ART

東洋の理想

岡倉天心

村岡博訳

Published in 1903|Archived in January 5th, 2024

Image: Katsukichi Hattori, “Front View of the Honden at the Izumo Shrine”, 1933.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

旧字・旧仮名遣い・一部漢字(含地域名・国名およびそれらの古称、また東邦は東洋に統一した)は現代的な表記に改め、一部漢字にルビを付しかつ平仮名に開き、用語統一を施し、〈 〉内にARCHIVE編集部による補足を入れた。
訳者・村岡博による訳注は、本文中の〔 〕内のものを除いて割愛した。
(とりいそぎ)第一章、第二章、最終章(第十五章)を収録した。
傍点による強調は太字に統一した。
底本の行頭の一字下げ・見出しの字下げはそれぞれ上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:岡倉天心・岡倉覚三(1863 - 1913)訳者:村岡博
題名:東洋の理想原題:東邦の理想英題:The Ideals of the East with Especial Reference to the Art of Japan
初出:1903年翻訳初出:1942年(ただし、訳出そのものは『天心全集』〈訳者不明。日本美術院。1922年〉収録の抄訳が本邦初)
出典:『東邦の理想』(岩波書店。1943年。19-37ページ、265-271ページ)

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東邦の理想
ーー特に日本美術に関してーー

 

第一章 理想の範囲

「アジアは一つなり。」ヒマラヤ山系は、孔子の社会思想を有する中国文明と 吠陀 ベーダ の個人思想を有するインド文明との二大文明を分っているが、これは単にこれを強調せんがためである。しかし、この雪をいただく障壁といえども、「究極普遍」に対するかの広大無辺の愛好をば、瞬時たりとも妨げることはできないのである。これはあらゆるアジア民族共通相伝の思想であり、これがためにアジア民族は世界のすべての大宗教を生ずることを得たのである。またこれが、「特殊」に留意し、人生の目的を探求せずしてその手段を探求することを好む地中海およびバルト海沿岸居住民族との区別を示すものである。
 
回教徒〈イスラーム教徒〉のインド征服時代にいたるまで、ベンガル湾沿岸の大胆なる船乗りどもは、古来の公海を航行して、セイロン、ジャバおよびスマトラにその植民地を創建し、アリアン民族の血を残してビルマ、シャム〈タイ〉の沿海地方民族の血と混ぜしめ、中国とインドとを相互交通によって固く結びつけたのであった。
 
幾世紀にもわたる長い収縮時代ーーこの時代にはインドは与える力を失って畏縮し、また中国はモンゴル人の暴虐の大打撃から回復することに余念なく、その知的寛容力を失ったーー収縮時代が、十一世紀ガズニのマームード王の時代に続いた。しかし 韃靼 だったん 〈タタール〉部族という移動する大海の中になお古の交通の活動力が存していた。この波濤は北部の長城に当たって跳ね返りパンチャーブ地方〔印西北部の一地方〕に砕けて氾濫したのであった。 匈奴 きょうど 族〈古代中国北方の遊牧民族〉、 釈迦 しゃか 族〔スキタイ人のインド名〕および 刹帝利 くしゃとりや 〈古代インドの王族〉の怖ろしい祖先である大 月氏 げっし 族〈古代中央アジアの部族〉等がすでにかのモンゴルの大爆発の先駆者であった。ジンギスカンとティムールに率いられたこのモンゴルの進撃は、中国全土におよんで、ベンガルのタントラ教の大洪水を起こし、インド半島に氾濫しては、回教帝国主義にモンゴルの制度と芸術の色を帯びしめた。
 
