PHILOSOPHY

エリオットについて

西田幾多郎

 

Published in 1934|Archived in December 1st, 2023

Image: Kawasaki Kyosen, "Japanese Toy", 1919.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原文の改行に則して小見出しを付し、旧字・旧仮名遣いは現代的な表現に改め、一部の漢字は開き、さらに改行を施した。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:西田幾多郎(1870 - 1945)
題名:エリオットについて原題:傳統主義に就て
初出:1935年(『英文學研究』十五巻二號)
出典:『西田幾多郎全集 第十四巻』(岩波書店。1966年。371-385ページ)

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直線の時間が
円環にまとまる

ただ今、石田君からご紹介の西田であります。この学会で何かお話をとのことでありますが、英文学には全くの素人であります。ただ石田君からT.S. Eliotの評論や詩について伺ってみますと、その考えが何となく私が、現に考えている哲学上の立場と結びつくように思うので、そういったことをお話してみたいと思うのであります。

 

私の話は私の哲学上の考えが主となるかも知れませんが、そのほうが逆にEliotを理解する助けになるかも知れません。元来Eliotの批評の立場、作詩の態度は普通の世界観や人生観からはしっかりと理解し難いかも知れませんが、真に深い世界観や人生観からはどうでありましょうか。彼は詩人として彼の考えを述べているだけで、哲学的に考えたのではありません。しかし彼の考えの中には将来の哲学の考え方となるようなものが含まれているのではないでしょうか。私は世界というものが、どういうものか、どういう構造を有するかということからお話してみましょう。

 

解り易くいうならば、この世界は時間空間の世界であります。私たちの住んでいる世界は空間的であると共に動く世界として時間的であります。例えばここにコップがありますが、それは単に空間的ではなくしてまた時間的である。時間的に生じて時間的に滅んで行くのであります。かかる世界の構造をどこまでも深く考えて行けばいかになるか。空間のほうは一般に考えられている考えで支障なしとしても、時間の構造については普通の考え方では不充分であります。この現実界を明らかにしようとするなら、あくまでも深く時間の構造を考え貫かなければならない。その根本的な時間の考えから、いろいろな実在界の意味が説明されるのであります。それなら時間とはいかなるものであるか。

 

TはTimeを示しSはSpaceを示すとすれば、そのTとSの関係は次のようになります。すなわち時間は普通には過去無限から未来無限にわたる直線と考えられ、空間はそれを横に切る横断面と考えられる。時間は直線的、空間は円環的であります。しかし時間は単に一本の連続した直線かといえばそうではありません。時間はstep by stepに動くのであります。その一歩一歩にe1e2e3……という符号を与えましょう。eとはEinzelnesの意味であり、一歩一歩がそれぞれに個別的であることを示すのであります。場所でのstep by stepに動く時間に対し空間をAで表します。AとはAllgemeines即ち普遍を示すものであります。そうすると時間というものは、e1e2e3……の系列において動く、一歩一歩が切れて動くのであります。もっとも我々は瞬間そのものをつかむことはできない。しかし瞬間はstep by stepに切れて行く、eは互いにdiscreteと考えられるのであります。そのことはその一々が生まれまた滅するということなのであります。必ずしも瞬間的なものを考えなくとも、時間的なものは一般に生まれては消えるのであります。その一々が独立の意味を有している、それだけで生まれてそれだけで死ぬ。単に縦の線においてのみ現われる一的なものである。時間とはかかる独立なものが続いて行くことである。しかし独立なものが続くとはどういうことであるか。あくまで互いに独立なものであるならば互いに連続し得ないのではなかろうか。かく考えてくれば時間は単に直線的なものとして連続して行くのではないのであります。
 
