ARCHITECTURE

自由学園の建築[ほか3篇]

フランク・ロイド・ライト|遠藤新

 

Published in 1922, December 4th 1934, 1935, April 25th 1935|Archived in February 3rd, 2024

“Facade of Jiyu Gakuen Myonichikan” by Kaidai is licensed under CC BY 4.0, October 2018.

CONTENTS

自由学園の建築|フランク・ロイド・ライト|遠藤新
TEXTORIGINAL TEXT(JAPANESE)ORIGINAL TEXT(ENGLISH)
南沢に自由学園新築なる|遠藤新
TEXTORIGINAL TEXT
男子部体育館について|遠藤新
TEXTORIGINAL TEXT
南沢の門|遠藤新
TEXTORIGINAL TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、フランク・ロイド・ライトおよび遠藤新が自由学園の竣工時に寄せたメッセージと、遠藤新が自由学園の建設について寄せた文章の収録である。ARCHIVE編集部が原文の旧字・旧仮名遣いを現代的な表記に改めて用語統一を施したTEXTと、底本にしたがった原文(ORIGINAL TEXT)をそれぞれ併記した。
ARCHIVE編集部による補足は、〔 〕内に入れた。
原文の字下げはそれぞれ上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:フランク・ロイド・ライト(1867 - 1959)|遠藤新(1889 - 1951)
題名:自由学園の建築[ほか3篇]原題:自由學園の建築(フランク・ロイド・ライト、遠藤新)|南澤に自由學園新築成る(遠藤新)|男子部體育館について(遠藤新)|南澤の門(遠藤新)
初出:「自由学園の建築」1922年(『婦人の友』1922年・6月号)、「南沢に自由学園新築なる」1934年12月4日(『婦人の友』への収録は1935年・1月号)、「男子部体育館について」(『婦人の友』1935年・10月号)、「南沢の門」1935年4月25日(『婦人の友』への収録は1935年・6月号)
出典:『建築』(中外出版。1967年。64, 84ページ)画像出典:“Facade of Jiyu Gakuen Myonichikan” by Kaidai is licensed under CC BY 4.0, trimming by ARCHIVE.

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TEXT 

自由学園の建築

その名の自由学園にふさわしく自由なる心こそ、この小さき校舎の意匠の基調であります。
 
幸福なる子女の、簡素にしてしかも楽しき園。 かわらず、 真率なる。
 
何々の式とはいいません。 建物そのままに、独自の様式ーー他人の好くと否とを問わず、正しきに立てる調和の姿。
 
敏き乙女らは、この建築により、将来の生活の思料の基礎を堅めるに役立つような、美と友愛との何物かを見出し、 何物かを学びうるに相違いありません。
 
一体、 現代生活の混沌とし何物の拠りどころなき今日、この建物が、はっきりと素朴な安心の姿を顕示しているのは、ことに、 発育の途上にある子女の教育に裨益するところ多いにちがいありません。
 
ここに、乙女達のかがやかしき眼開いて、この人生一路の真実の間、真と美とにその魂を培われむ時、やがて、遺伝に次いで、 環境の力を思い合わせられることと存じます。
 
建物が真と美とを具備することは、 教化の上に重要なるものの一つというべきであります。
 
この意味で、設計者として、羽仁氏夫妻〔羽仁もと子・吉一〕とこの建築の考案に与ってきましたが、いま、乙女達の校内に群れて、花の木を飾るに似たるを見ては、誠に喜びにたえません。
 
生徒はいかにも、校舎に咲いた花にも見えます。 木も花も本来一つ。 そのように、校舎も生徒もまた一つに。
 

フランク・ロイド・ライト
遠藤 新

ORIGINAL TEXT(JAPANESE)

自由學園の建築

 

その 自由學園 じいうがくえん にふさはしく 自由 じいう なるこゝろ こそ、 ちひ さき 校舎 かうしや 意匠 いしやう 基調 きてう であります。

 

幸福 かうふく なる 子女 しぢよ の、 簡素 かんそ にしてしかもたの しきその 。 かわらず、 眞率 しんそつ なる。

 