けだし、もしアジアが一つなりとすれば、アジア諸民族が単一の大組織を成しているということもまた至当な言である。今日の分類の時代にあっては、我々は、種類というものは 畢竟 ひっきょう 類似の大海のなかに輝く判然たる点にすぎないものであり、精神的便宜のために、崇めえるように故意にもうけられた邪神である、がしかし、たがいに置き換ええる二つの学問の別々の存在と同様に、根本的に、あるいはおたがいに他を入れない確実な根拠はすこしもないのであるということを忘れている。もしデリ〔ムガル帝国の首都〕の歴史が回教の世界におよぼした韃靼人の威圧をあらわすとすれば、バグダッドとそのサラセン大文化の歴史は、地中海岸の西欧民族の存在と対抗して、ペルシャの文明芸術と同様に中ご億の文明芸術を立証するセム諸民族の力をあらわすものであることをもまた想起しなければならない。アラビアの武士道、ペルシャの詩歌、中国の道徳およびインドの思想、これらはすべて古代アジアの単一の平和を物語るものであって、そこに共通の生活が発達し、各地方それぞれ別々に特有の花を咲かせたが、どこにも一定不動の分界線をもうけることはできないのである。回教さえも剣を手にした馬上の儒教と称することができる。というのは、河辺〔黄河流域〕の白髪の儒教社会思想のなかに、現今回教民族のあいだに漠然融合顕現されているような純然たる田園的の要素の跡を識別することはまったく容易であるからである。
 
あるいは、さらにまた西方アジアより東方に目を伝ずれば、東方アジア思想の河川系統がすべて合流する の理想主義の大海仏教思想は、清き恒河の流れのみに彩られてはないのである、というわけは、これに加わった韃靼民族もまたその特質を支流となして、新象徵主義、新体制、新信仰力をもたらして仏教の富を増加しているからである。
 
しかしながら、この「複合の統一」をとくに明らかに実現することが日本の重大な特権であった。我が民族のインド韃靼的血液は本質的にこの二源流を汲みえ、したがって、アジア的自覚の全貌を反映しえたる相続財産であった。世界無比のありがたき連綿たる皇統、征服せられたることなき民族の独立自恃の誇り、および膨脹発展を犠牲として、祖先伝来の思想精神を保護していた島国的の孤立は、日本をしてアジア的思想文化という信託物の真の宝庫たらしめた。中国においては、王朝の転覆、韃靼騎兵の侵略、怒り狂える暴民の殺戮蹂躙など数多の事件が幾度も全土を襲い、その後には、中国の文学と廃墟をのぞいては、唐代皇帝の栄華や宋代社会の優雅を回想すべきなんら著名なる事蹟は残っていないのである。
 
阿育王〈アショーカ王〉ーーアジア的帝王の理想的人物でその勅令は 安堵 あんちおく 〔シリアの古の首都〕およびアレキサンドリアの君主に条件を指図したのであるがーーこの王の威勢もバルフトと 佛陀伽耶 ぶっだがや の崩壊しつつある塔や玉垣のあいだにほとんど忘却せられている。 馝柯羅摩訶秩多 びからまあちた の金銀珠玉をまとめた宮廷もただ昔の夢となり、カーリダーサ〈4〜5世紀のインドの詩人〉の詩をもってしてもこれを呼び覚ますことができないのである。インド美術の達成した崇高なる成果は、匈奴の粗暴な取り扱い、回教徒の狂信的聖像破壞主義および射利的なヨーロッパの無意識な美術破壊によってほとんど拭い去られたので、いまはただ過去の壮観を、アジャンタのカビ臭き壁に、あるいはエローラ〈北東インド〉のさいなまれたる彫刻に、あるいは岩を刻めるオリッサ〈南東インド〉の沈黙の抗議に、そしてついには現代の家庭日用の道具に我らが求むるに任されている。この家具においては、優雅な家庭生活のなかにあって美はあわれに宗教にすがついているのである。
 