互いに独立したe1e2e3……が続くのはそれが単に直線的に続くのではなくして円環的にまとまるからである。普通に考えるように単に直線的のみのものであるならば時間にはならない。eとeとが結びつくためには空間的な関係が考えられなければならない。普通に時間はseriesと考えられるが、時間がまとまるという以上、円環的なcircularな意味があるのであります。縦の関係だけではなく、横の関係がある。時間というものをどこまでも深く考えて行けば、その根には普通の意味とは異なるかもしれないが空間的な意味があるのであります。しからば空間とはいかなるものであるか。

世界の根源は
時間と空間の合一である

空間は時間の横断面であるのですが、この一般者として、Aで表される空間というものが時間を結びつけるものなのであります。まことに昨日のことは昨日のこととして今日は既にもはやない。しかし記憶としては残っている。過ぎ去ったものがなお残っているのであります。また未来というものはまだない。しかし今日の意識の野の上に、明日のことが何か期待されて現われているのであります。
 
このように意識の野というようなものを考えても、それが円環的であるからして、そこで時間が結びつくのであります。昨日のことと毎日のこととが円環的な意識の野において結びつく。かく考えればfield of consciousnessがなければ時間は成立しないのであります。しかし昨日と明日の結びつきなら意識の野でよいのでありますが、例えば私の未だ産まれない前死んだ後のことはどうなるか、それをも現在と結びつけるのは空間的なものに基づくのであります。昨日は既に私の昨日の経験は寝ることによって一度消えました。しかしそれを今日思い起こしている。そしてその際、昨日の意識の野と今日の意識の野とは別々でなければならない。この点から考えれば単に意識の野が昨日と今日を結ぶのではないといわねばらならない。そして普通にも脳髄が昨日と今日を結ぶと考えられますが、脳髄はもとより空間的である。
 
こうして空間が、消えてまた現われる時間を結合するものなのであります。絶対な意識の野は絶対な空間において結ばれているのであります。かくして絶対の時間即絶対の空間、絶対の空間即絶対の時間として時間と空間は結びつき、この結合からして我々の世界は成立しています。それ故、次のような方式を示すことができましょう。個々の時間を示すe1e2e3......に対しその時間の全体をEで示します。そうすると個々の時間を一つの時間にまでまとめたものはかえって絶対な空間、即ちAであったのですから、時間の全体、即ち絶対の時間は絶対の空間とidentity(同一)となり、A≡Eの方式が成立するのであります。さてこのA≡Eである所のものをMと名付けます。MとはMedium、即ち媒介者の意味でありまして、現実の世界はA≡Eという根本形式によって媒介されて成立していることを示すのであります。現実の世界は単に時間的でも単に空間的でもなく時間即空間として、その根底においてA≡Eなのであります。これが現実の世界のfundamental formなのでありますが、ではそれからいかにして現実の世界が考えられるのでありましょうか。

時間・空間・世界・物

現実の世界はA≡Eであり、時間即空間であり、時間空間のidentity(同一)です。もっともここで私がいう同一とは単に等しいものが互いに等しいという意味の同一ではない。そういうことは単なるtautologyに過ぎない。
 
真の同一とは、今時間と空間について語ったごとく絶対に異なるものの同一である。時間と空間はあくまでも矛盾するもので、互いに一つにはなれない。しかし、その矛盾するものの統一が真のidentityなのであります。そしてかかる同一が見られる限り一つの世界が成立しているのであります。例えばこの部屋は単に空間的でも時間的でもなく、時間空間の同一として一つの世界をなしている。このように互いに結びつかぬものが結合しているところに世界があるのでありまして、世界は矛盾の統一であるということができましょう。
 
さてこの世界は自らの内部に無数の物(thing)を含んでいる。かかるthingをmで表わすならばMの内部には無数のmがあるのであります。しかるに時間空間の統一として矛盾の統一でありますから、その内にある個々のmはそれぞれに矛盾の統一であります。つまり一つの世界が存在する限り、その内には一つの定まった物、限定された物が見られるのであり、限定された物が見られる限り、それを含む世界が成立しているのであります。時間的空間的である物の成立は、まとまった一つの世界と相伴っている。したがって我々が物をperceiveするということは同時に一つの世界の成立である。これを要するに時間空間が一つ世界を形成する。TとSが一つのMとなる。しかもかかる世界がある限り無数の物がperceiveされているのである。
 