何々 なになに しき とはいひません。 建物 たてもの そのまゝに、 獨自 どくじ 様式 やうしき ーー 他人 たにん くといな とを はず、たゞ しきに てる 調和 てうわ 姿 すがた

 

さと 乙女等 をとめら は、 建築 けんちく により、 將来 しやうらい 生活 せいくわつ 思料 しれう 基礎 きそ かた めるに 役立 やくだ つやうな、 友愛 いうあい との 何物 なにもの かを 見出 みいだ し、 何物 なにもの かをまな るに 相違 さうゐ ありません。

 

たい 現代生活 げんだいせいくわつ 混沌 こんとん とし 何物 なにもの どころ なき 今日 こんにち 建物 たてもの が、はっきりと 素撲 そぼく 安心 あんしん 姿 すがた 顯示 けんじ して るのは、こと に、 發育 はついく 途上 とじやう にある 子女 しぢよ 教育 けういく 裨盈 ひえき するところ おほ いにちがひありません。

 

ここ に、 乙女達 をとめたち のかがやかしき ひら いて、この 人生 じんせい 眞實 しんじつ あいだ しん とにそのたましひ つちか はれむとき 、やがて、 遺傳 いでん いで、 環境 かんきやう ちから おも あわ せられることとぞん じます。

 

建物 たてもの しん とを 具備 ぐび することは、 教化 けうくわ うえ 重要 ぢゆうえう なるものゝ一つといふべきであります。

 

意味 いみ で、 設計者 けつけいしや として、 羽仁氏 はにし 夫妻 ふさい 建築 けんちく 考案 かうあん あづか つて ましたが、いま、 乙女達 をとめたち 校内 かうない れて、はな かざ るに たるを ては、まこと よろこ びに えません。

 

生徒 せいと はいかにも、 校舎 かうしや いたはな にも えます。 はな 本来 ほんらい 一つ。 そのやうに、 校舎 かうしや 生徒 せいと もまた一つに。

 
フランク・ロイド・ライト
遠藤 新

ORIGINAL TEXT(ENGLISH)
 
This little school building was designed for the Jiyu-Gakuen −− in the same spirit implied by the name of the school −− a free spirit.
 
It was intended to be a simple happy plase for happy children −− unpretentious-genuine.
 
It is built in no certified style. It has style all its own. Whether one likes or dislikes it, the style is harmoniously founded on right principles.
 
Impressionable children can not fail to take away with them from it something of beauty and friendliness to help form a standard of judgement in after life.
 
This matter of style in modern life is so confused at the present time that the simple repose of a clear, decided example of this kind can not fail to be valuable especially in connection with the education of growing children.
 
If the freshly opening eyes of the young should feed their hearts with truth and beauty in the simple fact of life, then environment is next to heredity in importance. A harmonious building that embodies truth and beauty may be one of the greatest of all good influence.
 
The architects have felt this in working out this design with Mr. and Mrs. Hani, and are happy to see the building carrying its children as a tree carries its blossoms. The children seem to belong to the building in quite the same way as the flowers belong to the tree, and the building belongs to them as the tree belongs to its flowers…….
 

FRANK LLOYD WRIGHT
ARATA ENDO

TEXT

南沢に自由学園新築なる

思うに、自由学園は到底自由学園です。というのはそれが自然発生的で自然発達的だということ。学園が今日になるまでの間羽仁先生が心深く用意されて来たところのものも、実にそれだった、そしてこれからもそうだろうと思うのです。
 
そして結局建築もその用意の一つとして、発達のためのよき環境であらんことに尽きるのです。
 
この意味で目白の校舎は、近世建築界の頂点に立つ天才ライトさんの手になったということは自由学園のスタートにおける大きな寄与であったと思います。十五年前に羽仁両先生から私に建築の相談のあった時、当時帝國ホテル建築のために滞在中だった私の恩師ライトさんをご紹介したのでした。
 