史上有名なるアジア文化の富を順次にその秘蔵の参考品によって研究することはひとり日本においてのみこれをよくするのである。御物、神社、発掘せられたる古墳などは漢時代の手法の 巧緻 こうち なる曲線を示している。奈良の寺は唐代文化を表現する事物に富み、またこの奈良朝の古典的時代の創作に多大の影響をおよぼした当時隆盛の彼のインド美術を表現する事物に富んでいる。これはかくのごとき注目すべき時代の宗教上の儀式や人生観は言うにおよばず、音楽、発音、礼法、衣装までもそのまま保存してきた国民に当然の祖先伝来の宝である。
 
さらにまた大名の宝庫も宋およびモンゴル時代に属する美術品や写本に富んでいる、そして中国本国においてさえ美術品はモンゴル征服の時代に失われ、また写本は明の反動時代に失われたので、これに活気づけられて現代の中国の学者のなかには彼らの古代の知識の淵源を日本に求めている者もある。
 
かように、日本はアジア文明の博物館である、さらに博物館以上である、なんとなれば日本民族はその無類の特質によって、古きを失わずして新しきを喜び迎えるかの現代的不二論の精神をもって過去の理想のあらゆる変化に留意しているからである。神道は依然として仏教以前の祖先崇拝の儀式を墨守しており、仏教徒さえも、順次自然に発達してこの国土を富ましむるにいたった各宗派にそれぞれ執着しているのである。
 
藤原貴族政治の制度のもとに唐の理想を反映している和歌および舞楽は、宋の開明時代の所産であった荘重な神学能楽と同様に、現代にとって霊感と歓喜の源泉である。日本を向上せしめて現代の強国の地位につかしめるあいだにさえも日本をアジア魂に常に忠実ならしめているところのものは実にこの粘着性である。
 
日本美術の歴史はかくしてアジアの理想の歴史となる、すなわちあいついで打ち寄せる東洋思想の波濤が国民的自覚に対して激しく当たったときに 砂漣 されん を残していった渚である。しかし私はその美術理想の概要をよく会得のいくように述べんと企てるに当たって茫然として低徊するのである。なんとなれば美術は 因陀羅網 いんだらもう のごとく、その一つ一つの宝珠が全宝珠を反映しているものであるからである。いかなる時代にもその決定的の型になって存在してはいないのである。年代学者の解剖刀を無視するやまざる成長である。その発達の特殊の一点を論述することは、その過去および現在を通じて無数の原因結果を論ずることになるのである。美術は我々においても他の国におけると同様に我が国民文化の最も高い最も貴い表現である。ゆえに、これを了解せんためには、儒教哲学の諸相、仏教精神がときどきに示した種々の理想、つぎつぎとそれぞれの旗を翻してきたかの幾多の政治上の大時代、愛国的思想として現われた詩歌の光と英雄の面影の反映、および群衆の号泣の声とおなじく、民族哄笑の狂気のごとき歓楽の反響などを検討しなければならないのである。
 
それゆえに、泰西〈西洋〉の国々が、日本美術にかんする諸種の四囲の情況や、かの美術があたかも宝石のごとくはめられているこれに相関の社会現象にかく無知でいるあいだは、日本の美術理想の歴史を書くことは、ほとんど不可能のことである。定義は制限である。雲の美しさ、花の麗しさは、これが自然に無意識に開くところに存している、そして時代の傑作の沈黙の雄弁は、必要な半面の真理を伝えるにすぎないいかなる概要よりも立派にその身の上を物語ること必定である。私の拙い試みは単なる指示であって物語ではないのである。

第二章 日本の原始美術

日出づる帝国を建設せんがために向かうところ原住民アイヌ族を駆逐してこれを蝦夷および千島に追うた大和民族の起原は、この民族発祥の地海霧深きところに隠れているので、その芸術性の淵源を臆断することは不可能である。大和民族は、アカド民族〔バビロニア南部のシナル国の都市アカドの住民〕が東南アジアの海岸島嶼を通過する際に韃靼諸民族とその血液を混じたというその民族の残存であったか、あるいはつとにインド太平洋沿岸に植民せんとして、満洲朝鮮を通って出て来たトルコ遊牧民の一部族かあるいはカシミアの険を通って進出し、チベット族、ネパール族、シャム族、ビルマ族などを成しているツラン諸族のなかに姿を消し、また現われて揚子江の人々にインド象徴主義の力を一層加えたところのアリアン移住民の後裔であるかは、なお考古学上憶測の雲に包まれている問題である。
 
