。年中私たちは歌っていた。
私はひどくアブサンを飲んだような気がする。もう帰る。何だか、つまらない事をしそうだから」
 
庭の戸口で、一人の青年が、ヴァイチュアに何か尋ねた。それは、すべての事を知っている風をしているが、しかも何も知らないあの青年たちの一人であった。(役所では、彼らを作家と呼んで区別している)
 
ヴァイチュアは彼をUri(犬)と呼びながら遠ざかっていった。私は、枕に頭を伏せた。私の耳には次のような言葉が、 私語 ささやき のように残っていた。
 
La orana Gauguin.
 
La orana Princesse.
 
私は眠りに落ちていった……
 

 
私はもうパペモテにいないで、マタイウ区に住んでいる。一方は海で、一方は山だーーおそろしい裂け目をなして大口をあいている山で、それを、岩に寄り掛ったマンゴーの巨大な密林がふさいでいる。山と海との間にブウラオ木造りの私の小屋が立ち、なおその傍に小さな小屋があるーーそれは、Fare amu(食堂)だ。
 
今は朝で、岸辺に近く 独木舟 まるきぶね が浮いている。その中に、一人の女が乗っている。岸にはほとんど全裸体の男がいる。その傍には枯れた 椰子 やし の木がある。それは、まるで、金色の尾をたれて、その爪の中には大きな椰子の房をつかんでいる巨大な 鸚鵡 おうむ のようだ。男は、重いおの を両手にもって、調子よく敏捷に上げ下げしている。斧は、銀色の空に青色のかがやきを残し、下の枯木の切口からは、一世紀もの間日々たくわえられてきた熱を炎として一瞬のうちにひらめかしている。
 
紫色の土の上には、黄金色をしたへび のように長い木の葉が、はるかに遠い、ある東洋の言葉で書かれた文字のように見えた。ーー私は、オセアニアの原語で書かれた次の文字を読むような気がした。ーー Atua, Dieu, le Taata 或は、Takata, それらは、インドから四方にひろがって、あゆる宗教の中に見出せるものだ……
 
 タタガアタの目には、国王や大臣たちのきらびやかな威厳も、ただ泡と 塵芥 ちりあくた にすぎず。
 
 その目には、純も不純も、ただ六人のナガの踊りにひとし。
 
 その目には、仏の道を求むることは、もろもろの花に似たり……
 
独木舟 まるきぶね の中では、女が何枚かの網を揃えていた。 紺青 こんじょう の水面は、たえず 珊瑚 さんご の防波堤に落ちかかる緑色の波頭でくずされていた。
 
その夕方、私は、たばこをふかしに海岸の砂地へ出た。
 
水平線の上にあわただしく落ちて行く太陽は、右手に見えるモレア島にもう半ば隠れていた。光の照り返しは、燃える空に、力強くはっきり山々を黒々と浮かび上らせていた。その山の頂きは、先端がぎざぎざになった古城のように見えた。
 
こうした自然と相対して、ひとりでに封建時代の思われてきたのは、わけのないことだったろうか? 向こうの山の頂きは、壮大なかぶと の形をしている。それをめぐって、巨大な群集のような騒音を立てている波も、その頂きまでは届いて行くまい。ただひと り、崩壊せしめられた偉大の中に立って、この保護者なる兜は、青空近く動かない。
 
そこからは、ひそかな目が、知恵の木に触れた罪人や、神を犯した罪人の 数多 あまた の群が まれている海底深く投げられている。そしてこの「兜」もまた一つの神だが、私には、どういう類似からスフィンクスを思い出させた。そして、その口をなしている広大な裂け目から、皮肉や慈愛の微笑が、過去の眠っている波の上に投げかけられているような気がした……夜は早く落ちたーーモレアは眠った。あたりには静寂がみなぎって、私は、タヒチの夜の静けさをしみじみ知った。
 
ただ私の心臓の鼓動が聞えるのみだ。私は床に寝ながら、差し込んでくる月の光で、私の小屋から同じ間隔を置いて植えられているあし を見ることができた。それは、昔の野笛で、タヒチ人のヴィヴォと呼んでいる一種の楽器とでもいうべきものである。しかしそれは、昼のうちは沈黙を守っている楽器だ。そして夜ともなれば、月の光に誘われて、思い出の中に、私たちに心地よき旋律を響かしてくれる。私は、この音楽を聞きながら眠りに落ちる。空と私との間には、 蜥蜴 とかげ の住むたの木の葉で いた、軽く高い屋根があるだけだ。私は、深い眠りに落ちながら、上にある広々とした空間、青空、群星などを思い描くことができた。私は、あの牢獄のようなヨーロッパの家から、はるかに遠くきているのだ。このマオリーの小屋は、生命、空間、無限などの個性を少しもさえぎらず、消さない。
 