十五年たって、当時生まれて間もなかった長女が学園の女学校に入り、自分がさらに南沢移転の相談をうけるとは、まさに今昔の感慨です。
 
今度の仕事で大事なことが二つありました。一つの旧校舎の内容をさらに大きくしたものに、体操館その他を加えた統合を地勢地形に合せて発見することで、もう一つはその統合がさらに大きく、学園都市としての全統合にいかに考えられなければならないかということ。ーー二つの丘とそれを隔てた田んぼとからなる不整斉な地形をいかに統合するかーー。
 
このためには、一方学園将来の展望を明らかに持たなければなりません。女学校のことを考えると同時に中学校のことも含めて考えるといったように。



通り一辺の教育を通り一辺の校舎においてするなら校舎の建築も単なる事務的所理に尽きるものです。そこには「建物」ができあがりますが、建築はできません。要は建物を用いて建築すること、その一点に尽きるのです。如上の用意をもってするとき、あるものを決めるということはなかなか容易なことではありませんでした。
 
ミスター羽仁は一ヶ月の間毎日欠かすことなく私の事務所に文字通りの日参を重ね、日曜も休日もなく、研究し合いました。
 
幾通りかの図面をかいていよいよ決定したのが、現在の新築校舎です。詮ずるところ新校舎は羽仁先生との合作だとしみじみ思います。
 
新校舎と南沢〔東京・東久留米市内〕は、とにかく、新面目をもって現われました。
 
新校舎は、自由学園本来の面目としての生活本位を表示して、食堂を中心にして配置されています。教室は四棟南面して、食堂からのびた回廊によって連なりつつ中庭をみます。この中庭は、さらに南に一段低く地勢に合わせて体操館を持つことによって完結するのです。体操館はさらに教師室、委員室等をその両翼となしつつ広き芝生の運動場を抱える。そしてこの運動場は南の丘に迫りつつ、それを囲む道路によって、丘と自らなる連絡の姿勢を採るのです。
 
これで一通りの陣形が整備したのでした。
 
料理場、裁縫室、科学室、工芸室、便所等は各々その所属に従って付属し、または独立して適当の配備に位置されました。
 
そして最後にもう一つ講堂は、この整備した陣形に対立して右に一段高くアクロポリス〔古代ギリシャの 都市 ポリス 内の高い丘。宗教上・安保上の重要拠点が建てられることが多い〕の姿勢に建ちながら、全体を引きしめる位置と形に建っています。
 
要するに、新校舎の内容を解剖すれば大体三つの中心がある。これは内容の上からも外容の大きさの上からもそうなのです。「三つ」というのは講堂と食堂と体操館とです。
 
この三つの中心が自らなる統合に帰一される一方、生活と渾一体にならなければならないというよりは、統合に帰一されるところに全体の渾一境が所期される。
 
このために、体操館が、位置として最前線を占めながら全体統制の制約に快く服していることを注意して頂きたい。
 
この所期する目的は、大体において達成されたものと考えられ、ただ、教室の四棟がも少し小さかったならば、従順であったならば、さらに、よくこの意味を体現しえたであったろうと思う。
 
目白の教室は確かにその点においても遙かに成功しています。私の一つの悔いはこの教室を育てすぎたということです。それは一面確かに自由学園は教室を育てすぎてはならないという意味を示唆するものとも考えられるのです。
 
九月の学期初めから実際使って見てのいろいろなことがあるだろうとも考えるのですが、九月以来、東京を留守して、それを実際に見、かつ聞かれないことを遺憾に思いつつ、工事中留守がちだったことを深く心に咎めながら、新京〔かつての満州国の首都。遠藤が彼の地にいたのは、1934年竣工の満州中央銀行総裁邸あるいは1935年竣工の満州中央銀行倶楽部その他の建設のためか〕の客舎でこれをしたた めているのです。

(一九三四・一二四)

ORIGINAL TEXT

南澤に自由學園新築成る

思ふに、自由學園は到底自由學園です。といふのはそれが自然發生的で自然發達的だといふこと。學園が今日になる迄の間羽仁先生が心深く用意されて来たところのものも、實にそれだった、そしてこれからもそうだらうと思ふのです。
 