歴史の曙光とともに大和民族は、戦に勇猛に、平和の文芸に温雅に、天孫降臨とインド神話の伝説を吹き込まれていて、詩歌を愛好し、婦人に対して非常な敬虔の念を抱いている、こじんまりした民族として現われている。神道として知られているその宗教は祖先崇拝の簡単な儀式であった、すなわち太陽神を中心としていたオリンパスの山ともいうべき霊山高天の原にいます諸々の神のお引き寄りにあずかった祖先の魂を敬い祭ることであった。日本の家族はことごとく皇孫の天の 八重雲 やえたなくも を排分けてこの島へ天降りました際にしたがいたもうた 諸神 もろがみ 〔五作緒(いつとものを)〕の後裔であると主張している〈『風土記』、『古事記』、『日本書紀』における天孫降臨の逸話〉。かくして連絡たる皇統をめぐって団結している国民精神を一層強烈ならしめている。我々はつねに「我らは天降る」というが、これは天か海かラマの国(?)か、サカキ と鏡と剣の単純な古来の儀式のほかにはなんらこれを伝うべきものはないのである。
 
風に揺らぐ稻田の波、個性発達に資すること多き群島の変化に富める輪郭、落ち着いた色合の季節の絶えざる動き、銀色に光る空の微光、 飛瀑 ひばく 隠見する丘の新緑、 磯馴 そなれ 松をめぐらす海岸に響き渡る 濤声 とうせい ーーこれらすべてのものから、日本美術の精を非常に和らげているところのかの柔和な古朴、中古風の淳美が生まれたのである。これによって日本美術は、中国美術の単調な雄渾の傾向とは差異を生じたと同時にインド美術の過重な豊麗の傾向とも区別を生じたのである。我が国の工芸美術および装飾美術に巧緻な最後の仕上げを与えるところの彼の固有の清浄を愛する心は、ときには豪放雄大を害することもあるけれども、おそらく大陸の作にはどこにも見出されないであろう。
 
インドのトーラン〔鳥居に似た仏寺の儀式用門〕を多分に想起させる鳥居や玉垣のある清浄無垢な祖先崇拝の神聖な社である伊勢の大廟および出雲大社はその原型のままに二十年毎に若さを新たにして、簡素な調和美しく、太古の姿をそのままに保存せられている。
 
ドルメン〈古代の巨石墓〉はその形状が本来の卒塔婆に連関して深い意味をもち、また男根像の原型を連想せしめるところのものであるが、このドルメンのなかには立派な形状の石棺や 赤土燒 テラコッタ 棺が入っていて、その棺はときによると相当に美術的価値のある模様で覆われていたり、また青銅、鉄、その他多様な色彩の石材に非常に洗練された手法を示している礼拝用具や個人の装飾具などを含んでいることもある。塚の周囲に置かれていて、さらに遠い古の殉死をかたど るものであると考えられている埴輪はしばしば原始的大和民族の芸術的性能を証するものである。しかし、この古代において我が国に達した中国漢代の円熟した文芸の伝来は、我が文化よりも一層古い文化の富をもって我々を圧倒し、さらにべつの高度の発達を遂げんとする新たな努力となって我々の美的活動力をまったく吸収したのであった。
 