しかし、私はここにただひとり孤独を感じていた。この地方の人々と私とはお互いに観察し合った。私と彼らとの間には、解き得ない隔りが完全に残されていた。
 
二日目から私は、私の蓄えをすっかり無くしてしまった。どうすればいいのだろう? 私は、金さえあれば、あらゆる生活の必需品は求め得られるものと信じていた。しかし、これはひどい間違いだった! 今は、生きるためには自然に頼って行かねばならない。自然は豊かで、しかも寛大だ。その木や山や海に蓄えている宝物の一部分を、分けてくれるように頼んでゆけば、自然は決してこば まない。しかし、高い木によじ登り、深い山にわけ入ることを知っていなければならない。そして重い荷物をもって帰らねばならない。魚をとり、水にくぐって頑固に珊瑚にくっついている貝殻を、海の底から取り離してこなければならない。
 
しかし、私は文明人だった。しかもこの場合には、周囲に住んでいる幸福な野蛮人よりもはるかに劣った人間だった。そこでは、自然から生まれてこない金銭は、自然から生産される必需品を得るのに何の役にも立たない。私は空腹を抱えて、私の立場を悲しく思い悩んでいた。その時一人の土人が、叫びながら手まねで私の方に話しかけてきた。その非常に表現的な態度は、ある言葉をあらわしていた。私は、それがよくわかった。ーー隣人が、私を食事に招いてくれるのだ。しかし、私は恥ずかしかった。私は頭を振って断った。するとしばらくして、小さな娘が、何もいわずに、私の小屋の戸のしきい の上へ、青々した新鮮な木の葉できれいに包んだ食物を置いてそのまま帰っていった。私は空腹だった。だから私もまた黙ってそれを食った。またしばらくすると、さっきの男が私の小屋の前を、立ちどまらずに、 微笑 ほほえ みながら、ただ一言ーー Païeu? とものを問いかけるような様子で通り過ぎていった。それは、「気にいったかい?」そういっているのだとわかった。
 
この事が、この土地の野蛮人と私との互いの交際の始まりだった。野蛮人! この言葉が、食人歯をもったこうした黒人のことを考えると、いつもきまって私の唇の上に浮かび上ってくるのである。
 
しかしながら、私は前から彼らの真の 風情 ふぜい を理解し始めていた。いつか、小さな少年が、静かに澄んだ目をした小さな褐色の顔を、ジローモンの大きな葉群の下の地面につけて、私の知らない間に私をじっと見ていた。そして、その目が私の目にゆきあうと、そのまま飛び去ってしまった……私にとって彼らがそうであるように、私もまた彼らにとってはその観察の対象であったのだ。私は、彼らにとっては、言葉も習慣も、生活の最も原始的で最も自然な労働さえ知らない未知の人間であった。私にとって彼らがそうであるように、私もまた彼らにとって野蛮人であったのだ。しかもたぶん間違っていたのは私である。
 

 
私は仕事を始めた。あらゆる種類のノートやクロッキを取った。しかし、新鮮な燃えるような色彩をもった風景は私を幻惑し盲目にした。 何日頃 いつごろ からかわからないが、いつも私は、正午から二時頃までも探求に過ごしていた。見たままを描き、大した構想もなしに、赤や青をカンバスの上に描いて行くのは、全く容易な事だった! 小川の流れにある輝いた構図が私を 恍惚 こうこつ とさせた。しかもなぜ私は、この太陽の金色の輝きや、あらゆる歓喜をカンバスの上に描くのに 躊躇 ちゅうちょ したのだろうか?ーーヨーロッパの古い習慣、退廃した種族の表現の 臆病 おくびょう さよ!……
 
私はずっと前から、タヒチ人の顔の非常に特殊な性格をはっきりつかむため、マオリー人の魅力ある微笑をつかむために、タヒチの純粋な血統をもったある近所の女のポルトレを描きたいと考えていた。
 
ある日私は、彼女が遠慮もとれて、私の小屋へ絵画の写真を見にきた時を利用して、それを頼んでみることにした。その女は、オランピアを、ことさら興味深そうに見つめていた。
 
「その絵をどう思う?」私はその女にきいてみた。ーー(私は、数ヵ月前からもうフランス語は使わずにタヒチの言葉を少しばかり覚えていたのである)
 
隣りの女は答えた。
 
「この女はたいへん美しい」
 
私は、この反応に微笑み、同時に感動した。この女は、「美」の感覚をもっているのだ! しかし美術学校の先生方は、この女について何というだろうか? 女は、突然、もの思いに沈んでいたらしい沈黙を破ってつけ加えた。
 
「これはお前のお嫁さんか?」
 
「そうだ」
 
私は、こんなうそ をついた! 私が、オランピアの「ターヌ 」であろうとは!
 