そして結局建築もその用意の一つとして、發達の爲めのよき環境であらむことに盡きるのです。
 
この意味で目白の校舎は、近世建築界の頂點に立つ天才ライトさんの手になったといふことは自由學園のスタートにおける大きな寄輿であつたと思ひます。十五年前に羽仁兩先生から私に建築の相談のあつた時、當時帝國ホテル建築の爲めに滞在中だった私の恩師ライトさんを御紹介したのでした。
 
十五年たつて、當時生れて間も無かつた長女が學園の女學校に入り、自分が更に南澤移轉の相談をうけるとは、まさに今昔の感慨です。
 
今度の仕事で大事なことが二つありました。一つの舊校舎の内容を更に大きくしたものに、體操館其他を加へた統合を地勢地形に合せて發見することで、も一つはその統合が更に大きく、學園都市としての全統合にいかに考へられなければならないかといふこと。ーー二つの丘とそれを距てた田圃とからなる不整齋な地形をいかに統合するかーー。
 
この爲めには、一方學園將來の展望を明らかに持たなければなりません。女學校のことを考へると同時に中學校のことも含めて考へるといつた様に。
 
 
 
通り一邊の教育を通り一邊の校舎に於いてするなら校舎の建築も單なる事務的所理につきるものです〔「つきる」がひらがななのは原文ママ〕。そこには「建て物」が出来上りますが、建築は出来ません。要は建物を須ゐて建築すること、その一點に盡きるのです。如上の用意を以てする時、あるものを決めるといふことは仲々容易なことではありませんでした。
 
ミスタ羽仁は一ヶ月の間毎日缺かすことなく私の事務所に文字通りの日参を重ね、日曜も休日もなく、研究し合ひました。
 
幾通りかの圖面をかいて愈々決定したのが、現在の新築校舎です。詮ずる所新校舎は羽仁先生との合作だとしみじみ思ひます。
 
新校舎と南澤は、とにかく、新面目を以て現はれました。
 
新校舎は、自由學園本来の面目としての生活本位を表示して、食堂を中心にして配置されてゐます。教室は四棟南面して、食堂からのびた廻廊によつて聯なりつゝ中庭をみます。この中庭は、更に南に一段低く地勢に合せて體操館を持つことによつて完結するのです。體操館は更に教師室、委員室等をその兩翼となしつゝ廣き芝生の運動場を抱える。そしてこの運動場は南の丘に迫りつゝ、それを圍む道路によつて、丘と自らなる聯絡の姿勢を採るのです。
 
これで一通りの陣形が整備したのでした。
 
料理場、裁縫室、科學室、工藝室、便所等は各その所屬に従って附屬し、又は獨立して適當の配備に位置されました。
 
そして最後にも一つ講堂は、此の整備した陣形に對立して右に一段高くアクロポリスの姿勢に建ちながら、全體を引きしめる位置と形に建つてゐます。
 
要するに、新校舎の内容を解剖すれば大體三つの中心がある。これは内容の上からも外容の大きさの上からもそうなのです。「三つ」といふのは講堂と食堂と體操館とです。
 
此の三つの中心が自らなる統合に歸一される一方、生活と渾一體にならなければならないといふよりは、統合に歸一される所に全體の渾一境が所期される。
 
この爲めに、體操館が、位置として最前線を占めながら全體統制の制約に快く服してゐることを注意して頂きたい。
 
この所期する目的は、大體に於いて達成されたものと考へられ、たゞ、教室の四棟がも少し小さかつたならば、従順であつたならば、更に、よくこの意味を體現し得たであつたらうと思ふ。
 
目白の教室は慥かにその點に於いても遙かに成功してゐます。私の一つの悔はこの教室を育て過ぎたといふことです。それは一面慥かに自由學園は教室を育て過ぎてはならないといふ意味を示唆するものとも考へられるのです。
 