我が文化が漢の影響を奪われていたとしたら、また後に渡来した仏教思想の影響がなかったとしたら、日本の美術はどんなになったであろうか、これを想像することは困難である。ギリシャがエジプト、ペラスギ〔太古ギリシャ、小アジア地方に住みたる民族〕ありははペルシャという背景を失っていたとしたら、その溌剌たる芸術性があるにもかかわらず、ギリシャが到達しえなかったところがいかに多かったであろう、誰かあえてこれが臆測を試みえよう、もしチュートン民族〈ゲルマン民族〉の美術がキリスト教および地中海沿岸民族のラテン文化の接触から分離せられていたとしたら、その 索漠 さくばく たることいかばかりであったろう。我々はただ、我が原始的美術の本来の精神は決して枯死するままに委せられてはいなかったと言うことができる。この精神は中国建築の傾斜せる屋根を奈良の春日式の優美な曲線によって修正した。この精神は藤原時代の創作物に女性的の優雅をもたらし、足利時代の荘厳な美術に剣魂の純潔を印している。またその流れが積もる落葉の下を流れるときもなお時折その光輝を放ち、これを覆い隠す草木を培っている。
 
この事実とはべつに、日本のいかんともしがたい固有の運命、すなわち日本の地理的位置が、中国の一地方あるいはインドの植民地としての知的任務を日本に提供したように思われるであろう。しかし我が民族的誇りと有機的統一体という盤石は、アジア文明の二大極地より打ち寄せする強大な波濤をものともせず千古揺らぎなきものである。国民精神はいまだかつて圧倒せられたることなく、模倣が自由な創作力にとってかわったことも決してなかったのである。我々のこうむった影響がいかに強大なものであっても、つねにこれを受け入れて再び適用するに十分ありあまるほどの精気を備えていた。アジア大陸の日本への接触がつねに新生活と創作の 感興 かんきょう に利するところがあったということはアジア大陸の栄誉である、天孫民族〈いわゆる大和民族の神話上の祖型〉が他から征服を受けないでいるということは、単にある政治上の意味からのみならずさらに一層深遠なる意味で、生活、思想、芸術における生きた「自由」の精神として天孫民族の最も神聖なる光栄である。
 
勇ましき神功皇后が御心を燃え立たせたまうて、大陸帝国をものともせず、朝鮮の属国を保護せんために雄々しく海を渡らせられたのは実にこの御自覚のためであった。隋朝の 煬帝 ようだい 〔隋第二代の皇帝(在位六〇五ー六一六)。〕を「日没する国の天子」と呼んで、驚愕せしめたのもこの精神であった。ウラル山脈を越えてモスクワに達することになっていた勝利と征服の絶頂にあった 忽必烈汗 フビライハン の傲岸な脅威を無視したのもこの精神であった。日本が今日さらに一層深い自尊心を取得する必要のある諸種の新問題に雄々しく直面して立っているのは、まさにこのおなじ勇猛なる精神によるものであるということを決して忘れないことが日本自らのためである。

第十五章 総叙

アジアの簡素な生活は、今日蒸気と電気のために、アジアがヨーロッパと著しき対照をなしていても、なんらこれを恥として憂うる必要はない。旧時代の商業界、職人と行商人の社会、村の市場と縁日の社会、小舟が地方の産物を積んで大河を上下する社会、宏壮な邸宅にはことごとく多少の庭があって、そこで旅商人はその織物や宝石を陳列して、美しい 被衣 かつぎ をした婦人がこれを見て買うことができるような世界はまだまったく廃れてはいない。しかしてこの形式はいかに変化しようとも、非常な犠牲を払う覚悟でなければアジアはその精神の消滅を許すことはできないのである。なんとなれば、幾世紀にわたる祖先伝来の賜物たるかの工芸的装飾的美術は、すべてこの精神によって保存せられてきたものであり、この精神を失うとともに、アジアは物の美しさを失うのみならず、作者の喜び、その想像力の個性、および年久しきにわたるアジアの労働の教化をまったく失わねばならないからである。けだし、自ら織れる織物を身にまとうは、自らの家に住まうことであり、精神にそれ独特の活動範囲を作り出してやることである。
 