つまり私は時間、空間、世界、物という四つの概念を一つに掴んで理解していただきたいのであります。

この世界は行為において成立する

では次に我々が主観とか客観とかいっているものはかかる立場からいかに考えるべきでありましょうか。我々の自己は時間的である。我々の人格は直線的であり時間的である。私は若くはなれない、私は昔には帰れないのであります。そこに私の人格がある、人格は時間的である。しかし単に時間的かといえば個々のeを大きなEにまで結合するためにはその根底には何か空間的なものがなければならない。しかしそのEだけを取り出した時に、これが主観界(subjective world)と呼ばれるのであります。EはMの一面としてE≡Aとしてあるのであります。それ故単なる主観界だけがあるのではない。主観界には必ずそれに対する空間的世界がある。それが客観界(objective world)なのであります。
 
主観界は時間的、客観界は空間的、粗雑な言い方ではありますが主観界は精神的、客観界は物質的ともいえましょう。内界はEであり、外界はAである。しかし内界と外界という二つの世界が別々にあるのではない。二つの世界は互いに結びついているのである。もし結びつかねば二つの世界は共に失われる。もし私が働くということがないならば、即ち私が外界と関係するということがなければ私はない。もしかかる私がなお在りとしても、その私は夢のようなものに過ぎない。Real selfは行為において外界と交渉するところに存するのであります。また逆に物の世界は行為において我に触れるところに成立する。
 
かくして現実の世界は空間的時間的であり、主観的客観的であります。およそ存在するものはすべてかかる世界においてあるものとして、主観界に属すると共に客観界に属するのであります。主観界に関係せぬ客観界は無に過ぎない。かくて何等かの物がperceiveされるという時、主観と客観のidentityが見られ、ここに一つの世界が成立するのであります。逆にいえば一つの定まった世界が成立することはperceptionが成立することなのであります。

結合不能の結合
不連続の連続

世界は主観客観の統一である。しかしその意味は、従来の哲学で考えられてきたように、何か主観界、客観界というものが別々にあって、それが対立しつつ結合しているという意味ではない。真に主観と客観の対立する世界は深く考えるとどういうものでありましょうか。客観は単に物や自然であり、主観は単に心でありましょうか。そう考えるところに従来の哲学の足りない点があるのであるが、普通には世界というものを主観と客観の相交るもののように考えています。心半分、物半分と考えている。しかし時間と空間は全く別のものである。主観と客観は全く結合しないものであります。
 
心半分、物半分というようなものではなくて、心と物、時間と空間は絶対に相反する、したがってその結合は絶対に反するもの、絶対に結びつかないものの結合でなければならない。そこに表現というものが考えられるのであります。表現とは絶対に結びつかないものの結合なのであります。それは非連続の連続(continuity of discontinuity)ということもできましょう。
 
表現とは絶対に結びつかない私と汝とを結合させるものであります。もともといかにして私と汝は結合するか、もし私の身体も汝の身体も物質に過ぎないとすれば、その時は私と汝はいかにも結合するであろうけれど、私も汝も単なる物質となって消えてしまう。またあくまで互いに独自の個体と考えれば、私と汝は結びつきようがない。私の心と汝の心が直接に結合するとすれば、私は汝となり、汝は私となって共に消えてしまう。そういうわけで物と物との結合はあっても人と人との結合はない。その結合しない私と汝を結合させているものが表現なのであります。
 
絶対に結合しないものの関係が表現的関係なのであります。主観客観の世界において、あくまでも主観が客観に対するという時、両者の関係は表現的となる。その関係は単なる主観客観ではなくて、むしろ私と汝の関係となる、continuity of discontinuityなのであります。それで実際の世界は我と汝の世界である。我に対する世界は物ではなくてむしろ汝である。我々が世界に対して行為せんとする時に、その世界は汝の意味を有し来るのであります。