九月の學期初めから實際使って見てのいろいろなことがあるだらうとも考へるのですが、九月以來、東京を留守して、其を實際に見、且つ聞かれないことを遺憾に思ひつゝ、工事中留守勝だつたことを深く心に咎めながら、新京の客舎でこれを認めてゐるのです。

(一九三四・一二四)

TEXT

男子部体育館について

去年ささやかな芽を吹いた男子部は、その将来の発展を約束するがごとくに正面に巨然たる体育館を持ったのです。
 
男子部建築構成上の重点として、この体育館は校庭正面の中央、遙かに退いて卓立する。
 
幅八間奥行十三間百〇四坏、天井高二〇尺全て正規の籠球寸法に準拠する。ここに各種の運動器具を設備するのです。
 
さらに両側に幅二間長さ七間半の観覧席ともいうべき場所・および両端に一間幅のギャラリー。
 
左右に翼を張って中二階に更衣室、洗面所、器具置場等々、下に大きくアーチを開いて出入口、これは前後の庭を連絡する。
 
総じて前方一連の教室(今は片側だけでき)、を抱えてやく せざる用意。

ORIGINAL TEXT

男子部體育館について

去年さゝやかな芽を吹いた男子部は、その将来の發展を約束するが如くに正面に巨然たる體育館を持つたのです。
 
男子部建築構成上の重點として、この體育館は校庭正面の中央、遙かに退いて卓立する。
 
幅八間奥行十三間百〇四坏、天井高廿尺全て正規の籠球寸法に準據する。こゝに各種の運動器具を設備するのです。
 
更に兩側に幅二間長さ七間半の観覧席ともいふべき場所・及び兩端に一間幅のギアレリー。
 
左右に翼を張って中二階に更衣室、洗面所、器具置場等々、下に大きくアーチを開いて出入口、これは前後の庭を連絡する。
 
總して前方一聯の教室(今は片側だけ出来)、を抱へて扼せざる用意。

TEXT

南沢の門

門は遅れる。
 
門は書物の序文だから、本論の進行には少しも関係がないけれども、かえってさらに総観的に全体にわたるものがあるので、つねに開巻初頭にありつつなお巻尾の結論に遅れて書かれる。
 
南沢無門の十年がまさにそれで、羽仁さんの家と寄宿舎以来、小学校女学校と次々に本論が進行していながら、南沢有り合せの栗の木門で仮に綴じ込んであった形。それがこの春男子部中学ができて、ようやく門に手が回ったというわけ。
 
これは取りも直さず、いよいよ南沢学園の大観がある完成に熟しつつある証拠です。
 
百年の老松と雑木の疎林とを背景にして、門は大谷石山出しのままの乱積み、巾四尺奥行十五尺高さ四尺。柱と柱の間三間。そこに旗竿を抜きん出てまがう方なく門、学園の門(道はやがて計画に従ってできあがる。)

(一九三五・四・二五・渡満〔かつての満州国に行くこと〕の日の朝)

ORIGINAL TEXT

南澤の門

門は遅れる。
 
門は書物の序文だから、本論の進行には少しも關係がないけれども、却って更に綜觀的に全體に亘るものがあるので、常に開卷初頭にありつゝ猶巻尾の結論におくれて〔「おくれる」がひらがななのは原文ママ〕書かれる。
 
南澤無門の十年が正にそれで、羽仁さんの家と寄宿舎以来、小學校女學校と次々に本論が進行してゐながら、南澤有り合せの栗の木門で假りに綴ぢ込んであつた形。それが此の春男子部中學が出来て、漸く門に手がまはったといふわけ。
 
これは取りも直さず、いよいよ南澤學園の大観がある完成に熟しつゝある證據です。
 
百年の老松と雑木の疎林とを背景にして、門は大谷石山出しのまゝの亂積み、巾四尺奥行十五尺高さ四尺。柱と柱の間三間。其處に旗竿を抽きん出てまがふ方なく門、學園の門(道はやがて計畫に従つて出来上る。)

(一九三五・四・二五・渡滿の日の朝)