いかにもアジアは時間を滅却する交通機関の熱烈なる歓喜はすこしも知らないが、しかしいまなお巡礼や雲水という遙かに深い意義をもつ旅の修養がある。けだし、村の主婦達から食を乞い、あるいは黄昏時に何かの樹蔭に坐して、土地の百姓と談笑喫煙しているインドの行者こそは真の旅人である。行者からみれば、在郷は単にその自然の地形のみで成っているのではない。それは習慣と連想との連鎖であり、人間的要素と伝説の連鎖であって、たとえわずかの束の間でも、在郷の人の身の上に起こった出来事の喜び悲しみをともにした人の親切と友情がみなぎっている。さらに、我が国の里人が名所見物に出かけると、かならずそこに発句を残している。これはどんなに無学な者にでもできる芸術様式である。
 
かかる様式の経験を経て、東洋の人物という観念、すなわち円熟した活きた知識、堅実でしかも穏和なる、人間の調和ある思想感情としての人物の念が養われるのである。かかる交換の方法によって、真の教化の手段として、印刷した指針ではなく、実際の東洋人間交際の観念が維持せられているのである。
 
対照の連鎖は限りなく延長することもできよう。しかし、アジアの光輝は、これよりもさらに明確なものである。これは、すべての胸に鼓動する平和の 顫動 せんどう に存している、天子と農民とをともに結ぶ彼の和合の精神にある、あらゆる惻隠の心、慇懃の情を起こさしめる結果となる彼の崇高なる一心同体の直覚力にある。これによって、我が高倉天皇は「霜夜に国土の民どもが、いかに寒からんとて、夜の御殿にして御衣を脱がせたもうた」のである〈村岡博の註によれば、正しくは後醍醐天皇の挿話らしい〉。また唐の太宗は民の飢饉に苦しむゆえをもって食を控えたこともある。アジアの光輝は、 菩提薩埵 ぼたいさった を一切 有礙 うげ が成仏するまで涅槃に入らざる者として描く大悲の夢に存している。貧窮の周囲に燦然たる光彩を放ち、インドの王侯に厳粛簡素な衣をまとわせ、中国においては、世界中の俗界の大支配者のなかにただひとり決して帯刀しない帝王の王座を創設している彼の「自由 無礙 むげ 」の崇拝に存している。
 
以上のものはアジアの思想、科学、詩歌、美術のもつ神秘の力である。その伝統から引き離されては、インドはその国民性の精髄たるかの宗教的生活を失い卑賤な、虚偽な、新奇なものを崇拝するにいたるであろう。中国が精神文明のかわりに物質文明の問題のうえに投ぜられたならば、中国は、遠き昔、中国商売の口約をば西洋の法律的証文のごとくならしめ、その農民の名称を、繁栄の同意語たらしめたかの古来の尊厳と道徳との死滅の苦悩に悶えるであろう。また、「あま 」の民の祖国日本は、その清らかな精神の鏡を曇らせ、剣魂を鋼鉄から鉛へと 貶下 へんげ して、我が破滅の完成を露わすであろう。これにおいて、今日アジアに課せらるる仕事は、アジア的様式を護りこれをさらに緊張する仕事となる。しかし、これを果たすためには、まずアジアは自らこの様式の自覚を認めてこれを発達せしめなければならない。なんとなれば過去の影は未来の望みである。いかなる樹木も種子に存する力より偉大なることはできない。新生〔永生、救いのこと〕はつねに自己に帰るに在り。実に多くの福音伝道者がこの真理を吐露しているではないか。「汝を知れ」とはデルファイのアポロの神託の伝える最大の神秘的教戒であった。「萬物皆備於我矣」と孔子〈正しくは孟子〉の静かな声が言ったまたさらにおなじ御告げを伝えるインドの物語は一層顕著なるものである。というのは、仏教徒の伝えによれば、たまたま大師がその弟子を周囲に集めたときに、その前に突然ーーまったき修行を積んだ 跋闍羅波膩 ばじゃらぱに をのぞいてはすべての者の視力を失わせてーー恐るべき姿、偉大なる神の 濕婆 シヴァ の姿が燦然と現われた。そのとき、他の弟子達は皆目が見えないので、跋闍羅波膩は師の方へ向かって「恒河〈ガンジス川〉の真砂子程の数あるかほど多くの星辰諸神のなかを探し求むれども、どこにもかかる燦然たる姿を見ざるは何故なるや、何人におわすや」と尋ねた。すると仏陀は「これ汝自身なり」とのたまい、跋闍羅波膩はたちまち成仏したといふことである。
 