未来と過去は、
前後ではなく横にある

かかる世界は歴史的に動くのでありますが、歴史の進行の仕方はいかなるものであるか。一つの時代において一つの世界が考えられる。その世界はA≡EであるMの世界であり、まとまった一つの世界であります。そしてかかる世界が成り立つということが、物のperceptionが成り立つということであり、我々が物をperceiveするということである。現在の世界とは物がperceiveされる世界である。
 
Eliotは“The Metaphysical Poets”においてdissociation of sensibilityを批判してTennysonやBrowningは思想をバラの香りのように感じなかったが“A thought to Donne was an experience; it modified his sensibility”といっている。私がここにperceptionというのは、主観客観のまとまったものとして、thought=experienceなものである。かかるperceptionが成立するということは世界が成立することである。
 
そしてその世界は動くものなのであります。何故かといえば世界とはA≡Eであるような矛盾するものの自己同一であるからであります。そこでは時間的に動くと共に空間的に止まろうとする。空間において時間は滅ぶと共に、空間はあくまでも時間的に動く。こうして世界はinitselfy contradictoryでありながら、しかもunityを有している。Perceptionは矛盾せるものが一つになっていることである。そこで世界は壊れ、時代は変わって行く。A≡EであるようなMであるが故に、世界はM1-M2-M3と時代から時代へ(from generation to generation)と変わって行くのであります。しかし、時間的に考えればM1M2M3は(それぞれに自己同一的でありながら)次々に変わって行くのでありますが、はたして世界は単にそのように変わるだけのものでありましょうか。
 
変わると共に一方に円環的なものがなければならない。現在に対して過去は後にあるのではなくて横にある。同じように未来も先にあるのではなくて横にある。M1M2M3は縦に並ぶだけではなくて横に並ぶ。即ちすべての時代は変わると共に同じ空間の内にある。時代はfrom generation to generationと変わりながら、どこまでも円環的なのであります。これが世界の構造であります。
 
そして現在の世界から見れば過去の世界は全く現在に対して独立的な過去として、しかも単なる過去ではなく、それは私に対する汝として現在の我に対するのであります。即ち表現的世界として私に対するのであります。過去の歴史の全体が表現的に汝として我々に対する。我々の歴史はfrom generation to generationと変わるのではありますが、絶対の現在においては常に同時的である。
 
私は世界の構造をかく考えるのでありますが、つまりrealityはhistorical realityなのであります。従来の哲学はnatureの実在を考えてきたのであるが、それでは抽象的である。実在は動く所にある。現在は歴史的である。自然はその一面に過ぎない。現今の物理学においては、もはや昔のごとき自然は考えられていない。その自然は非連続の自然である。自然そのものの内に実験とか計量とかいうような歴史的な意味が含まれている。かうして現在の物理学はIndeterminismの立場をとるのでありますが、それは歴史的世界から考えるからそうなるのであります。

伝統は未来と過去を抱え込む

以上述べたごとき考えからEliotのことを考えるとよく解ると思う。伝統というものはどう考えたらよいか。世界はM1M2M3と移るのであるが、それは互いに円環的に結び合って現在の世界に対しては一つの汝として現れる。世界の成立には統一が必要である。つまり何等かのperceptionが成立するところに世界が成立するのである。
 
そしてそれを可能にするものが伝統なのであります。例えば日本の世界は日本的に見、感じ、働くところに成立する。日本の社会の成立の根底には伝統があるといえるのであります。かかる伝統は過去と未来を有している。それは直線的即円環的、円環的即直線的として世界を成立せしめるのである。過去が現在と同時であることによって歴史が構成されて行く。
 