私は、この女が、数枚のイタリア・プリミチフ派の宗教画を、ひどくもの珍らしげに見つめている間に、女のポルトレのスケッチをやろうとした。ことに、この謎のような微笑をしっかりつかもうと努力しながら、その像を描き始めた。すると彼女は、不機嫌そうに唇を尖らし、まるで怒ったような調子でいった。ーー「Aita(いけない)」そして逃げていってしまった。
 
しかし、一時間もすると、彼女は、新しく美しい衣裳を着飾り、耳に花をつけてまたやってきた。
 
どういうことを考えたのだろう? どうして、どうしてまた私の処へやってきたのだろう。それは、嬌態の一動作だったろうか? 拒んだ後で身をまかせる快感からだったろうか? それとも、禁断の木の実に心をひかれたためだろうか? または、それだけで何の動機もない出来心なのだろうか? 私は、私の画家としての試練が、モデルの内生命の深刻な研究を伴なうべきものだと意識した。それは、絶対的で決定的な征服のように、暗黙のうちに、しかも切実な懇望をもって、肉体を獲得するものでなければならない。
 
彼女は、要するに美学のヨーロッパ的規則をもってすれば、あまりかわいい女ではなかった。しかし彼女は美しかった。そのすべての輪廓は、曲線の綜合のうちにラファエル風の調和を示し、その口は、思想、接吻、歓喜、苦悩等のあらゆる言葉を物語る彫刻家によって、浮彫りにされていた。私は、彼女のうちに、未知なるものへの恐怖と快楽に交った悲哀の 憂鬱 ゆううつ とを読みとった。しかも、表面上は、打ち負かされているように見えるこの受身の資質は、要するに、覇気満々たる気持を残しているのだ。
 
私は、急いで仕事を続けた。ーーこの女の好意が、いつまで続くか疑わしいものだと思いながら、急いでしかも熱情をこめて仕事をした。私は、私の心が目に映じさせるあらゆるものを、その肖像の中に描きこんだ。ことに、おそらく目だけでは見なかったろうもの、すなわちこの中に含まれた力の強い炎を描いた。その非常に高貴な額は、ふくれ上った線によって、次のようなエドガー・ポーの言葉を思い出させた。ーー「均勢の中に、何か特異なものがなければ、完全な美はあり得ない」しかも女の耳につけている花は、その香りに耳を傾けていた。
 
今や私は、前よりももっと自由に制作していた。
 
しかし、私は孤独の寂しさに耐えられなくなってきた。私は、目のきれいに澄んだ、若い純粋なタヒチの女をたくさんみかけた。しかも、彼女たちの中には、あるいはだれか進んで私と生活を共にしようとしているものがいたかも知れなかった。何しろ彼女たちはみな捉えられたがっているのだ。マオリー風に、一言もいわずに野蛮的に捉えられたがっているのだ。彼女たちは、すべてみな、ある程度まで犯されたい欲望を持っているのだ。しかし私は、女たちの前にいて、ことに男をもっていない女たちの中にいて、その女たちが、私や他の男たちを、ぶしつけに威張っ高そうに見つめているのを見ると、全くひどく気おくれのしたものだった。
 
ことに彼女たちは病気をもっているといわれていた。ーーそれは、ヨーロッパ人が文明の第一要素として、また疑いもなくその本質的要素として野蛮人の間にもたらしてきたあの悪い病気である。
 
従って、老人たちが、あの女をお取りなさい、そういって女たちの一人を指してくれても、私は、それに必要な大胆と安心感をもっていなかった。
 
私は、チチに、私が彼女を喜んでもらい受けると知らせてやった。それでも彼女は、パペエテでは、つぎつぎとたくさんの男を葬ってきたというので恐ろしく評判の悪い女であった……
 
しかしこの試みは失敗に終った。私はこの官吏たちのぜいたくに慣れている女と共同生活をしながら、ひどい 倦怠 けんたい 倦怠(ルビ:けんたい)を感じてきたことで、私が「野蛮」の中にあって既にどれほど実際上の進歩をしてきたかということを知ることができた。数週間の後、チチと私は、再び相逢うことなく別れた。
 
また、改めてひとりになった。