日本を再生し、日本をして、東洋の社会の多くのものが倒された暴風を冒して進むをえしめたのは、わずかなるこのの自己認識であった。アジアをその 往古 おうこ の強固と威力あるアジアに再建するものは、おなじく自覚の更新であるに違いない。この時勢そのものが、前途に展開する発展の可能性の多様によって呆然としている。我が国ですら、明治時代の紛糾混乱の 濕婆 シヴァ 糸のなかには、自らの将来を解く端緒となるような 一子 ひとこ の糸筋を見出すことはできないのである。我が国の過去は曇りなく、水晶の珠数のごとく連綿としてつづいている。大和魂によって、インドの理想と中国の道徳とを受け入れ、これを精選淘汰するものとして、国民の将来の運命がはじめて授けられた飛鳥時代の昔より、これに継ぐ奈良平安の準備時代を経て、藤原時代の限りなき三昧に、鎌倉時代の豪放なる反動思想に(これはついに、非常に厳粛なる熱情をもって死を憧憬したる足利武士道の厳しき宗教的熱狂と崇高なる精進となったのであるが)、我が国民の莫大なる力を発揮するにいたるまで、すべてこれらの時期を通じて国民の進展は、一個人の発達のごとく、曇りなく混乱なきものである。豊臣および徳川を通じてみても、東洋風に、活動の律動は大理想の民衆化という一時の鎮静をもって終わっている。庶民および下層階級は、外観は安閑平凡にみえても、武士の献身、詩人の哀愁、聖者の神聖なる自己犠牲を彼ら独特のものとなしている、すなわち彼らは社会的 羈絆 きはん から放たれて、実際、国民的相続財産を継承しているのである。
 
しかし、今日は大多数の西洋思想が我々を混乱せしめている。世人の言うごとく、大和の鏡は曇っている。明治維新とともに、日本はまったく過去に立ち戻り、そこに日本が必要とする新しい活力を求めている。およそ真の維新の特徴として、明治維新も、多少の相異はあるが、一種の反動である。けだし、足利時代にはじめられたかの自然に対する美術の献身は、いまや民族へ、人間そのものへの奉献となった。我々は我が国の歴史のなかに、我が未来解決の鍵が存していると直覚的に確信し、その鍵を発見せんとして、見境もなくはげしき模索をしているのである。しかし、もしその考えが正しきものであり、また、もし実際我々の過去に、くしくも更生の源泉が潜むとすれば、いまこの秋こそ、この泉はある大補強を必要とすることを認めねばならない、というわけは、現代の俗悪の焼くがごとき旱魃は人生と芸術の咽喉を涸渇せしめつつあるからである。
 
我らは、闇を切り開く電光閃く剣をもつ。なんとなれば、恐るべき静寂を破らなければならない、そして新しき草花が咲き出でて、その花をもって地上を覆いえる前に、新しき生気を含む雨滴がこれを清新にしなければならないのである。しかし、アジアを覚醒する大声叱咤の声は、アジア自身の口から、民族古来の伝統の街道に沿って聞こえて来るに違いない。
 
「内部よりの大勝利あるのみ、しからずんば外部の大敵に倒れるべし」