伝統が歴史的世界を可能にする。現在は現在だけのものでなく伝統を有している。過去と未来は現在と無関係ではなく、かえって同時的である。歴史の全体が一つの伝統によって成立するのであります。普通に伝統というものを単に主観的な伝説というごときものと考えるのでありますが、かかるものなら無意味のものであって、本来の伝統というものは、歴史の根源をなすものなのであります。我々の歴史的生命の成立可能の根底をなすものであります。
 
それは我々に対して向かうに立つものであり、単なる自然ではなくて一つの汝である。我に対する命令者であり、表現的なるものである。真のperceptionは伝統を有するもののみが可能である。そしてその時すべてのものはhistorical thingとなるのであります。

芸術が過去と現在を結合する

Eliotが“Tradition and the Individual Talent”において言っているように、伝統というものは単なるhanding downではない、lost in the sandのごときものではない。かくのごときものに比すればNoveltyのほうがまだしもましである。
 
伝統はinheritされるものではなくしてgreat labourによってのみ得られるものなのであります。現実の人間として我々がそこで働くA≡EのMの世界は主観客観の統一を求める世界である。文化的に働くということは統一を追求することである。そこにgreat labourが要求される。そして歴史を可能にする深い声を聴くのであります。したがって伝統はhistorical senseを含むということができましょう。
 
我々が現在の世界で働くということは主観客観の世界が自己自身を統一するということであり、我々と世界は離れ離れのものでなく我々が働くことによって物を見、物がまた逆に我々を動かすのである。そこに世界の成立を見るのである。かくして世界の統一を可能にする汝を見ることがhistorical senseなのであって、したがってhistorical senseはperceptionを持つといえるのです。それはただ過去が過去であることではなく、過去が現在だということである。過去は自分の向かいに同時的に立っている、simultaneous existenceを有している。Historical senseにおいてはEliotのいうごとくthe timelessとthe temporalとが一つになっている。この立場から考えて行こうとするのがEliotの伝統主義なのであります。
 
過去と現在の結合、即ち過去の真の芸術の伝統に対することによって初めて真の芸術が現在新しく生じ得ると考えるのです。もっともここで伝統といっているのは主観的な伝統ではなく、客観的な伝統である。歴史の成立には向こう側に自然が置かれているのでは不可能である。向こう側に立つものは汝でなければならない。既にmythologyやlegendにおいても自然は汝と見られている。このように表現的関係から歴史は成立するのです。
 
そのように過去は一つの汝でありますから、現在新しい芸術が成立することは汝としての過去が変わることなのです。過去は単に縦にあるのではなくして、横にある、現在と同時にあるからであります。縦に過去から働くということは横に世界が広がることである。M1M2M3はいつもすべてを包む大きなMの内で成立する、現在もそこから成立するのである。それが世界成立させている伝統が現れることである。過去が変わって行くことであり、また一つの伝統に結ばれることなのです。こうして伝統が働いて行くのであります。
 
EliotがArnoldの詩が“highly organized form of intellectual activity”といったことによってintellectというのは、かかる過現未を統一する一つのcontemplative activityでなければならない。伝統は単に主観界を組織するものではなくして客観的に世界構成を可能にするものとして、そこにthoughtとsensibilityとが一つになったものでなければならない。前にも云ったごとくEliotはTennysonやBrowningはthoughtを薔薇の香りのごとくにfeelはしなかった。しかしDonneにはthoughtはexperienceであったと云っているのはこのことである。
 
伝統がcatalystとして世界を統一する、そこがperceptionであると共にintellectである。そこに詩が産まれて来るのであります。

超越の伝統へ

伝統という以上古代を考え、古典的なる時代を考える。しかしギリシャでは時間というものが積極的な意味を有していない。世界はA≡EのMとして矛盾の統一として成立するとするならば、ギリシャの世界は主として空間的であって、時間は空間の中に含まれてしまっている。かくしてギリシャの世界は動かぬものとなり、したがってそこには伝統というものの働きがない。
 
では時間において動く世界、歴史的世界というものはどこから考えられたかといえば、それはキリスト教の中世文化以後である。そこで初めて伝統的世界が考えられる。しかも伝統的世界は直線的でありながら円環的である。かかる統一的なる世界を表現したものが詩人ダンテである。Eliotなどがダンテを模範とする所以である。
 
しからば近代の世界はどうかというならばEliotはそれを主観と客観の分裂した世界、伝統のない世界、つまり我に対するものを汝と見ない世界だというのであります。したがってintellectとsensibilityとが分れてしまう。一方単に主観的な世界が成立すれば一方また単に自然的な世界が成立する。Eliotが単なるfeelingとかemotionとかを悪しというのは、それが主観と客観の分裂に基づくと考えるからであります。 真の歴史的世界は伝統の上に立つ行為的世界でなければならないのですが、それにも拘らず単に主観的な私が客観的な世界を含もうとする、EがそのままAになろうとする、かかる主観的世界がfeelingとsentimentの世界なのであります。ここでは自然をも主観的に見るromanticismが一方に起こると共に、他方、──Eliotはそれに触れてはいないのでありますが──主観的なものを全く忘れた単なるnaturalism例えば、ゾラのごときが起こるのであります。
 
こうして近代においては主観客観の合一した真の世界は見失われたとして、それが破壊されたことをEliotは批判するのであります。なおHumanismも伝統のない主観的の世界と考えられている。それは単に時間の統一においてのみ成立する世界であり、客観的なものの現われぬ世界であり、自我を拡げたに過ぎない内在的世界である。EliotがBabbittに飽き足らないのもここにあるのである。Eliotの考えでは、それでは真にdivineなものtranscendentなものによって世界が構成されるということではない、即ち世界が伝統的ということにはならない。しかし我々は歴史的人間として伝統に対することにより、即ち汝に対することによって我々であるのである。
 
我々は単に内在的な立場を去って主観客観が一である世界に立たなければならない。そして超越的な伝統の声を聞く時に我々は真の人間となるのである。こうして真の詩というものも伝統の上に立って、主観的なfeeling,emotionを統一して行くところに成立するのである。即ち縦のものが横のものとして見られる立場において詩が成立するのである。
 
伝統とは決して普通に考えられているように、言い伝えというごときものではなくして、縦に直線的なものが、そのまま横なる円環的なものとして現われることなのである。歴史を可能にするものは自然でもなく、社会でもなく種族でもない。歴史を可能とする条件は超越的な伝統である。歴史の端には迷信に類するmyth,legendのようなものが表面に現われているであろうけれど、しかしその奥には深い超越的なものが、伝統として発展し得るものが蔵されているのである。しかるに現在ではかかる深き伝統が破壊されている。その伝統をとりかえすことが今日の任務である。それをEliotは彼の理想としているのであろうと思うのであります。
(文責在記者)

自然も精神も超えて

以上は高坂正顕君が私の話を記されたものです。極めて無雑な考えですがいかなる点において私がEliotの考えに共鳴するかを述べて見たのに過ぎません。つまりこれまでは自然というものを模範として実在界を考えていた。そうすると詩というものも、naturalismの立場に立つかromanticismの立場に立つかということになります。しかるに具体的世界は主観即客観、客観即主観の世界として歴史的世界である、自然界というものもそれから考えられる。
 
しかして歴史的実在というものは伝統というものなくして考えられない。伝統というものは歴史的実在の構成原理といってもよい。伝統というのは単に主観的なものではない。科学というものでも実は伝統なくして成立しない。そう考えれば、古代のmythologyやlegendの中にも深い歴史的世界構築の意義が含まれているわけである。
 
歴史的世界においては過去は過去ではない、過去未来がいつも現在に含まれている。歴史的世界は過現未を包む永遠の現在の自己制限として考えられるものである。故に私たちは歴史的現在において真の客観的対象を持つ、我々はperceptionを持つ、物を見るのである。perceptionというのは普通にthoughtとsensibilityと結合したものと考えられているが、実は我々はperceptionというものを分析してthoughtとsensibilityというものを考えているのである。現在というのはいつも歴史的現在であり、そこにいつもperceptionというものが成立するのである。故に具体的にperceptionにはいつもhistorical senseの意味がなければならない。我々が普通にperceptionの世界というのも、実はかかるhistorical senseの世界であるが、詩人のperceptionは過現未を包む永遠の現在においてのperceptionでなければならぬ、故に詩はthe most highly organized form of intellectual activityである。
 
しかして歴史的世界の構成原理として伝統というものは、始にあると共に終にあるものでなければならぬ。それは無限に発展し行くものでなければならない。新しきものは古きものによって導かれると共に古きものを変じて行く。伝統なくして歴史的世界というものなく、歴史的世界なくして自然というものもなければ人間というものもない。歴史的世界は時の世界である。過去というものなくして未来というものなく、未來というものなくして過去というものもない。しかも過去未来はいつも現在から考えられ、perceptionなくして現在というものはなく、現在はいつもperceptive worldである。普通にperceptionと考えているものは生活の立場から考えられたperceptionである、真の具体的なperceptionでない。
 
詩人は時を横に見る、物を永遠の現在から見る。そこに詩人のperceptionがあり、詩のcorresponding objectがあるのである(Eliotが“Hamlet”において言っているような)。真の詩人は薔薇の香りの中に思想を嗅ぐということができる。Emotionとかfeelingとかいう世界はかかる歴史的統一が破られた世界である、抽象的主観的世界である。伝統のcatalystによって詩人のperceptive worldが成立する。それが伝統の取り戻された世界である。Eliotの狙いどころはここにあるのであろうと思う。Atthis, Adonis, Osirisの祭りは偉大なる歴史的生命のrevivalを意味するのである。そこに世代から世代への無限なる歴史的生命の発展の意義が含まれている。歴史的生命の世界は単に連続的に直線的に発展して行くのではなく、いつも永遠の現在の自己制限として世代から世代へと発展して行く。そこに過去未来が現在に同時存在的という意味があるのである、Eliotのホーマから今日までの文学がsimultaneous orderを構築しているという所以のものがあるのである。自然主義や主観主義に禍せられた現代はかかる伝統的統一の失われた世界である。The Waste Landはかかる現代の意義を歌ったものではなかろうか。Richardsは「観念の音楽」というが、それは世代のシンフォニーでなければならぬ、歴史における現代の意義を示すものでなければならない。そこにこの詩の新しき大きさがあり、また将来の方向を示すものがあると思う。詩作そのものとしては、ヴィクトリア時代の偉大な詩人達のそれに比すべきものではないかも知れぬが、その狙いどころは新しいものであるといわざるを得ない。
 
しかしてそれは現今の哲学や宗教の趨向と一脈相通ずるところがあるのではなかろうか。現今は哲学においても、従来自然を実在の模型として考えたのが歴史的実在の一面として自然を考える傾向を有し、宗教においても人間中心から神中心に移り行く傾向を持っていると考えることができる。EliotがBabbittに反対する点も、彼が人間の本質を超越的なものに置く点にあるのであろう。無論超越的といっても古き宗教観のごとく現実の世界を離れて超越的な世界を考えるというのではない。
 
自然というごときものとか、人間を拡大した精神というごときものとかを中心として、世界を考えることに反してこれらを越えて歴史的世界を構築するものから世界を考えるということでなければならない。そこにcatalystとしての伝統が考えられるのであろう。そういう意味においての超越的なものなくして人間というものはない。人間の本質が宗教的と考えられる所以である。
 
真の宗教は歴史的実在の底に考えられるのでなければならない。しかしてまた歴史的実在は私が世界の底に絶対の汝を見るところにあるものである。行為的自己の世界、歴史の世界において、私に対するものは絶対の汝という意味を持ったものでなければならない。